No.6 此のこころに巣食うもの

文字数 5,977文字

 陽は陰り電信柱の尾が伸びる。北風靡き身体を劈く。其れはまるで、僕の心臓を撫でるかの様であった。夢に見た光景は夕暮れ、あと数刻程か。九条凛に頼みを蹴られた今、僕は僕が見た夢の為に妹の通う学校の方へ歩を進めんとするも、然し(おの)が発した言の葉の所為で上手く足を運ぶことができないで居た。そんな僕に彼女は説いた。僕が如何に利己的で、甚だしく愚かかを。此の四肢が顚沛流浪なのも、自分と九条凛との言葉とに再三再四苛まれて居るからに他ならない。クリスマスのあの日、ミノタウロスと相対した僕の様子を見て彼女は僕に能力の素となる<(うつわ)>が有るのだとそう言った。左肩を失ったのにも関わらず化け物を前に立ち続け、片腕のみで大斧を振り下ろした其の奇怪な生命力は、人間の持つ胆力と謂った下らん其れではなく、もっと特異なものに由来すると言う。詰まる所、其れこそ<(うつわ)>が熱血と共に滾る何よりの証拠で、僕は其れを有すると言うのだ。そして時に、<(うつわ)>は特殊能力を所有者に齎す。初めて会った時、彼女が右手に広げた霧が其の一つである。此の様な異能力を僕も持ち得るからに、彼女は僕に仲間と為り、共にマリオネットの脅威から人を守ろうと言ったのだが、僕は其れを断った。彼女は其れを受け、且つ此度の頼みを聞かずして、唯僕の先導する口上の違和感の余りに其の思惑を感じ取り、僕の有様は正しく利己的だと言った。妹を助けたい、だが一方で其れ以外は助ける権利が僕に無いと行動を起こさない。自分のごく周囲に脅威が訪れた時にのみ扶助の手を差し伸べようと奔走しだす。人を襲うマリオネットを無差別に破壊し四六時中・誰彼分別無く人を救う彼女だからこそ、そんな僕の姿に嫌気が差したのだろう。
 そうだ、僕には人を助ける権利がない。何故ならば僕は人の屍を隠蔽し、既に人命救助とは対極の位置に立って了ったからだ。「手を汚」しても「洗う」のは「足」だ。どれだけ善行を重ねようと、罪は残った儘だと先人たちは言う。——其の時ふと気付く。何故僕は此の様な事を思慮するのだ。あの事件以来僕が人を助けてはならないと思うのは、何処かで罪の償いに為るかもしれないと思う自分が居るからではないのか。人を助ける権利がないという表現に拘るのは、僕が人を助けたいという本心の裏返しではないか——違う。違うぞ。僕の心の歯切れの悪さは此処に在る。一度犯した罪は償えないのは知って居る、だからといって善行と距離を置くのは人として違うのではないか。其れは只の不貞腐れだ、決して人助けをしない道理になど為るものか。何より、そうだ、僕は助けられる命は助けたいとそう思って居る筈だ。友人を失って尚、何故今まで人を失う痛みに気付けなかった。成程僕は愚かだ。ならば、此の足は何を躊躇うことが有る。僕が今するべきことは何か、其れは何よりも明らかではないのか。そうだ、そうだ、そうだ。

 黄昏時の陽は赫然(かくぜん)と流汗を輝かせ、ぐいと飲み込んだ呼吸が肺に弾ける。最神沙耶は廊下を駆け抜け、其の背には僅かにヒトならざる者の影が覗く。軈て上がった息は嗚咽と成り、慣れないローファーでの疾走は忽ち両足に異常を来した。己の靴の中で皮が剝れ血が滴るのを彼女は感じて居た。走り去る景色に覗く戸の窓から白い糸のような粘性と柔軟性とを持つ細長い物体で身体を雁字搦めにされ、顔を観音開きになるよう切り付けられた無数の生徒を見た。此の惨状の前では足の痛み、黒い冬用セーラー服に籠った熱や首迄伸ばした栗色の頭髪が視界に影を差すのも気に留めて等居られるわけがなかった。故に彼女は一心不乱に逃走(はし)る。然し混乱が脳に立ち込める此の現状で、彼女が正しく道を歩める筈もなく、遂には屋上へ出る扉が立ち塞がった。彼女が此れに手を掛けるも開くことはない。鍵が掛かっている、ドアノブの下にはサムターンが見え、此れを回そうとするも微塵も動かない。往年使われることのなかった鍵はすっかり錆びてしまっていたのだ。不安の人差し指が彼女の背を撫で、滝の様に流れる汗を振りまきながら彼女は振り返った。視界には階段の踊り場が映るも、其処に化け物の姿は無い。踏面を辿って段階(きざはし)を下り、先に見た踊り場に立って三階を見てもやはり奴の姿は其処には居なかった。撒いたか、然し暫くは此処に隠れて居よう、と彼女は階段を上り直し、屋上への扉の前に広がる小さなスペースに腰を下ろし身を置いた。息を整え乍ら伸ばした腿に屋上扉の窓から差す陽が掛かる。朧気な眼で彼女が其れを見つめた途端、嫌がるように陰った。窓から茶色の肌に埋まった八つの目がじっと此方を覗いて居る。ヒトならざる者、其の正体。彼女の身体は硬直し最早一切の予備動作も許さなかった。従って力任せに扉が蹴破られたとき、其の鉄板に身体を圧し潰され乍ら踊り場へと跳ね落ちることとなり、彼女の上半身は瓦礫に打ち付けられ一時の呼吸困難、更には左の二の腕と背中に深い傷を負う。其れでも彼女は立ち上がろうと身体の上の鉄板に両手を当て、押し退けようと試みるも、此のとき化け物が暴れ回ったか、或いは——踊り場は不規則に揺れ出し、軈て均等に弾けて彼女はひとつ下の踊り場に叩き付けられ、一方で化け物は無理やりに曲がっているように見える其の人の身体の四肢をまるで四足歩行であるかのように巧みに使い彼女目掛けて跳び上がった。角ばる瓦礫は彼女の背中を刺し、其れは内臓に達して吐血した此の瞬間にも尚、彼女は立ち上がろうと試みて居た。余力を振り絞り、声に成らない叫びを吐いて、瓦礫の上から上体を起こそうとした其の時、粉塵を風が切る程の速度で壁に出刃包丁が刺さった。階段を降りた、廊下の方角からだ、そして今同じ方角から一つの影が飛び出す。銀色の髪を靡かせながら三階の廊下から崩れた階段へと飛び込み、深く突き刺さった出刃包丁の柄に爪先を掛け、空を掻くマリオネットの顔面を宙返り乍ら蹴り奴の身体を廊下の壁へと叩き付けた。包丁を投げ壁に刺し、あの狭い足場から三米の巨体を蹴り飛ばす威力を繰り出す、ヒトならざる者とヒトならざる力の邂逅に沙耶は呆然として居た。だが直ぐに自分と廊下の間とに立つように着地した銀髪の女が漣高校の制服を着て居ることに気付き、其れを目で擦沿(なぞ)ると彼女の拳に行き着いた。其の手は余りに硬く握られたために血が滴って居り、また其の血を振り払える程に強く震えて居た。
「御免なさい。」
透き通った声色でさえ今は濁っている。此の骸の根が張られたこころ其れ自体が震えて居るからだ。壁面を刺した包丁は抜き取られ、彼女は大きく振りかぶって蜘蛛の胸を狙う。其の刃は正中線を捉えたものの胴に届かず、代わりに蜘蛛が突き出した右前脚——本来ヒトの右腕であるべきものに突き立てられた。怯まず彼女は「<収容(しゅうよう)>、二番。」と唱え、手元の黒霧から中華包丁を取り出した。踊り場より蹴り上がり、其の包丁を肩から振り下ろした。蜘蛛目掛けて下ろされた刃は其の蜘蛛の居た廊下に突き立てられ、コンクリートを弾けさせ、一方で蜘蛛は其れに紛れ乍ら元来た道を辿る様に廊下を走り出した。九条凛は後を追う。傍で鳴るサイレン等も気に留めず、唯自分の過ちを晴らさずとも、せめて其の復讐をばと中華包丁を片手に廊下を駆ける。故に——其の焦りが故に彼女は気付かなかった。足下に張られた無数の糸、寂然と埃を漏らす廊下——あからさまな罠でさえ、彼女の認知能力をすり抜けた。粘性の糸に脚を取られ、次に床が崩れ始める。従って彼女は二階と三階を隔てる廊下の床を失い、又足場を失い、其の縦に長い空間の中で脚一点のみで支えられ宙吊りの(さま)と為った。蜘蛛は其のヒトの手足で以って壁面を唯掴んで居る。もう逃げるのは止めだ。当然である。餌が其処に在る。蜘蛛は忽ち次へ次へと壁を飛び移り其の糸に絡む様に線を描き、軈て彼女の元に辿り着き先ず其の手を糸で以って封じた。一面を白い糸が覆う中、最早二階の床も廊下の終も見通すこと儘ならず、無抵抗に彼女は糸に巻かれてゆく。脚、腰、腹、胸、肩、首、顎、唇、鼻、瞳、眉、そして頭髪に至るまで、彼女の一切を白い糸が覆ったとき、遂に蜘蛛は其の大きな繭の腹に噛み付いた。軈て、鮮血が滲み出る。

 胴の上に被さった瓦礫を手で払い、彼女の周りを整える。未だ、息が有る。妹には希望が有る。——詰まり他の生徒には其れが無い。——そうだ、妹が助かって良かった等と思うな。僕は兄としての正義を鑑みてはならない。というより、人の正義を超越しなくてはならない。僕は何者だ。そうだ、人殺しだ、<(うつわ)>を持つ者だ。個人の感情をかなぐり捨て、奮い立て。——僕が優柔不断かつ意志薄弱な為に妹を除く全校生徒は息絶えた。少年少女らの親族の気持ちを思うと今にも始祖(アダム)の林檎を潰したくて堪らなくなる。だが其れは逃走に他ならない。僕がする可きは罪に立ち向かう事。此の悲しみは涙の糧に非ず、此の怒りは(おの)が内に留める可からず。——故に妹は先に呼んだ救急隊に任せることとする。(きざはし)を下り左に向く。脳神経の如く張り巡らされた蜘蛛の()は最早尋常の蜘蛛の其れとは様相が異なっている。縦糸も横糸も一切の区別がない程に入り組んでいるのだ。身を屈め、時に跨いで時に這い、其の奥部へと進んで行く。軈て糸の隙間に同心円状に広がる空間を見た。中心には繭が下がって居る。ポケットから携帯を捨てて、更に這い進んで漸く其の空間に出た。丁度貫かれた二階と三階の中心に下がる繭からは血が滴り、まるで砂時計のようであった。僕は此の時初めて、(おの)が置かれた立場を知る。此の時迄重ねた罪を復讐の代行により数えるのみならず、既に僕は此れ以上の罪を犯してはならないことを強いられて居るのだ。詰まり、あの最後の砂がオリフィスを通った時、僕は復た、罪を重ねたことになる。あの繭を破壊し、下ろさなくては……!立ち上がり、一歩踏み込む。だが次の瞬間、背後から襲い来る衝撃は僕を対面の網へと突き飛ばした。今迄触れぬよう振舞ったが、想像通り凄まじい粘着力だ。直径にして凡そ二糎、此れだけの太さの糸に全身を絡め取られ、身動ぎ一つまるで許さない。其の為衝撃の方へ振り返る事も儘ならないが、僕は其の正体を既に見て居る筈だ。飛び跳ねる様に移動する音が二度聞こえ、次には僕の(はらわた)を何かが貫いた。其れは僅かに床と平行に動いて臓腑を掻き乱し、其れを埋める様に粘性の物体が背中に撒かれる。先ず振り返らんと藻掻く僕は此の糸の前にまるで無力だ。其の上、指の末端から首に向かって登る痺れを感じた。相手が毒蜘蛛とは性質(たち)が悪い。嗚呼糞、結局、僕は——

 其の時、見た景色。形容するならば、太陽光線で目を焼いた様な影すらない純白の世界。此の景色を僕は知って居る。蘇る五月のあの日の出来事——唯一つ異なるのは、眼前にうら若き女性が座って居たことであった。其の顔立ちは沙耶に似て、透き通った肌と低い鼻を持つが、決して僕の妹ではなかった。唯一枚の麻を纏い、膝を崩し足を斜めに払って居り、此れを正しく座して居るとは言わずとも、正座に類する其れである事に違いはない。まるで緊張感の無い彼女に対比して、僕の心は焦燥に駆られていた。心より震え、思わず声が出る。
「……どう、なった。沙耶はどうなった。あの繭の中に居た人はどうなった——どうせこうなるなら!其れを僕に見せろ!今迄に散々惨状を見せつけて、死に際に見せるのがこんな意味の欠片も無い世界だと!性格が悪いぞ!何だ……何なんだ……僕の<(うつわ)>は……。」
唯一人、嘆いた。だが其の嘆きに答える者が居た。対面(たいめ)した彼女だ。僕は此れを、昨晩の夢の様なものと考えていたから、夢の側から僕に答えることなど無いとそう考えて居た為に、返された言葉に直ぐさま面を上げた。
「——主は私に能力(ちから)をお与えになった。新古を見通す力だ。能力(ちから)は血を依代に子孫へ伝わる。君が最神の名を持つなら、先ずは千里を見通せ。窮地を脱したくば、(おの)が根源に立ち返るのだ。受け継いだ能力(ちから)と使命を忘れてはならない。其の血は、未来を創造するのだから。——」

 ——何も成し遂げずに終わる……否、其れは裏切りだ。僕が終わらせた無数の魂を背負うと決めた今、此処で終わる訳には行かない。罪は消えない。僕は一生を掛け其れを背負わなくてはならない——此の魂に未だ光が有るのなら、此れ以上罪の上塗りは許されない……立ち上がって見せろ!最神春香!
 不意に動き出した指が糸を掴み、僕を絡め取った其れは忽ち霧散した。支えを無くし前方に倒れ行く僕の身体を強引に捻じ曲げ、(はらわた)を振り撒き乍らも振り返り、腹を噛む蜘蛛の瞳を遂に見た。其の巨体から生える腕には見慣れた包丁在り。其れに手を伸ばし、軈て引き抜きかの瞳に突き立てた。怒号に近い声を上げ、蜘蛛は僕の腹を離して仰け反った。其の勢いの余り包丁は奴の瞳より引き抜かれたが未だ此の手の中にある。すかさず両脚を奴の首に絡め、其れを軸に胴体を床と平行に百八十度回して奴の背後に廻り込み、其の首より足を離して背中を蹴り飛ばした。霧散したのは僕の身体に触れて居たもののみで、周囲には未だ蜘蛛の糸が巡って居る。従って蜘蛛のマリオネットは蹴られた反動により自身の糸に叩きつけられ、僕は来た道を辿る様に転がって蜘蛛の()に紛れた。奴が其の糸に絡まって居るのを垣間見る。通常、蜘蛛は自身の巣を編むとき、縦糸と横糸で其の粘着性を区別する。粘着性の低い縦糸、片や其れが高い横糸。蜘蛛は縦糸の上を器用に歩む為に、昆虫が容易く絡め取られる自身の巣を自在に進む事ができるのだ。だが、奴に其の区別は無い。あとどれだけこの状況が続くか、そう思案するよりも早く、奴は口より酸を吐き、其の糸を焼き切った。僕は来た道をさらに辿る様後退し、しかし其の時蜘蛛の糸が僅かに靡いた。音で以って位置を捉えたりと蜘蛛は駆け出し、器用に糸を潜り軈て辿り着く。僕が先に放り投げた携帯の下へ。仕掛けたアラームが、僕の思い通りに作動した、これにより生まれた間隙を逃すものか。糸から身を乗り出し包丁を掲げ、奴の胸へと振り下ろした。確かに此の刃は核を捉えて居る。包丁を強く握り、核を掻き乱す様に僅かに捻った。忽ち蜘蛛は声を上げ、硝子を揺らし、力無く床に伏す。引き抜いた包丁から僅かに白銀の粒子が散り、蜘蛛もまた其れと共に消えて行く。
もう、罪を重ねてはならない。己は何者か。人殺しであり、<(うつわ)>を持つ者である。だが彼女の発言の其の真意を、僕は知らない。己が何者かは未だ判らない。故に僕は新古でなく今を見る。眼前に対面(たいめ)す問題から己の望みを貫く為僕は力を振るわなければならない。罪を背負う其の痛み、確かに僕は知って居る。ならば此れ以上誰にも其れを背負わせるな。僕のこころの根源は此処に在り。
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