第19話 茶色い弁当と白い雲

文字数 5,748文字

 ゼミでの研究発表の準備を何もしていないことに気がついた。教授も「就職活動で忙しいとは思いますが、各自進めておいてください」と最後に念を押された。深いため息をついて、ノートを閉じた。教授に家庭の事情でゼミ合宿には参加できないと言うと、ものすごく憐れんだ目で「うん。うん。どうしても無理なら仕方ないね。何かできることがあったら相談に乗るからね」と言われてしまった。垂れ目で少し犬のチンに似ているから余計にそう思ったのかも知れないけれど、誤解を解くのも面倒なので、「ありがとうございます」とだけ伝えた。
「新田君、この前の百貨店のバイトだと足りなかった? もしよかったら…夏のお中元も」
「いや、流石にもういいよ。就活もしなきゃいけないし」
 高田藍が横からきたので、即座に断った。大体、あのバイトの時給を知っているのだろうか。文句を言いそうになったので、慌てて鞄に筆記用具をしまった。
「就職、決まりそう?」
「…まだ。これから何社か申込する予定だけど。夏までに決まったら早い方なんじゃない?」
 暗に就職活動をしていない人にはわからないだろうという苛立ちを含めて話したが、予想通り伝わっていなかった。
「そうなんだー。夏はアメリカのディズニーランドに行こうかなぁって友達と話してて。現地で生の英語も使えるし、勉強にもなるでしょ?」
「そう。いいね」
 ランチの約束があるから、僕は急いで教室を出たいと思って、鞄を肩にかけた。
「新田君、あの芸術の子と付き合ってるの?」
 何か言いたげな顔で僕を見た。
「私、見たんだよね。あの子が、先週だったかな。年配の男性と歩いてたの。それで…」と言いにくそうに、でも言いたそうに口を動かす。
 藍の友達らしき女子数人がこっちを伺いながら、ひそひそと話しをしている。
 僕は真っ直ぐ高田藍の方を見た。
「歩いてただけ?」
「ううん。場所がちょっと…、ホテルのロビーだったから。私は友達とケーキ食べてたのよ。…でも…援交してるのかも。だから友達として忠告したくて」
 友達…か。便利な言葉だな、と僕はぼんやり思った。
「いつから?」
「え? それは…」
「いつから僕たち、友達だっけ?」
 そう言って、背中を向けて、僕は教室を出ていった。友達って一体、なんなんだ。どこかに遊びに行ったこともなければ、お昼だって食べたことないのに。後ろで「藍、大丈夫?」「ひどい」とか言う声が聞こえてたけど、あれがいわゆる彼女のお友達の声なのかな。今までの僕ならきっと事なかれ主義で、あんなこと言わなかったと思うけど、無性に腹が立ってしまって、うっかり嫌なことを言ってしまった。自分を嫌悪する気持ちと同時に高田藍の目撃情報についても精神が抉られた。
 約束の時間だと言うのに、足が鉛のように重くて、急げなかった。

 結果、遼子を待たせてしまった。僕を見ると、嬉しそうに手を振る。今日は髪を左右で二つくくりにして、ジーンズのサロペットを履いているから、少し幼く見えた。芸術科のキャンパスは一般道路を越えないと入れない。信号待ちも長い時間かかった。だから早く行きたかったのに、ここまでくるのに、ものすごく遠く感じた。
 僕も手を振り替えして、駆け寄る。
「あっちの校舎の階段が日陰になってるから」と言って、ニ階建ての校舎を指差す。入口までに数段あって、腰をかけるのにちょうど良さそうだった。
「朝からお母さんと一緒に作ったの」
 遼子が恥ずかしそうに言うのを僕はどんなふうに見てたんだろう。
「…何かあった?」
「え?」
「なんだか、疲れてる?」
「…ううん。無断外泊怒られて…そこから、卒論を何もしてないこととか…、お中元のバイト断ったり」
「えぇ? 怒られたの? 卒論はわかるけど、お中元のバイト? って」
 横で目を白黒させている遼子に一番、聞きたいことは言えなかった。
 階段に腰掛けて、遼子がお弁当を渡してくれる。
「うわ」
 色とりどりのおにぎりに、卵焼き、小さなハンバーグ、ブロッコリー、ミニトマト、ウィンナーはタコの形をしていたが、足は四本だった。りんごのウサギも入っていた。
「こんなの、食べられないよ。勿体無くて…」
 手作りのお弁当なんて、何年ぶりだろう。高校の頃に母親が毎日作ってくれてたものは、もっと大きい箱にぎゅうぎゅうにつめられて、おかずの品数は少なくて、もう少し茶色い彩りだった。
「奏太?」
「え?」
 僕は遼子を見たら、心配そうな顔をされた。そして慌ててポケットからハンカチを出された。
「あ」
 気がついたら、泣いていたみたいだ。
「お茶買ってくるね」と言って、そのままハンカチを渡して、遼子はどこかに行ってしまった。
 遼子がいなくなると、お昼休みだと言うのに、学生数が敷地に対して少ないのか、静かでのどかな空気が流れている。空を見ると、白い雲がふわふわと浮かんでいる。僕が泣こうが笑おうが、白い雲の行列はふわふわと風に流されていく。階段の手すりに体をもたせかけて、空の雲を眺めていた。
 僕にあの雲のように感情がなければ、幸せになれたかもしれない。でも感情がなければ、そもそも幸せもないかもな、と訳のわからないことを考えていた時、急に後ろの扉が開いた。驚いて、お弁当を落とさなかったことは褒めてあげたい。
「うわっ。びっくりした」と後ろにいる人物は声を上げた。
 そっと首を後ろに向けると
「なんや。ソーダやん。何してんの? センチメンタル全開な顔して」と森本肇がいた。
「今から」と言いかけた言葉を切られて「それ、遼子ちゃんの鞄やん。え? 何、そのお弁当。ソーダの手作り?」と言って、覗き込まれた。
 答えようと口を開けるたびに、森本肇が先に喋り出す。
「え? まさか。遼子ちゃんの手作り? …と言うことは、んー、見えてきた、見えてきたぞ」
 そして僕の顔を見て、大げさに眉毛をあげて、口に手を当てる。
「もしかして付き合っておられるのか?」
 僕のことを下手くそだと言った割に、芝居がかっている。森本肇はしゃがみ込んで、僕の顔をじっと見て、
「黙秘か」と言った。
「ちょっと、喋る前に全部一人で喋ってるけど?」
「いや、今度、新しい脚本を書こうと思って。シャーロックホームズみたいなやつ」と頭を軽く振る。
「みたいなって」
「なんか、ちょっと見ただけで、いろいろ推理して解決していくやつ」
「シャーロックホームズねぇ…。あ」
「なんや?」
「卒論、それにしよう。そこから見えるイギリスの生活様式について。監督、ありがとう」
「なんで監督やねん?」
「監督してなかった?」
「演出や。脚本と」
 脚本を考えるにあたり、この人気のない校舎のトイレで考えていたらしい。ずっと頭の中で、そのキャラクターの思考で外に出てきたから、多少おかしい様子にはなるのだ、と言った。
「自分じゃなくて、憑依した感じ? 自分じゃない、その人物の思考回路で考えるみたいな?」と頭の横を人差し指でぐりぐりと押す。
「芸術のことはさっぱり分からないよ」
「まぁ、ソーダはぼんやりしてるもんな」
 そんな話をしていると、遼子が手にお茶を持って走ってきた。
「あれ? 森本君? 何してるの?」
「お茶、二本…。もしかして、それは一つはソーダのもの? やはり二人は付き合っているのだな。でも女の子にお茶を買いにいかせるなんて、そんな男はやめた方がいいぞ」
「森本君、なんか変だけど? また成りきってるの?」
 芸術科の人には驚くことではないらしい。
「私の分のランチはあるのかな? コンビニで調達して来いと? 分かった。ここはコンビニも学食も遠いからなぁ」と一人で話して、去っていった。
「戻ってくるかな?」
「さぁ…。もう時間もないし、どうだろう」と遼子は腕時計を見た。
「ごめん。お茶まで買ってきてくれて」
「ううん。大丈夫?」
「うん。この綺麗なお弁当見てたら、高校の時のお弁当を思い出して」
「お母さんの? 比べられたら困る」
「それが…もっと品数が少なくて、ご飯がぎゅうぎゅうに詰まってて、茶色い弁当だったんだ。バスケ部だからお腹空くだろうと思ってたからかな。こんな綺麗なのとは比較にもならないやつで。ご飯の上に豚生姜焼きがどーんと乗せられて、きゅうりの漬物が横にあった。それだけ。そんなやつ。当時は当たり前のように食べてたけど…。なんか懐かしいな、と思って」
「今度はそういうの作るね」
「そしたら、号泣して食べれなくなる」と言って、僕は笑った。
 横で遼子のお腹が鳴った。
「ごめん。待たせたのに。食べていい?」
「もちろん」
「いただきます」と言って、卵焼きに手をつけた。
「美味しい」
 遼子は嬉しそうに笑って、ちょっと舌を出した。
「最初、卵焼きは失敗して焦がしたんだけど、それはお父さんのお弁当に入れたから」
「今度は僕がそれを食べたいな」
「よかった。私にも奏太のためにできることがあって」と言って笑う。
 遼子のお弁当は全部美味しくて、綺麗だった。休み時間はあっという間に終わる。
「私、夕方まで絵を描くんだけど、奏太はどうする?」
「森本君のおかげで卒論テーマが決まったから、図書室行ってくる」
「じゃあ、もし時間が合えば一緒に帰らない?」
「あ、今日のお礼にケーキでも帰り食べて帰ろう」
「嬉しい」と言って、僕に抱きついた。
 そしてすぐに腕を解いて、お弁当を片付け始める。僕は洗って返すから、というと、「気にしないで」と言って、お弁当箱を奪われた。
「大体、4時半くらいまで描こうかなと思ってるの。終わり次第、図書室行くね」
「オッケー。また後で。今日は本当にありがとう。美味しかった」
 朝から準備をしてくれた遼子を想像すると、本当に嬉しくなる。高田藍が見た遼子が存在していたとしても、僕は僕の目の前にいる遼子が好きだ、と思った。僕が図書室に向かおうと信号のところで待っていると、向こう側に森本肇が立っていた。
「え? もうランチタイムは終わったん?」と大きな声で話しかけてくる。
 僕は腕時計を指刺して、次の授業が始まることを教えた。
「寂しいから、一緒におってー。俺がご飯終わるまでー」
 物凄い声量で向こう側から話しかけられる。仕方なく、僕が渡り終えた先のベンチに二人で座った。
 昼ごはんと言って買ってきたのはお弁当屋さんの唐揚げ弁当だった。
「ちょっと遠いけど、コンビニより、こっちの方が美味しいねん」
「そうだね」
「俺食べる間、なんか喋ってくれへん?」
「…なんかって」
「ほら、夢とかないの?」
「夢…ってあるの?」
「俺は劇団作りたいねん。自分の。本当にエンターテイメント性の高い劇をして、楽しんでもらいたい。小難しいのじゃなくて」
「劇団って作れるの?」
「わからん。やって見るだけ」
 画家になりたいという遼子にしたって、劇団を作りたい森本肇にしたって、僕には遠い存在だ。
「ソーダは就職するんやろ?」
「できたらいいけど」
「できるやろ。ソーダは」
 そう言って、次から次へと唐揚げを口の中に放り込む。あまりにも豪快に食べるので、唐揚げが食べたくなってきた。
「いつか、劇団作って、上演するから見にきてな」
「…うん」
 現実感のない未来を語っているはずなのに、森本肇が言うと本当に未来に起こりそうだと思う。
「信じてないやろ」
「そんなことないよ。すごいな…と思って」
「俺はソーダがすごいと思うわ。あの遼子ちゃんと付き合えてるんやから」
 それについては返事がしにくかった。今はもう森本肇に対して、悪い感情は持っていなかった。
「遼子ちゃんは美人やから誰とでも付き合おうと思ったら、付き合える。だからベネフィットがある男性とよく一緒におってん。いわゆるステータスの高い男。なんか知らんけど、ごっつい車でよう迎えにきてたわ。まぁ、そういうやつしか、彼女によう『付き合って』って言われへんもんな…。それが毎回違う車と男やねん。目立つからみんな影でいろんなこと言うねんけど…俺はおもろいなーと思って見てた」
「おもろい?」
「だって、一人に決めずに付き合ってんねんで。一体、誰を選ぶんか、とか。最後に残るのは誰かとか。演劇をしている俺としては、人間の心理はものすごく気になるところやねん。だから俺から遼子ちゃんに話しかけてんけど。そしたら、誰も特に好きじゃないって。いろんなものを見せてくれるからって。そろそろ飽きたって言うから、またおもろい子やなぁって。ほんで、クソつまんない絵を描いててん。男にもらった花束とか」
 それがクソつまらない絵かは見てないから分からないが、つい頷いてしまった。
「ほんで、みんなに馬鹿にされててん。男遊びが激しくて、クソつまらん絵を描いてるって。悔しかったのか、そこから美術館に通ったり、画廊に通ったりして…。今度はだんだん暗くなってきて…。確かにちょっと前はお馬鹿な様子も見られたけど、今度は思いっきり反対方向に行ったからな…」
 遼子がみんなに馬鹿にされていたということに驚いた。以前、遼子にノートを返してもらいに行った時、そんな様子はなかった気がするけど…。
「…必死にもがいてる時に、どうなるんやろって俺も流石に思ってたら、ソーダに会ったみたいやな」
 そんな風には見えなかったから、正直、驚いた。
「遼子は好きな人がいるって言ってたけど…」
「へぇ。知らんわ」
「好きになったらダメな人が…いるって。その代わりだと思ってるけど?」
「そんな人、おったんかな? 俺、知らんわ。おるかもしれんけど。俺は知らん。けど今、お前が隣におるんやったら、それでええんちゃう? 四年目にして、あの子、ようやくいい感じになったと思うで」
 森本肇は大きな口を開けて、ご飯を食べる。寂しいから僕を誘ったんじゃなくて、さっきの僕の様子を気にして誘ってくれたのかもしれない。
「…優しいね」
「気持ち悪いこと言わんといて。当たり前やんか」
 そう言って、吹き出しそうになりながら、なんとかご飯を飲み込んでいた。僕はお茶でも買ってきてあげようと、席を立った。
「いらんて」と言ったが、少し待ってもらうことにして、自動販売機に行った。
 戻ってきた時には、ベンチには誰も座っていなかった。僕もそのまま図書室に向かうことにした。授業が始まっている時間なので、校舎内は静かだ。少し眠そうな時間に包まれた。
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