第40話 柔らかい圧

文字数 5,050文字

 目が覚めると横に遼子がいる。僕が横を向くと、遼子も気配を感じたのか、目を開けて、僕の方を見てくれた。
「おはよう」
 そう言うと、嬉しそうに僕の首に手を回してひっついてきた。
「もう少し…」
 髪の毛をゆっくり指で梳く。するすると指の間を流れるのが気持ちいい。
「毎日、こうして起きられたら最高なんだけど…。ここで二人は狭すぎるし…あの家の近くで探して…引越ししようかな」
 不意に首に回されていた手の力が抜ける。僕が話しかけている間に、また眠ってしまったようだ。おでこ、髪、耳、至る所にキスをしたら、笑いながら起きた。
「もう…。おはよう」
 そう言って、笑って、またすぐにまぶたを閉じる。全く起きそうにないので、僕ももう一度寝ようとしたけれど、目が覚めてしまってどうしようもない。仕方なくトイレに行こうかと起き上がったら、寝ているはずの遼子に腕を引っ張られた。 
「起きてるな」と僕が瞼を閉じたままの遼子に言うと、笑い出した。
「だって、奏太、相変わらず早起きだから」
「…そうなんだ。全然、それは昔と変わらない。でも…今日は遅い方だよ」
 時計を見ると八時前だった。
「でも昨日…遅かったのに」とちょっと恥ずかしそうに言った。
「じゃあ、寝てていいよ。朝ご飯作ろうか」
「奏太が? 食べさせてくれるの?」
「いいけど…。大したものがないかも。とりあえず、のどがかわいいたな」と言って、部屋の暖房を入れて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
 遼子にはコップに入れて、渡す。僕はそのままペットボトルから飲んだ。冷たい水が体の中を通って、少し寒くなった。僕は電気ケトルにスイッチを入れてお湯を沸かした。
「昨日、嬉しくて眠れなかったの。奏太はすぐに寝ちゃったけど」
「え? そうだったの?」
 確かに、話をしていた時に、眠りに落ちていた様な記憶がある。
「だから、仕返しに起きなかったの」と言って笑う。
「かわいい仕返しだな」と僕も笑った。
 白い冬の光が部屋の中に入ってくる。ケトルのスイッチが切れたので、お湯が沸いた。インスタントの粉末スープをお湯で溶く。二人分のスープをスプーンでかき混ぜて、遼子を見た。ベッドの上に起き上がった体に光が差し込んで美しかった。

 婚約指輪を見に行こうと言うと、「指輪はいつか嵌めれなくなるからいらない」と言う遼子にフォークリングと言う隙間の開いたタイプのリングをネットで調べて見せた。婚約指輪ではそう言うのはないけれど、一流ブランドでもその形が売り出されているので、何か形にしたいと思う僕にはまさに優れたデザインだと思っていた。
 ネットの画像を見ても乗り気じゃないので、何か理由があるのか聞いてみた。
「…奏太は仕事を立ち上げたばかりだし…。引越しも考えてるなら…。もちろん私も出すけど」
「いや、あの家は最近だけど、それまで英語の塾もしてたし…。…? もしかしてお金のこと、心配してくれてるの?」
「あ、うん。…無駄遣い…かな? と思って」
 遼子の中で僕は牛乳配達をしている頃で止まっているようだ。僕はネットバンクの預金額を見せると、目を丸くして遼子は僕の顔を見た。
「遼子が頑張ってた時、僕もそれなりにやってたんだ」
 とは言え、高給取りとしては約七年しか働いてない。あの金融危機のおかげでスーパーサラリーマンから一気に無職にはなったと言うすごい経験をしたけれど。でもその後もそんなにお金を使うこともなかったし、英語が僕に仕事をくれたから困ることもなかった。
「…どうして結婚…しなかったの?」
「遼子…収入が少ないから結婚できなかったって思ってた?」
「だって、奏太はいい人だし…こんなに収入があったら…」
「まぁ、実際、それで付き合った人は数人いたんだけど…。そう言う人は僕のお金しか見てないから、続かないよね。お金ってたくさんあっても、なくても…人が分かる。悲しいけど…」
 遼子は困ったような顔をした。
「あの…なんて言ったらいいのかわからないけど…奏太が結婚してなくて…本当によかった」
「それで不安は無くなったから、一緒に指輪、買いに行ってくれる?」
 遼子は頷いてくれて、その後、小さな声で「ごめんなさい」と謝った。でも確かに、この質素なアパートを見たら、そういう気持ちになるな、と少し反省した。 

「ティファニーで朝食を見た時、オードリーの服が本当に素敵で、私も着てみたい服ばっかりだった」
「遼子に似合うよね」
「奏太、映画、見たことあるの?」
「え? オードリーの? ちょっと短いズボンだっけ?」
「それはサブリナ。オードリーの違う映画だよ」
 そう言って笑いが止まらないらしくずっと笑っている。手には小さな青い紙袋を持っている。指輪を選んで、食事をしようと百貨店のレストランを探していた時だった。遼子の携帯が鳴って、家に呼び出された。
「奏太も来て欲しいんだって」
「明日、伺うつもりだったから…。一日早いけど、行こう」
 慌てて地下に降りて、手土産を買って、タクシーで向かうことにした。昔だったら、電車で行ってた、と懐かしく考えていた。
「見てみて。この人はどっちでしょう? 簡単よ。オードリーかマリリンモンローか」
 スマホで黒子の金髪美人の画像を見せてくる。
「これは分かるよ。マリリンモンロー」
「簡単すぎたかな。…じゃあ、どっちがジーンセバーグでしょう?」
「誰、それ?」
 遼子の家に着くまで、女優当てクイズをやっていたけど、第二問目から急に難易度が上がって、何も答えられなくなった。僕が間違うと分かっているのに、とっても嬉しそうに笑う。家に着いたので、料金を払って、タクシーを降り、家を見た瞬間、緊張した。遼子の家は手入れされていて、昔とほとんど変わっていなかった。何回か来たこの家で、遼子の母の美味しい手料理を頂いた。
「奏太? 緊張してる?」
「うん、ちょっと…待って。なんて言うか考えるから。タクシーでほとんど何の用意もできなかったから」
「あれは緊張をほぐすためのクイズだったのに」
「え?」
 緊張している僕の横で遼子は優しく笑って、手を繋いでくれた。
「大丈夫。お父さん、小さくなってるから」
「丸く…じゃないんだ」
「うん。丸くはなってない」
(いや、体型のことじゃなくて)と言いかけたが、もう喉が乾いてきたので、無駄な話をするのはやめた。
 遼子がインターフォンに向かって「ただいまー。奏太もいるよ」と言った。
 しばらく待っていると、扉が開いて、遼子の母が出て来て、目を丸くしていた。遼子の母は確かに大分年齢を重ねてはいるけれど、やはり美人だった。
「あらあら。お久しぶりです。奏太君。なんか…年をとって、随分、大人になって」
「お母さん、みんな年を取ったでしょ。私もお母さんも」
「そうねぇ。でも本当に久しぶりだから…玉手箱開けたみたいよ。…って私もそうよね」
「いえ、変わらずお綺麗です」
「うふふふ。ご馳走用意してるから食べて行ってね」
「あ、これつまらないものですが」と言って、手土産を渡す。
「あらあら。気を遣ってもらって。どうぞ上がって」
 僕は奥で待っているであろう遼子の父に聞こえるように「お邪魔します」と言った。
 リビングに行くと、遼子の父は見ていたテレビのスイッチを切って、僕を見た。確かに遼子が言うように、昔ほど大きく感じることはなかったが、眼光の鋭さは増している気がした。
「お久しぶりです」と先手必勝の挨拶をした。
「あぁ、座りなさい」
「お父さん、来たばっかりで」と言う遼子に断って、僕は真正面に座った。
「あの…」
 僕は何て言えばいいのか何も考えてなかったけれど、結婚の話をしなければいけないと思っていた。
「遼子も座りなさい」
 その声で遼子も僕の隣にちょこんと座った。遼子を見ると、にっこり笑っている。後から入ってきたお母さんもお父さんの横に座って、なんだか嬉しそうにしている。男性陣だけが気難しい顔をしていた。緊張のせいで、文章もまとまらない。頭を下げて、一気に言うことにした。
「遅くなりまして、申し訳ありません。遼子さんと結婚しようと思ってます」
「本当に、遅かった」
 僕が顔を上げて、遼子の父を見ると、眉間に皺を寄せている。
「もっと早くにこんな日が来て欲しかった」
「すみません」
「お父さん、奏太だけが悪いんじゃないの」
「それは分かってる」
「いえ、僕がもっと早く…遼子さんと連絡をとっていれば」
「…もう失われた時間は戻ってこない。これから遼子を大切にしてあげて下さい」
 そう言って、頭を下げられて、僕は思わず「そんな」と言いながら、僕も頭を下げた。
「奏太君、忙しいから、あのね」と言って、遼子のお母さんが棚から紙を取り出した。
「婚姻届取ってきてるの。書いてくれたら、出しに行くからね」
 遼子と僕は顔を見合わせた。
「あなたたち、待ってたら、いつまでたっても動かなそうだし」
「お母さん」と遼子が怒ったような口で言ったが、僕は鞄からボールペンを取り出して、書いた。
 間違えないように、一つ一つ確認しながら、文字を書いていく。
「奏太の家族に何も言ってないのに」
「いいよ。すごく喜ぶから」
 書き終えて、僕は遼子にペンを渡した。
「どうか一緒に。これからは最後まで一緒にいてください」
 遼子はペンを握りしめて、頷いた。遼子が真剣な顔で書いている横顔を眺める。
「これで奏太君は私の息子になったのよねぇ」とはしゃいだ声で遼子の母が言うと、父親がわざとらしく咳払いをした。
 
 それから遼子の母の手料理が振る舞われ、僕とお父さんでお酒を飲んで、大分弱くなっていたお父さんは先に寝ると言って、引き上げてしまった。片付けを手伝っていると「奏太君、先にお風呂に入ってきなさい。遼子、着替え出してあげて。新しい下着も用意してるから」と言われてしまった。
 申し訳ない気持ちでお風呂に急いで入って出てくると、和室に布団を並べている最中だった。
「遼子は自分の部屋で寝るの?」
「奏太の横がいい」と言って、布団を引っ張り出そうとしている。
「僕が出すから」と言って、布団を取り出した。
「じゃあ、遼子が先にお風呂入ってきなさい」と何事もないように言うので、僕は黙って布団を二つ並べた。
「あ、着替えありがとうございました」
「いいのよ。…奏太君。あの子、本当にあなたが好きで。お父さんが紹介しようと誰かを連れて来ても、ものすごく怒って、(はん)ストしたりして」
「すみません」
「私もあなたのことが好きだったから、別れたって聞いた時は二人で泣いたの」
「え? 本当に…申し訳ないです」
「いいのよ。こうしてまた会えたんだから」
「でも…」
「何より今、あの子がすごく嬉しそうで、私も嬉しいの。どうか仲良くしてあげてね」
 本当は孫だって見たかっただろうな。もっと早くに結婚する娘も見たかっただろう。別れた後のこと、ずっと心配していただろうな、と僕は胸を突かれた。
「本当に遅くなってしまって。…僕も遼子さんのことが本当にずっと好きでした。自信がなくて…別れてしまったんですけど。これからはずっと大切にします」
「…奏太君。私もあの子も悲しかったけど。世界を回って帰ってきたあの子はちょっと逞しくなってきたから、よかったと思ってるの。病気が分かっても、泣き言も言わずに、やってるし…。だから…もう謝らないでね。あ、そうそう、奏太君のご家族にご挨拶したいから、都合を聞いてもらえるかしら? お互い挨拶が終わったら、結婚届を出すからね。あ、今聞いてくれる?」
 にっこり笑いつつも柔らかい圧を感じて、僕はその場で千佳に電話した。そして千佳も喜んでくれたし、早い方がいいと言って顔合わせは来週に日曜になった。場所選びも、ネットで予約して、ホテルの日本食のレストランに決まった。遼子がお風呂から出た時にはそこまで決まっていて、目を丸くして驚いていた。
「…お母さん、優しい雰囲気なのにものすごくやり手な気がする」と僕が言うと、遼子も頷いた。
「だって、お父さんはお母さんに頭が上がらないもの」
「僕もそうなるかな…」
 遼子は笑いながら「あ、そうだ」と言って、今日買った指輪の箱を開ける。
「奏太、つけて欲しいな。今日はこれをつけて寝るの」
 嬉しそうに笑う遼子が可愛くて、僕は手を取って、そっと指輪をはめた。隙間が空いているので、入りやすい。
「遼子…。大切にするから」
「私も」
 僕たちは大人しく手を繋いで、二人並んで寝た。遼子の手がずっと僕の中にある幸せをたっぷり感じながら、意識はすぐに途切れていった。
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