第16話 初舞台の上演

文字数 2,028文字

 その日の通し稽古が終わった後に、演出家の老川由紀夫は、新川美子を呼んだ。

「先程の舞台の中で、君が慎吾に顔を叩かれる場面があったが、その時、君は慎吾に何か言っていたね、なんていったのかな?」 

「はい、申し訳ありませんでした、つい興奮してしまいました」
「いや、私は君が慎吾に、なにを言ったか聞いているんだよ」

 その時の老川は、美子を責めているのではなかった。おおよその想像はつくが、それを自分で確かめたかったのである。

「慎吾さんが私を叩く時に、たとえ稽古だとしても、彼が本当に私に正面から向き合っていないと感じたのす。それで、つい殴ってと言ってしまいました、申し訳ありません、今は反省しています」

「なるほど、俳優への指示は演出家である私の仕事だが、そういうことであるならばいいだろう、彼もいい発奮になったはずだ。しかしだな、全体の流れということもあるし、慎吾としても新人の君から言われたら立つ瀬もないだろう、皆の眼もあるし、今度は私がよく注意しよう」

「はい、わかりました」
 美子は優しい老川の言葉に少しほっとした。いつもの彼ならば、もっときつい言葉を浴びせられると思ったからだ。老川は次の言葉を繋いだ。

「だがね、それで君が萎縮する必要はないんだよ、私のやり方を言ったまでのことだから、まあ、お互いの欠点を指摘し合うことが悪いことではない、それは舞台の上でなく、直接、言葉で自分の口で言えばいいんだよ新川君」

「そうですね、わかりました、老川さん」

「今の話はそれくらいにしよう、些細なことさ、まあ今のことからも君のこの舞台にかける意気込みというのもよく感じたよ、これからもこの調子でやってくれたまえ」

「はい、ありがとうございます」

 美子は老川の言った言葉が嬉しかった、あの時は感情のままに、つい言ってしまったが、後悔していた。あの場所で彼に自分が言うべき事ではなかった、しかしその時の自分の気持ちは、立派になった慎吾に言っているのではなく、昔ともに励んだ慎介に向かっていた言葉だった。
 その時の自分の気持ちを少しでも慎吾が感じてくればと、美子は祈るばかりである。

 しかし、この時から慎吾は何か彼女に感じるものがあった。それまで彼と共演していた多くのタレントや女優とはどこかが違っていた。あの雰囲気、あの言葉遣い、どこかで聞いたような気がするのだが、思いだせない。

 何日かの通し稽古が終わって、いよいよ舞台の上演の日がやってきた。
 初演の日には芸能関係のマスコミも押し掛け、カメラマンはレンズを向けていた。いまや人気絶頂の慎吾の初舞台ともなれば、評判になるというのもうなずける。

 慎吾のファンだと言う女性たちも多く駆け付けていた。 十分にリハーサルを積んだおかげで、舞台では順調に運んでいた。そこでは或るシーンが始まっていた。雪子を裏切って捨て、立派に大成した憲二がふとしたことでその雪子と再会し、彼女に許しを請う場面だった。それが最大のハイライトとなるシーンである。

「雪子、許してくれ僕が悪かった、僕はいつも君のことを思っていたんだ、君を裏切って、君を捨てて……でもいつか会って必ず君に謝りたいと思っていたんだよ」

 今は立派になった憲二が、再開した雪子に許しを請う場面である。

「憲二さん、そんな気持ちを持っていたのなら、なぜもっと早くその言葉を私にかけてくれないのですか?」

「すまなかった、許してくれ、雪子」

 舞台の中央には慎吾と美子が気魄のこもった演技をしている。薄暗い舞台の上からはスポットライトがその二人を照らしていた。

「でもいいの、憲二さんがこんなに立派になったんですもの、私はそれだけで充分、あなたに会えたのですから」

 その時の雪子役の美子の眼は泣いていた、その眼からは大粒の美しい珠のような涙が溢れていた。美子を感じ、じっと見つめる慎吾の眼にも熱いものが溢れて涙で目が霞んでいる。こんなことは慎吾は初めてだった。

 何故かこの言葉が慎吾の胸の中に浸みてくるのだ、まるで今までの自分のように。すると、美子の輪郭が涙でぼやけてよく見えない。

「では君は僕を許してくるのかい?」
「そうよ、立派になったあなたを見ただけで私は充分」

 慎吾の涙の目の前にうっすらと浮かんで見えるのは、新川美子ではなく、何故か昔自分が捨てた美子の声と懐かしい顔だった。

(あっ! き、君は……昔の美子?)

 慎吾は小声で言った、その言葉は二人以外には誰にも聞こえなかった。
 美子は微笑みながら軽くうなずいた。

(そうよ、私はあの時の美子です、慎介さん、頑張ったわね、私はこれで良いのよ)
(あぁ、ダメだ、混乱していて台詞(せりふ)が言えない!)

(そんなこと言わないで、負けないで、お願い、あそこからでしょ、私が助けるわ、さあ、続けましょう、慎介)

(わかった、ありがとう、美子)
「もう僕は君からは逃げない、君もそんな僕を見守って欲しい」
「分かったわ、憲二」

 観客は舞台の上の二人をじっと見守っていた。
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