No.8 天秤を持った道化と露人

文字数 4,052文字

 遡って二週間前、かの事件から一週間を経た頃のこと。其の傷が完治しても尚、昏睡状態にあった沙耶は立花(たちばな)病院のベッドの上で遂に目を開いた。痛みも最早跡形も無く、彼女は起き上がって辺りを見回した。彼女を映す大窓は、其の向こうの景色も又透かして居る。見ると病院の敷地を今に去ろうとする、自分と同じくらいの年の少女が在った。僅かに艶の有る其の髪よりも、高く、大きく振られた彼女の右手は、そんな筈は無いけれど、何処か自分に向けられて居るような気がする。もう片方の手を母親に引かれ、軈て彼女らは塀に隠れた。
「——いかないで。」
(おの)が瞼の裏には朋友の姿が在った。然し地に足附かぬ幻想は、軈て屍山血河の風景を映し出した。不意に硝子へと伸ばした左手は、まるで華が枯れるように、徐にベッドの腹を撫でる。既に其の瞳は、涙を湛えて居た。
 至極当然のことであるが、沙耶は事件に関わるあらゆることを想起すると堰を切ったように号哭するから、彼女から情報を聞き出すのには相当の苦労が要る。中学の関係者のうち、唯一の当事者であるから、警察もそんな彼女を無視する訳にはいかない。連日の事件に加え、そういった事情に因る連日の聴取で、沙耶はすっかりこころを病んでしまった。一遍、事件について語れたのなら、そんな思いが沙耶の中を駆け巡るが、然し理性よりももっと深いものが、其れを阻んでくるのだから、彼女なりの艱難が在ったのにも違いはないだろう。
 ある時、平時には警察が来ないであろう時間に、一人の女が彼女を訪ねた。沢城悕攺(きい)である。沙耶の父、最神伸介(しんすけ)と共に其の姿を現し、断りも入れずベッドの傍の椅子に腰を掛けてひょいと足を組んだ。
「初めまして。沢城悕攺(きい)だ。君のお兄さんと其のお友達さんの付添人を任されて居る。一般の刑事事件で言う処の弁護人みたいなものだ。君のお兄さんの処遇がより良いものになるため、或いは君のお兄さんが道を外さないために力を尽くしている正義のお姉さんってトコかな。君は。」
「……最神、沙耶(さや)です。」
「うん、知ってるよ。」
此の時沙耶は、確かに眉を顰め、唇をへの字に曲げて居た。
「事件の、ことですか。」
「勿論。」
「すみません、喋ろうとすると、色々思い出しちゃって……私。」
「わぁたしは其の色々を聞きに来たんだよ——」
ふと、沢城の唇は動きを止めた。眼前で沙耶がシーツを目元に当て蹲って居る。沢城の饒舌は、沙耶の涙によっていとも容易く断たれたのだ。沢城は自身の腿に肘をつき、その腕で以て顎を支えた。
「……お父さん。」
沢城は、未だ沙耶だけを見つめて居る。話し掛けた、傍らの「お父さん」など一瞥もせず。
「はい。」
「泣かせていーい?」
()して下さい。」
「甘いねぇ。貴方は此の兄妹に優劣を付けたいのかい。」
「……如何云うことです。」
「警察は知らないけれど……、わぁたしが沙耶ちゃんから聞き出したいのは、一週間前、最神春香(はるか)と九条凛が(あけぼの)中学校で何をして居たか、だ。——沙耶ちゃん。」
已然其の瞳は沙耶を見る。沙耶が其の言葉に応えて片目を沢城に合わせたことそれだけが、先と異なって居た。
「同じクラスに霧里(きりさと)って子居たでしょ?」
「みゆ——」
其の片目も、()た涙を抱えた。
「続けるよ、其の霧里美遊(みゆう)ちゃんの御遺族、お父さんとお母さんに話を聞いた。彼等が語ったのは美遊ちゃんとの十五年間だった。一頻り過去を振り返り、有りもしない未来を見る。こんなことになるならば、もっとああしてあげれば良かった、何処に連れてってあげれば良かった。なんてね。君と同じ様に、其の目には涙が湛えられて居た。然し、ね、漸く空想を語り終えて、何と其の涙の色が変わったんだ。彼等は口を揃えて言った。願わくば、最神春香と九条凛に極刑を、と。……此れはね、霧里さんに限った話じゃない。他の学生の遺族も、世間も、最神春香と九条凛の言う『化物』を狂言だと信じて居る。マ、実際に話を聞けたのは霧里さんトコだけなんだけれどね、兎角に世間の目はこうだ。最神春香と九条凛は(あけぼの)中学校を襲撃し、五百余名を殺害し、其れをあろうことか幻想上の生物の所為だと宣った。屹度精神を病んで居るのだろうけれど、然し事件の重大さは計り知れないから、刑事罰は免れないだろう、と。——ああ、勘違いして呉ないでよ、わぁたしは霧里さんを悪者にしたい訳ではない。唯、最神春香と九条凛を悪者にしたくないだけなんだ。私は彼等の狂言を信じて居るからね。彼等の言う『化物』を彼等が斃さなければ、今頃被害はもっと酷かった筈だ。先ず、君は死んで居ただろうね。うん、やはり、正しい評価をされる可きだ。だが世間が其れを認めるには余りに材料が足りない。即ち君に話して欲しいことはこうとも言える。」
沢城は沙耶を指差した。
「——何故、君はあの時生き永らえたのか。屹度其処には、二人の只成らぬ勇気が在ったに違いない。で、君は、如何なんだい——」

 今思えば、此の三週間という期間、あの時は長く感じたが、然し一般には余りに早期な決着であっただろう。こうして振り返って初めて、沢城悕攺(きい)の腕の良さが分かる。彼女は只事実と其れから類推されることを述べただけだが、然し其の連ね方が上手いから、人の心を動かす。——否、今回の場合は、彼女を急かすだけだったか。だから屹度沢城悕攺(きい)はこう言う。彼女が自ずと口を開いた、唯其れだけなのだと。そう、此の後沙耶は遂に口を開いた。あの時沢城悕攺(きい)は此の話をしなかったが、此の証言も()た大きな手掛かりに成ったに違いない。

「——おっ、見えて来たぞ九条邸が。直ぐだったね。」
暫く乗って、白い壁に灰色の屋根を持つ、三階建ての住宅が見えた。ガレージに車を入れ沢城悕攺(きい)と共に玄関に立ち、インターホンを鳴らして間も無く、戸が開き、僕は石柱の様な白人に居間へと誘われた。玄関を開き廊下を経て此処に至る迄、僕には散乱した生活用品が何より際立って写って居た。塵芥(ごみ)屋敷とは言えないけれど、然し足の踏み場はそれなりに限られて居る。そんな状況の邸内で、僕達はテーブルを隔て、男と対面(たいめ)す様に座らされた。男は暫く僕と瞳を合わせ、次いで時計に目を遣り、遂に机の上に合わさった(おの)が両手を見下ろした。
「凛、お帰り。」言葉と同じだけの沈黙を経て、九条凛は答える。「ただいま。」次に僕を見て頭を下げた。透き通った銀髪が、西日に照らされ、周囲を僅かに灯す。
「初めまして、凛の父、ドナート・ガヴリーロヴィチ・九条です。」
「……どうも初めまして。最神春香です……お世話になっております。」
男はずいと頭を上げて、大きく澄んだ瞳に僕を映す。
「それで、凛と知り合った経緯は。」
何だ、其の質問は。まるで、結婚挨拶のようじゃないか。僕は今、何の為に此処に居るのだ。
「ある夜、怪物に襲われた所を助けられました。く——凛——さん、は僕に特殊能力の素質が有るとそう言って、以降怪物対峙に同伴するよう言いました。」
今となっては、隠す必要もあるまい。
「成程、如何にも信じ難い、謂わば戯言だ。だが、私は凛の父親だ、私の娘と君の一切を信じずして、他に誰が此の狂言を誠と受け取ろうか。——其の、特殊能力とやら、結局君にも有るのかね。」
「有る、と言えば有ります。力の強さや再生能力は明らかに此の肉体に見合っていませんから。然し、今直ぐ、御見せするのは——」
「私が今から切ってあげてもいいのよ。」
「判った。今日の所は止しておこう。何より君を信用すると誓ったばかりだ。(しょう)はいらない。君の言葉で充分だ。」
今日の所は。
「えーわぁたしは見たいケドナァ、春香君の能力。」
ドナートさんは九条さんの方へ目を遣る。
「凛、お前にも能力が有るんだな。」
「ええ」
「気付いたのは何時からだ。」
「去年の五月ね。」
「如何して言ってくれなかったんだ。」
「父さんは信じてくれるの。」
「勿論だ。」
「私はそうは思わない。奇怪なこの状況を説明するために、理解せざるを得ないから、父さんはそう言い切れるのよ。」
何だ、其の言い種は。彼女の発話はまるで抑揚がないから感情が判らない。故に何かに腹を立てているような気がしてならない。此れは彼女の攻撃的な性質が出ただけなのか、或いは悪意か。
「……情けないが、一理ある。」ドナートさんが答える。
「だが、こんなことにならなくても、お前を信用してやれる程に不可解な出来事を私は知って居る。」九条さんの眉が一瞬上がる。
「二〇二〇年六月十四日——」ドナートさんが日付を唱え、其れを九条さんが遮る。否、続けると言うべきか。「母さんが殺された日。」
「スーパーを出た所を、假亥(かりがい)(さとる)が其のスーパーで購入した包丁で以て背後から腹部を二回、胸部を一回刺した。」
「母さんは救急車の到着する直前に亡くなったと聞いて居るわ。」
「ああ間違いない。」
何だ、此の親子は。自分の家族が殺された時の話を、まるで物語のように淡々と口に出せるものか。僕はドナートさんよりさらに奥に居る沢城さんを見た。彼女は依然として腕と足を組み椅子に座って居る。眠たげに開かれた瞼は僕に何も語らなかった。まるで、此処では僕が異常なのだと言って居る様で在った。
「ここからは凛にも言って居ないことだ、心して聞いて呉。最神君、勿論君もだ。」
ドナートさんは机の上で指を組み二の腕をつく。
假亥(かりがい)(さとる)は事件後直ぐに現場から逃走、然し、二時間後に不審な人物として通報を受け、警察により身柄を確保された。彼が発見されたのは、現場から僅か五〇米、スーパーを隔てて反対側に彼は居た。事情聴取で彼はスーパーに行く為に歩いて居ただけだと、振り返って語って居る。意味が分かるか。」
「記憶が無いとでも言うの。」
「そう、主張して居る。」
「馬鹿げてるわ。」
「だが、事件のまさに其の瞬間を見た人はみな、假亥(かりがい)(さとる)は彼ではないかの様だったと語る。」
「信じる気。その假亥(かりがい)とかいう奴の言葉を。」
「そんな心算は毛頭ない。私が信じて居るのは、彼女だ。」
ドナートさんは左斜め後ろに首を捻じった。ここから暫くは、其の彼女が語ったものである。
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