第25話 彼女の宝物

文字数 3,200文字

 目が覚めて、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。ホテルの一室。綺麗なベッドの上、そして時計を見た。十一時三十分。僕は体を慌てて起こした。隣で遼子が濡れた髪のまま眠っている。間に合った、と慌てて、シャワーを浴びに向かった。
 アトリエを後にして、僕たちは晩御飯を食べに行った。前に遼子が言っていたスパゲティの行列ができるお店に行った。遅かったせいで、少し待ったが、メニューを見て、何にするか考えているだけで、時間は過ぎていった。でも見たこともない味がたくさんで、一体どれがいいのか分からないから、最終的には遼子に任せることにした。大皿でくるから、二人でシェアするスタイルだった。あと、ピザも頼んで、ちょっとワインを飲んだのがダメだったのかもしれない。お腹いっぱい食べて、ケーキを買おうと、繁華街に行った。そこには夜のお店に差し入れするための夜遅くまで開いているケーキ屋さんがあったので、ケーキを買って、花屋さんも空いてたから花束も用意して、大荷物を抱えて、ホテルに着いた。そして部屋について、荷物を置いて、一息ついて、遼子がシャワーを浴びているときに僕は眠ってしまったみたいだった。
 シャワーを浴びながら、誕生日前に目が覚めて本当によかった、と心から思った。朝早くから配達していたし、あちこち歩き回ったり、モデルしたりと疲れたし、お酒も入っていたので、多分、うっかり眠ってしまったのだろう。言い訳はともかく、遼子に起きてもらって、謝まろうと思った。超特急でシャワーを終えて、歯磨きまでした。ホテル備え付けの頼りない浴衣のような寝巻きを着て、ベッドで寝ている遼子の横に行った。どうやって起こそうか悩む。
「遼子…ごめん。誕生日が来るよ」
 声をかけてみたが起きる気配がない。髪の毛が濡れているのが気になったので、タオルを持ってきて、そっと撫でた。
「かぜ…引くかな」
 寝返りをうつように体を動かして、遼子は大きく目を開けて、僕を見て、にっこり笑った。
「ごめん。寝てしまって」と僕は謝った。
「モデルお疲れ様」と言って、体を起こす。
「でも誕生日前に起きれたから、間に合う。ケーキ開けよう」と僕が離れようとすると、寝巻きの袖を引っ張った。
「キスで起こして」と言って、また寝転んで目を閉じて、胸の上で手を組んだ。
 濡れた髪がベッドの上に広がって、まるで絵画のようだ。僕は思わず見惚れてしまった。同じ寝巻きを着ているのに、僕のぼんやりした姿とは全然違う。もし僕が画家だったら、今の遼子を描いただろう。呆然としていた僕に待ちきれなくなった遼子が目を開けた。
「奏太?」
「遼子が綺麗で…」
 キスできなかった、と言い終わる前に、遼子が体を起こして、僕にキスをした。
 息が止まるかと思った。
「待ってたのに。ずっと待ってたんだから」と遼子が何度もキスをしてくる。
「ごめん。寝てしまって…」
 そう言って、僕は遼子を抱きしめた。
「いいの。起きてくれたから…。でも私は奏太に触れていたいの。ケーキより」
 僕はケーキに蝋燭つけて、誕生日の歌を歌って、蝋燭の火を消すというスタンダードなお祝いをしようとしていた。小学生かな…と心の中で呟いて、笑った。
「どうしたの?」
「ううん。お誕生日の歌を歌うつもりだったから」
 そう言うと、遼子も少し笑って、「でも聞きたい」と言った。ケーキに蝋燭の火は灯さなかったけれど、僕は遼子を抱きしめながら、誕生日の歌を歌った。音程がずれていたかもしれないけど、二回繰り返した。僕の胸にぴたっと耳をくっつけて聞いていた。
「ありがとう。すごく嬉しい」
「あ、もうすぐ日付が変わる」と言って、ホテルの時計を見ながら二人でカウントダウンをした。
 僕は誰よりも早く、遼子に「お誕生日おめでとう」と言えた。そして何度も、何度も伝えることができた。肌と肌が触れ合って、湿度が上がる。それでも離れたくなかったし、遼子の手は僕の背中を引き寄せた。

 僕が遼子の髪を撫でていると、少し体を起こして
「奏太…。指輪つけてくれる?」と言った。
「うん」
 ベッドから出て、テーブルの上に置かれた小さな紙バッグを持ってくる。小さな箱にはアクアマリンのついた銀の指輪が入っている。
「私、銀の色が好きなの。白っぽくて…。すぐくすんでしまうけど。でも毎日磨くね。くすまないように」
 僕はベッドの上で、遼子の手をとって、指輪をはめた。細い指にとても似合っていた。
「綺麗だ」
「…本当にありがとう」と言って、抱きついてくれる。そして僕の誕生日も聞いてくれた。
「もう過ぎちゃったんだけどね」
「そうなんだ。奏太は何かプレゼント欲しいものある?」
「前に…もらったから。絵の具セット。…まだ開けれてないけど」
 特に欲しいものとか、必要なものはなかった。一体、僕は何が欲しいんだろう、と真剣に考えてみた。それすらもなかったら、本当に何もない空っぽかもしれない。僕が心から望むもの…。
「欲しいものよ? あれは私が勝手にあげたものだし、モデル代だから…」
「…あった」
「何?」と僕の顔を覗き込む。
「遼子の笑顔。ずっと笑顔でいて欲しい。もちろん泣く日だってあるんだろうけど」
 遼子の目から涙が溢れ出す。
「あれ? プレゼントくれないの?」
「奏太…。どうして?」
「だって、欲しいものって…。僕は遼子が好きだから、ずっと幸せでいて欲しいし…。笑顔を見ていたい」
 本当にその時は欲しいものがそれだった。
「…私、綺麗な私で奏太に会いたかった。嫌なこといっぱいして…」
「辛いって思うってことは、遼子が綺麗だからじゃないかな。でももういいと思うんだ。自分を責めなくても。僕はそんなこと少しも気にしてないから。それに欲を言えば…本当に百パーセントの気持ちで僕を好きになって欲しいって思う。それだってなかなか嫌な気持ちだし。みんな、多かれ少なかれ」
 話している最中に遼子の唇で口を塞がれた。
「本当に? 私は私が嫌なのに?」
 唇が触れたまま喋られる。
「うん。もういいと思うよ。自分を嫌いにならなくても」
 心まで抱きしめられたらいいのにな、と思って、僕は自分の胸に遼子の顔を持っていった。そしたら遼子は子どもみたいに泣き出してしまった。しばらく黙って、髪の毛を撫でる。ゆっくりと呼吸が落ち着きだした。
「奏太…。泣き顔は不細工だから嫌?」
 僕の胸に顔をつけたまま話出した。
「遼子のどんな顔だって、好きだから」
「…。私も奏太の泣き顔も、笑顔も…寝顔も好き」と最後は少し笑いながら言った。
「ほんと、ごめん」とさっき眠ってしまったことを謝った。
「奏太…が一番好きだから」
 僕は聞き間違いかと思った。黙っていると、顔を上げて、少し口を尖らせて、もう一度言ってくれた。でも信じられなくて、僕の腕の力が抜けた。
「奏太?」
「…どうして?」
「だって…奏太は私の宝物だから」
 この瞬間、世界で一番幸せな男だったと思う。
「本当に素敵な…宝物だから」
 そう言って、遼子が僕の首に手を回してくる。
「そんな価値…ないけど…。でも嬉しくて動けない」
 そう言ったら、遼子が笑ってくれた。ようやく動けるようになって、遼子を抱きしめた。本当に嬉しかった。
 遼子の二十二歳の誕生日は僕にとっても本当に嬉しくて、一番幸せな日だった。遼子の家に二人で行って、誕生日のご馳走も頂いた時、遼子のお父さんは娘が外泊した後、二人で帰ってきたので、ちょっと苛々した様子だったけれど、それすらも気にならないくらい僕は本当に幸せで、ずっと顔が緩んでいたと思う。一体、誰の誕生日なのかっていうぐらい僕は浮かれていた。誰かの代わりだと思っていたのに、遼子の一番になれて言葉にならないくらい感動していた。
 家に帰るまで我慢していたけれど、家についた途端、僕は両手を上げて、天井に向けてガッツポーズをした。近所迷惑でなければ犬のように遠吠えだってしたかった。
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