第33話 通過電車

文字数 2,006文字

 その日は祝日だったので、オフィス街は閑散としていた。僕たちは川沿いを歩きながら駅に向かって歩いていた。駅の近くに行けば証明写真の機械があるはずだった。川沿の道は遊歩道になっていて、散歩している人たちがちらほらいた。僕たちも午後の散歩をしているように見えただろう。
「奏太のお見舞いに行って、帰る時に、お姉さんに謝られたの」
「え? 千佳が?」
「うん。奏太が悪い、ごめんなさいって」
 僕に言ってたことと正反対で、いいのか悪いのか判断できない二枚舌だった。
「でも…私、まだ諦めきれなくて、お姉さんにあの後、話を聞いてもらったの」
「そんなこと何も聞いてなかった…。何て言ってた?」
「男なんて、裏切るから。夢を取りなさいって」と言いながら笑った。
「…千佳らしいな」
「それから…奏太は小さい頃から頑固だから、一度決めたことは変えないと思うって言われたの。力になってあげたいんだけど…って。でもお姉さんのメールアドレスもらちゃった。いつでも連絡していいって」
「なんか…もやもやするな。…そういえば、あの人に会った? 版画展の審査員」
「浅田さん? 会ったよ。作品集見せに行った。いろんなところダメ出しされたけど…。悔しくなってちょっと頑張ろうかなって思った」
 さらに、胸のもやもやが広がっていったけれど、黙っていた。でもすぐに遼子に指摘される。
「…嫉妬してくれた?」
「うん。もちろん。…格好良かったし。なんかいろいろ自分と比べて持ってないもの、たくさん持ってるし」
 すると遼子は僕の手と繋いでくれた。冷たい遼子の指が僕の手のひらにある。久しぶりの遼子の感覚に胸が詰まる。
「でも浅田さんにも、誰にもないものが奏太にはあるから」
「…そうかな」
「うん。だから私の宝物なんだよ」
 僕は歩けなくなった。遼子と一緒にいたいと思ってしまう。
「奏太?」
「…そうなれるように、頑張る」
 後戻りしたい気持ちを何とか抑えた。就職も自分でダメにしてしまったし、今更戻れないと分かっているのに、手を繋がれただけで、こんなに揺らいでしまう。でも自分からは繋いでいる手を離せなかった。
「遼子に僕と会えて良かったって、ずっと思ってもらえるように、僕も頑張るから」
 冬の陽は傾くのが早い。
「奏太」
 そろそろオレンジがかった光になり始めている。僕たちの影もゆっくり伸びていた。
「奏太」
 名前を呼んでくれる。その綺麗な声を僕は忘れることはない。百貨店のアルバイトで僕が心身共に疲れていた時にたくさんハートを描いてくれたことを思い出す。あの時のように、必死で僕を応援してくれている。
「僕が応援しなきゃ…いけないのにな」
「奏太。ありがとう…」
 そう言って手が離れた。それから少し先を走って、振り返る。
「本当に好き」
 向こうがわに太陽が落ちて、遼子の泣きそうな笑顔が眩しくて見えなかった。情けない僕の顔はきっとよく見えたはずだ。せめて泣かないように、精一杯笑ってみせた。
「ありがとう。僕もずっと同じ気持ちだから」
 たった四ヶ月。それでも一緒に過ごした時間は永遠だった。遼子が背中を向けて走り出した。今日は僕は追いかけた。公園で、遼子の靴を持って追いかけたことを思い出しながら。すぐに追いついて、僕は後ろから遼子を抱きしめた。
「駅まで、一緒に帰ろう」
 短く切られた髪のせいで、俯いたうなじが綺麗に見える。抱きしめた僕の腕に遼子の手が触れた。
「奏太の腕…やっぱり綺麗」
「コート着てるのに、分かるの?」
「うん。分かるよ。奏太の体…ずっと覚えてる」
 遼子の髪にキスをした。
「それから私に優しくしてくれたこと…、愛してくれたことも」
 そして僕の腕の中で体を回して、僕の頰に手を当てた。
「全部。綺麗な…奏太を」
 唇と唇が微かに触れて、すぐに離れた。
「忘れない」
 忘れられないよ、と僕は心の中で呟いて、遼子をきつく抱きしめた。僕たちの横を通り過ぎる人がいたかもしれない。でもそんなことに構っていられなかった。でも時間は止まってくれない。僕たちは駅まで手を繋いで、黙って歩いた。駅の片隅に置かれていた証明写真の機械の前で、遼子は止まった。
「泣いちゃって、化粧が崩れてるから…。写真は今度、送るね」
「充分、綺麗なのに」
「だって、ずっと持っててもらうんだったら…恥ずかしいもん」
「プリクラ…楽しかったな」
「…うん。懐かしいね」
 もういたずらに時間を引き伸ばすだけで、辛くなるので、僕は遼子と一緒に改札口に入った。ホームは反対側だった。お互いの電車が来るまで、ずっと見つめていた。話をすることもなく。遼子の方の電車が先に来た。遼子が乗って、僕のホーム側の扉に立ってくれた。手をあげる遼子に、僕は最後まで手を降ろうとした時、通過電車が二人の間を通っていった。長い通過電車が過ぎた後、遼子の電車はもう去っていた。
 それが僕たち二人の最後だった。そして送ってくれるといった写真は今日まで届いていない。
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