二十九~三十二

文字数 14,388文字

 二十九
 白石は床にひざをついたまま、どことなく生活感のある小屋のなかを見回した。
 臭いも気になった。
 撒き散らした殺虫剤で鼻が麻痺していたが、それが落ち着いてくるにつれ、腐敗臭にも似たかすかな甘い香りが小屋のなかに漂っているのに気づいた。傷ついた夏崎の足に菌が取りつき、化膿が始まったのだろうか。
 「出所して、知り合いがやってる運送会社になんとかもぐりこんで、わたしは寮に入りました。それから半年ぐらいたった冬のある晩、どこで見つけたのか妻がそこへやって来たのです。かつての健康的な姿はもうどこにもありませんでした。やつれ果ててひどい顔をしていた。ひと目でわかりましたよ。あなたに捨てられたんだって」
 「なに言ってんだよ。彼女がおまえの――」
 「そんなふうな呼び方しないでください」夏崎がにらみつけてきた。
 「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ。ごまかすつもりはない。事実は事実なんだから。おれはあの人と付き合っていた。女房と別れて一緒になろうと思ったのも本当だ。けど、あの人がおまえの奥さんだとは知らなかった」
 「法律的には離婚が成立していましたから、元妻です。だから他人がなにをしようとかまわない。ただね――」明かりにひかれて扉の隙間から入ってきた虫が、夏崎の胸にたかっていた。それを夏崎ははたき落とし、足ですり潰した。「法律は人の気持ちまでは整理してくれない。だから何年かしてのこのこ帰って来たって、それですむってもんでもない。ほかの男に抱かれた妻をわたしは許すわけにいかなかった」
 突如、白石は股間に仙痛を感じた。目の前にいる男の恨みがそこに注がれているようだった。
 「額を地面にこすりつけて謝る妻に、ひと言だけ告げたんです……死ねってね」
 白石は強い視線を送りつける夏崎の目にひきつけられた。その奥に潜んでいたのは、どんよりとした深い失意だった。
 「そしたらほんとにそうなった。玄関の前に柿の木がありましてね。首吊ったんです」
 ひざをついたままだった白石は、たまらず板張りの床に腰を下ろした。頭に重石を載せられたようにうなだれる。丸まった背中がそのまま固まってしまいそうだった。夏崎の妻は翌朝、死んで見つかったとまでは聞いていた。それが自殺だったとは――。
 「それが元でわたしは運送会社をクビになり、また路頭に迷った。悔しかったですよ。どうしてこんな目に遭わなきゃならないのかって。タクシーの運転手になったんですが、街を流しながらもずっとそのことを考えていました。逆恨みされて、あてつけで死なれて。なんてみじめな人生なんだって」
 小屋の腐臭が強まった。
 額の擦り傷から血を流した妻が天井から吊り下がっているような気になり、白石は思わず上を見た。アルコールランプのまわりを飛び交う羽虫がすこし増えただけだった。
 「出所したあと、娘は引き取らなかったんです。引き取ったら、犯罪者の烙印を押されたわたしが父親ということになる。そんなんじゃ就職だってできないし、まともな恋愛もできない。だから服役中に、施設を通じて養子を探している夫婦を見つけてもらい、中学にあがるタイミングでわたしの子どもでなくしました。前の里親とは大ちがいの良心的な夫婦で、とても大切に娘を育ててくれました。お二人には感謝してます。娘もよくなついて、肉親のように思っています。ただ娘と連絡だけは取り合っていました。約束したことがありましてね」
 「それがおれをはめることだったのか」
 片方の口元をわずかにあげ、夏崎はにやりとした。「わたし一人じゃ、無理だったんですよ。失われた時を取り戻すこと。それがわたしたちの願いです。だから娘も計画に参加してくれた。人生を賭けてね」
 寒気がした。
 こいつら、親子でいったいなにをたくらんでる? だがここで屈するわけにいかない。いまはただこの場を切り抜けることだけを考えろ。「二十二年とか言ってたな。もう時効だろ」
 「まだそんなこと言うんですか、白石さん」
 「現実的な話さ。だけどいまさら冤罪の再審は無理だろうし、自殺した奥さんのことをおれに恨まれてもな」夏崎が納得しないことを理解しつつ、白石は自らを奮い立てるように言い放った。「もっと現実的な話をしよう。おまえは今晩じゅうに治療しないと取り返しのつかないことになる」
 「元々、取り返しのつかない体なんですよ」砂浜を追われる海亀のように夏崎はのろのろと這いだし、戸棚のペットボトルをつかんだ。「進行性の胃がんなんです。薬飲まないと、ひどく痛む。だけどきのうから飲むのやめました。さっきだって足の痛みを抑えようと風邪薬を飲んだだけです。いまはそっちでまいっちまいそうですから」
 「こんな場所で死ぬつもりか」
 「かまいませんよ。もう十分、あなたを苦しめた。満足してます。所詮、下請けの人間だ。できることなんて、せいぜいこんなもんでしょう」そこまで言うと夏崎は激しく咳きこんだ。
 無線機が壊れている以上、自力下山せねばなるまい。この男はもう歩けない。だったらいまから一人で下りてみるか。
 待て。
 こんな時間だ。夏だから四時ごろには明るくなるだろう。それまで眠って体力を回復させ、一気に下山したほうが得策だ。それでなにがなんでもタクシーを呼び、東京まで帰る。午前八時の会議に遅刻せずに出席するために。
 考えていることが伝わったのか、夏崎が忠告するように言った。「あしたの会議、間に合いませんよ。新幹線の始発に乗ったって、到着は九時すぎ。タクシーぶっ飛ばしたって四時間はかかる。逆算したら四時には車に乗ってないといけない。それまでに山を下りられると思いますか?」
 こんどは白石が夏崎をにらみつける番だった。「おれの人生だ。おまえに邪魔される筋合はない」
 「あなたはだいじょうぶですよ。大会社の関連会社で役員にまで上り詰めた。退職金もたくさんもらえるんでしょう。信奉する専務主催の会議に一度ぐらい無断欠席したからって、クビにはならんでしょう」
 時間の無駄だ。白石はもはや答えなかった。
 そのときだった。無線機を覆っていたブルーシートを放り投げた床に、黒っぽい筋が伸びているのが見えた。白石は無線機の前から立ちあがり、そっちに近づいた。
 「白石さん……」夏崎があわてたような声をあげた。「そこは……」
 夏崎を見向きもせず、白石はシートを取り払った。黒い筋は一メートル四方の枠のようになり、埋めこみ式の取っ手のようなものが両側についていた。白石は取っ手を引きだし、有無を言わせず力を加えた。
 ぼこりと音がして枠が持ちあがった。下には真っ暗な空間が広がっている。白石は懐中電灯を持ってきてそこを照らした。木のはしごが伸びている。
 「地下室か」
 小屋の腐臭が強まったような気がした。このなかからだ。白石は床に腹這いになってさらに懐中電灯を地下室に突っこんでみた。上階の半分ほどの広さだったが、奥にテーブルがあり、非常食らしき麻袋がのっていた。そこで黒光りするものが目に入ったとき、白石はまだ運のかけらが残っていることを感じ取った。
 上階の無線機の予備かもしれない。それを操作すべく、白石は鉈を片手に木のはしごを慎重に下りていった。

 三十
 夏崎巌の自宅は袋小路の奥だった。
 アロー・コネクタ産業から車ですぐのところだ。サナエはちんぴらたちから奪ったワゴン車を降り、年季の入った二階建ての家のようすを確かめた。どの部屋も真っ暗で、しんとしている。
 十一時半だった。
 熊谷から渡された板鍵をドアノブに突っこんで玄関を開け、明かりをつけた。一人暮らしのようだったが、家のなかは整然とし、洗濯物がちらかってることも洗い物が台所で山積みになってることもなかった。
 笛吹の携帯はつながらないままだった。サナエは居間にある事務机から調べだした。夏崎がなにをたくらんでいるか不明だが、せめて笛吹の居場所、もしくはC4のありかだけでもつかまねばならない。しかしこのとき、サナエのなかで警察官として認めがたい考えも芽生えつつあった。プラスチック爆弾が火を噴くのはもはや防ぎきれない。しかし笛吹だけはその業火から逃れてほしい。さもないとジャカルタの組織が放った浅黒い顔のコンビ――家族を殺した男たち――に至る重要な人物が一人失われることになる。
 だめだ。
 サナエは弱気を振るい落とそうと、平手で自分の頬を力いっぱい叩いた。
 妥協するわけにいかない。
 空き巣さながらにサナエは、机上のブックエンドにはさまれたファイルのたぐいを片っ端から調べていった。新聞記事を貼りつけた古いスクラップブックがあった。始まりは一九九二年八月八日の朝刊記事。
 輸入会社役員がヘロイン2キロ隠す 千葉・成田
 事件関係ものでは、麻薬取締法違反の罪に問われた夏崎巌被告に対し、懲役三年の実刑判決が言い渡されたことを伝える十二月一日付けの朝刊記事のほかは見あたらない。あとに貼りつけてあったのは、総合商社・東洋開発が実験動物の輸入を開始したとの経済専門紙の記事や、帝都大洋銀行と東洋開発を中心とした企業グループによる中国奥地の巨大ダム建設計画、それに二社の人事異動を詳報した専門紙の切り抜きだった。
 日付がもっとも新しかったのは、帝都大洋銀行のバックアップセンターに導入されたシステムにウイルスが混入したことを伝える週刊誌の記事だった。銀行側は事実無根のコメントを出していたが、サイードの話はもともと、笛吹本人の説明に基づいているはずで、銀行側が事実を隠蔽している可能性が高かった。つまり状況がそのままなら帝都大洋銀行は、バックアップ機能の障害という非常事態に陥っていると考えられた。
 ひきだしの捜索に移り、書類や手紙のたぐいをチェックした。そのなかに気になるものがいくつか見つかった。三か月前に受診した人間ドックの報告書では、熊谷が言ったように胃に悪性腫瘍が発見されている。その後に受診した専門病院での精密検査では、進行が著しく、手術も困難と指摘されていた。
 一番上の鍵のかかったひきだしをこじ開けたとき、サナエは古びた封書を発見をした。なかに契約書のようなものが入っていた。日付は平成七年三月十三日。出所後の話だろう。養子縁組の成立をしめす弁護士作成の覚書だった。
 夏崎巌には娘がいたのだ。
 覚書には、養父母両名の氏名は記されていたが、夏崎の妻の氏名はどこにもなかった。熊谷によれば、笛吹が引き起こした冤罪事件により、夏崎一家は離散したという。だったらきっと妻も遠からず離婚したのだろう。そして前途を悲観したのか、夏崎は娘を養子に出す決心をした。
 サナエはすでに開けたひきだしに戻り、年賀状と手紙の送り主をチェックした。そのなかの何通かには、養父母の苗字の下につづく娘の名前があった。法律上の縁は切れても、親子の絆は絶たれなかったわけだ。そして一通の封筒がサナエの目を釘づけにした。帝都大洋銀行本店営業部お客さまサービス課からのもので、差出人は夏崎の娘だった。
 サナエの脳裏を青白い閃光が突き抜けた。
 笛吹が洗った金を高性能プラスチック爆弾を使って横取りしようとたくらむ夏崎はきのうから、もう一人の宿敵、白石を連れて山形出張に出かけている。そしていまもって東京に戻って来ていない可能性が高かった。それでもなお、夏崎はバックアップシステム障害という千載一遇の好機に乗じ、悲願を成就させることができた。
 お客さまサービス課に所属するこの娘だ。
 「驚いたな」
 いきなり声がしてサナエは飛びあがった。そしてつぎの瞬間には身をひるがえして、ソファの裏に隠れていた。即座にデイパックに手を突っこみ、折りたたみ式のアーミーナイフを抜きだす。警察に見つかると厄介だから、銃は持ち歩かない。しかしワインのコルク抜きもついている小型ナイフでくぐり抜けられない修羅場は、これまで経験したことがなかった。
 相手の顔がちらと見えたが、闘争本能が邪魔してすぐには武器を収められなかった。
 「さすがは闘士だ。動きが機敏すぎる。きみの右に出る者はいないだろう」彫りの深い顔だちが映える濃紺の開襟シャツをまとったサイードが、居間の入り口に立っていた。サラ・スークから飛んできたのだろうか。ムハマドとザゴラの姿はない。一人でやって来たようだった。手にはスポーツバッグを持っている。これからどこかに出かけるようにも見えた。「日本人は家に鍵をかけないのかな。それとも窓を破って泥棒みたいに入ったのか。それにしては、窓も割れているようすがない。サナエ、きみは壁抜けができるのか?」
 「冗談はよして。ほら、これ」サナエは玄関の鍵をサイードに投げた。「どうしても調べたいことがあったの。それで夏崎巌の会社に行ったのよ」
 「調べたいことね。わたしとしては十分説明したつもりだったのに。信用してもらえなかったのかな。すこし残念だ」
 サナエは気取られぬよう深呼吸をし、できるだけ落ち着いた顔を取り繕った。しかし的確な言葉が出ない。頭のなかで火が燃えているようだった。「ごめんなさい。でもいくらあなたがジハードの密使でも、実戦の勘っていうのがあるのよ。あなたもそうかもしれないけど、わたしだって数えきれないくらい戦場を経験しているの」
 サナエとおなじ理由からサイードも銃は持っていない。だからナイフとナイフの戦いとなりそうだった。もちろんそれは非常時の話だ。いまサナエは順調にペースを取り戻しつつあった。議事堂爆破というジハードを目前にひかえた極度の緊張が、仲間内に対してさえ猜疑心を生みだしている。そんなたたずまいをうまいこと演出できそうだった。
 「この夏崎って男がどうして突然、ムハマドに接触してきたのか。不自然だと思わない? つぶすところはつぶしておかないと、計画をいざ実行に移したとき、足下をすくわれてしまう」
 「卓見というのかな。こういうのを日本語で。でもきみの言うことも確かだが、一方できみは指揮官であるわたしを侮辱している。ちがうかな?」
 「はっきり言うわ。あなたは日本人を簡単に信じすぎるくせがある。日本人は全員が勤勉なわけじゃない。隙あらば金もうけを考えてる人のほうがいまは多いのよ。そんな連中に組織が利用されちゃいけないでしょう」
 「相談してくれたらよかったのに」
 「それは謝るわ。でもあのとき、あなたに言ってたら反対されそうな気がしたの」
 「で、ここを調べてなにかわかったかい?」
 サナエは首を横に振った。「ここじゃなんにも。でもね、ムハマドはカジノバーに出入りしてるらしいの。知ってた?」
 「初耳だな。さっきまで一緒だったが、なにも言ってなかった」
 「イスラムの戦士としちゃ、言いだしにくい話なんでしょう。でもその借金が普通の額じゃなかったら? 夏崎巌からあなたに会わせるよう迫られたのも、そこにつけこまれたからじゃないかしら。それに夏崎が持ってきた話もおかしいわ。銀行の上層部が金を洗うのに手を貸すなんて聞いたことないもの」
 サイードはスポーツバッグを持ったまま近づき、夏崎の机上に散乱した手紙のたぐいに手をつけた。「悔しいが、サナエの言うことにも一理あるね」
 「きょう始末した若い刑事もそうだけど、だんだん警察が近づいてきてる感じがするの。これも実戦を積んできての勘よ」
 人間ドックの報告書を手に取り、サイードが言った。「この男が警察官だってことかな?」
 「そうよ。新しい資金洗浄先を見つけて恩を売ったように見せかけて組織に接近する。警察のやりそうなことよ」
 「でも彼はこの近くの会社の社長なんじゃないのか?」
 「会社といっても町工場よ。それほどの規模じゃないから、いくらでもカモフラージュできるわ」
 「カモフラージュね。いまのサナエもそうかもしれない」
 「え?」焦りが顔に出そうになるのをサナエは必死に堪えた。
 「わたしはたしかに人を信じすぎるかもしれない。だけど逆に一度疑りだすととまらないくせもある。その意味で言うと、きみはなんだか一生懸命、わたしの前でなにかを隠そうとしているように見えてしまうんだ」
 「あなたに相談しなかったのは悪かったわ。でもわたしがしたことはすべてジハードを成功させるためなのよ」
 「なにか証拠を見せてくれないか」
 「証拠?」
 「きみがまだわれわれの仲間である証拠さ」
 「そんな――」
 「能村和幸という若者は知ってるね」
 サナエは絶句した。太極拳で身につけた自然体の極意はもう役立たなかった。
 「いまから十二年前、テヘランの日本大使公邸にロケット弾が撃ちこまれたときの唯一のけが人だ」
 「覚えてるわ。わたしが撃ったんだもの」ひざが震えだしていた。フローリングの床にいまにも崩れそうだ。
 「十八歳になった彼は、車いすバスケットの選手として有明のチームに所属している」
 「…………」
 「サナエ、きみはそこに彼をしばしば訪ねているね……いまも」
 「それは――」
 闇雲に反論しようとしたサナエをサイードが手をかざして制した。「ジハードは、アメリカとその同盟国の愚行に鉄槌を下すものだ。日本の国会議事堂だろうがテヘランの大使公邸だろうがちがいはない。そして一度、標的の内側にいた者はどんな相手であれ、敵だ」
 最後の言葉が胸に響いた。そしてサイードがなにを求めているかも察しがついた。これはテストであると同時に処刑でもある。
 「和幸くんは十八歳。いくら車いすでも遊びたい年ごろだろう。この時間だってまだ外で友だちと騒いでいるかもしれない。だからサナエ、電話を入れてくれないか。もし外にいるなら、すこし話をしようって」
 練習試合のあと、コーチたちと食事をしている。二時間ほど前、和幸からそんな電話がかかってきた。サナエは時計を見た。零時前だった。この場でサイードを刺殺すべきだろうか。だがそのあとのことが心配だ。ザゴラやムハマドの目をどうごまかせばいい。
 逡巡しているひまはなかった。
 「いいわ」それだけ言うと、サナエは真っ青な顔で和幸に電話を入れた。三回目のコールで和幸が出た。
 「よお、カナちゃん!」にぎやかな場所らしく和幸はうれしそうに話しだした。

 三十一
 はしごを下りきったとき、湿度がむせ返るほどに高まった。床に足がついたときにどきりとした。板張りでなく、黒い地面がむき出しになっている。切れかかった懐中電灯を叩いて電球を灯したら、足下で細長いものがぬらりと輝いた。
 巨大なミミズだった。
 甘い香りはいまや地下室じゅうに漂っていた。スーパーで大量に買ってきた舞茸のパックをいっせいに開けたときのような感じだった。
 夏崎の悔しそうな声が降ってくる。「白石さん、そんなところ、出てきてくださいよ」
 「ははん、おれの目がごまかせると思ったんだろう。そうはいかないぞ。さすがは国営施設だ。用意周到ってやつだな。言っとくが、夏崎。おれはインドネシアが長かった。ジャワもスマトラもスラウェシも、あの国はジャングルだらけだ。出先で大水に遭って帰れなくなることだって、しょっちゅうだったんだ。森の奥で野宿せにゃならんことだってあった。それにくらべりゃ、なんだよ、こんなの。屁でもないぞ。おまえは自分ばかり苦労してきたみたいなことを言ってるが、おまえには想像もつかんような目におれだって遭ってきてるんだ。マフィアに命を狙われることもあったし、誘拐されそうになったこともある」
 地下室はたぶん貯蔵庫だったのだろう。丸太を並べた壁の奥には木戸がある。そっちは受刑者たちが使用する道具かなにかを収めた用具室のようだった。ただどこを見ても、巨大キノコが生えていたり、エノキダケが足下に密生しているようなことはなかった。
 食料品を入れたとおぼしき麻袋が載ったままの小さなテーブル――構外作業を見守る刑務官が座り、貯蔵品のチェックしたりしたのだろう――に、白石がいまもっとも求めている電子機器が載っていた。弱々しい明かりのなかで黒光りしている。上にあったものより新しそうだった。
 白石は大声で言った。「おまえたち下請けの連中はいつもそうだ。視野が狭いんだよ。目先の利益で一喜一憂する。そりゃ、おれたちだって相場の変動には敏感だよ。だから午前と午後で仕事に差が出るのもわかってる。だけど仕事ってのはトータルで考えるもんだ。なにが全体の利益にかなうかってな」
 「わかってますよ。資本主義ですから」声ははしごの真上から降ってきた。夏崎はそこまで這ってきていた。「白石さんたちがわたしたちのような者を踏みにじるのは道理にかなっているんですよ。それで、虐げられた者たちにできることと言えばこんなことだ。八つ当たりみたいなもんです。しかも失敗して自分がこんな大けがするなんて。まったくばかげてて惨めな話です。でもほんと、これぐらいなんですよ。わたしは落ちるところまで落ちた。あなたを見返してやろうにもやっぱりできそうにない。足は痛むし、地下室も見つけられちまった……さあ、救助隊でもなんでも呼ぶがいい」
 「言われなくてもそうするつもりさ」白石はテーブルに近づいた。甘ったるい香りが一段と高まった。
 「おねがいです。できたら、わたしのことも治療してくれるよう頼んでください。風邪薬のせいで、すこしは痛みが散ってるんですが、それもいつまで効くか……それに熱がひどくなってる。寒いんですよ。ああ、ほんとばかみたいだ。それでなくとも命の残り火がわずかだってのに、こんなところで時間を浪費しちまった」夏崎は悔しそうに吐き捨てた。「こんなことなら娘を巻きこまなきゃよかった」
 「おい、まさかゴルフ場の帰り道に迂回路の表示出したの、おまえの娘だったのか」
 「ちがいますよ。娘にはもっとほかのことを頼んだのです。わたしが刑務所仲間から聞いたような話です。職場のイントラネットをハッキングして防災センターで管理している防犯カメラの収録映像をいじるとか、エレベーターの換気口に細工するとか、そういったたぐいの。娘との約束を実現する上で、刑務所で得た知識がどれほど役立ったことか。でもいまとなっては、それもなんだかむなしいような……所詮、勝つのはあなたで、わたしはいつも負けてばかりいる。中学のころはなんのちがいもなかったのに、いまじゃ人間のレベルまで変わってしまったみたいだ」
 鉈をテーブルに置き、白石は無線機の電池を確かめた。液漏れしているようすはない。恐るおそる電源を入れると、先ほどとおなじくスピーカーからボッという音があがった。問題はこれからだ。
 「運命だよ」
 いまや鼻先で発せられているかのように強まった甘い香りを吸いながら、白石はダイヤルをいじりだした。
 「すべては運命のなせるわざだ。中学のときだって、ほんとは平等なんかじゃなかった。たとえば、おれのうちとおまえのうちじゃ、父親の仕事がちがったし、当然、所得もちがった。それに学校じゃ、おなじこと習ってても、家のなかじゃ、ぜんぜん次元のちがう話をしてたんだ。それなのに世のなかは平等だって思わされてきただけさ。だから夏崎、神さまに課された運命には抗わないほうがいい。うらぶれた町工場の西日しか入らない事務室でじっとしていれば、いずれ運が開けるかもしれないんだぞ」
 無線機は突如、電源が落ちるようなこともなく、新品同様だった。あとはうまい具合に交信相手を見つけるだけだ。白石はマイクにかじりついてSOSを叫びつづけた。強烈なサーチライトを輝かせた警察のヘリコプターが猛スピードで飛んでくる。その勇姿が脳裏をかすめ、白石は興奮してきた。
 これで助かる。
 ほんとにこのクソ山から抜けだせる。
 ヘリに乗りこんだら、まずは料金交渉をして、なんとか今晩じゅうに羽田まで乗せて行ってもらえる算段をしよう。そうしたら今夜の労苦はいっぺんにちゃらになるじゃないか。二時間でもいい。家のベッドでぐっすり眠り、晴れ晴れとした気分で専務主催の会議に遅刻することなく臨める。そこで専務ににこやかに声をかけ、アイコンタクトを取るのだ――。
 だが白石はそのとき、心の片隅に生じつつある不安を押し隠していた。もはや夏崎は言葉すくなくなっていたが、代わりにもう一人の白石巳喜男が、地下室の無線機にかじりつく男のうしろに立ち、念仏を唱える修行僧のように余計なことをぶつぶつとつぶやきだしていた。
 そんなにうまく行くか?
 ヒーロー映画じゃないんだから、ナイトフライトのヘリなんてそう簡単には出してもらえまい。せいぜい朝になって山岳救助隊がえっちらおっちらと山を登ってくるのが関の山じゃないか? それにおまえ、アンテナは確かめたか? 無線ってのはアンテナがなきゃ話にならないんだぞ!
 念仏僧はしだいに太鼓まで叩きだし、声を張りあげてきた。やがてスピーカーから発せられる無意味な雑音とともに、そのぶつぶつ声は極まり、白石の頭のなかで大きな渦を巻きだした。
 わかったよ。
 白石はいま一度、考えてみた。
 まずはアンテナだ。
 無線からは一本の配線が伸び、それが長々と地面を這っている。だがその先端は天井でなく、木戸の下の隙間からその内側へと忍びこんでいる。あの向こうからさらに屋外へ伸びているのだろうか。
 いや、待て。
 この小屋はずいぶん長いこと使われていない。夏崎はそう言ってなかったか? それなのにとっくに賞味期限のきれたミネラルウォーターを口にしても夏崎はなにも言わなかった。しかも奇妙な生活感が漂っている。まるでついさっきまでだれかいたような気配もした。
 白石はマイクを置き、目の前の麻袋に手をかけた。甘いキャンディーのような香りは明らかにそこから放たれていた。
 なかには乾パン、缶詰、缶入りドロップ、カップ麺などが入っている。どれも一年以上前に製造されたものだった。
 そのなかにコンビニの袋があった。
 甘い香りはそこから放たれていた。思いきってそれを開いたとき、胃袋が絞りすぎの雑巾のようによじれた。
 生肉、それもレバーのようだった。
 「おい、これ……」
 腐敗が始まっていたが、鼻を突く悪臭に転ずるにはちょっと早かったようだ。むしろ食欲をそそる香りを生みだしている。まるで熟成させているかのようだった。といっても絞めてからほんの数時間だけ。いくら長くても一日か二日――。
 「まだ新しいぞ」懐中電灯を近づけるなり、白石は声をあげ、振り返った。
 はしごが消えていた。
 白石は目をしばたたき、切れる寸前の懐中電灯をつかんだ。
 バタンと大きな音がした。
 衝撃で明かりが消えた。
 真っ暗になった。
 上階を煌々と照らしていたランプの明かりも入ってこない。白石は懐中電灯を叩いた。
 光が復活したとき、白石はそれまでとは比べものにならない、むせかえる息苦しさのなかにたたずんでいた。二メートル半ほどの高さのところにあった天井のどこを見ても、上階に通じる四角い穴は開いていない。夏崎が上から閉じたのだ。弱った体に鞭打ち、重たいはしごを音もなく引き抜いて。
 白石の内に膨らんだ憎悪の黒い気泡が破裂しそうになったとき、金づちを連打する絶望的な音が頭上で響きだした。

 三十二
 和幸とはこっちのワゴン車を目印に、東雲公園と東雲小学校の間の通りで待ち合わせた。
 零時四十分。
 こんな時間に会うのは初めてだった。年ごろの子だ。どきまぎしているにちがいない。
 「ごめんね、遅いのに」
 「うぅん、べつに。いつも寝るのもっと遅いもん」
 「そうよね、宵っ張りだものね」
 十中八九、溺死していると思われる小林良介たちから奪ったワゴン車を降りるなり、サナエは公園のほうに歩きだした。それに車いすがついていく。
 サナエはTシャツの下に冷たい違和感を覚えていた。異様な膨らみ方だったが、夜だから気づかれまい。できることなら、胸の間に貼りつけた爆薬をいますぐ取り払いたかった。が、強烈な視線がどこからか注がれているのがひしひしと感じられ、シャツのすそを直すことすらできなかった。
 車いすのタイヤは口笛でも吹くようにうれしそうに進む。六歳で両足を失った少年は、いまや筋肉質の大人の体形に成長し、もはや心身ともにサナエをはじめとする介助者の手を離れている。つぎの目標は車いすマラソンだとも言っていた。
 「高校最後の夏休みだもん。楽しまなきゃね。九月入ったらちゃんと勉強しろって親がうるさい」
 「お酒飲んでないんでしょうね?」
 「へへ……飲むわけないじゃん」
 「いままでお店にいたんでしょう。よくお酒飲まないで持つわね」
 「盛りあがったよ。ずっと試合の話してた」
 「どうだった?」
 「すげえ強かった。マジ、ビビッたよ。でも最後は同点に追いついてさ、もうちょっとで逆転できるところだった。でね、自分でも驚いたけど、息切れしなかったんだよ。あんなに動いたのに。たぶんようやく肺がついてきてくれるようになったんだね」
 「やったじゃん」それは自らが放ったロケット弾のせいで肺に穴が開いたかつての少年に対する贖罪の言葉でもあった。
 「カナちゃんに見せたかったな」
 二人は公園に入っていった。人気はなく、ねっとりとした夏の夜気に満ちている。広場の向こうにぼんやりと浮かぶ時計は、一時まであと十分を切ったことをしめしていた。ここに到着してから時間が過ぎるのが加速している気がしてならない。一秒が半分になったようだ。
 サナエはジーンズのポケットに右手を入れたままだった。デイパックはワゴン車に置いてきた。車いすの男の子の頚動脈をほんの五センチ切るだけだ。かつて英軍将校の首をはねたときのような大げさなナイフはいらない。小型の多用途アーミーナイフで十分だった。ものの数秒でことをなせる。
 鬼になれるのなら。
 左のポケットには自分の家族の写真が入っていた。知らぬ間にサナエはそっちにも手を突っこみ、プラスチックケースに入れた記念写真――事件が起きる一か月前、箱根に泊まったときに撮ったものだ――に触れていた。
 ジャカルタの二人組――。
 なんとしても見つけねばならなかった。家族の恨み、とりわけ父の無念を晴らすにはやつらを見つけだし、この手で葬るほかに方法がなかった。悲しみはサナエの上から消えたことがない。晩秋の雨雲のようにいつまでも頭上にたれこめまま、復讐の黒い涙を降らせつづけた。時はとまり、出口を求めて疼いていた。
 あと一歩だった。
 だからいま、サイードたちににらまれるわけにいかなかった。英軍将校の首をはねたときも似たような罪悪感にさいなまれた。でも今夜はわけがちがう。弟のように大切に思ってきた男の子の命をこの手で奪わねばならない。しかも今度はロケット弾なんて飛び道具でなく、肉の感触がじかに伝わる刃物を使うのだ。たとえアラブの騒々しい音楽が耳元で鳴っていたとしても、良心の叫びまではかき消せない。
 「どうしたの?」
 和幸に言われ、はっとした。サナエは押し黙ったままだった。折りたたみ式ナイフを握る手は汗でぬるぬるとして、赤いグリップをシャツで拭かねばうまく力を加えられそうになかった。
 「ごめん、ちょっと考えごとしてた。カズくん、すごいなあって。よくここまで頑張ってきたって」
 「なにしみじみしてんだよ」
 「だって着実に進歩してるじゃない。わたしなんかよりずっとすごい。わたしなんか、したいことがあっても空回りして焦ってばかりだもの」
 「いいじゃんか、大きな夢があるんだろ」
 車いすのタイヤがとまっていた。広場の銀色の明かりが十八歳の顔を青白く反射する。無邪気な子どものような微笑だった。
 「世のなか、夢のないやつらばっかりだ。だからなんでもいいから夢はあったほうがいい。でもさ、ぼくはこう思うよ。あんまりばかでかい夢ってのはちょっとなって。それよりも手ごろな夢を一つ一つものにしていくほうが確実だし、自信にもなるんじゃない。今夜は負けたけど、いい試合ができた。つぎはやつらに勝つこと。いまはそれしか考えてないよ」
 「車いすマラソンは?」
 和幸はげらげらと笑いながら首を大きく横に振った。「その前に大学受験だよ。親がうるさいから」
 サナエは写真に触れたままの左手をポケットから引き抜き、腕時計を確かめた。サイードのロレックスより一分でもいい、進んでいてくれ。零時五十八分をしめす文字盤の上で、無情な秒針が火がついたように先を急いでいた。
 サナエは和幸に気づかれぬよう右手もポケットから抜きだした。闘士の証となる汗まみれのグリップを握りしめたまま。
 「わたしも考え直したほうがいいかもね」
 「なにが?」
 すばやく和幸の背後に回りこみながらサナエは答えた。「へんな妄想ばっかり抱いてないで、もっと現実を見ようかなって」
 「妄想癖があったんだ」
 「まあね。三十七歳の独身女なんてみんなそうよ」
 時間がない。
 心を決めるんだ。
 だが混乱が頭に広がってあふれ出そうになっている。考え直すなら即刻、和幸のそばから離れろ。サイードとの約束は午前一時までだ。やつはいまもどこからかサナエのこと観察している。それが背筋にぞくぞく感じられた。もしここでサナエがシャツをまくりあげ、アルミホイルに包んだまま乳房の間にテープで貼りつけた残りのC4を取り払うようなことがあれば、やつは即座にスマホメールの送信ボタンを押すだろう。そうでなくとも、和幸が車いすから崩れ落ちぬままタイムリミットを迎えたら、やつは慈悲のかけらもなくボタンを押す。ジハードの名の下に。
 走れ。
 できるだけ遠くに。
 いまのサナエにできる“手ごろな夢”はその程度のことだ。そしてそれこそが贖罪なのだ。身勝手な願望を実現せんがために、その人生を台なしにした相手の命を、自らの命で購うのだ。破裂寸前の心臓がそう迫ってくる。
 あと一分をきっていた。
 パパ……。
 いまいる公園なんかよりずっと暗い淵に父、厚川二郎が落ちていくのが見えた。そこに差しだした娘の手からみるみる離れていく。
 いいの? それで。
 「カナちゃん、おかしいよ、ほんと」
 夏の夜空に向かって高らかに声をあげる和幸を、サナエは見つめた。「カナじゃないのよ」
 「え?」
 「わたしの名前。名簿には中尾香奈ってあるけど、そうじゃないの」
 和幸は薄暗がりのなか、サナエの顔を見あげ、そこに浮かぶものを読み取ろうとしていた。水銀灯の明かりが額の傷痕をはっきり照らしだしていた。サナエはもうそれを隠さなかった。
 「……芸名かなにか?」
 「うそなのよ……わたしね、あのとき、近くにいたのよ」
 「あのときって……」
 サナエが抱える御しがたい罪の意識を、和幸がつかみかけている。彼の泳ぐような目つきがそれを物語っていた。でも聡明な若者だ。もうとっくにそんなこと、気づいているのかもしれない。
 ロケット砲のトリガーを引いたのが彼女だってことも。
 「ごめん、カズくん。ほんとにごめん――」サナエは踵を返して闇のなかへ走りだした。
 乳房の谷間でスマホが鳴った。
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