第31話 選択と正解

文字数 5,678文字

 退院後、僕はまず会社の内定を辞退した。辞退理由は詰め込まれたアルバイトのせいではないけれど、入院したことでゆっくり考える時間があったから、僕は自分の人生に初めて向き合った。何がなんでも就職しなければ、と思い込んでいたけれど、ふと力が抜けて、この先の人生を考えることができた。もし遼子と付き合っていたら、僕はそんな選択をしなかったと思う。きっと就職して、お金を貯めて、結婚して、という考えに囚われていた。僕もそういう意味では自由になった。
「しばらく牛乳配達とアルバイトをして、お金を貯めて留学したい」と僕が言った時、家族は誰も何も言わなかった。
 反対もされなければ、特に喜ばれることもなかった。千佳に至っては、「私も仕事やめて、牛乳配達しようかな。体使うから痩せたんだよね」と言い出した。
 それから留学についてゼミの担当教授にも相談した。チンに似た先生は本当に優しい先生で、あれこれアドバイスをしてくれたり、いろんな人を紹介してくれて、僕は留学の情報を得ることができた。アメリカは学費がものすごくかかるので、アルバイトを掛け持ちしようと、恥を忍んで高田藍にお願いした。そこから僕たちは仲良くなったし、西川晶子とも今でも関係が続くようになった。

 土曜日のドイツ語は僕一人の席になった。遼子は急に大学を辞めたようで、担当講師が驚いていた。
「倉田さん…辞められたようですね」と僕に聞いてきた。
 そこで僕も初めて遼子が大学を中退したことを知った。何となく土曜日に会えると思っていたから驚いた。
「新田君は何か聞いてますか?」
「あの…僕も今初めて知ったので」
 ドイツ語のノートももう丁寧にとる必要は無くなった。僕は授業が終わった後、芸術科の方へ足を運んだ。誰か知ってる人がいるといいな、と思ったけれど、今日に限って、森本肇には出会わなかった。勇気を出して絵画の建物の扉を開けた。
 誰もいなかった。イーゼルはあちこちに置かれて、大きな絵がかけられている。遼子が描くと言っていた僕の絵は当然ながらなかった。二階の窓から光が差し込んで、サモトラケのニケの像が白く浮かび上がっている。誰もいないこの場所は物音が無く、埃が日差しに当たって、きらきら光っている。現実世界に思えなかった。遼子と出会ったこと、画材屋での買い物、初めての夜、公園でのキスの写真、真夜中のモデル、遼子の誕生日、そして別れたこと、全てが失われたこと、まるで何もなかったような気になって、自分一人が放り出されたように現実味がなかった。遼子に触れたことも、あの温かさも柔らかさも、失われてしまった。ただここで遼子は絵を描いていたんだな、としばらく眺めていたけれど、誰も来そうになかったので、表に出た。
 ジャングルのようなこの場所もそろそろ秋の気配が漂っていて、銀杏の木は黄色に色づいていた。一緒に拾った落ち葉も、また違う種類の葉になるだろう。僕が別れを告げたのに、未練がましくここまで来てしまった自分に悲しくなった。
 遼子はニューヨークにいるのかもしれない。うまくいくといいな、と思って空を見上げた。この空はずっと遠くの遼子のいる場所まで続いている。どうか笑顔で頑張ってほしい、僕も頑張るから、と空に向かって言ってみた。

 高田藍に紹介してもらったアルバイトは百貨店の鮮魚コーナーだった。時給が一番高いところをお願いしたら、そこだった。
「みんな嫌がるのよね。重たいし、冷たいし、匂いもあるからかな。でも時給はそこが一番いいし、朝一で入りたいなら、そこがいいと思うわ」
「ありがとう」
「同じゼミ仲間のお願いだから…仕方ないでしょ」
「本当、あの時はごめん。ゼミ仲間からよろしく」と素直に謝ることにした。
「…別れたんだ?」
「うん」
 また何か言われるかと身構えていると、高田藍はちょっと目を伏せて
「辛かったよね」と言われた。
 僕を思い遣ってのことか、自分のことを思い出したのか、でもその言葉は温かくて、少し救われた。
「別れるのになんで付き合ったりするんだろ。もう面倒くさい。お見合いで結婚する」とすごい勢いで言った。
「お見合い?」
「そう。もう恋愛なんて面倒臭い。そんなのに泣いてられないし。親にいい人を紹介してもらって結婚する」
「僕は…あんなに好きになれるかわからないけど、…奇跡だと思えるから、また恋愛したいとは思う」
「えー」と思い切り、嫌な顔をされた。
 そしてその後、少し笑って
「いい恋愛できたってことじゃない。悔しいな」と言った。
「そうだね」と僕も笑った。
 そんな話をしていたら、西川晶子も近づいてきて、「あら、お友達になれた?」と笑った。本当に意外なことだけど、僕たちは一緒にランチもするようになったし、卒業後は恋愛相談も受けるようになった。お見合いと言っていた高田藍は結局は職場恋愛を経て結婚をしている。西川晶子はいつも誰かといるが、結婚は考えていないみたいだ。
 僕も数人と付き合ったけれど、僕の生活が不安定すぎて、結婚まで至らなかった。いや、原因はそれだけじゃない。誰かを好きなることは素敵なことだし、相手からも思われるのは奇跡だと思っていたけど、僕はやっぱり遼子を忘れられなかった。

 十二月入って、滅多に行かなくなった大学に行った時、森本肇と会った。
「久しぶり」と言われて、肩を二、三回叩かれた。
 今日はいつにも増して、痛い気がした。
「うん。久しぶり」
「ちょっと時間あるか? 茶しばかへん?」
「は? 茶、しばく?」
「午後のティータイムに誘ってんねん」とちょっといらいらした様子で僕に言った。
「今から担当教授に用事があるから…三十分後でもいい?」
「ほんなら、学校でて左にある喫茶店で待ってるわ。名前は…何やったかな。カタカナの店で、赤いリース飾ってたわ。多分」
 そう言って、さっさと門の方に歩いていった。僕は森本肇に怒られることを何かしたのかな、と首を傾げながら、担当教授のところに向かった。論文も大分書き上がり、チェックをしてもらっていた。
「はい。これで大丈夫です」
 チェックが終わった論文を返してくれた。思ったより早く済んでほっとした。
「新田君は就職するものだと思ってたのですが、まだ勉強するなんて言うとは思いませんでした」
「…僕もそのつもりでした」
「何か心境の変化があったんですか?」
「まぁ…。そうですね」
「失恋ですか?」
  犬のチンのような少し悲しそうな顔を歪ませて聞かれた。
「はい。…そんな…そうです」
「いい出会いができたようで良かったです。大学は勉強すると言うよりは…いろんな人に会う場所ですから…。誰かに出会って別れたからとは言え、君が考えた人生だとしたら、それはもう半分、成功したようなものです。就職しなければならない、このご時世だから厳しい世の中だと思いますけれど、そこに流されていた君が意思を持って決めたのだとしたら、後はやるだけですからね」
 垂れていた眉が少しだけ持ち上がって、僕に語りかける。
「僕もサポートするので、悔いなくやってみてください」
 いつも優しげで、少し頼りない感じで、学生に振り回されているような先生だったが、意外と熱いものを持っているのだな、と思った。僕は頭を下げて、お願いしますと言った。
 遼子と別れたことで、確かに僕は自分について向き合う機会を得た。大学を出たら就職しなければいけない、と僕はずっと誰に言われたわけでもないのに、そう思っていたからだ。確かに金銭的にいつまでも実家に頼っていられないけれど、僕は何も考えずにただ就職しなければ、と思っていた。そう考えてみると、いい出会いができたのだと思う。
 卒論を鞄にしまうと、失礼しましたと言って、部屋を出た。森本肇が待っているという喫茶店に急いだ。学校の近くの喫茶店だと言っていたが、見つかるだろうか。すごく曖昧に場所を伝えられた気がする。
 とりあえず学校を出てすぐに左側にある喫茶店を見てみる。なんと三軒もあった。どれもカタカナと言えば、カタカナであった。一つだけ、努里位夢(ドリーム)という漢字の店もあって、ここにリースが飾ってあったが、赤くはなかった。ただ赤いリボンが付いていたので、きっとこの店だろうと中に入っていった。入っていくと、奥の椅子に座ってタバコをふかしている森本肇が見えた。僕が近寄ってもこっちを見ようともしなかった。店内にクリスマスソングが流れていて、もうそんな時期だと思わされた。
「何の用事?」
「まぁ、座ったら」
 あまりの態度の悪さに、こっちまで気分が悪くなる。店員がすぐにメニューを持ってきたので、いきなり喧嘩にはならないが、僕も苛立ち始めた。メニューを見ずにホットコーヒーを注文して、座る。いつも突然、無理難題を言われるけれど、こんな態度でいられると、ここに来ただけで、充分役割を果たしたような気分になる。
「それで? ただお茶に誘ってくれたにしては…」と話しかけた途端、僕の顔に向かって、思い切り煙を吐いた。
「お前、遼子ちゃんを振ったんやろ?」
 煙がかかって、嫌な思いをしたが、森本肇が怒っている理由が分かって、僕の苛立ちは消えた。椅子の背もたれにもたれて頷いた。
「…別れたよ」
「理由は聞いたけどな…」と言って、タバコを灰皿で押し消した。
「遼子ちゃんの未来を思って? やっけ? ほんまに? そばに居っても、ソーダがそれはできるんちゃうん? なんでわざわざ別れなあかんの?」
「…僕も…僕は幸せだったから。遼子と一緒で幸せだったから」
 すぐそこにある幸せの形にきっとお互いを嵌めていくことになると分かっていた。結婚、出産、子育て。僕は就職をして、家庭で遼子は絵を描きながら子育てをする未来。もしあの日、賞を取らなければ、審査員にあんな声をかけられなければ、僕たちはそこに向かっていたと思う。でもあの日、違う未来が少し見えた。ニューヨークの画廊に行って、作品を持ち込んで、遼子が画家として活躍する未来を。そこに僕はいなかったし、いたとしたら、足枷になる僕だった。
「幸せじゃあかんのか?」
「…。僕が思う幸せじゃ、ダメだったと思う」
「何や、それ。そうじゃなくて、もっとイケてる男に取られると思って怖くなったんちゃう? ニューヨークの画廊の知り合いなんて、ソーダには無理やもんな。だから怖気付いたんか?」
「そうだね」
 確かにその気持ちもあった。僕には敵わない相手が出てきたと思った。
「別に遼子ちゃんはその人のこと好きになったわけでもないのに? そんなんで別れるんか?」
「そんなことは分からないし、もう別れたんだよ」
 思わず声を上げてしまった。タイミング悪くコーヒーが運ばれる。気まずくなって、僕は横を向いた。
「…ごめんな」と謝ったのは森本肇だった。
 思わず顔を見る。さっきまでのふてぶてしい態度は無くなっていた。
「遼子ちゃんに『ソーダを気にしてあげて』って言われてん」
「遼子に?」
「うん。大きな荷物抱えて、多分、学校辞める日やったんかな。お別れの挨拶してくれて、その時に、別れたこと聞いてん。だから『殴りに行ったろか?』って言ってんけどな。『奏太の方が辛いと思うから』って、かなり無理して笑ってた」
 唇をきつく噛んで、溢れる感情に耐えた。
「でも腹立ったから、絶対、殴ったろうって思ってたけど、全然、ソーダも学校にも来んようになって。遼子ちゃんに言われた通りに気にしようにも、会われへんし。まぁ、ちょっとだけ痩せた気がするけど、元気そうで何より」と最後は完全に棒読みで言った。
「心配してくれて…ありがとう」
 僕は目の前の森本肇に言いながら、遼子を思っていた。僕の方が辛いって言ってくれて、本当はどうかわからないけれど、辛さの比較なんて、できないけれど、心配してくれて、その気持ちが嬉しかった。
「ほんまは、ごめん。俺はソーダの気持ちがわかるねん」
 僕はようやく森本肇をちゃんと見た気がする。
「芸術って、幸せの中でも作れんことないけど…。もっとギリギリのところで生まれるものの方がいいもん作れたりするねん。だから、自分の人生に自分の力で向きあう必要があるねんな。…でも遼子ちゃんは女の子やからな。お母さんになる人間やからな。ちょっとそういうことを考えると俺たちとは違うものが…あったかもな。だからソーダより、悩んだと思うで。女の子って誰かのために生きる本能みたいなところがあるんかもな…」
 僕は間違っていたのだろうか。遼子のためにと思っていたことは違っていたのだろうか。あれから毎日考えて、毎日、やり直せたら、と思ってしまう自分と闘っているのに、それは違っていたのだろうか。
「見当違いなこと…したかな」
「いや。それはこれからちゃうか? これで、遼子ちゃんが諦めてしまったり、ソーダが自暴自棄になったら、それは見当違いと言えるけど。今出した結果を正解にするなら、二人とも頑張ったら、ええんちゃう? 人生には選択があるけど、正解はなくて、自分で作るもんやと俺は思ってる。どっちの道に行っても、努力せんかったら、正解には辿り着けへん。どっちの道が正しいか? なんて、そもそも正しい道なんてないんやから。自分が、正しくしていくべきやねん」
「そうかもしれないけど…」
「なぁ、ソーダは、その時、遼子ちゃんが諦めると思ったんか? ちゃうやろ。むしろ…そっちに行きたいって思ったのを理解したんちゃうんか?」
「…どうかな」
 あの瞬間に流れた微妙な空気…、名刺を持っていた遼子の困ったような笑顔、僕はそれを見て、確かに気づいた。
「もうソーダにできることは遼子ちゃんのご活躍を陰ながらお祈りするしかないで。遼子ちゃんもそうしてるし…な。俺にソーダのこと頼むくらいやで。それに…ソーダの気持ちは伝わってるって」
「僕は…遼子に愛されてた」
「残念ながら、…そうやな」とつまらなそうな顔をして横に向いた。
 鈴の音が店内に流れて、クリスマスのムードを作っている。テーブルに置かれて小さなツリー。その年は遼子にメリークリスマスを言うこともなく終わった。
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