No.5 揺らぎ

文字数 5,064文字

 僕は覚醒して直ぐに閑処に赴き、五臓六腑から込み上げる感情と昨晩の出来事を忘れるように飲み込んだ食物とを一遍に吐き出した。流れる酸が咽喉を焼き、遂には血を吐いたのを認めた時、夢に見た屍山血河を思い出し嗚咽を繰り返した。――泣いて居る、僕は齢十七にして夢如きで涙を流して居る。口内の胃酸の残滓と瞳の赤さを洗面台で洗い流して、顚沛流浪の足取りでリビングのソファに着き其の身軀を横たえる。気怠げに眼前のテーブルに手を伸ばし部屋の照明を操作するリモコンを握って、深夜三時の暗闇を晴らす。続いてテレビのリモコンに手を伸ばし適当なチャンネルを垂れ流すも、此の心の奥底の靄が晴れない。
 茫然自失の(さま)が数時間続き、窓から陽が差し始めたのを知り姿勢を正して立ち上がり、テレビを消して朝食の支度を始めた。其れから数分の後、凡そ時刻が七時を回った頃に平時(いつ)も通りに父が起き、一階に下る音がした。フライパンに衝立を差し込み方やベーコンを焼き、もう片方で目玉焼きを準備する。空いている隣のコンロに水を注いだ鍋を置き、冷凍庫から事前に切ってジッパー付きポーチに詰めた玉菜を其の中へ入れた。コンロに火を点けてから、嗚呼了ったと我に帰り、然しまあいいかと諦念し、其の儘顆粒出汁を匙で掬って鍋に入れる。直後に父が濡れた顔を拭いながら居間に現れた。
「お早う。」其の父の言葉に鸚鵡返しをする。彼は平時(いつ)もの通り、居間に入って先ず左折しテレビに対面(たいめ)すソファを跨ぎ、硝子テーブルに僕が棄てたリモコンを手に取って報道番組を点け、続いて此方に戻り、木製のテーブルを隔てて居間の入り口から奥――窓側の二脚の椅子の内、キッチンに近い方に座った。
「炊飯器の傍に茶碗が置いてあるから、好きな量装って。」
咽喉から空気を漏らしただけの様な相槌を打ち、父は立ち上がり冷蔵庫へ手を伸ばし一杯の牛乳と、続いて立ち寄った炊飯器で浅く盛った白米と、其の傍のコップに入った一膳の箸とを先のテーブルに運んだ。ふと、僕は声を掛ける。
「納豆は。」
「あんなンは人の食うもんじゃねえよ。」
「そっか。」
焼き上がったベーコンと目玉焼きをフライパンから引き揚げ丸皿に盛り、父の目の前に出す。足早にキッチンに戻り冷蔵庫から味噌を取り出し鍋に溶かして、おたまでかき混ぜながら弱火で熱する。寸刻してコンロの火を消し、出来上がった物を汁椀に注いで振り返ると、父が目の前で立って居たので其れを手渡し、続いて僕自身の食事の準備を始めた。汁椀を取り出し適当な量の白米を盛って、更に其処に味噌汁を湛える。箸を一膳取り出して父の正面の椅子に座った。
「なあ、春香。」
「ん。」
「此処の所よく外に出てるけど何してんだ。」
「学校の人と会ってた。」
「学校の人って。」
「同い年の女の子。」
「彼女か。」
「まさか。」
「へえ、どんな子なんだ。」
「どっか不愛想な……つんけんとしてる。」
「見た目とかは。」
「其れ訊いて何になるの。」
「いいじゃんか。」
「……銀髪で……美人だ。」
「そうか、其れは良かった。」
「何だ其の返し……。」
彼女の顔を思い出す。続いて昨日の事を。蓋し僕は支離滅裂であった。自身の背景を知らせずして、或いは知った処で補足説明無くしてあの態度は屹度理解の難しい物であったと言えよう。然しこうして彼女を突っ撥ねた今も、一年前の出来事を彼女に打ち明けて良いものか――其れは詰り彼女が僕の罪に理解を示してくれるのか――判断しかねて居た。否、其れ以上の艱難は僕自身に有る。彼女は一年前の学校の異変を知っている、他の者が聞くよりかは明らかに僕の犯したことへの衝撃は少ない筈だ。だが一年間誰にも言わず――其れこそ父にも虐めが原因だと適当な嘘を吐いて――今まで過ごしてきたこの唇が、まるで膠を掛けられたように開かないのだ。屹度彼女は納得していない。彼女は人一倍頑固な性質(たち)だから、孰れ再会し話に折り合いを付けなければならなくなる。伝えるべきだろうか、僕の過去と、人殺しの人助けが如何に滑稽な様であるかを。――一晩忘れようとした問題を思い出し、すっかり箸が止まって居る僕の異変を感じ取ったのだろう、父は声を掛ける。
「――悪い、プライベート、だもんな。」
「……いいよ。」
肩身狭そうに父は手を合わせ、空の食器をシンクに運んだ。猫まんまはすっかり冷え切って居る。無心でそれらを胃袋に流し込み、汁椀と箸を持ち立ち上がって言った。
「そいつと、喧嘩してたんだ。だけどお父さんの御蔭で考える切っ掛けができた。ありがとう。」
合点行かなそうに首を傾げながらも、父は「おう」と返し身支度を始めた。其れから数十分、父と僕との食器を総て洗い終わって暇を持て余して居る頃に為って漸く沙耶が降りてきた。顔も洗わず目を擦り、縒れた白いタンクトップと薄い生地の半ズボンで居間へ入ってくる。最早彼女のかの破廉恥な恰好には慣れたもので、以前冬場なのに寒くはないのかと訊ねたところ、エアコンをつけ布団を首まで被り、更に袖の長いパジャマなど羽織っては却って熱くて仕方がないのだと返されたことがある。否、僕は十五に成って其の服装で部屋中を闊歩するのを、仮にも異性の父と僕に見られるのは恥ずかしくないのかと、何かもう一枚でも羽織ってはどうかと遠回しにそう云いたかったのだが、此れ以上は僕が猥談を持ち掛けただけに落ちることが想像に容易く、質問はやめにした。味噌汁とベーコンエッグの用意をし乍ら彼女に自分の欲しい量だけ白米と飲み物を装うよう告げる。彼女が未だに目を擦りながら徐然(のろのろ)と僕の横に立ち、ふと其の顔を見た所でぼそりと呟いた。
「何で泣いてるのぉ……。」
其の言葉に僕の菜箸は止まった。まるで心臓を撫でられたかのような緊張が全身を走った。怖い夢を見て泣いて了った、其の余韻が不意に現れたとそう云うのは簡単であるが、彼女の場合はどんな夢かを問い質そうとする。只一方で僕は此の痛ましい夢の風景を決して彼女に伝えたくはなかった。なァんだそんなことかと笑って流されるほど軽々しく扱える内容ではないからだ。屹度訊いた彼女は不快感を覚え、彼女に伝えるために夢を鮮やかに思い出した僕も()た、無傷では済まない。
「え、春香、泣いてるのか。」父が訊ねる。
漸く頭が回り出し、そうかと一言呟いて指で涙袋を一撫でし、なんだ泣いてないじゃないかと毅然と振る舞う。すると彼女も今一度眼をよく擦り、嗚呼、寝ぼけ眼の見間違いだったとコップを取り出し牛乳を注いだ。茶碗に山盛りの米を装い、僕が先程座って居た椅子の隣のもう一脚に腰掛け、ぐいと牛乳を飲み干した。空になったコップを持って、再び冷蔵庫の前に立つ。
「そうするなら注いだ時に飲んで了えばよかったじゃないか。」
「確かに。」
ベーコンエッグが焼き上がったと同時に父の支度が終わったようで、出発の挨拶を告げて居間を去っていった。一方でコップに牛乳を湛えて席に着いた沙耶は玄関扉の閉じる音を聞き僕に言った。
「何でそんな哀しそうな眼をしてるのさ。」
朝ご飯の御菜(おかず)と味噌汁を皿と椀とに盛り、手を伸ばして彼女に差し出しつつ疑問を呈す。
「そうか。」
「そうだよ、其れも私を見るときだけ。お父さんを見るときはどうってことないのに、私に目が合うとふっと憂うような顔をするのは何なのさ。」皿を受け取り乍ら言うのだった。
「……一寸、体調が悪くてな。」
「そんな見え透いた嘘吐いたって無駄だからね。私とお父さんとで表情を変える意味が分かんない。」
「……もう、いいだろ。そんなこと。」
「――いいわけないよ。最後に学校から帰ってきた日と同じ顔だもん。並じゃない出来事が在ったに違いないんだ。」
――っ!……参ったな、これは。そうか、僕はそんな顔をして了って居たのか。一体どう誤魔化そうか決め倦ねて居ると、不意に壁掛時計の針を見た彼女は飯の残りを書き込み、学校の時間だとわざとらしく慌てて、食器も其の儘に二階へ駆け上がった。一体どうやって身支度を済ませたのか、其れから直ぐに階段を転がるように降りる音がして、玄関が閉じられる。沙耶は、何時しか僕を置いて大人に成って居たようであった。

 気付けば僕は何時かのコンテナヤードに来て居た。只の夢と、如何にも思い過せなかったのだ。此処ならと奥へ歩み乍ら、九条凛の名を叫ぶ。彼女は僕の目論見通り、其れであり乍ら僕の視界の外のコンテナの影から、其の姿を露わにした。
「何よ。」
「頼みが有る。」
「昨日あんな別れ方をしておいて其の相手に頼み事とは良い度胸じゃない。あの一件で貴方への評価は最悪を通り越して理解不能よ。其の私が断らないとでも。――頼みよりも先に昨日の言葉の意味を聞かせてもらおうかしら。『してはならない』とはどういうことなのよ。貴方の此の言葉の所為で良く眠れなかったのよ。人助けを『してはならない』人間なんて一体何なのか、如何も私には推測できないわ。貴方と私とじゃ倫理観に違いが有るとしか考えられない。」
「説明すれば、頼みを聞いてくれるか。」
「考えてあげる。それだけ。」
僕は鼓動する心臓をぎゅっと抑え込み、膠を一枚々々剥がして、数秒掛けて漸く口を開いた。
「――僕には、二つ下の妹が居る。もう直ぐ漣高校に入ってくる妹だ。彼女は何てことない顔して、周りをよく見て居る。凡そ八か月前、最後に学校に行ったあの日、惨劇に窶れた僕の変化にいち早く気付いたのも彼女だった。其れは詰り、彼女は普段の僕のことを誰よりも知って居るということに他ならない。そんな彼女と、僕らが幾許も行かないときに亡くした母とを、僕は勝手に投影させているのかも知れない。或いは単純に家族だからか。――僕にとって彼女は何よりも大切な存在なんだ。たった十五年と一寸の時間がそうさせたんだ。……其の水晶のような彼女に一筋たりとも傷を付けたくないから、僕はあの日も隠し通した。――九条さん、初めて、君に言おう。あの日僕は人を埋めた。漣高校の裏庭に。武藤(むとう)快人(かいと)が殺した、僕の親友・木村(きむら)楼白(ろうはく)の遺体を。」
「……如何して親友を埋める必要が有ったのよ。」
込み上げる、感情が。胃酸よりも(はや)く、伝えるべきことを一口に吐き出すんだ。
「分からない。気が付いたら埋めていた。明確に遺体を埋めて居る記憶こそないが、目を覚ました時に埋まりかけた黒い瞳を見た。次いで木村くんの生徒手帳を見て、其れが誰かを知った。だから僕は、自分を『人殺しに加担した男』だと評価して居る。其の僕が、人を襲う化け物を倒して人助けなんて……そんな可笑しな話があるか。屹度罪を償おうとして居ると、僕は僕に(わら)わ――」
終に僕は嗚咽して、気付けば瞼は涙で溢れて肩も老いさらばえたかのように落ち、コンクリートを湿らして居た。彼女は何時もと変わらぬ冷たい瞳で此方を見つめ、何時しかコンテナに上って其の屋根に腰掛けており、何時にもなく静かに言う。
「……詰り貴方は人殺しに加担して、其の自分が今更に人助けをすることを滑稽に感じて、昨日途端にあんなことを言った。そういうわけね。――一か月も私に附き添ったのは、概ね切り出す機会を見計らってた……否、自分から作ろうとしなかった。そんなところかしら。」
僕は黙って居た。間違いはない。たった今伝わったのだ。彼女は大きな溜息を吐いて、続けた。
「貴方、つくづくクズなのね。」
僕は涙の残った目を開いて、彼女を見上げた。
「何よ……だってそうでしょう。貴方、人命と自分がどう映るかを天秤にかけて、後者を取ったのよ。如何に貴方が利己的で愚かか、良く分かったわ。屹度其の大切な妹とやらも、傷を付けたくないとか言っているけれど、自分に都合よく癒しをくれる存在を失いたくないとかそんなことでしょう。じゃないと貴方の自分本位が妹に負ける理由がないもの。」
「――っ、お前!」
「――嗚呼、頼み事とやらもどうせ妹のことかしら。次いで私に頼むのだから能力がらみね。すると何、貴方の妹を守ってくれとでも言いたいの。……厭よ。如何いう経緯かは知らないけれど、聞いてる限り然程大切でもなさそうだし。クリスマスの日に助けた恩も放り投げて私の誘いを蹴った男の頼みなんざ聞く道理も抑々ないし。嗚ァー呼、貴方が来るかもと思って学校すっぽかしてきた私が莫迦みたいだわ。」
彼女は立ち上がり、尻に附いた錆と埃を払って後方へ向く。
「そんなに助けたいのなら、自分で如何にかすることね。貴方には其の手段が有るのだから。」
彼女はそう言い残して青空へ消えた。――追う気力もない。既に僕は、自分の在り方を疑って居たのだ。
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