第24話 夜のアトリエ

文字数 3,409文字

 百貨店では小さなアクアマリンが付いているシルバーの指輪を選んでいた。もっと高額な素材のものでも買えたのに「ちゃんと毎日磨きたいから」と言って銀製品にした。小さな箱に入れられた指輪を嬉しそうに何度も紙バックの隙間から覗いている。
「今日は…ちょっとまともなところに泊まろう」
「え?」
「だって、誕生日なのにカビくさいのは…。後、ケーキも買って」
「奏太…でもお金…」
「結構、いい働きしてるんだ。それに百貨店でのアルバイト代も使ってなかったし。高級ホテルってわけには行かないけど」
 大きな駅の近くに旅行代理店があって、そこで当日の宿を手配してもらえる。僕はそこでお願いをして予算内でなるべく感じの良いホテルを予約してもらった。受け付けてくれた人がたまたま店長だったみたいで「彼女の誕生日なの?」と言って、「空き次第だけど、なるべくいい部屋にしてもらうね」と言ってくれた。 
「みんなにお祝いしてもらってるみたいで、嬉しいな」と素直ににこにこしていた。
 遼子に会って、僕は初めてしてもらうことより、してあげることの喜びが大きことを知った。こんなに喜んでもらえることが本当に嬉しかった。
「幸せだな」って僕が言うと、遼子は不思議そうに笑った。
「奏太が? どうして?」
「君を笑顔にできたから」
 すごく驚いた顔をして、少し泣きそうな顔になった。店長が戻ってきて、お金をそこで払って旅行代理店を出た。夕方になっていたけれど、アトリエのレンタル時間までまだ少しあったからお茶をすることにした。コーヒーショップのチェーン店に入る。僕はアイスコーヒー、遼子はアイスミルクティを頼んだ。
「ここは払わせて」と言ってくれたので、僕は荷物を持って、席で待っていた。
 土曜の夕方の店内は混雑していた。画材とキャンバスは嵩張る上に、そこそこ重たい。荷物を置くと、体がすごく楽になった。遼子がゆっくりとオーダー品を運んでくる。
「少し疲れたでしょ?」
「…そうだね。でもモデルをしなきゃいけないから、頑張るつもり」
「私…奏太に会えて、本当によかった。こんなに綺麗な人に会えて」
「えぇ! 綺麗って」
 思わず僕はコーヒーを吹き出しそうになった。
「奏太はわからないの?」
「全然…。わからない。綺麗…って、どこがでしょうか?」とぎこちなく訊いてみた。
「…心が透明で…透き通ってて…。プレゼントも何もかも私のことを思ってくれてて…。私には勿体無いと思ってる。私はそんなに綺麗じゃないから」
(何を言ってるんだ? 遼子が綺麗じゃないなんてことはないのに)と思ったけれど、何となく言えなかった。
「遼子が何を思ってるのか、正直分からないし、辛いことも分かってあげられないけど…。今、君が好きで仕方がない。だから勿体無いなんて思わないで欲しい」
 遼子が手を伸ばして、僕の手に触れた。
「奏太に触れていると、私も綺麗になる気がする。奏太と一緒の時の私が好き。心地良くて…でも奏太には届かない気がする」
 僕は反対側の手で、遼子の手を上から包み込んだ。
「届かないかぁ…。じゃあ、待ってて。僕が届けるから。それに僕には届いてる。君には好きな人がいて、…でも僕も好きになってくれてるって。その気持ちがほんとだって分かってるし」
 それには返事せずに遼子も僕の手の上に手を重ねた。不毛な恋を二人ともしていた。
 
 日が長くなったとはいえ、七時になるとさすがに薄暗くなっていた。部屋の灯もつけずに遼子は無言で素早くイーゼルをセットして、用意を始めた。服を脱いで待つことにした。もうつべこべ言わずに全部脱ぐことにした。
「真っ直ぐこっちを向いて立っててくれる?」
 絵を描いてる時の遼子は不思議といつもと雰囲気が違う。僕に対して、ある意味遠慮がない。物を見るような視線で、恥ずかしいと言うより、何もかも見ようとしているのか、ちょっと怖い。そこには僕の入れない彼女の世界があった。笑顔ひとつなく僕を見る彼女は普段だったあり得ないことだった。
 部屋の暗さが増していく。遼子は何も喋ることなく手を動かしていた。紺色の世界がゆっくりと黒色に変わっていく。ほのかに明るいのは外の街灯かもしれない。このまま暗い部屋で体が溶けてしまうような不思議な感覚だった。ずっと動けないので、手足が痺れてきている感覚もある。
「あ、休憩忘れてた。ごめん」と遼子は慌てて、言った。
 絵描の遼子の世界が壊れて、元の遼子に戻ったようだった。
「疲れたでしょ? ちょっと座って」
 僕は背伸びをした。ただ立っているだけなのに、足も痺れて動かしにくい。その場で足踏みをしてみる。
「奏太…」
「え?」と僕が遼子を見ると、恥ずかしそうに顔を背けた。
「えぇ? 今まで散々、見てたよね?」と僕は思わず大きな声が出た。
「…そうなんだけど。動くと…生々しいというか」
 そう言われると、僕も恥ずかしくなって、ちょっとどうしたらいいのか分からなくなる。真っ暗だから見えないかと思うけれど、意外と目が慣れると窓から入るわずかな光でも物の形が浮かび上がる。慌てて下だけ履くことにした。
 そして遼子の絵を見にいくと、前回より僕の姿がきちんと描かれていて、誰が見ても、僕だとわかるくらいそっくりに描かれていた。
「え? これ…いつ描いたの?」
「家でちょっとずつ描いてたの。奏太の写真、撮ってたでしょ?」
「あ、あれ…」
「この絵は奏太にプレゼントするね。大きいの描き上げてからだけど。でも…秋には渡せると思う」
 自分で自分の裸の絵をどうやって扱っていいのか分からなかった。家に飾るのも抵抗がある。
「タイトルは『美しい人』なの。ぴったりでしょ?」
 一つのキャンバスには光あふれるアトリエで横向きで座っている僕、もう一つは真っ暗なアトリエで線だけで描かれた僕に黄色い光が飛んでいた。
「大きい絵はね。もう一枚足そうと思って。全部で三枚。それは後ろ向いてて、振り返ってる奏太。スケッチブックだけの絵だけど…背景を含めて、どう言うふうにするか考えているところ」
 絵の説明をしている遼子は本当に生き生きしていて、絵が好きなのがわかる。
「すごいね。僕は本当に芸術のことは分からないけど…。自分がモデルになっているからそこは微妙な気持ちだけど。…でもすごい才能だと思う」
「ありがとう。休憩、もういい?」
 また冷たい目で僕を見始めた。
「下…描かないんだったら、このままでいいのかな?」
「うーん。そうなんだけど…そうすると、奏太の気持ちが変わるでしょ?」
「まぁ、安心感があるけど」
「できれば脱いで」
 遼子は一体、何を描こうとしているんだろう。芸術家の思うところはさっぱり理解できない。僕はため息を付いて、そして諦めた。そうして休憩を挟みながら、ようやく完成したらしい。終わった後、背伸びをして、痺れた足を解消するために足踏みをした。それから遼子を見ると、また顔を逸らした。全部脱ぐ必要性が本当に分からない。
 不意にスッと部屋がほの明るくなった。窓の外に満月が浮かんでいる。
「月の光って結構、明るいんだね」と僕が言うと「早く着替えて」と言いながら画材を片付けていた。
 画家の遼子はなかなか厳しい。言われた通り服を着ることにした。物凄い勢いで片付け終わると、時計を見て「あと五分」と言った。レンタルの時間が迫っていたようで、急いでいたみたいだった。僕は画材を持とうと屈んだ時に遼子に耳にキスされた。
「ありがとう」
 お礼を言うのに唇が当たっただけかもしれない。僕は遼子を見た。
「奏太の身体…素敵だった」
 月の光でほの明るく照らされた遼子の方が素敵だと思った。
「急いで。鍵閉めて、返さなきゃ」と言って、二人で慌てて部屋を出た。

 人生で初めてモデルをしたけれど、二人きりの空間はものすごく静かで、距離を感じさせない不思議さがあった。遼子はいつもの遼子と違っていて、僕は本当に置き物のような扱いだったと思う。それでも夜のあの時のモデルは何か特別な気持ちになった。静かで真っ暗な中、二人、話すこともなければ触れることもない。でも確実に遼子は僕を見ていたし、僕は何もかも曝け出していた。それは外見的なことだけじゃなく、内面まで覗かれるような、でも少しも嫌な気持ちにならなかった。遼子と一緒だった時間はどれも本当にかけがえのない時間だったけれど、古い部屋の一室で画家とモデルという関係でいた空間…あれだけは特別な思い出だ。
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