第1話 三十年前の僕

文字数 2,445文字

 今から約三十年前の話。バブルが崩壊して、一気に不景気になったという頃に、大学四回生の就活に苦しんでいた僕の想い出を書きたいと思う。別に氷河期について書きたいわけじゃない。一々、こう言うことを前置きで書いたのは、今と情勢が違うから、三十年前ってこんな感じだったんだ、と理解してほしい。随分、変わっていることも多いし、スマホは残念ながらなかった。ポケベルは廃れてて、ピッチという携帯電話を学生は持っていた。そんな時代。

 SNSやアプリが無いから、誰かと出会うのも、全く知らない人や、遠くにいて本名も顔も知らないのに誰かと仲良くなるようなことは不可能なんだ。だから誰かと出会えるって本当に奇跡だって思える。偶然が重なって、同じ空間にいて、出会えた時代だったんだ。倉田遼子というちょっと変わった画家を目指している女の子に。

 家を出ていった母の仕事だった牛乳配達を僕が引き継いで、大学時代はいつも暗い時間に起きていた。まさかずっと続けるわけには行かないので、四回生になる頃はだいぶ契約を減らしていた。それでも足の悪い人や、年配の方には喜んでもらえるので、全てをすっぱり切るわけには行かなかった。アルバイトと思えば人に気を遣うこともないし、先輩後輩という煩わし関係もない。合コンでは冗談で「経営者です」なんて言ってみたりできる。
 今日も早い時間に起きた。慣れてしまえばなんてことない。さっと顔を洗って、着替えた時に、玄関が開く音がした。びっくりして、廊下を覗くと、姉の千佳だった。
(いわゆる…朝帰り)と心の中で呟いたら、姉と目が合った。
「奏太、チクったら、殺す」
(チクらなくてもバレるでしょ? 夜いないんだから)と震えた。
 そのまま階段を上がるかと思ったら、ずんずんこっちに近づいてきて、「パン、焼いて」と言われた。命令である。
「コーヒーも?」と聞くと、当たり前だと言わんばかりに、頷いた。
 トースターにパンを放り込み、薬缶を火にかけて、マグカップにインスタントコーヒーの粉を放り込む。千佳はダイニングの椅子に座ったきり、女王様のように動かない。お湯が沸き次第、マグカップに注いだが、「牛乳」と言われてしまった。
「僕は牛乳じゃない」などと言えるはずもなく、冷蔵庫から牛乳を取り出して、いれる。
 焼けたパンをお皿に乗せると、流石にバターは自分で塗っていたが、横暴極まりない。女帝に気を遣っている時間はないので、僕はコーヒーでパンを流し込んで、仕事に向かうことにする。
「ちゃんと噛んだ方がいいよ」と女帝の声を聞いた時には塊が喉を通過して苦しんでいた時だった。
 これ以上の奉仕はしたくないので、逃げるように表に出た。かごに牛乳をつめて、自転車の台に乗せる。まだ明けてもいない街は眠っているように静かで、まったりとしていた。その中を僕はペダルを踏んで、朝を迎える。瓶がカチャカチャ音を立てるのが心地いリズムだ。朝早起きするのが面倒なだけで、この仕事は嫌いじゃなかった。
 
「ごめんね。もうこれ以上はここにいるの無理なの」
 そう言って、母は家を出ていった。姉は口をへの字に曲げていたし、父は眉間に皺を寄せるだけだった。僕は情けないことに、母の後を追って、玄関まで何となく見送りについて行った。
「…体に気をつけて」と間抜けなことしか言えなかった。
「ありがとね」と母は振り向かずに、そのまま出ていった。
 確かに僕は自分のことしか考えてなかったし、ご飯の後片付けもしなかったし、洗濯だってしたことがなかった。母がいるから、僕は何にもしなかった。その上、その気持ちなんて少しも思ってみなかった。母がいなくなって分かる。こんな家、いつか出ていってやる、と僕だって思う。千佳は女帝に君臨し「あんたは働いてないんだから、掃除、洗濯、お願いするわ」と僕に押し付けた。
「その代わり、ご飯は作ってあげるから」と言われてたが、姉も仕事なのか、デートなのか分からないけれど、僕のお腹空いている時間に家にはいなかった。
 当然、父もいない。結局、何か買うか、食べて帰るか、自分でラーメン作るか…ということになる。僕だけが苦労している…と思って、初めて母の気持ちになった。母は毎食、ご飯を作ってくれてはいたが、みんな揃って食べることも無くなった。僕は食べるだけ食べて、部屋にこもっていたし、母がどんな表情(かお)をしていたのか、実は記憶にない。母が何か話しかけていたのも上の空で生返事しか返していなかった気がする。

 だから僕は母が家を出たのは理解できる。寂しいけれど、理解はしてる。そして僕もこの家をさっさと出ようと考えている。千佳だって、結婚していなくなるだろう。父一人になるけど…、何とかできるだろう。
 家族なんて、一時期だけ同じ場所にいるだけの関係で、特に気の合う人間でもないのに一緒にいるんだから、仕方ない。
(あれ? 両親は気があって結婚したはずなのに?)
 好きで結婚したはずなのに…いつから、好きじゃなくなるんだろう。そんなに好きじゃなかったのかもしれないな。でも今更そんな話を父に聞くわけにはいかない。
 僕は随分、大人になった。だから親がいなくたって、やっていける。もう小学生じゃないんだから、と何度も言い聞かせて、夜は少し泣いた。
 お別れはいつだって、誰とだって悲しいものだから。

 母がいる時だって、千佳は偉そうだったけど、いなくなったら、さらに偉そうさに磨きがかかった。だから僕は女性に対して、何の夢も憧れもない。デートは適当に何度かするのだけど、そこから続かない。牛乳配達があるから夜遅いのは辛いので、とても健全な時間にいつも帰る。最悪だったのは、クリスマスのイルミネーションを見に行っても、僕が時間を気にしてしまって喧嘩になって終わったことだ。全面的に僕が悪い。たくさんの女の子とデートしたけれど、彼女と呼べる人がいたのは数人だけで、それも二ヶ月も続かなかった。恋愛はもうできる気がしない。
 ただ…今は早く就職をして、家を出たい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み