第15話  勝負の時

文字数 1,440文字

 舞台の上では何回か「憲二」役の慎吾と「雪子」役の美子は顔を合わせていた。慎吾はこの新川美子という女が計り知れなかった。彼女が今まで芝居をしていたという劇団の名前も初めて聞いたし、彼女の演技のレベルもよくわかっていない。

 ただ、どういうわけか、初めての大舞台にしては物怖じしない度胸の良さが感じられるのだ。自分と眼を合わせても、他の女のようにためらう様子もない。
 よほど自分に自信があるのだろうか?  

 慎吾は、老川由紀夫の指導に慣れてはきたものの、相手が絡んでくるとなかなか思うようにはいかないようだった。
 今、舞台では、慎吾と美子の二人が絡んだ芝居をしていた。

「俺は、この家を出ていくことに決めたんだ」
「あなたはそれでいいでしょうけれど、残された私はどうなるのですか」
「許してくれ、でも俺はもう決めたんだよ」
「決めたって、何をですか?」
「俺はうんざりなんだよ、この街もここの人たちも……」

「でもそれって、あなたの独りよがりではないですか、何もしないで尻尾を丸めて逃げるなんて卑怯よ!」

「うるさい! お前に俺の気持ちがわかるのか!」
「あなたがそんな弱虫だなんて知らなかったわ、私に言ったあの時のあの言葉は何だったの?」
「あの言葉とは?」

「俺はお前が好きだ、今は苦しいかもしれないけれど、二人で歯を食いしばっていけばなんとかなるさ、俺もがんばるからって言ったのはどこの誰?」

「それはその時の俺の気持ちだったが、今はもう違う、今の俺は昔の俺じゃないんだ、そんな気持ちじゃない」

「では、なぜあなたは一人で出て行くんですか、私はどうなるの?」
「許してくれ、今俺は一人で生きていきたいんだ、なあ雪子」

 慎吾は、雪子役の美子の顔をまともに見ず半分背中を向けながら言った。
 その時、ふと慎吾の頭をかすめた物がある。それはこの筋書きが、あまりにも昔の自分がしてきたことに似ているからである。憲二が慎介と重なって見えるのだ。
 ただぼんやりと昔の美子が佇んでいるだけだが……。

「いやよ! いや……私を連れてって、あなたの足手まといにはならないから」
 美子は必死で慎吾にすがりつく、彼女の演技は真に迫っていた、周りの共演者たちも、じっと二人の演技を見守っていた。

「駄目だったら駄目なんだ、俺はそう決めたんだ!」
「酷いわ、意気地なし!」
「うるさい!」

 そう言って慎吾が、美子の前に立って、彼女の頬を思い切り叩く場面だった。それは稽古なので、慎吾は軽く美子の顔を叩くふりをした。それに対して老川からは、特に何のクレームもない、しかし、そのシーンで異議を唱えるものがいた。

「ダメよ、慎吾さん、本番だと思って私の頬を思い切り叩いて、ここも一つの大きな見せ場でしょう、私は構わないから」

「でも、それは……」

「いいから、この舞台があなたが主役なんですから、心こめて、心配しないでください、稽古だと思わないで……」

「では、いくよ、美子さん」
「はい」
「うるさい!」

 バチン! と頬を叩く乾いた音がした。その時、慎吾はまともに美子の顔を見れなかった。

「慎吾さん、これは真剣勝負の演技なのよ、私の眼を見てもっと強く、私を憎いと思って、叩いて!」
「分かった」

 さっきよりも激しくバチンという音がした。思わず、美子は反動でよろけた。再び美子の頬がみるみるうちに赤くなっていった。
 この二人の行為を、共演者達は驚きながら固唾を飲んで見守っていた。
 あの老川由紀夫も、慎吾と美子の二人を興味深そうにじっと見つめていた。



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