第10話 舞台への進出

文字数 1,986文字

 連続テレビドラマの好調さもあって、慎吾の人気はますます上がっていった。しかし彼はこのところ悩んでいた。もともと彼は名前と顔を変える前までは、地方ではあるが舞台を経験していたし、たいした役では無かった、だが厳しさとその魅力も知っていた。

 今の自分の人気はとりあえずはもう少しは続くだろう、しかしいずれは凋落することは間違いないと分かっている。今のこの人気は作られた物であり、いずれ飽きられるのは目に見えていることを感じていた。それは今までの多くのタレントが浮いては消えた事実がある、その結果を見れば明らかだった。

 しかし、その中でもしっかり実力を付け、強い自分をアピールできる存在の人物こそ、 この生き馬の目を抜くような業界で生き延びることが出来る。それは、今まで辛苦を味わった慎吾だからこそ、誰よりもそのことを怖れていたのだ。

 テレビのカメラは、アップなどで魅力を引き出したり、ある程度自分のミスも適当にカバーしてくれる。それは自分の顔が、あの時に誰よりも美しく変わったからであり、 今の実力は本当の自分の能力ではないことを彼が一番よく知っていた。

 いつからか、名もない地方だったが、もう一度あの舞台の厳しさと楽しさ、観客との一体感が得られるあの興奮、本当の自分が認められる舞台で勝負して、身のあるそんな役者になりたいという気持ちが沸々と蘇ってきたのである。

 そんな時に何故か慎吾は昔の自分を思い出すことがある。それは自分が忘れたいと思っていた、あの当時の自分達だった。貧しいながらも一緒に同棲し、演劇論を話し合ったあの美子のことがなぜか思い出してくるのだった。その度に慎吾の胸が切なく苦しくなってくる。

 振り払うように頭を左右に揺すっても、その思いが消えることはなかった。たまには美子のことを夢にさえ見るようになっていた。その時の美子の顔は優しかった、決して綺麗ではないが、美子といると心が落ち着く。

 今更、自分が酷いことをして捨てた女を思い出すなんて……。
(どうしているだろうか美子、こんな私を許すわけがない、でも本当に幸せだったのはあの頃だったような気がする……)

 そんな時、慎吾はディレクターの山崎達夫から思い掛けない話を聞いていた。

「慎吾君、今度あのシアター・プロジェクトで半年後に舞台があるということを聞いてきたんだよ、どうだいチャレンジしてみる気持ちはあるかな?」

「えっ? 本当ですか?」

「もちろん嘘じゃないさ、それもあの有名な演出家の老川由紀夫さんだ、君もそろそろ本格的な演技をしたいのじゃないのかな?」

 達夫は常々から慎吾がそんな話をしていたのを思い出したからである、彼は慎吾を他の俳優と比べてどこかが違うと見込んでいたからだ。今は人気だけで持ってはいるが、そう長くはないだろう。彼はどこか才能を持っている、それを磨かないうちに終わらせるのは惜しい、そう感じていた。

「実はね慎吾くん、私は老川さんに君のことを話してみたんだよ、そうしたら彼も乗り気になってね、骨がありそうだからこの際、慎吾君を鍛えてみるか、それでダメなら彼もただの三文役者に過ぎないってことさ、って言っていたんだがね」

「はあ、あの老川由紀夫さんが、私のことをそう言っていたのですか?」
「そうだよ慎吾くん。実は彼が或る舞台の構想を練っているときに、偶然に私が君の話をしたんだ、しばらく考えていたんだが、(慎吾君にいちどこの主役を任せてみようか、これを面白いかもしれない)とあの老川さんが言ったんだよ」

「えええ? 本当ですか」
「うん、まだそれまでにはあと半年あるが、それにはまず君があの老川さんの厳しい試練に耐えられるかどうかにかかってるんだ、どうだ……やってみないか?」
「はい! ぜひお願いします、山崎さん」
「では今度いちど彼に会って話をしてみよう」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」

「ただし、その候補は君だけじゃないんだ、それを忘れないように、それと、その他のキャストも一般から公募するらしい、厳しくなるぞ、その覚悟はしておいた方が良い」
「そうですか、わかりました」

 彼もずっと前に地方にいた頃から、老川由紀夫の名声は知っていた、その厳しい演出と、斬新なアイディアは演劇界の異端児とも呼ばれている。その人の下で演じられるということ、しかもそれは主役だとすれば、これ以上のチャンスはない。

 演劇を目指す人ならば、慎吾でなくても興奮しない人はいないだろう。まだ半年ある、しかし言い換えればあと半年しかないのだ。慎吾はこの時に決意をした。
 今までの人気を捨てても良い。自分が本当に目指していたのは、貰った顔で心のない笑みを浮かべて勝ち取った人気ではなく、本物の自分の実力を試す舞台での演技だった。その時がようやくやってきたのだと思うと、思わず身震いしてくる慎吾だった。

 
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