No.1 出発、そして。

文字数 4,552文字

 昨晩の視点の主は女であった。麻のような生地の白い服を纏い、恐らく墨汁であろう黒い液体を溜めた小さな土器を傍らに置いて粗悪な筆を握り、木簡に字を認めていた。時折藁葺の屋根を仰いだり、竪穴住居と田が広がる二百歩余りの村を木組みの壁の隙間から覗いては、体感にして十余時間の推敲により木簡の表裏を使って漢字文を記した。異国の言葉で何者かを呼びつけ、彼女の居室に入ってきた男の従者に件の木簡を渡したところで僕は覚醒した。多くの創作では、夢は自分を主観に描かれる――少なくとも僕の読んできたものはそうであった。だが僕の場合はどうだろう。赤の他人の人生を主観で眺めるだけに過ぎず、故に僕がその肉体を如何様にすることも許されない。このような夢は僕の十六年の生涯に於いて稀有なものでなく、寧ろ僕自身が主人公である夢を未だ嘗て見たことがない。そしてその夢は時折ある物語性を現す。だから僕は毎朝起きて先ず、その時見た夢を一冊のノートに記すのだ。主人公が女であったのと、まるで弥生時代の再現図のような世界観であったのは初めてのことであったが、今日とてその日課は例外ではない。青と白のボーダーラインの入ったパジャマのまま、寝ぼけ眼を擦り机の前に座り、薄桃色のノートを広げてシャープペンシルを手に取る。余りに長い時間であったから、木簡に書かれた漢字も覚えており、鮮明なうちに書き記しておくことにした。

 於東在毛加美国
 有民丗与田半石
 女王賜術看新故
 以是卜天移育穀

 作業の間に考えたのが、文字と紙の存在の不自然さである。先程僕は弥生時代の再現図のようであったと、かの風景を形容した。果たしてその時代の日本に漢字は伝来していたのだろうか。製紙技術は上陸していたのだろうか。まあ、日本の風景ではないといえばそうとも言える程に他に特徴のない眺めであったし、何より此れは単なる僕の夢に過ぎない。そうして一応の合点がいって、僕はノートを閉じた。
 自室から出るとすぐ居間に出る。僕の正面には薄橙のテーブルを挟むように椅子が二脚あって、その左隣はカウンターを挟んでキッチンが備わっている。対して右隣にはテレビが掛かっているのみで、それ以外にこの居間には何もない。朝起きた時は決まって部屋を出てすぐ見えるこの椅子に座り、テーブルともう一脚の椅子を隔てた向こう側に備わっている大窓から庭の様子を眺める。と言っても両手を広げて寝そべるのが精いっぱいくらいの広さしかない上に、別段何があるというわけでもない。誰の手も加わっていないから、雑草が茂っているだけだ。強いてあげるならば、葉一枚の大きさが掌程ある四葉のクローバーのような植物を最近見つけた。此れ程に大きい植物をどうして今までみすみす見逃していたのか、甚だ自分でも疑問である。さらにこの植物、どうやら毒を持っているようでこの葉が覆い隠す地面には一切の雑草が生えず、僕が葉に触れようとしたときは火傷のような痛みを感じた。非常に奇妙であるが、庭に用事などないので、此の儘でも問題はないだろう。
 陽をある程度浴びて眠気が覚めたら朝食の準備をする。テーブルの上に投げ捨てられたように置かれたリモコンを操作しテレビの電源を点け、僕はキッチンに赴く。ワークトップに散りばめられた食材から食パンの袋を取り出し、その中の二切れを錆び始めたトースターに入れる。続いてシンクに置いてある水の張った盥からバターナイフを引き上げ、さらに振り返って目の前に聳える冷蔵庫を開けてその一番上の段にあるジャムを取り出す。パンが焼けたら濡れたバターナイフでジャムをたっぷり塗り、もう一枚をその上に載せて右手に持ったバターナイフは元あった盥の中へ投げ入れる。食パンを頬張りながら湯を沸かし、学校の準備をしつつコーヒーを作る。紙コップをワークトップから持ってきて熱湯とコーヒー粉を混ぜ、できたものをテーブルに運んでまた一息つく。その時にはパンは食べ終わっており、学校の支度も粗方済んで、何の香りもしない酸味があるだけのコーヒーをテレビのニュースと共に楽しむのだ。
 今朝のテレビの話題はアメリカの製薬会社が襲撃されたというので専らであった。<(うつわ)>の販売に於いてイギリスのウィッチャー・ケミストリーに次ぐシェアを誇る企業だ。一通りニュースを見たのでテレビを消して洗面所へ向かう。二本ある歯ブラシのうちの赤い方を手に取り、歯磨き粉を載せて血が出るくらいに歯を擦ったら嗽をする。部屋に戻って新しい制服に着替え、先程纏めた荷物を学校指定の鞄に詰めて持ち玄関へ赴いて靴を履いた。いってきますと呟き、玄関扉に鍵をする。家には自分以外は居なかった。それでも、だ。
 家族は居る。父が一人、母は僕を生んで引き換えに亡くなったとのことだ。男手一人で僕のことを育ててくれた父には頭が上がらないが、あのような父親に成りたいとは思わない。あの人は何時もどういう用事か家を空けている。小学校三年まで一緒にいたのは朧気に思い出せるが、それ以降は年に一度会えれば幸運な方だ。金銭の工面はしてくれてはいるが、今日に至るまで親らしいことを何かされただろうか。一緒に居た時もただ同じ空間を共有していただけで、例えばクリスマスにチキンを食べたり、例えば遊園地に行かせてもらったり、そんな行事は一切無かった。最低の父などとは言わないが、僕が目指す父の姿は少なくとも彼ではない。一体父はどういう思いで僕に葛葉(くずは)と名付けたのだろうか。
 登校中、いつもは閑静な住宅街の通りに人だかりができていたので少し覗いた。捲れたアスファルト、崩れた一棟の住宅、それを囲む警察隊。嗚呼、能力事件だ。只の警察隊じゃない、今出動し現場を調べているのはASPF――対超自然能力警察隊だ。防弾チョッキの背中に書かれたロゴを見て一目で事態を理解した。能力事件――嚙み砕いて特殊能力事件でもいい。約五十年前に発見された幹細胞、<(うつわ)>は、どういう論拠か血液中に入ることでその人間に特殊能力を与える。ウィッチャーなどが販売している<(うつわ)>はその幹細胞の入った薬品を注射した人間にのみ効果を発揮するが、此処、東京都漣区では事態が異なる。此の街の人間の<(うつわ)>は遺伝する。能力に関する此の街の特異性はそれだけに留まらず、初めて能力が確認されたのも、それによると思われる事件が確認されたのも此処であったという。しかしだからといって、此の街の能力事件発生数が著しく多いかと言われると頷き難い。それこそ五十年前は確信してそうだと返答できるが、今となっては血液に<(うつわ)>の混じっていない人――非能力者の方が最早珍しい。屹度今日も、新しい学校でクラスメイトと自分の能力を紹介し合うイベントが行われるに違いない。ウィッチャーによる大量生産と、目には目をの精神に基づいた国の指針により医療機関で行えるようになった<(うつわ)>の接種がこの現状を作り上げた。尤も、僕はこの体制に苦言を呈す。銃規制がありながら能力を頒布するのは合理性に乏しいのではないか。一方でこの政策に同情も覚える。能力の形は三者三様だが、ナイフよりも銃よりも、まして核よりも危険になり得る存在をいつの間にか漣区の人間が持っていたからこそ、自己防衛の精神に頼るほかなかったのかもしれない。
 家から徒歩廿分、大した距離ではないが明日からは自転車に乗ろうと後悔したものの、漸くこの都立漣高等学校に辿り着いた。校舎の入り口にはクラス割が貼り出されており、僕は一組だった。中学の時の知り合いの名前は一つもない。先ずは教室に集合とのことだったので、四階まで登り一組の戸を開いた。未だ入学式開始から大分時間があるが、既に幾人か自己紹介をしていた。その中の一人が僕に駆け寄り話し出す。
「佐藤星来(せいら)。お前は。」
「……九条(くじょう)葛葉。」
「葛葉、よろしく。」
 佐藤と名乗ったツーブロックの少年は自然に彼が元々話していたであろう仲間たちの中へと僕を誘導し、僕に代わって名前を紹介してくれた。この三人が余りに仲良く話すので、彼らは知り合いかどうか尋ねると、口を揃えて今知り合ったと返してくるのには面食らった。存外友人ができるとはこういうものなのだろうか。余暇の間に話題はめくるめく切り替わり、遂に自分の能力についての話になった。どうやら自分の能力に名前を付け、その名前を呼ぶことを能力発動のトグルスイッチにすると都合がいいらしく、皆自身の能力に洒落た名前を付けていた。入学式開始が近づくにつれ新入生が登校し、さらに佐藤の陽気さが人を呼んだので、何時しか十余名にまで輪が広がった。従って全員の能力とそれに付随する武装(アーム)と呼ばれる物品を覚えきれはしなかったが、愈々僕の番になった。僕は数刻考え、分からないと、一言そう返した。
 間も無くして教室に担任の教師が現れ、生徒たちは席に着き出席の確認が取られた。簡単な連絡を済ませたのち体育館への移動が開始され入学式が始まった。どういうわけかクラスメイトと話すときよりも、退屈なはずのこの行事が僕の胸を一層高鳴らせる。これから僕の高校生活が始まるのだという意識が、そうさせるのかもしれない。
 二〇七三年四月六日木曜日、一〇五期新入生として、晴れて僕は漣高校の一員となった。

 ――嗚呼、だのに何故、僕は今此処に居るのだろう。何も持たず制服の儘走り続けて、疲労困憊し法枠工に腰掛けていた。肩を落としアスファルトを見ると茶色の髪がカーテンのように目に掛かる。この一年間、高校生として過ごした今日に至るまで、ミクロに見れば僕は幸せであったし、振り返って俯瞰すると不幸であった。今まで単なる夢だと思っていたものは総て自身の能力によって見せられていたものだった。確かに僕は、この力により自身を取り囲む不当な暴力の根幹にあるものを知った。一方で僕は自身のルーツというパンドラボックスを意図せず解錠して仕舞った。否、意図的であったか。夢だと思って忘れて仕舞えばよかったのだ。――僕にそれができたのだろうか。仮に平行世界があって、幾億もの自分が同じ状況になった時、一人でもあの時、自分の中に沸々と湧き上がる感情を抑えられる者がいたのだろうか。……父は九条立香(りっか)、母は九条(うみ)
「母さん……。」
 その時、七台程地面を走る音が遠方から聞こえた。棒になった足を精一杯に動かし、僕はその駆動音から距離を取ろうとする。だがそれも虚しく、十メートル程進んだ所で僕は駆動音の正体と並ぶことになった。嗚呼、間違いない、惑星軌道に鉄心の重なったようなあの紋章――能統連だ。その内の一人がバイクに乗った儘洋書のようなものを何処からともなく出現させて、手に炎を乗せた。その炎が僕の方へ投げられ法枠工に接すると、コンクリートをも抉る爆発が起こった。その爆発を見るまでもなく、僕は走り出していた。当然だがヒトの足でバイクを撒ける筈はない。<(うつわ)>による身体能力の向上が著しい者なら不可能ではないのかもしれないが、僕はそれに当てはまらない。間もなくして僕は火球の狙撃を食らい、その爆発に巻き込まれ道路を超えて対岸の急斜面を転げ落ち森に飲まれた。鬱蒼と茂る木々にまるでパチンコの様に細い身体を打ち付け、着地する前に僕の意識は途絶えた。
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