No.2 目覚め

文字数 4,278文字

 黄昏時の陽は赫然(かくぜん)と流汗を輝かせ、腐敗臭と共に五感を刺激する。僕は只目の前の惨劇に全神経の機能を停止させ、朋友の眼球を見つめて居る。如何して僕は此処に立って居るのだろう。

 厭な夢を見た。思い出したくもない去年の出来事である。携帯で今の時刻を確認する。クリスマス・イヴの午後五時――すっかり寝過ごして了った。部屋から出て一階に降りる。廊下から居間に入ると、テーブルにラップトップを乗せて作業をして居る父と、左奥の方でテレビゲームをする妹の姿があった。
「お早う。」
春香(はるか)、寝坊か。……如何した、目が赤いぞ。」
父と向かい合うようにテーブルを挟んで置かれた二脚の椅子のうち一脚に腰を掛ける。
「去年のことを夢に見たんだよ。嗚呼、朝から最悪だ。」
「もう夜だけどな。」
腰と肩に力が入らない。木製の椅子の背凭れに頭を乗せて足を延ばして了っている。こんなにも兄が窶れて居るというのに、妹は――沙耶(さや)ときたら振り向きもせずゲームを続けて居る。
「如何だ、気分転換に散歩でも。屋内に籠ってばかり居るから気持ちが鬱屈として居るんだろう。」
沙耶から視線を父に戻しその言葉に同意して、姿勢を正し椅子から立ち上がった。居間と廊下とを隔てる戸の隣に在る洋服掛けに手を伸ばし、灰色のコートを取り敢えず羽織ってから扉に手を掛けた。
「おぉ、待て。」
父もまた立ち上がりテレビとテーブルとの間に置かれたソファに投げ捨てられてある彼の仕事用の鞄を手に取り、中から財布を取り出して徐に樋口一葉の五千円札を引き抜き、僕のところに寄って手渡した。
「……御遣いか。」
「うん、チキンを、頼んだ。」
なあんだ、そういうことだったのか。屹度端から此れが狙いだったに違いない。然しこんなことも熟せなければこの年にして学業に勤しまない僕は只の穀潰しに他ならない。当然歓んで此の仕事を承諾した。目的の店までは片道徒歩十分とない。部屋に荷物を取りに戻る必要もないだろうと僕は外に出た。如何やら水雪が降っているようで、アスファルトを薄い氷が覆っていた。此れでは自転車は走らすことができない。幸い目的地は先述した通りなので、徐に歩いて向かうこととした。

一つ想定と違うことがあった。無事チキンを買えたことに変わりはないのだが、クリスマス限定商品が完売済みであったことだ。バラ売りのものを数個とハンバーガー、ポテトと買って穴埋めとしたのだが、果たして沙耶は此れで喜ぶだろうか。然し如何やら一年と七か月の空白期間が身体に与える影響は侮れず、ビニール袋が途轍もなく重い。まるで局所的に平時の数倍の重力を右半身に掛けられて居るようだ。
 そうしてひいひいと鳴きながら歩く帰路の最中、自宅迄あともう少しの所に見える公園と道路とを隔てる木々が見えた。これ自体は行きと同じ光景であったが、特筆すべきは其の向こう、毎朝老者達がラヂオ体操をして居るあの広場にこの目で認めた化け物の姿である。黒い闘牛の頭と其れより下に伸びる筋骨隆々のヒトの四肢と胴体、右手に持った成人男性程ある斧、正しく其れはギリシア神話のアステリオス、ミノタウロスであった。彼奴から僕迄の距離は凡そ丗メートルだが、遠近感を鑑みるとどれだけ少なく見積もろうとしても其の全長が五米以上はなければあの巨体の説明がつかない。今僕が立っている道から家へ着くには此の公園の角に面する交差点を、件の広場を擦沿(なぞ)る形で曲がらなくてはならない。交差点を経て進む道は今ミノタウロスが進んでいる方向と平行になり、また木々を隔てて直ぐ向こうが帰路であるから、此の儘僕が進んでいけば何れは牛歩のあの化け物――人の足は有るけれども――と肩を並べて歩くこととなる。あの斧が何の為に有るのか定かではないが、かの神話を踏襲するなら近付くべきでないのは容易に想像できた。だが僕は息を殺して抜足差足、交差点を右に曲がり懸念していた通りを進んだ。既に奴迄は凡そ十メートル、膝の辺り迄盛り上がった公園の土地と、公道と広場とを隔てるため建て付けられた胸の辺り迄ある白い木製の柵に、全身が隠れるよう蹲んで一歩を踏みしめるように慎重に進んでいるのだが、其れでも矢張り徘徊するように進む化け物との距離は次第に縮んで居る。此の通りを真直ぐ行った先は丁字路になって居て、其の左角に僕の家がある。此処迄歩みを進めて措き乍らあの牛頭人身が人を襲うのではないかと恐怖し、彼奴を追い越せずに居た。
 僕の背を丸めた姿と鈍間さはまるで蝸牛の歩みであったが、暫くするとミノタウロスは公園の端に辿り着いた。其処から先は住宅街がありブロック塀に隔たれて居る。此れより先を道に従い進むのならば、公園の斜平(なだらか)なスロープを下り今僕が居る道に出なければならない。一体彼奴は何処へ向かって居るのか、僕は自身の存在を勘付かれないよう細心の注意を払い観察を開始した。数刻を経て其の答えは明らかとなる、彼奴は公園から直ぐの丁字路で止まり、我が家へ振り向いた。厭な予感が身体を奔る、僕は即座に買い物袋を地面に置いて柵の隙間に手を伸ばし、公園に転がっていた中礫を握った。奴が斧を振り上げたのを見て確信し、石を化け物目掛けて投擲する。僕の肩の力ではミノタウロスに届かせることには至らなかったが、奴は石がアスファルトを転がる音を聞き僕の方へ振り返った。引き籠りのくだらない正義の意思とでも言おうか、僕は今にもはち切れんばかりの心臓を抱えミノタウロスと眼を合わせた。瞬きする間もなくミノタウロスは先の鈍重さが嘘のように僕へ向かい走り出し、僕も来た道を戻るように逃走を開始するべく化け物に背中を向けた。だが次の瞬間――其れは僕が一歩踏み出すより早く――風を切り裂く音と共に僕の左肩は縦方向の莫大な圧力に拠って弾け飛んだ。僕が其の衝撃で倒れるよりも早く件の交差点に突き刺さる斧を見て、混濁する脳内は蛻の殻となった。次に僕を襲ったのは紛れもない左半身の激痛である。全身に伝わる衝撃に悶え(のた)うち回り、哭いた。其れでも僕は腰を捩らせ化け物に視線を向ける。嗚呼、せめてポケットに携帯が有れば今の内に警察を呼び家族を避難させられたのかもしれない。痛みは最早恒常の其れと為り、軈て思考は如何して此の化け物を家から離すかと、出発時の自分の怠惰さに対する恨みとで支配されて居た。そして牛頭人身は遂に僕の直ぐ傍迄辿り着く。一方で僕は機を伺い右手に力を込める、奴が拳を振り下ろすその時を待って居るのだ――其の時は最早待つ迄もなく訪れ、僕は即座に右手と両足で地面を蹴り上げ身体を捻じり、其の鉄拳を間一髪の所で躱した。流石はあの斧を投げ飛ばしただけある、化け物の拳はアスファルトを粉砕し外皮を捲り上げ、突風の様な衝撃波を放ち僕の身体を吹き飛ばした。其の胴体は斜平(なだらか)な弧を描き例の交差点へ着地しようとする。機会を見計らい遂に巨大な斧の僅か上空に到達した僕は其のとても片手では握りきれない柄に右手を伸ばし、衝撃波に拠って与えられた力で以て引き抜き地に足を付ける。此の斧、段一杯に本を詰めた棚の様な重さだが、木製と思われる柄の内でも鋼鉄の刃に近い部分を握れば片手で持ち上げられない事もない。振り回すことは儘ならないが、全身を軸に地面から大きく半円を描く要領で振り下ろすことなら可能と看た。此の負傷に因る失血で今にも倒れそうな程に視界に靄が掛かっているが、此の身体は不思議なことにチキンを持って只帰るあの時よりは遥かに力に溢れている。さあ、未だ立っている僕を見て化け物は突進してくる、一瞬の手違いで生死が分たれる。ミノタウロスが間合いに入った瞬間に斧を天高く振り上げ、重力の儘に地面に叩き落した。アスファルトに削られた斧の刃は既に鈍であったが、鈍器として十分な性能を叩き出し、現に牛頭を形容し難い姿へと変形させて居る。顔面を破壊された化け物は後方へ(よろめ)き、斧はアスファルトに叩き落とされた。そして僕は、只交差点の真ん中で立って居る。最早全身の何処にも力が入らず、胸は安堵で湛えて居た。気が抜けて目が霞み膝をついて倒れそうになったところで、再び其の場に緊張が走る。仰向けに倒れたミノタウロスの胴体が、今微かに動いたのだ。あの指と地面とが擦れる音を平時の僕であれば屹度聞き逃していた。此の特異な緊張状態が僕の五感を針よりも鋭くさせているのだろう、一歩踏み込み身軀を立て直す。再び斧の柄を握り目標を見つめた。だが場の強張りは十秒も持たず解ける。何処からか包丁が化け物の胸へと落とされ厚い胸板に刺さり、次の瞬間には女が其の柄の上に爪先を乗せて自身の体重を掛け、化け物の胸を貫いたのだ。するとミノタウロスは、顔を潰された時には出さなかった悲鳴を上げ、多数の白い粒子と少しの赤黒い液体とに為り弾け飛ぶ。粒子は蒲公英の綿毛の様に宙を舞い、辺り一面を疎らに覆った。其の隙間から覗く女の華奢な脚や透き通るような銀髪、大きな瞳に細い鼻と艶やかな唇が黄金律に従い配置された白い顔はどの芸術作品よりも美麗であった。次に目に入ったのは彼女の衣服である。茶色のラインの入った薄橙のスクールセーターと紺色のスカート、其れは正しく漣高等学校の冬服であった。此の女が僕が通っていた高校の生徒であることを知り、一年間の不登校期間を此れ以上にない程に悔やんだ。
「未だ生きるつもりは有るかしら。」
儚げな、それで居て蠱惑な目をした彼女は僕にそう訊ねるのだった。
「――有る……だから悪いけど救急車を呼んでくれないかな。」
「大丈夫よ、其の内治るわ。唾でも付けて措きなさい。」
「そんな訳が有るか。」
「訳有るわよ、会話できてるじゃない。平気よ其れ位。」
僕の言葉を杜撰に返し彼女は包丁を拾った。もう使うことはないだろう右手で僕は傷口の流血を抑える。
「どんな道理でそんな大それたことが言えるんだよ。なあ、携帯を持ってないんだって、救急車を、頼むから。」
「そんなに救急車を欲しければ其の足で家に帰って自分で呼ぶことね。其れができるなら一寸付き合いなさい。」
彼女は右手に持った包丁を大道芸の様に回転させながら天高く投げ、「<収容(しゅうよう)>」と呟いた。すると先程包丁を持っていた掌の上に小さな黒い霧が発生し、落下してきた包丁が霧に触れるや否や飲み込まれるようにして姿を消したのだ。立て続けに起こる非現実に僕は唖然とした。
「教えてあげるわ。其の道理も、あの化け物も、此の能力も。」
其の言葉には魔力が秘められて居た。だから僕はチキンのことも左肩の血が止まっていることも忘れて彼女の後を追ったのだろう。
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