十三~十六

文字数 19,008文字

 十三
 不純になった空気が凍りついたのは、ほんの一秒か二秒だった。最初に村山がかすれ声をあげた。さっきまでの間抜けそうな声音とは大ちがい。給与明細書を開いてしばらくにんまりとしたあと、なんの前触れもなしに総支給額の欄が前の月より二、三万円すくないのに、はたと気づいたときのようなかすれ声だった。
 「もしかしてこれ……」大男の目は、手にした小ぶりのタッパーウエアいっぱいに詰まった白いものと、そこから電線でつながる携帯電話に釘づけだった。
 「よせ!」
 とっつかまったあとで悪あがきする野良犬のようにおれはわめきながら手を出してみたが、村山はおれがめいっぱい伸ばした指先なんかよりはるかに高いところにタッパーを掲げ、それこそ小学校のいじめっ子のようなまねをした。まるでいまになって少年時代の意趣返しに出たかのようだった。でも待てよ。いじめられたのはおまえだけじゃないんだぜ。身長のことでおれがどれだけ悩んだと思ってるんだ。
 村山は懐中電灯の明かりをタッパーに向けて、じっくりと検分を始めた。「プラスチック爆弾だ!」
 「……!!」息を飲んだ祐子がうしろの壁まで飛び去り、自分のシャネルをエルメスの殺人ヒールで踏んづけた。
 それと同時におれは叫んでいた。「ちがうって!」
 「だってリード線がつながってるし、スマホは電波式の起爆装置がわりでしょう。見たことがある。なんてこった!」
 「ばかかよ!」
 どんなふうに扱ったらこのうどん粉を練ったような物体が目を覚ますかなんて、いちいち思いをはせていられなかった。おれはNBA並みとは言わないまでも、せめてビリー・ジョエルの歌に出てくるニューヨークの裏通りを想像し、そこにたむろする若い連中が日がな一日興じているバスケットボールごっこのまねをした。萎えた足の筋がピキッと音がするくらいのジャンプを試みたのだ。正真正銘の小男による決死の跳躍――。
 そしてそれは現実のものとなり、下にいたエミにぶつかりながらリノリウム張りの床に着地するなり、アキレス腱に焼けたナイフを突き刺したような痛みが走った。それでも窮鼠猫を噛むってな感じで、リバウンドボールを奪うことに成功し、おれは秘蔵のタッパーウエア――ふたがすっ飛び、スマホがリード線に吊り下がってぶらついているさまは、まるで町外れで処刑された罪人みたいだ――を胸にかき抱いた。
 「春まで自衛隊にいたんですよ。それも爆発物処理班。C4でしょう、それ」
 「自衛隊だと? そりゃいいや。そんなところにいたんなら、さっさとおれたちを外に出してくれたらどうなんだ。国民の税金使って、さんざん訓練してきたんだろ。集団的自衛権なんてクソくらえだ。こういうときに役に立たなくてどうするよ。なんか道具見つけてそこのパネル、開けてみたらどうなんだ。そんでもって、そこに入ってるレシーバーとやらで人質解放を訴えてみろよ」
 「黙りなさいよ」
 祐子にぴしゃりと言われ、おれはひるんだ。またしても逆上しそうな顔をしていた。たぶん大事にしている高級トートバッグを自ら踏んづけてしまったこともあっていらついているのだろう。しかしいくら下着が拝めるとしても、ハイヒールキックはごめんだ。
 「さっきスピーカーでメルアドがなんとかって言ってたじゃない。早くそれ言いなさいよ。冗談じゃないわ、そんな物騒なもの持って」
 村山がしつこく聞いてきた。「まさかそのメルアドって……そのスマホのメルアドのことなんですか? メール型の起爆装置。中東でよく使われてるやつだ」
 「だったらなんだよ」
 おれは携帯をタッパーに戻しながらふてくされた。逃げたいのはおれだっておなじだ。だが待て。頭蓋骨の内側が熱くなっていた。いまにも燃えあがりそうだ。おれが爆薬を所持していることがほかの三人にばれたわけだ。メルアドをしゃべるなんて自殺行為はできないし、なによりこいつらを生きて帰すわけにはいかなくなった。
 「たすけて……」
 エミが足下の闇にへたりこみ、しくしくと泣きだした。男にさんざん貢いだあとにあっさり捨てられて、その後、半世紀くらい恨みに思うタイプの女にちがいない。きゃしゃな肩の思わせぶりな震わせかたで合点した。たぶん他人の密かなアルバイトに口だしをするクソまじめな部下のつぎぐらいに、おれとしてはがまんならないタイプだ。
 しかしつぎに村山が言い放った言葉は、鋼鉄の箱のなかのあらゆるものを敵にまわしてかっかと燃えさかるおれの脳みそを、いっぺんに冷却させた。「ビル一棟めちゃめちゃにできる量ですよ」
 おれが望んでいたのは、黒塗りのクラウンのダッシュボードからちょっと花火が吹く程度。
 それで十分なはずだった。

 トリュフ好きのじいさんとは、あれが初対面だったから、なにが本業でどんな経歴の持ち主かわかりようがなかった。だから手渡されたタッパーウエアの中身だってよくわからなかったし、それがどこから流れてきたかなんて気にもとめなかった。おれは自分の頭の蝿を追うので精いっぱいだったんだ。
 きのうの晩遅く、家に電話がかかってきた。女房が出ないで本当によかった。相手は、おれが泣きついたSGコーポレーション所属の親切なヤクザではなかった。流暢な日本語をあやつる外国人だった。それくらいおれにだってわかった。
 「すべてご自分でできますか?」
 激しい動揺を隠し、努めて冷静におれはこたえた。「そのつもりだが」
 「この手の話は、急にしりごみすることもよくあるんですよ」
 おれは正直びびった。“よくある”という言い方にその筋の専門家めいた響きが感じられたのだ。
 「あなたがメールを送信できなかったら、こちらでなんとかしますから。ご心配なく」
 「そうか。まあ、そのほうが確実なら……だがそろそろスマホのボタン操作ぐらいできるようにしてほしいな。ロックを解除したいんだが」おれはちょっと強がって言ってみた。
 「パスワードはあした、連絡します。それまでお待ちください」
 「落ち着かないんだよ。なんだかだまされているみたいで」
 「とんでもない。それよりあまり早くお伝えすると、いろいろいじりたくなりますから。わたしたちは長年の経験から、そう警告しているのです。あなたは大事な方だ。自爆されたら元も子もない」
 「わかったよ。あんたたちのことは信じといたほうが身のためみたいだ」
 「そうですとも。すべてが終了したあしたのこの時間、もう一度、電話を差しあげます。そのときに今後のことをお話しさせていただけませんか」
 「あしたか……できればスマホのほうに連絡をもらえるとありがたいんだけどな」
 「いいでしょう。番号はわかってます。これから先、長いお付き合いになりそうですからね。バイト代もこれまでの倍になるでしょう」
 短い会話だった。ベッドにいた女房は、会社の同僚からの電話と勘ちがいしてくれたか、電話がかかってきたこと自体、気づかなかったかもしれない。だが正直な話、おれはその後、目がさえわたり、一睡もできなかった。電話の相手は、おれがあす、人を殺すことを知っているが、おれのほうは相手がだれだか想像するほかなかったのだ。
 まんじりともせずに夜を明かし、おれはいつもより一時間早い、午前六時にのそのそとベッドを這いだして、シャワーを浴びた。それからダークローストの豆を使っていつもより濃いコーヒーを自分で淹れた。
 ぜんぜんしゃっきりしなかった。
 なにもない日なら、思いきって会社を休みたいくらいの絶不調だった。なにより不快だったのは、前夜の電話以来、なんだか囚われの身となったかのような気にさせられていることだった。
 だが頭の半分では、素敵な夢も描いていた。
 バイト代が倍に跳ねあがる。
 やることはたぶん、これまでとおなじく、コンピューターの若干の操作とあがってくる伝票に多少目をつぶるぐらいだろう。それで臨時収入が倍にアップするのなら、別宅にしているマンションのローンの繰り上げ返済に回せるし、思いきってそこの住人に手切れ金を渡して、新たな住人を招くことも可能かもしれない。そう考えただけで、おれの股間はいきなり屹立した。女房に見られたら「あら、いやだ」と勘ちがいして顔を赤らめたことだろう。
 捨てる神あれば、拾う神ありだ。
 おれはなんとか気を取り直して会社に向かった。不安定な情緒のまま、ときおりズキリと痛む頭と、あすへの希望が詰まった例の紙袋を抱えて。

 「どこで手に入れたんです」
 村山の声でおれは正気に返った。じいさんとの打ち合わせでは、ダッシュボードから吹きあがった炎のせいで走行と制動に異常が生じ、黒塗りのクラウンはそのまま首都高の壁に激突するはずだった。しいて言うなら、打ち上げ花火のちょっと大きなやつ。その程度の爆薬だと思っていた。
 「おまえたちには関係ないだろ」
 「でもこれじゃテロに使うような量ですよ。こんなものが流出するなんて」
 「笛吹さん、あなた、なんかやばいことしてるんでしょう」祐子までいやらしく詮索してきた。まったく腹の立つやつらだ。
 おれは床に落ちた紙袋を拾いあげ、言ってやった。「いいか、おまえら、これはおれの問題なんだ。言っておくが、おれはこいつの中身なんか興味はなかった。黙って運ぶよう指示されただけだ。爆薬なのか? そいつは知らなかったな。でもな、おれがいちばん気にしてるのは、おまえらのせいで袋の中身がさらけ出されちまったってことさ。うちの部署がどんな仕事をしてるかは、木村、おまえならよく知ってるだろう。上層部でも知らないような特別な業務がいくつもあるんだよ」
 「爆弾使うような業務なんてあるかしら?」
 「ふん、そんなこと、おれの知ったことか。おれは言われたことをただやるだけだ。それがどんな意味を持つとか、袋になにが入ってるかのぞき見るのは越権行為以外のなにものでもないからな。ところがおまえら、それをやっちまった。おれは知らんぞ。責任は――」
 「笛吹次長、メルアドを教えてください」
 スピーカー下の操作パネルからまた声があふれた。おれはぎくりとしてプラスチック爆弾の入ったタッパーウエアを抱きしめた。
 「そうすればドアは必ず開けます。起爆装置となるスマホのメルアドです。それを早く教えてください」
 「おねがいします」村山が迫ってきた。「このさい、爆弾のことは黙ってます。とにかくメルアドを言ってください」
 「だからおれは知らないんだって。袋の中身だって、いま知ったんだぞ。起爆装置だと? さっぱりわからんよ」
 本当に腹の立つ男だった。子どもがついたうそを責めるような目でおれのことを見ていた。だがここで折れて、メルアドを白状するわけにいかなかった。たとえ電波が圏外だとしても、外に出たときのことを考えたら危なっかしくていけない。
 「じゃあ、爆薬を見せてください。起爆装置が外せるかもしれない」
 元爆発物処理班だという男の言葉は一瞬、名案のようにおれのなかで輝き、思わずタッパーを抱きかかえる腕の力をゆるめそうになった。しかしすぐに思いなおした。スマホの電源を入れたあとは、それを切ることができない。その意味についてあのじいさんが聞かせてくれた受け売りの説明が、脳裏によみがえった。
 (センサー付きの雷管が埋めこんであるそうでね。これが女のあそことおなじくらい敏感らしいんですよ。だから電源を切ろうとするとドカン)
 「勝手なことはさせないぞ。これはおれの業務なんだ」
 そのとき突如、足下の闇からエミがいきなり飛びあがり、おれの両手に飛びついてきた。さすがは恨み深い女だ。いつ不倫相手の職場にやって来て手首をかき切るか知れたもんじゃない。おれはすかさず体をかわすと、怒りも手伝って力いっぱいその腹を蹴り飛ばしてやった。エミはグエッという熱帯雨林で求愛する巨大オウムのオスみたいな声をあげると、その場に崩れた。
 「ひどいことを……」村山がとっさに介抱にあたる。若い女の体に触れて、さぞかし幸運に思ってることだろう。
 「往生際が悪いわね」祐子があきれたとき、パネル内レシーバーはこれまでとはちがう話を持ちだしてきた。これにはさすがにおれもあわてた。
 「メルアドが言えないなら、金を洗った報酬はどうやって手に入れるのか。その方法を教えてください」
 「いま、なんて? 金を洗った報酬? どういうことよ」
 「金を洗うって……マネーロンダリング……」
 村山の言葉に祐子が目をむいた。懐中電灯の明かりの具合で、その形相はホラー映画の女モンスターのようだった。「ちょっと、笛吹さん、あなた、まさか――」
 「……な、なに言ってんだよ。おまえら、アホか。信じられないよ。なんでこんなばかげたことに――」
 「金を洗った報酬はどうやって――」
 いますぐこの場から逃げだしたかった。なんなら手元の白粘土に火を吹かせて頑固な扉に目にもの見せてやるのも手だ。そんなことまで考えるくらい切羽詰まった気分だった。ボイスチェンジャーの主は、おれがプラスチック爆弾を所持していることどころか、資金洗浄に手を貸していることまでお見通しときてる。
 吹けば飛ぶような白髪を大事にしていたあのじいさんだろうか。それともやつに手土産のタッパーウエアを持たせた流暢な日本語を操るあの外人野郎だろうか。しかしこれから利益が生まれるというのにそれでは道理が合わない。だったらSGコーポレーションの連中か。こっちが商売の手を広げたことに腹を立てたのか。しかしそれならマネロンの対価をどう受け取るかなんて間抜けな質問はしまい。だがそういった連中が何人かいるとして、内部でささいな争いでも起きたならどうなるだろう?
 「いいかげんにしてよ!」祐子がしびれをきらせて叫んだ。くるぞ。得意技のハイヒールキック!「もうなんでもいいから、とにかく早く、ここから出して!」近くで吠えられ、どっちの耳にもピーンという音がいつまでも残った。が、必殺技は飛んでこなかった。
 「ぎゃあぎゃあ言うなよ。こっちがいらいらするじゃねえか。外に出たいのはおれだって山々なんだって。だけどこいつが言ってることなんて――」拳をかため、腹立ちまぎれにおれは鍵のかかったパネルカバーを殴りつけた。不思議なことに痛くなかった。神経が張りつめ、アドレナリンがびんびん出てるんだろう。でも出血はした。
 それもすさまじく。
 たった一発殴っただけなのに、ステンレス製のパネルカバーには赤い染みが付着した。だがだらだらと血を流すおれの手を見て、ハンカチを差しだす者はだれもいなかった。同情するに値しないと思われたというより、怖がっているようだった。いい傾向だ。雌犬にわんきゃん吠えられるより、自分で手綱を握っていたほうがましだ。
 だが名実ともに澱んだ空気が漂い、ぴりぴりした視線が注がれるなか、パネルの内側からつぎなる呪いの言葉があふれ出てきた。
 「さもなければ、メコンプレックの大時計だ。あれはどこに売り払いましたか」
 もう一度、聞き返すとわかったのだろう。手綱を本当に握る人物は、親切にも気になる部分をくりかえしてくれた。
 「メコンプレックの大時計ですよ。忘れてしまいましたか?」
 もちろんそうさ。忘れたよ、そんなもの。記憶のかけらがあるかどうかさえ……というより、知らない。そんな時計のことなんて。自信を持って言える。だがおれは文句をつけることさえできなかった。時間がスローモーションのように流れ、三人の姿がぼやけて見えるようになってきたのだ。なんだか頭がへんになったみたいだ。おれは追い詰められて逃げ場を失い、あげくの果てにわけのわからない言いがかりをつけられていた。それでも見きわめねばならなかった。いくつか提示された質問のなかで、どれに答えるべきかを。
 たとえうそでもいいから。

 十四
 それからは夏崎が先に立ち、やつのペンライトが作る光の輪のあとをついていった。車一台がようやく通過できそうな狭い坂道を十五分も上ったところで、明かりが見えた。もうすこし進むと、それが薄暗い電灯の明かりだとわかった。
 「まさかここに出てくるとは思わなかった。電気はふもとの村から一本の電線で引いてるんです」
 明かりのもれる窓辺に近づき、夏崎が説明した。掘っ建て小屋のような小さな家がいくつか連なっている。炭焼きの男たちが寝泊りする場所のようだった。井戸もあるし、プロパンガスも設置してある。かすかにテレビの音も聞こえた。なにより安堵したのは、さっきの軽トラックがすぐ近くに停めてあったことだった。白石は井戸に走り、水をくんだ。泥水の味がしたが、さっきの川水よりずっといい。生き返った心地だった。
 もう九時だった。
 「町まで乗せて行ってもらえるか、わたしが頼んでみます」
 「ここはいったいどこなんだ」
 「構外作業の世話をしてくれているんです。元は林業のムラだったのですが、人が減ってしまって。わたしたちが山に入っていたころは、三、四軒が残っていました。いまはどうだろう。でもすくなくとも一軒は生きてる。たぶんキノコでも採って暮らしてるんでしょう。幸運ですよ、ここに出られて」
 そこまで言うと夏崎はペンライトの明かりをたよりに、玄関らしき平たい場所に近づき、腐りかけの木戸をたたいた。それがつぎの瞬間にも吹き飛んで、なかから死体を貪る化け物でも出てくるような気がしてきて、白石はびくついた。真夏の宵の過ごしがたい蒸し暑さが、うそのようにひいている。
 がらがらと引き戸が開き、薄明かりが漏れた。
 人影が見える。夏崎がなにか言うと、影は強い訛りのある口調で何事かつぶやいた。年配の男のようだったが、白石には聞き取れなかった。顔は見えない。男は夏崎の肩に手をかけ、抱きかかえるようにして招き入れた。引き戸が閉じられ、白石は一人取り残された。すかさず軽トラックに近づき、懐中電灯を向ける。
 キーはついたままだった。
 いますぐこの山から抜けだしたい衝動に駆られた。白石は思わず運転席のドアに手をかけた。が、道なき道だ。この山の者でなければ切り抜けられまい。そう思ったとき、音を立てて戸が開いた。
 「なにしてるんです?」軽トラックのそばで棒立ちになる白石に夏崎が近づき、なにかを差しだしてきた。「スイカもらいました。とれたてですごく甘いですよ」
 真っ赤に熟れた大きなスイカを四分の一ぐらいに割ったものだった。夏崎もおなじものを口にしている。白石は礼を言うより先に飛びつき、がぶりとやった。
 冷えてはいなかったが、そのぶん甘みが強く感じられた。さすがスイカの名産地のものだけある。水分と糖分が急速に体に染みこんでいくのが感じられ、なんだか頭までさえてきたような気がした。
 これで助かるし、家にも帰れる。女房は心配してるだろうが、そんなのはどうでもいい。とにかくあすの会議だ……と思った瞬間、いがいがしたものが右の頬と上の歯茎の間にはさまった。髪の毛にしては太い。サクラエビの肢みたいな感じだった。舌を使っても取れず、あわてて指を突っこんだ。
 黒い異物が指先で動いていた。そこに夏崎のペンライトがあたる。
 「あれ、よく見て食べないと。アリがたかってたんだ」
 田舎に特有のクロオオアリだった。胴体は噛み切られていたが、触角と肢はぴんと張っていて、激しくもがいている。
 つづけて舌の下で違和感が起きた。
 尾部らしきまるまると太った肉っぽい感触だった。ほかにも口のあちこちに気色の悪いものが引っかかった。
 白石は体を折り曲げ、嘔吐でもするように何度も唾を吐き、口いっぱいに広がった巨大アリの残骸を除去した。
 「うわ、いっぱいたかってる。すいません。わたしもよく見ていなかった」
 夏崎は白石がまだ手にするスイカの裏側を照らしていた。そこをのぞくなり、白石はぞっとしてそれを投げ捨てた。真っ赤な果肉のほぼ半分が黒くたかられていたのだ。
 「わたしのもそうです。でもアリなんて食べたって大丈夫ですよ。もっと大きな虫の幼虫だってこのあたりじゃ口にするんですから」そう言いながら夏崎は自分のスイカについたアリの群れを払い、さらにひと口、がぶりとやった。白石はもうそんな気になれなかった。げんなりして胃袋が受けつけない。
 「どうだったんだ」
 「え?」
 「車だよ。送ってくれるのか、街まで」
 「ああ、はい。だいじょうぶです。キンジロウさんっていう人が残ってました。いま食事中なんで、終わったら送ってくれます」
 「終わったらって……間に合うのか?」
 「最寄りの停留所を九時三十六分に出るバスがあります。急げばここから十五分もかからないって話です。ぎりぎりだいじょうぶじゃないですか」
 「早くしてもらえないかな。金なら払う。三万でどうだ」
 「そりゃ喜びますよ、キンジロウさん」
 白石は即座に財布を開き、一万円札を三枚抜きだした。夏崎はそれを受け取り、ふたたび屋内に消え、こんどはすぐに戻ってきた。
 「急いでくれるそうです。暑いからエンジンかけて車のなかで待っててくれって」
 二人乗りの軽トラックのシートに、運転席のところを空けるようにして白石と夏崎は肩を寄せ合って座った。夏崎がエンジンを始動し、心地よいエアコンの風がたちまち車内に吹き渡る。さんざん歩かされたあげくに、アリのたかったスイカまで食わされたが、ようやく人心地つけそうだった。東京なら振り向きもしないボロ車だが、いまは救世主を乗せる魔法のそりにさえ感じられた。
 「懐かしいですよ。もう二十年以上もたちますから、キンジロウさんもずいぶん老けこんでましたが、雰囲気は変わってなかった。無愛想だけど、根は善人です」
 「世話になったのか」
 「はい。そりゃもう。あのころの連中はみんな面倒みてもらったんですよ。ここで飯食わせてもらって。刑務所の食事なんかよりずっと豊かで人間的だった。空気は新鮮だし、水もうまい」
 「昔の話だろ。いまじゃ泥水だ」
 「あのころの連中がいまどうしてるかなって、たまに考えるんですよ。刑務官からは番号で呼ばれるんですが、受刑者どうしじゃ、ちゃんと名前呼び合って。そりゃ、なかにはたちの悪いのもいましたよ、犯罪者ですからね。だけどある意味、運命共同体みたいなところがあって、なんとかまじめに勤めて一日でも早く出してもらおうと必死だった。とくに構外作業が許可されるのは、そういう更生意欲のある連中でした。だからよく話もしました。なにをして臭い飯を食うことになったかについてもね」
 過ぎ去りし日々をたぐり寄せながら夏崎はぼそぼそと話しつづけた。白石はいらいらした。小屋の引き戸は一向に開こうとしない。
 「驚いたのは、みんなそれなりに結構、頭がキレるってことです。ふつうに勤めてりゃ、そこそこ出世できたようなやつが多かった。完全犯罪を狙うタイプですね。たとえば、いまの犯罪捜査って、まずは防犯カメラの解析から入るでしょう。それを逆手に取るんです。たとえばカメラから伸びる回線の途中に小型の録画装置を寄生虫みたいにくっつけておいて、それを使ってあらかじめ前日とか一週間前の同じ時間帯とかの映像を録っておく。そのあと、いざ本番に臨むとき、回線を切り替えてそうした映像を警備会社のハードディスクレコーダーに流して再録画させるんですよ。それを見るほうは、まさかダビング映像とは思わないから、何度見直しても犯人の姿が見えないことに首をかしげる。実際の映像となると、途中で回線が遮断されてしまっているから、どこにも記録がない。ただの空き巣のようでいて、こりゃもう立派な知能犯ですよ。聞かされて、なるほどって思いましたね」
 「ああそうだな。まったくだ」適当にあいずちを打ちながら、白石は小屋のほうをにらんだ。十五分たっても戸は開かなかった。
 「なにがすごいかって、防犯カメラを設置するような場所なんて、毎日、劇的に変化するわけじゃないんですよね。だいいち、わたしたちの日常生活自体、かなりの部分が規則的に流れてる。その一部をべつの日のようすにすり替えたって、だれも気がつきゃしない。年を取れば取るほど、そういう変化に鈍感になる」
 「きょうみたいな日はまれってわけだな」
 「そうですね。でもあしたになれば、また元に戻る」
 「遅いな。だいじょうぶなのか」
 「だいじょうぶですよ。キンジロウさんは信頼できますから。それに山もよく知ってる。近道があるって言ってました。夕方、帰る前に点呼して一人足りないようなときも、一時間もしないうちに見つけだしてくれました」
 「一人足りない……って?」
 「魔がさして逃げる者がたまにいるんです」
 「脱獄ってことか」
 「そういうことですね。構外作業はその誘惑に打ち勝つ精神力を涵養することも目的とされています。長いこと塀のなかにいる連中にとっちゃ、試練ですよ。脱落者は何人もいた」
 「ひんぱんにあったのか」
 「一つ一つ、いちいち新聞に出るわけじゃないし、むしろ報道発表なんかしなかったんじゃないかな。刑務所長の落ち度になりますからね。言うなれば、そういうのは闇から闇」
 「逃げおおせたやつもいるのか」
 「わたしが知ってるかぎり、一人しかいませんよ」
 そのとき運転席の扉が乱暴に開かれ、頭のはげあがったぎょろ目の男が乗りこんできた。

 十五
 根津のアパートからの帰り道、サナエはメールをチェックし、けさ届いたレンタルビデオ店からのメルマガに目を通した。
 (本日のラッキーサービスは恵比寿店で!)
 つまりおなじ警察庁のスパイどうしが情報交換を行うアクセスポイントは恵比寿。この場合、ガーデンプレイスの広場というのが通常だ。
 (ロジャー・コーマンのカルト作品「X線の眼を持つ男」のリメーク決定!)
 合言葉はきょうも長い。いったいどんな人物がこれを考えているのだろう。これまでの合言葉から考えるかぎり、四十代後半か五十代前半の映画好きの男性像が浮かんだ。しかしアクセスポイントで出会うのは、たいていはもっと若い人物。それも女性が多かった。
 日比谷駅で千代田線から日比谷線に乗り換え、恵比寿駅で降りた。駅ビルを抜け、ビアガーデンがにぎわうガーデンプレイスに向かう。この前はマクドナルドの前で声をかけられた。その前はフレンチの高級店の前だった。できるだけ早くすませたかった。
 花火は今夜遅くにあがる――。
 サイードの言葉が気になった。
 五分もしないうちに、サナエは視界の端にこちらに近づいてくる人影をとらえた。いかにもお上りさんといった感じの年配の女性だった。JR恵比寿駅の方角を訊ねてきて、ついでにロジャー・コーマンの作品についても言及した。サナエはにっこり微笑んで駅のほうを指さしながら、レイ・ミランド主演のB級ホラー映画のリメークなんて、いったいだれが主役を演ずるのだろうと言ってやり、こう付け加えた。
 「リップスティックがまた折れて、ジークは寝こんじゃった。妹がうるさいらしいの。動物園のシロクマに新しい彼女ができたみたい。ラジオが始まるまでは受験勉強に励まないとね。ああ、ほんと、憎らしい女。そっちでダンスするみたい」
 つまりこうだ。
 〈高性能プラスチック爆弾C4(リップスティック)がふたたび譲渡されて(折れて)、国会議事堂爆破計画(ジーク)は中断した(寝こんじゃった)。サイード(妹)が指示したようだ(うるさいらしいの)。組織(動物園)の資金洗浄ルート(シロクマ)に新しい口(彼女)が見つかったらしい。深夜零時(ラジオが始まる)まで緊急捜査(受験勉強)を実施する。新たな洗浄先(新しい彼女)のもとで、爆弾が火を噴く(ダンスする)可能性あり〉
 老女はていねいにサナエに礼を言うと、JRの駅のほうへ足を引きずりながら歩いていった。たぶん若い女性捜査員――もしくは男性捜査員――が巧妙に変装しているのだろう。さもなければサナエなんかよりずっと深い怨念をかかえたまま、半世紀近くも埋めこまれたままの人物だろうか。サナエは自分の未来を見ているようで怖くなった。
 だがいまは将来を危ぶんでいる場合ではない。もっと直近の話、今夜、どこで花火があがるかを調べねばならない。
 サナエは和幸にメールを打った。
 (ごめん、今夜なんだけど……)
 送信ボタンを押したとき、胸が痛んだ。あとで電話を入れよう。それまでになんとか事件を阻止できればいいのだが。だが問題の銀行員がだれだがサイードに訊ねるわけにはいかなかった。そんなことをすればこっちが怪しまれる。
 サナエは「サラ・スーク」に戻った。
 「なんとかやってるよ」
 何組かのカップルと会社帰りのサラリーマンたちでにぎわう店では、副店長のタツヒコが忙しく切り盛りしていた。早番だったサナエがふいに店に戻ってきて、驚いたようなほっとしたような顔を見せた。
 「そうみたいね。ちょっと二階あがるわよ」
 「だれも来てないよ」タツヒコはけげんな顔になった。
 二階は十人ほどが入れる個室になっている。ザゴラもムハマドもよくそこにたむろし、サナエも混じってヘロインの密輸などふだんの仕事の打ち合わせをする。ジハードの話もそうだった。しかし父親がパキスタン人とはいえ、タツヒコは「沈黙の塔」の活動はいっさい知らない。無関係だ。だから二階は常連のたまり場ぐらいの認識しかなく、そこにサナエもくわわるのは、彼女がアラブの常連たちとうまが合うからに過ぎないと思ってくれている。サナエとしてはそれはそれでありがたいのだが、タツヒコは最近、サナエがザゴラといい仲になっているのではと疑いだしている。厄介といえば厄介だった。
 「ちがうの。ちょっと忘れ物しちゃって」
 「ザゴラたちとカラオケは行かなかったの?」
 「あら、知ってるの。誘われたんだけどね、疲れてたから適当にごまかして逃げてきた」
 「逃げてきたっていうのがいいね」タツヒコはうれしそうだった。
 ムハマドに言われなくてもサナエはわかっていた。この誠実な青年は自分に好意を寄せている。年は離れているが、恋愛の対象としてはサナエとしても申し分なかった。だがそれも夢の話。立場を考えれば、せいぜい伊佐夫とこっそり付き合うぐらいで精いっぱいだろう。それがわかっているだけに、タツヒコの無垢な気持ちがせつなかった。
 サナエは二階の個室に入るとドアに鍵を下ろした。それから靴を脱いでテーブルにのり、天井に手をあてた。天板の一部がずれ、黒っぽい箱のようなものの一部が顔をのぞかる。サナエは慎重にそれをつかみだした。
 小型のレコーダーだった。
 個室の壁に赤外線付きのマイクを埋めこみ、部屋にだれか入ってきたときのみ、電源が入る。拾った音声はそのまま無線で天井裏のレコーダーに飛ばす仕組みだ。サナエがいないときに「沈黙の塔」の活動をチェックするのに最適で、週に一度、サナエは天井裏に手を伸ばして録音内容をたしかめていた。
 前にチェックしたのは先週のこと。そのときはまだジハード延期の話は出ていなかった。サナエは、だれかが階段を上がってこないかひやひやしながら、手早くレコーダーにケーブルをつないで手持ちのMPEG3プレーヤーに最新のデータを移した。
 「タツヒコがいると、お店繁盛するみたいね」なにくわぬ顔で一階に下りて、サナエは声をかけた。
 「そんなことないって。サナエさんがいないとだめなんだよ」
 「なに言ってんの。じゃあ、またあしたね」
 作り笑いを浮かべて店を出ると、路地を曲がったところで、プレーヤーを再生した。新たに録音されたのはおとといの午後八時二十分。ザゴラとムハマドがアラビア語で話していた。サナエは二人の会話に耳を傾けた。しばらくしてムハマドの口から聞きなれぬ名前が飛びだした。
 ハマノ――。
 浜野だろうか。たぶん日本人のことだ。ムハマドと長い付き合いで、つい最近、サイードに紹介したという。サナエはムハマドの交友関係に関する記憶をたぐりながら新宿通りまでふらふらと歩いていき、そこでスマホを取りだした。
 電話をかけた相手は、何人かいるヘロインの売りさばき先のうちの一人だった。取引のことでたまに連絡を取るから、いまかけたところで怪しまれはしない。
 「やつがなにかしでかしたのか?」相手はハマノについて知っているようだった。
 「くわしくは言えないけど、ムハマドとどういう関係なのか知りたいの」それはムハマドに対してなんらかの疑念をサナエが抱いており、組織が一枚岩でないことを相手に印象づけさせるようなもの言いだった。当然ながら相手は面白がって話にのってきた。
 「ヤクとは直接関係ないぜ、ハマノは。フィリピンダンサーのブローカーさ。うちの組とも付き合いがある。だけどおたくの人間とどういう関係かなんてわらねえな。なにかあったのかい?」
 「たいした話じゃないのよ。ありがとう。またね」そう言ってサナエは一方的に電話を切った。ハマノについてあえて連絡先を聞きだす必要はなかった。
 サナエは緊急時のアクセスポイントである新宿中央公園に急いで向かい、ホームレスの一人に声をかけた。小便臭い男で、鼻水をずるずるとすすっているところを見ると風邪をひいているようだった。それでも男はロジャー・コーマンについて知識があった。

 十六
 気がついたとき、おれは薄暗いエレベーターの床に四つん這いになってへたっていた。まるで冬の寒さに耐えかねて動けなくなったカナブンみたいだ。たぶん十秒かそこらだろう。気を失ってしまったのだ。もしかすると長年、会社の健康診断を拒否しているうちに、血液がどろどろになって脳の血管が詰まりぎみになっていたのかもしれない。それがこのストレスで完全にアウトになった。でもあんな健康診断、不愉快になるだけでなんの役にも立ちはしない。だいたいどうしてこの年で、身長を毎回測らなきゃいけないんだ。いやがらせにもほどがあるぜ。
 だが脳の血管が詰まらずとも、遠からずそうなっていたかもしれない。空気はもはや四人の生命を脅かすほど薄くなっていた。これではほんとに爆弾でも使って穴を開けないとえらいことになりそうだった。
 「笛吹さん……」
 祐子がおれの背中に呼びかけてきた。それまでとは大ちがいのずいぶん小さい声だった。ふん、なんだよ、いまさら殊勝にしたってなんにも教えてやらねえぞ。それを態度であらわそうと、声のしたほうに丸めた背中を向けてやったら、いまよりも聞き取れる声でまたもやおれの名を呼んだ。小さな疑問符がおれの頭に灯った。専務の元愛人という地位を金科玉条のごとく、恥知らずなまでに傍若無人に振りかざす女にしては妙だ。いたずらをして母親から押入れに閉じこめられた女の子が発する怯えたような声だった。
 「笛吹さん……そのスマホ……」
 「なんだよ」
 おれはつぶやきながらもう一度、祐子の言ったことを反すうしてみた。
 スマホ……?
 右手でしっかり押さえたままのタッパーウエアにおれはかすんだ目をやった。村山が手にする懐中電灯の光がちょうどそこを照らしていた。起爆装置がわりのスマホはタッパーのふたの下にしっかり収まっていた。
 「電波が……圏内よ」
 人事部じゃ、いつもこうなのか。言ってることがぜんぜん見えなかった。専務との甘美な思い出に浸りながら霞を食って生きてるお局さま。面と向かってはだれも言わないが、要はみんなのお荷物……。そこまでぼんやりと考えたとき、おれはいっぺんに正気に返った。
 圏内だと?
 電波が?
 スマホが!?
 村山たちとの格闘で汚れた指で目をこすり、弱々しい光を浴びるタッパーのふたを凝視した。なかに鎮座するスマホの液晶画面の右上に、懐かしきバブル期の業績をしめす右肩上がりの棒グラフのようなものがそこにあらわれていた。
 しかも三本も!
 おれは短い悲鳴をあげて息を吸いこみ、本能的にタッパーに強烈な平手打ちを食らわせ、無駄だとわかっていてもできるだけ遠くにそいつをすっ飛ばした。
 「圏外に戻った!」
 叫んだのは村山だった。タッパーはやつの足下で光を浴びていた。
 「み、見ろよ!」おれは過呼吸になるのを必死にこらえながら言った。「冗談じゃないんだよ。メルアドなんか教えられるわけないだろ。電波なんて不安定なものさ。なんかの関係でアンテナが立ったり、立たなかったり。そんな状態で、メルアド言ったらどうなるよ」
 「やっぱり知ってるんじゃないですか、そのスマホのメルアドが起爆を左右するって」
 糾弾する村山を祐子が押しのけ、ついでに四つん這いのままのおれの体も両手でわきへ押しやった。「どいてよ!」祐子はシャネルのトートバッグから自分のスマホを取りだし、さっきまでタッパーがあった場所にそれを突きだした。
 おなじことはすでにエミもやっていた。電波のつながるところを見つけて助けを求めようというのだ。
 「だめ、ぜんぜん立たない! もう、なんでよ!」祐子は天井をあおいだ。
 「電話会社によってちがうんですよ。わたしのは一本だけ立ってます!」エミは床に這いつくばるようにして電話をかけはじめた。もちろん一一九番だ。「つながった!」
 その言葉を聞いたとき、おれのなかで安堵と焦燥感が同時に高まり、脳のてっぺんで拮抗した。そしてよからぬことを本気で祈ったら、ほんとにそのとおりになった。
 「だめ……切れちゃった」
 あとは何度やってもつながらなかった。村山のスマホは祐子のとおなじ電話会社だったが、あいにくおれのはエミのとおなじだった。三人の厳しい視線を浴び、しぶしぶおれはもう一度、さっきの場所に這いつくばり、電話をかけさせられた。なんとかズルをしたかったが、村山が刑務所のサーチライトのように懐中電灯を向けてるから、エミとおなじようにやらざるをえなかった。
 三人はがっかりしたが、おれはほっとした。結果はおなじだった。だが降ってわいたような望みがついえた途端、おれのなかに深い失望が現金にも鎌首をもたげた。同時にエレベーターのなかの空気が一段と薄くなったような気がしてきた。
 時間ばかりがじりじりと過ぎていった。
 「あのスマホが使えればいいのに」村山が悔しそうに言った。起爆装置がわりの携帯は、四人の契約先のどれとも異なる第三の電話会社の電波を受信したのだった。
 その刹那、おれはライフセーバーたちがひまつぶしに海岸でよくやる旗取りごっこのように、プラスチック爆弾を詰めたタッパーに飛びつき、勢いあまって反対側の壁に激突して頭から床に落ちた。「聞いた話だが、こいつにつながってる雷管は、女のあそことおんなじくらい敏感なんだそうだ。まあ、女に無縁のおまえなんかにゃ想像するしかない感覚なんだろうけどな。だからこのなかのスマホを使おうなんて考えないほうがいいぜ」
 村山は憮然として、おれのことを本気で糾弾しだした。「あなたが会社でなにをしようと勝手だが、無関係の人間を巻きこむのは許せない。メルアドを言って起爆の恐れがあるのなら、マネーロンダリングの報酬をどうやって受け取るか言えよ。会社でどんなにえらいか知らないが、あんたのしてることは犯罪だ。それも最悪の犯罪だ。だから威張り散らすのもいいかげんにしろよ。むかっ腹が立つ。あんた、人間として最低なんだよ――」
 「だまれ、この類人猿野郎。おまえがしゃべると空気の無駄なんだよ」
 頭に鈍痛を覚えながらおれは必死に応戦した。頭が痛むのはたったいま壁にぶつけたからだろうか。そうでないとしたら、ついに血中酸素の減少が始まって脳に赤信号が灯ったのかもしれない。おれは薄闇のなか、ぶつぶつと呪文のようにしゃべりつづけた。よっぽど空気の無駄だった。
 「ここにはおまえみたいな下層社会の人間が吸う酸素なんてこれっぽっちもないんだぜ。どうせ生きていたって、みじめな童貞人生を送るだけなんだ。だったらいっそ、どれだけ長いこと息をとめていられるか挑戦してみろよ。うまく行けば、気づかないうちに昇天して、人に小ばかにされるつらいだけの人生に思いがけず早くおさらばできるってもんだろうよ」
 目をあげると、赤鬼のような形相の村山が会社が配備した特殊警棒を握りしめ、体を震わせていた。ハイヒールキックを受けた左目の傷からふたたび血がたれている。興奮して血流が増しているんだろう。その下手人である祐子はいま、殊勝にも照明係を交代し、いまやせまい鉄籠の主とならんとしている警備員さまの尊顔をライトアップしていた。元自衛隊員とか言っていた。こんなやつに一撃されたら、やつが窒息死するより先におれのほうがお陀仏になるだろう。たぶん。
 「なんだよ。やるのかよ」
 心にもないことを口走りながらも、おれはタッパーをエレベーターの隅っこに押しやり、ゆっくりと立ちあがった。
 武器?
 おれはワイシャツのポケットに刺さったクロスのボールペンを小太刀のように抜き、やつの目の前にかまえた。
 やつはひるまなかった。
 「報酬はどうやって受け取るんだ? 口座振り込みか直接なのか。早く教えろ。もう容赦はしないからな。これで一発殴れば腕だって脛だって簡単に折れる。頭は外してやる。しゃべれなくなったら困るからな。本気だぞ。甘く見るな」
 そのとき五人目の同乗者とも言うべきボイスチェンジャーの使い手が、得意の平板な声をふたたびあげた。
 「メコンプレックの大時計の売却先でもいいんですよ」
 「それでもいいです。メコンなんとかの大時計。教えてください」
 エミだった。
 祐子とともに村山の背後に隠れている。だが申し訳ないが、その大時計とやらについては、ウソ偽りなくさっぱりわからないんだ。外のいい空気でも吸えば記憶がよみがえるかもしれないが、こんな劣悪な衛生環境の下では頭も回らない。
 「そうすれば村山さんだって暴力はやめて――」
 「やりたくはないけど、この人が口を割らないんだ。生き残るためには、多少の手荒なまねもしなきゃならない。緊急避難ですよ」ランボー気取りの勘ちがい警備員は、一撃必殺の武器でいきなり襲いかかってきた。
 ぎょっとして首をすくめ、反射的に目が閉じたが、そこに極楽の花畑が映ったりはしなかった。ガツンと耳障りな音がして破壊されたのは、おれの頭じゃなかった。怖々、目を開けると、やつはおれの隣の壁に向かって二発目をくりだしているところだった。やつが破壊しているのは壁じゃない。その上にある映っているかどうかも判然としない防犯カメラだった。
 「こんなんで責任取らされちゃたまらないですからね」
 ずいぶんな念の入れようだな。
 感心している場合じゃなかった。準備万端、やつは警棒を頭上に振りかざしていた。それを握りしめるやつの拳におれは意識を集中した。それがちょっとでも動こうものなら、専務の元愛人が放った得意技なんかよりもずっとすばやく銀色のペンの先端を、こんどは外すことなくどちらかの目玉に突き立ててやるつもりだった。
 「さあ、早く教えろ。外に出られればそれでいいんだ。あとのことは口をつぐんでやる。約束する」
 「人質を取ったテロリスト相手の交渉人って感じだな。一度でいいからそういうの、やってみたかったんだろ? わかるぜ。おまえみたいな連中は、いつだってそういう妄想ばっかりが頭に渦巻いている。それを実行できるときが来て、さぞかし爽快な気分だろうよ」
 特殊警棒の黒いグリップには汗が光っていた。
 やっぱりそうだ。
 こいつビビッてやがる!
 さすがは実戦経験ゼロの自衛隊に所属していただけある。アメリカ海兵隊あがりとはわけがちがう。見掛け倒しの木偶の坊だ。こんな野郎にやられてたまるか。こんどはおれのほうに大いなる自信がみなぎってきた。同時に冷えピタシートをおでこに張ったときみたいなクールな気分も取り戻した。片手で大銀行の複雑かつ責任重大な仕事をこなしつつ、もう片方の手で自己実現に向けたアルバイトにもしっかり精を出す。そんな一人前の男としての美学が頭の中心に帰朝した感じだった。
 「でもまあ、よく聞きたまえ、優秀な警備員の村山さんよ。おれはなんにも知らないし、たとえ知っていてもおまえなんかにしゃべるつもりはこれっぽっちもない。腕をへし折られようが、足を折られようが、おれの口は開かんだろうよ」
 「甘いな、笛吹さん。あんたは拷問の真実を知らないんだ。映画やドラマじゃ、拷問を受けても口を割らない容疑者ってのがよく出てくるが、戦場の現実はちがう。ベトナムはもちろん、最近じゃイラクでもアフガニスタンでも拷問は日常茶飯事だ。そして全員がなにもかもしゃべってる。助かるためには、ありもしないことまで想像して作りだすぐらいだ。痛みを避けるために人間が取る行動ってのは、本能的なものなのさ」
 「ふゅー、すげえ勉強家だな。いったいどこのマンガ喫茶で仕入れてきたんだ? でもよく聞けよ。おれが言ってるのはそんなことじゃないんだ。おれの体は、田舎の山奥育ちのおまえさんみたいに屈強にはできちゃいない。だから手足を折られりゃ、たちまち倒れて動けなくなる。それで痛くて痛くて、泣きわめいて、おまえたちが欲しがるものについて説明するどころでなくなったらどうなると思う? 気の短いおまえは、専務の前で大股開いたそこの美人ちゃんが逆上することもあって、ついぞ、おれの肝心要の眉間あたりにその原始人の棍棒をぶっつけてくるだろうよ。うへっ、そうなったら――」
 ランボーは黙ったままだった。目は元の気弱な警備員に戻っている。
 カット、カット!!
 こんなんじゃ、ヒーロー映画は撮れやしない。役者交代だ。ギャラは払わんでいいぞ。監督ならそう騒ぐだろう。
 「おれが死んだら、どうなるかな? それよりもおまえさんの棍棒はもっと大事なことに使わにゃなるまい。ほら、深呼吸してみろよ」そう言っておれのほうが太極拳よろしく鼻から深々と空気を吸いこんでみた。途端に咳きこんだ。
 まるで監禁性気管支炎。
 それくらい空気が悪くなり、とりわけ酸素が減っている。地球の化石資源とおなじ。消費過剰だ。おれはボールペンを下げ、両手をひざに置いて背中を丸めた。「うぅ、つらいぜ。この年にはこたえるな、この環境。なんとかせにゃ」そう言って顔をあげたとき、祐子によってライトアップされた村山の顔のなかで、ようやく片方の目が人間らしくきらりと光った。
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