第1話  華々しいデビュー 

文字数 2,321文字

 その年の夏は暑かった。全国的に襲ってくる熱波は各地を襲っていた。その為に体力のない老人等は熱中症で亡くなり、さらに涼を求め、海で無謀に遊ぶ子供達は海神の怒りに触れ、海底に引きずり込まれ命を落とす者も少なくない。
 その夏の異常さは、何かが起きているような予感さえするのである。

 しかし、そのような季節の中で、慎吾は最近急に売り出してきたタレントだった。彼は長髪で甘いマスクの上にニヒルさをも持ち合わせていて、一度脚光を浴びると一気にスターダムにのし上がり人気者となっていった。
 それは慎吾の背が高く細身であり、その美貌がずば抜けていたからである。ただそれが容貌だけではなく、何か他のタレントにはない知的な要素も持ち合わせていたからだ。

 それも無理に自分で誇示しているわけでもなく、自然に、たまたまそういう結果になったように見えた。それが更に彼の人気に拍車を掛けていたのである。しかし、後で分かることだが、それも彼なりに緻密に計算されていた。
 彼が時たま見せるように、微笑み笑いかけると白い清潔な歯がこぼれ、女性ファンの多くを痺れさせた。その魅力に惹かれ、一流メーカーの歯磨きのCM等で採用されたこともある。不思議なことに、そのCMでは彼は不自然に決して笑ったり媚びたりはしていない。その中で彼は一言の言葉も発していなかった。
 CMの撮影に於いて、その部屋は清潔な白一色で統一され、彼は白い机の前で椅子に座っていた。彼は腕をまくり、胸を開き白い清潔なハイカラーのシャツ一枚だけのシンプルな姿だった。もちろんブレスレットやネックレス等の装飾品は一切身につけていない。そのCMのバックグラウンドは、女性歌手が歌うファルセットの甘いメロディーが流れ、メーカーの洒落れたロゴのみを流すというシンプルな映像だけであり、それと一緒に彼の顔のアップを映し出していた。

 さらに、カメラは机の上に肘を付き、顎を手に乗せ一点を見つめている彼の姿を写していた。その彼をカメラは舐めるように、三六〇度ひたすら十五秒間をスローで写すのみである。カメラが真正面に来たときだけ意識したように彼の神秘的な目が光り、白い歯を少しだけ見せるのだ。
 少し照れたような、微笑みというよりも薄笑いに近い。
 彼の視線を感じた女性達はドキリとする。まるで恋人に見つめられているような気持ちになるのだろうか……。カメラがその位置から少し廻ると、彼はもう笑っていない。その対比に女性は心ときめかせる。こういう気障なシーンは、普通のタレントのCMではあまり採用はしない。これは、彼の飾らないさり気ない雰囲気を狙ったシーンだったが、この演出は彼が自ら提案し、彼は自分がどのアングルが効果的なのかをよく理解している。
 しかし、彼のこの短いCM登場で売り上げが倍増したのも事実だった。今でも彼のファン層は厚く小学生から中年の女性層まで伸びていた。

 それを、意識的に見せると感じる彼を嫌う人もまた少なくない。いわゆる彼の評価は両極端なのだ。彼の個性は、今までにもてはやされ、愛嬌を振りまくアイドル・タレントとは違っていた。決して媚びることはせず、かといって人を小馬鹿にしているわけでもないのだ。それは彼の中で緻密に計算されたテクニックなのだろう。まことに心憎い演出である。その笑顔の中に、どこか冷めたクールな顔が覗いている。
 更に、あまり知られてはいない劇団出身という彼には演技力があり、それだけでも他のタレントと一線を画していた。映画や舞台やCMなどの要請は引きも切らなかった。
 だが、彼は安易な妥協はしない。そんな人気を持つ慎吾だが、彼の出自が証されることはなかった。何故か彼は謎が多いタレントだったし、それを意識してか彼も多くを語らなかった。或る女性週刊誌などが執拗に彼の正体を暴こうとしたが、徒労に終わり証されることはなく、それがよけいに彼を神秘化させていた。
 しかし、その慎吾には誰にも言えない秘密があり、言い換えれば知られたくない秘密でもある。彼がそこまで成功出来たのは、彼を支えてきた或る女性の存在があったからで、遡ること数年前に、彼はその彼女を踏み台にしてのし上がってきた人には知られたくないその過去だった。彼の成功は、その女性の真摯で大いなる犠牲で成り立っていたのだが、しかし彼はその女性の恩に報いていないばかりか、裏切ったのである。

 故に、彼は常にその影に怯えていた。それは慎吾が、彼女に後ろめたい気持ちを持っているからであり、或る事実、それは彼自身が誰も知られたくないその過去があったからである。忘れたい……そのことを。

 慎吾はその恩ある彼女が生きているのか、又は死んでいるのさえ知らないし、知ろうとも思わなかった。言い換えれば彼女のその存在が怖ろしく、消滅して欲しいとさえ思っていたからである。
 栄光の影で、女性の影に怯えているのは事実だった。今売り出し中の慎吾の写真集が売り出された時、大手の出版社主催による各地のサイン会があった。慎吾は山と積まれた写真集を前に、客との対応を非常に気にしていた。客の中にその女性がいるかいないかをいつも気にしていた。
 客の中にその人物がいて、じっと冷たい目で見ているのではないかと思うと、胸が苦しくなり心の動揺が抑えられなくなってきて、額から汗が滲んでくることがある。
 故に彼はこの手の出版サイン会が嫌いだった。しかし、それを断るとせっかく出てきた人気に影響が出ると思えばこそ我慢をし、無理して笑顔を装うとき、スタッフはそれを彼一流のスタンスだと理解している。そんな彼の心を知らないファンは、延々と列を作り彼のサインと握手を心から望んでいた。
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