No.7 そして、さらに広く。

文字数 5,235文字

 今、蜘蛛はたった一本の包丁と僕のこころに滾る意志の前に斃れた。マリオネットが織り成した構造物は其の死と共に霧散する。即ち、此の糸も又——末端より血液が如く固まり罅が走り、粘着力も失い自重で落ちる其の最中、床に着くよりも早く其れらは白銀の粒子となり風に流れて消えた。一時の雪景色を体験し、幕が降りて其の向こうに現れたのは橙の服を纏う救助隊の面々であった。四方八方を覗く彼らに妹を託し、振り返って繭を見る。其れも又、重ねて塗った石膏の様に罅割れ剥がれながら霧散し、軈て銀色の頭髪が姿を現した。——まさか。僕は其の直下へと駆け寄り罅の隙間を覗き込む。忽ち糸が剥がれ落ちて、彼女は重力に従った。両の手を差し出し受け止め床に下ろした。其の身体は仄かに暖かく、波打って居た。二三肺に気を湛え、軈て咳き込み起き上がる。彼女も又、あれに相対した。そしてあの繭を鑑みるに、かの神経毒に侵され眠って居たのだろう。
「蜘蛛は。」
「斃した。」
傍らより包丁を持ち上げ其の持ち手を彼女に差し出す。俄に黒霧が立ち込めて刃を包み、忽ち其れは飲み込まれた。
「如何して来た。九条さん、君は行かないと、あの時そう言った。」
「貴方の言葉に機嫌を損ねて、私が一般人を見殺しにするとでも。唯あの時は、貴方がその目的のために能力を発現させるのを促すつもりだったけれど……。いや、此の言葉は通用しないわね。振り返れば私は油断して居た。今迄ずっとマリオネットの出現時間には或る程度決まりがあったのよ。其れが今回ばかりはそうは行かなかった……。」
桃色の唇を噛み締め俯く。其の彼女のこころ、今となっては痛いほど分かる。
「私こそ愚かだった……。八ヶ月前から私はマリオネットと対峙し、最早傷も付けられず奴らを掃討できる迄に実力を付けたと、そう思い込んで居た。でも今、敵は私を圧倒した。向かう敵を斃すばかりに囚われ、敵がそれ以上の力を持ち得ることを考えて居なかった。私の慣れが……油断が、人を殺した……。強い言葉で貴方を奮い立たせようとしたけれど、私も大概だったってワケね……。」
「——過去は一つ。もう取り返せない。僕の今日と五月の罪、九条さんの今日の罪、どちらも決定された過去だ。だが未来は、際限無しに現れる選択肢の中から一つを選ぶことで編まれて行く。罪を認めるのならば、もう二度と、選択を誤ってはならない。其れを贖罪と、僕は思う。」
「其の考えで居るならば、孰れ自責の念に圧し潰されるでしょうね。……けど、私達がそうで在る可きなのは確かだわ。」
崩れた階段の方を見る。救助隊員二名が一つの担架を持って居た。一人が此方を覗いたとき、ふと其の額に影が差した。再びまさかと僕は立ち上がり、彼らの方へ走り出した。其の啻ならぬ様を見て九条も遅れて駆け出す。
「見えたか?!
「いや、でも状況は直感で理解した——<収容(しゅうよう)>、一番!」
彼女はぐいと留まり槍投げの要領で包丁の柄を掴み振り被った。更に僕は前身し正面を向き乍らも彼女に叫んだ。
「三米、あの隊員の頭上から三米だ!」
突如刃が風を切る。彼女の投擲は正しく正確無比であり、隊員の頭上より降り掛かる影を捉えたが、包丁は金属音と共に軌道を変え床に転がった。其の影に弾かれたのである。だが此れで影の狙いは僕らに向いた。目にも止まらぬ速さの長い影の帯が此方に押し寄せる。
「——此の学校の生徒は皆、正中線に沿って顔を切られ其の肌を開かれ殺された。蜘蛛が犯人だとそう考えて居たが、然し蜘蛛からは其の様な攻撃は見られなかった。——ッ!」
僕は踵で其の場に留まり、左前腕を首の前に突き出した。辛うじて其れが敵の刃を受け止め、僅かに喉を刃先が掠める。眼前に立つ其れは人の(なり)を有して居た。二米の身体は薄橙を上塗りするように深い緑に染まり、彼の両前腕からは其の腕と同じだけの鎌が伸びて居る。布を被った様に凹凸の見えない顔は、最早僕を捉えて居るかも伺えない。此の形質、まさか此奴は蟷螂ではあるまいか。同時に明るみに成る事実——
「——(あけぼの)中学校を襲撃したマリオネットは、二体居たんだ。」
鎌——そう形容したが、然し彼の腕から生えている其れは両刃湾刀(ショテル)の方が近しい。従って奴の右前腕から伸びる両刃湾刀(ショテル)は僕の腕の筋繊維を其の橈骨を擦沿(なぞ)り破壊して行き、軈て手の甲を抉り振り抜かれた。其の間僅か一秒に満たず、だが彼女が()()()を取り出すには充分過ぎる程であった。僕の肩を押し退けマリオネットの右肩を狙い中華包丁を振る。然し咄嗟に(からだ)を捻らせた蟷螂は左腕の両刃湾刀(ショテル)で以て彼女の刃を防ぎ、更に右腕の刃で以て彼女の首を狙った。透かさず僕は右掌を突き出し刃を受け止め、同時に蟷螂の左手首を掴み動きを止めんと試みた。僕に背中を向け、宛ら大の字の姿で右腕刃と左手首を掴まれた蟷螂と、二者の間に挟まれた九条凛。遠くで救助隊員の誰何の声が聞こえる。其れに答える(いとま)は無い。だが此処が好機に他ならない。
「<収容(しゅうよう)>、零番。」
九条は手元の黒霧より牛刀包丁を引き出し、流れるが如く化物の胸に突き立てた。二三押し込み其の核を貫き、忽ち響いた咆哮で以て其の終わりを認めた。彼は仰け反り僕の指から両刃湾刀(ショテル)を引き抜き、血塗れの刃を振り回す。出鱈目に見えたその動きは、然し確かに命を捉えており、鋒が九条の鼻先を縦に切った。彼女と僕とが其れに退いた頃には、既に白銀の粒と成りて蟀谷を過ぎ去って了う。戦闘は僅か一瞬だった。然し其の疲労は底知れず、二人は臀を着いて息を()いた。咄嗟に着いた両の手はまるで機能せず、僕は勢い余って背中を付いて、仰向けの(さま)の儘、掌を顔上に広げた。左前腕は抉れ筋肉をたった今生やし、馬手は其の腹がかの刃の形を擦沿(なぞ)って居る。九条さんは立ち上がり、自らが落とした包丁を拾い始めた。
「前も言ったけれど、傷が治るまで能力は起動した儘にしておいた方が良いわよ。」
そうらしい。此れ程迄の傷を負い乍ら、若干左前腕が痒いくらいで、是れを以て痛覚其の物が機能して居ないと見る可きであろう。前方には彼女の姿在り。だが其の向こうには先の救急隊の一人が見えた。
「……あの救急隊員達は貴方が呼んだものかしら。」
片腕でもって状態を起こし僕は肯定した。其の言葉を聞き、暫く——といっても一秒にも満たない——沈黙を挟み、口を継ぐ。
「今回ばかりは、隠せそうに無いものね。」
「隠す、如何して。脅威を避ける為にも周知される可きだろう。」
「でももしもがあった時。屹度私達は()た自分を呪う。——ひと月。貴方も感じて居たのでしょう。でも今回貴方が大人の助けを求めたのは、既に退っ引き為らない事態に陥ったことを悟ったから——私達が今迄自分達だけでコトを済まそうとした理由を、貴方は判って居た筈よ。」
——其れに加えて、もし此の手より溢れたら、其の事を考えるとやはり事態を知って居る人間は多いに越したことはないのだろう。——救急隊員は九条さんの前に止まり、先ず我々の身の安全を伺った後、誰何をした。
「漣高校の二年、九条凛です。」
「……、最神春香です。」
「君達は此の状況に居乍ら混乱して居ないように見える。一体何があったのか——安全な場所迄出て説明してくれるかい。」
隊員は九条さんの目を見て話したが、然し彼女は其の視線を僕に向け、また僕は其れを受けて頷いた。では、と隊員は言って僕達を校外へと案内する。階段を眼前にして隊員の目を盗み最後の一本を回収した九条さんは其の刃に付いた僅かな毀れを見たと言った。然し僕が見せるよう伝え其れを手に取った限り其の様な疵は確認し得なかった。既に僕達は校舎から出て居る。赫然(かくぜん)と僕らを照らしたかの黄昏も、最早沈みきって居た。件の疵は屹度、暗所から来る見間違いであったのだろう。何もないとの旨を伝え、霧の中に包丁を落とし、軈て校門前に立った。其処には救急車と消防車、パトカーが複数台停まって居り、()た其のランプに照らされた無数の人々が爪先を伸ばし、或いは屈んで中の様子を伺わんとして居る。此の時僕は一人の刑事と相対す。明るい茶の頭髪を存分に遊ばせ、ネクタイも緩まり斜めに伸びて、スーツも気怠げにボタンが開いて居るが、活力滾る栗色の瞳を持つ廿幾許かの男、彼が見せた警察手帳より須藤(すどう)正博(まさひろ)という名を示し、僕達に説明を乞うた。然し此の説明に於いて円滑に進行したと言えるのは身分を口頭で述べたほんの数秒だけであった。直後、此の学校と僕達とに一切の関わりが無いことを悟った刑事は、では何のために(あけぼの)中学を訪れたのかを問うが、当然僕達は回答を窮する。僕達が直面した此の事件を公然のものにする為に今が在る。其れを判って居ても、やはり一聞すると非現実であるかのように響く此の事実が咽喉を通って相手の脳まで届くか、戯言と聞こえやしないかという不安が此の唇の関を硬く閉ざすのだ。だが此のこころの迷いも一瞬だ、其れこそ一つ瞬きをして、僕は口を開く。獣頭人身の怪物、僕達が気付いた己の力、其の為に怪物に対抗し得るは僕達と見て此処に居るのだと。刑事は何度も僕の言葉を遮り、其の意味を訊ねた。其の度噛み砕き説明せんと試み、()た九条さんも手元に霧を表し包丁を取り出して僕の言葉の真であることを断片的に示した。遂に話し終えても尚刑事は納得に至って居ない様子である。だが彼女の手元の霧は、此の包丁は、技術ではなく才であることは最早明らかである。刑事は暫く考えて、如何の事情が有れど住居侵入には変わりなしとのことで、僕達を警察署に連行した。

 それから二週間、漸く保護観察処分という形で事件は処理された。老若男女の見境なく(あけぼの)中学に居た者総てが、沙耶を除いて、一言交わさぬ人形と成って了ったから、事件当時の証言を収集するには相当な苦労があったに違いない。従って一時はその責任すべてが僕達に有るとする論調もあった。それでもこのような処置で済まされたのは苦労の末の僅かな証拠の為である。校舎が瓦礫の山に埋もれ、糸を張り巡らされて尚、僅かに残った防犯カメラが九条凛と僕、そして蜘蛛のマリオネットを垣間見たのが一つ、次いで蟷螂との戦闘を救急隊員が証言したので一つ、計二つの証で以て、僕達の付添人は先に述べた処分を提示したのだ。勿論簡単に決が下った訳ではない。カメラに映った僕達の負傷、力の特異性、遂には九条凛が過去に行ったボランティア活動迄取り上げて、兎角に情状酌量を図った。其れが功を奏したか、或いは。一連の破壊事件の犯人と断定するのにもあるいは否とするのにも証拠不十分であるとされ、建造物侵入罪のみ問われ以上の決定となった次第だという。
「——人を裁くのは法ではなく、やはり人なんだよ。真っ当に法を行使できるものなど此の世に居るものか。」
此の三週間のことを語り乍ら、付添人・沢城(さわしろ)悕攺(きい)は嘲る。
「まあ、立ち話もなんだ、座りなよ。」
黒い長髪から一本だけ覗く細い眉が僅かに上がり、僕達を黒いクーペの後部座席へ誘った。立ち話もなんだとそう言ったが、然し僕達は署の入り口でもう丗分も彼女の話を聞き続けて居た。途中九条が堪え兼ねて「で結局、如何為ったんです」と急かしたが「まァゆっくり聞いてくれよ」という一言で以降すっかり黙って了った。此の寛大な処置は何より彼女の功績であるから、九条の態度も如何かとは思うが、一方で此の長話にうんざりするのも頷ける。屹度此の人は会話という行為に酔って居るのだ。だから今自分が居る場所も其の足の疲れも顧みない。
「何処に行くんです。」
僕の問に彼女は答えた。「凛ちゃんの父さんのトコ。マ訝しむ気持も分かるよ。娘が逮捕されたのに此の場に居ないってのは道理が分からないだろう。だが如何やらこころの整理が必要らしい。だから頼まれてやったわけよ、君達の送り迎えを。うん、そう。実は彼とわぁたしとは親友なのだけれど、然し誘拐事件の王道みたいな此の文句は信じられないだろうねえ。只君達が不安だからといって乗せない訳にもいかない。要件は聞いて居ないが彼が如何してもって言うんだ。だから、さ、乗ってくれよ。大体君達超能力が有るんだろ。一般人のわぁたしなんて敵いっこないのは君達の方が知ってる筈だろ。何を躊躇う。それともなんだ、わぁたしも超能力を使えたらとか考えてる訳かい。まァ口達者で脳の切れるスーパーお姉さんであることは認めるけれど、人間離れした力なんて使えっこないよ。ホントだって。」
「分かりました、乗せて下さい。」これ以上喋らせたくなかった。ホントだって、という言葉に以降何が続くのか想像もできないが、如何せん沢城さんは止まらないから彼女の望む答えを出すのが早い。
「好し来た。」
間も無くして車は走り出す。途端に沢城さんが助手席に手を伸ばし一枚の円盤を取り出した。恐らく書き込み可能であろう白い円盤には、油性ペンで「はっぱ隊」とだけ書かれて居る。嗚呼何ということだ——まあ尤も、彼女の駄弁りの所為で音楽など耳に入らなかったのだが。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み