九~十二

文字数 21,261文字

 九
 バスルームに充満する湯気のなか、サナエは耐えていた。
 忘れようにも忘れられない、忌まわしい思い出だった。
 この二十三年間、サナエはずっとその内側――絶海の孤島にある秘密の監獄のような場所――に閉じこめられている。十四歳といえば、思春期の真っ只中だ。無限の未来を夢見て、ありあまる生のエネルギーに身震いしているころだ。ところがサナエの前には突如、黒いシャッターが下りてきた。その先の人生に思いをはせることもできぬ、なにも見通せぬ分厚い暗幕だった。
 一九九一年、平成三年の暗い秋だった。
 父が川崎の多摩川沿いに建てたばかりの小さな家に、学校から帰宅して玄関のドアを開けた瞬間、サナエのなかで時間がとまった。廊下には腹から血を流して息絶えた兄がいた。奥の和室は真新しい畳と左官職人が丹念に塗りあげた壁は真っ赤に染まり、ところどころ暗褐色の固形物のようなものが飛び散っていた。その血の海のまんなかで母が全裸で倒れていた。サナエが受け継いだ大きな瞳はもうどこにもなかった。頭部は鼻から上が粉々に吹き飛ばされていた。
 部屋は荒らされていなかった。サナエは父を探した。宿直明けの非番で、その時間は二階の寝室で夕食まで休んでいるころだった。
 父は警視庁のたたきあげの刑事だった。他人から逆恨みを買う仕事だ。冗談のようにたまにそう話していた。
 それが現実となった。
 あとで鑑識報告を聞かされてわかったことだが、兄は高校から帰宅したところを撃たれ、母はおそらく父が殺害されたあと、全裸にされてもてあそばれ、犯人が体液を母のなかに残したのちに兄を撃ったのとおなじトカレフで後頭部を至近距離から撃たれたのだという。
 母以上に無残な最期をとげた父の体内や寝室から銃弾は見つからなかった。弾痕すらなかった。ただ頭部をほとんど失い寝巻姿で床にうつ伏せになる父の体のそばに、血のついた工事現場用の大型ハンマーが二つ転がっていた。
 刺殺痕も見つからなかった。捜査員の聞きこみに、隣家の住人が犯行時刻と思われる午後四時半ごろ、サナエの家から重たいものを打ちつけるような連続音が聞こえたと答えた。台所で肉をたたくような音にも聞こえたが、それにしては時間が長く、二十分もつづいた。隣人はそうこたえた。
 怨恨の線で捜査が始まった。ほかに考えようがなかった。父はふつうの刑事ではなかった。一年ほど前から、ヘロインの密売組織に潜入していたのだ。
 一人ぼっちになったサナエは、近くに住むおばに引き取られて中学を卒業し、高校は寮のあるところを選んで進学した。犯罪被害者給付と警察共済会からの遺族支援金、そして新聞配達をつづけながらなんとか通学した。家族を殺した犯人は、父が潜入していた暴力団と関係するジャカルタの組織が放った二人組で、目撃情報では一人は身長百八十センチ、もう一人は百六十センチぐらい。ともに浅黒い顔をした男というところまで浮上していた。だが卒業の時点でもそれ以上の情報はなかった。
 あの日からずっと、サナエは父とその仕事のことを考えつづけた。野放しになり、街を徘徊する人獣を追うのは法律だろうか。人権思想に基づく適正手続きだろうか。殺人鬼をもてなすための規則にがんじがらめになった警察組織だろうか。
 それ以上に不可解なことがあった。
 事件のあと、マスコミをふくめだれもがサナエに同情し、憐れみ、無理にでも愛を注ぐ対象として特別視した。ところが季節が変わるころには、だれもがサナエのまわりから去って行った。おば夫婦でさえ、あからさまにサナエを追い出そうとした。一つには、うわべだけの愛情を振りまくのに疲れたということがある。だがそれ以上にサナエを悩ませたのは、たとえ親族でも決して席を一緒にしたくないようなぬぐい去りがたい悲しみに自分が包まれている事実だった。口にはしないもののだれもがちがう意味で特別視するのだ。
 まるで喪服の人を駅で無意識に避けてしまうかのように。
 家族がいなくなった悲しみにはなんとか耐えられるようになったが、周囲に満ちる人を遠ざける見えないバリアだけは、いつまでもサナエを悩ませた。自分ではなんとも思っていないのに、明るく振る舞えば振る舞うほど、みるみる距離が開いていき、最後はいつも一つの結論にぶちあたった。
 この手で解決するほかないのだ。
 それについて一度だけ、父の元上司という男に話したことがある。高校三年の初夏だった。毎月欠かさず墓参に通っていた寺で、期せずして遭遇したのである。
 それが始まりだった。
 (警察は潜入捜査の手法を誤っている。組織はそんなに甘いところではない)
 だまされているような気もしたが、男の話には説得力があった。というよりサナエのほうが、なにかにすがりつきたかったのかもしれない。新橋の薄汚れた雑居ビルの地下で二年間、みっちり仕込まれたのち、サナエは一つの信条を身につけた。それだけでも悲しみに包まれた人生にとって収穫だった。
 正義に肩書きはいらない。
 もたもたしていたら、自分のような人間がまた一人生みだされる。
 英語のほかフランス語とアラビア語をマスターして、アフガニスタンの荒涼とした岩砂漠を彷徨するバックパッカーとなったのは、二十一歳の誕生日まであと一週間に迫ったときだった。本名を捨て、偽造パスポートのファーストネーム欄には黒インクで「SANAE」とはっきりと印字されていた。
 街道沿いの町でカフェの手伝いをしながら半年ほど過ごしたとき、ベールで顔を隠した女が近づいてきた。組織の女性部隊の闘士だった。
 それからマザリ・シャリフに出てイスラム教に改宗させられ、必要な“教育”を受けた。三か月後にはイラクに入って米軍輸送部隊の襲撃に参加し、十人以上の米兵を射殺した。さらに踏み絵となったのは、メディアでも取りあげられた英国人ジャーナリストの誘拐事件だった。サナエは誘拐の実行犯のみならず、バグダッド郊外の空き家で行われた処刑も担当させられた。アラブの男たちは、刃が優美にカーブした独特のナイフを使って羊をさばく。男たちの探るような目と女たちの羨望のまなざしを受けながら、サナエはおなじナイフで英軍将校の首をはねた。
 それからは早かった。
 サナエは当時の巨大組織「アラーの獅子」の奥底へと深く沈んでいった。計画どおりだった。中東の組織を選んだのは、ジャカルタの二人組を捜すためである。資金の流れなどから「アラーの獅子」がジャカルタのテロ組織の上位団体にあたることが判明していたからである。中枢に食いこめば食いこむほど、情報は豊かになる。川崎の所轄署には入りこめない領域に、サナエは自ら潜入するつもりだった。
 以来十五年余り。
 米国とその同盟国を狙った数多くのテロ活動について、警察庁に事前に情報を流してきたし、実行グループを現場で全員射殺して事なきをえたときもあった。だがサナエの自負は、そうした諜報活動のいっさいが組織の連中の目を完全に欺いて行われている点にあった。
 いつだったか読んだ新聞記事に、無人の深海探査機のことが出ていた。あらかじめインプットされたコースに沿って深海底を三か月ほど調査したのち、海面に浮上してその結果を人工衛星に送信する。それはサナエの活動に似ていた。唯一ちがうのは、この探査機はただの一度も海面に浮かびあがらず、調査結果の受け渡しも視界のきかぬ海中でもっぱら行われることだった。
 ジャカルタの二人組の捜索はもちろんだが、テロリストたちに懲罰を下す仕置き人としての矜持もサナエにはあった。自分のような不幸な人間を再生産しないためにも、暴力の源を封じる必要があった。ところが能村和幸の一件以来、サナエは自分の存在に悩むようにもなっている。善と悪のはざまにある混沌のなか、かろうじて聞き取れる風音のようなかすか存在として、ぎりぎりの線上を吹きぬけながら、たった一人で情報を集めていく。
 それがわたしの人生なのだろうか?
 二十三年前、ジャカルタ組織が派遣した二人の浅黒い顔の男たちは「アラーの獅子」を経て「沈黙の塔」をはじめとする分派組織のどこかで活動している。そこまではなんとかつかんでいたが、その先となると皆目見当がつかない。
 サナエは、湿式サウナのようになった浴室をバスタブから見あげ、大きく息を吐いた。鍛えあげた腹筋が小ぶりの乳房の下で細い柱のような形になるまで収縮する。
 湯船につかるとき、サナエは時として街で見かけるおなじ年代の女性たちに思いをはせる。中学や高校の友だちとは音信不通だし、ふだん店を訪れるのはアラブ系の男たちか物好きな学生がほとんどだった。
 OLになっていたら職場結婚でもして、もう二人ぐらい子どもがいるだろう。そうでなくとも愛する人と二人で小さな幸せに浸っているかもしれない。いや、結婚なんて先送りにして、女友だちと遊び歩くか年下相手に恋愛ごっこに励んでいるってこともある。
 そのだれもが家族を惨殺された経験なんてないし、人を殺したこともないだろう。殺人を犯せば手がうしろにまわる。それはサナエとておなじだ。しかしサナエの場合、時としてそれを見逃してもらえる。たとえようのない孤独と引き換えに手にしたのは、その程度の特権だった。
 似たような立場の男や女に何度か出会ったことがある。サナエとおなじ潜入捜査官だった。居酒屋で身の上話を聞いたわけではない。この道を歩む者のみにそなわった嗅覚が、この道を歩む者に特有の体臭――いつ身元がバレて殺されるか知れぬ恐怖に始終さらされているうちに発するようになった悲痛なサイン――に反応しただけだ。
 最悪のテロの回避というこれまでの“実績”が曲がりなりにも社会の役に立っているのなら、サナエは仕事に対する迷いも起きなかった。だが正直なところ、それはわからなかった。サナエがいなくてもべつのだれかが情報をもたらすだろうし、サナエが命がけで連絡してきたことなど、CIAからとっくの昔に入っている情報なのかもしれない。そんな疑念をいつも抱えながら、いつしか自分は、人命を奪うことになんのためらいも抱かぬ鬼に変身してしまっている。それこそが、かつてその鬼に家族を奪われた女につきまとう偽らざる不安だった。
 人間らしいことといえばなんだろう?
 認めたくなかったが、まっさきに頭に浮かんだのは、バンディッツでボランティアをつづける自分の姿ではなかった。安ホテルのカビ臭いベッドで、ぜい肉のそぎ落ちたサナエの足を大きく開き、つまるところ身勝手な欲望を吐きだしているだけの館野伊佐夫の得意げな顔だった。
 気がつくと彼女の右手は湯船のなかで、伊佐夫が好む秘所にあてがわれていた。サナエはあたりを気にするようにバスルームをぐるりと見回すと、すこしだけ体をかたむけ、両足の力をゆるめて目を閉じた。
 高校時代、伊佐夫とは一年生のときにクラスがおなじだっただけだし、そのときもたいして仲はよくなかった。水泳部に所属していて、勉強はそこそこできたほう。その程度の印象だったが、三年ほど前、夜遅くに品川駅でばったり会った。先に気がついたのは向こうのほうだった。大手自動車メーカーに入り、丸坊主でまだ童顔だった当時より、ずっと精悍な顔だちになっていた。伊佐夫は取引先との打ち合わせを終えたあとで、サナエは日の出埠頭でヘロインの密売人を殺ったあとだった。
 そのときなににひかれたのか、自分でもわからない。そのまま手を振って立ち去ってもよかった。ただ二人とも夕食がまだだったので、近くのステーキハウスに入り、ビールを飲みながら話をした。伊佐夫は西船橋のマンションで妻と一人娘と暮らしていた。
 すぐにセックスのことが頭に上ったらしく、伊佐夫はモーションをかけてきた。サナエは腹が立つ反面、うれしかった。サナエは年の割には若く見えるし、大きな瞳と小ぶりの顔だちは十分に男の気をひくはずだったが、いつも自分の生きざまと額の傷が邪魔をして、人並みの恋ができずにいた。そんな頑なさを解きほぐす話術を伊佐夫は心得ていた。たぶんあっちこっちで悪さをしていて、そのなかの成功体験に基づいてアプローチを試みているのだろう。へたなことをすると、密売人の首に這わせたばかりのナイフが鼻先に突きだされるというのも知らないで。
 その夜、サナエは人形町のマンションに帰らなかった。額の傷のことなど、伊佐夫はまるで気にしなかった。
 以来、伊佐夫とはふた月に一度のペースで会っている。向こうにしてみれば、金もさしてかからないし、わがままも言わない手ごろな性欲のはけ口だろう。遠からず、ボロ布のように捨てるにちがいない。それでもサナエは癒された。性に目覚めたばかりの中学生のように体を貪るだけの男だったが、一緒にいると、なんだか自分が別人になったような気分に浸れた。
 「こんど旅行に行こう」
 最近、伊佐夫はそう持ちかけてくる。ついその気になって盛りあがったりすると、あとでサナエは幻滅を覚える。そろそろ彼とは線を引く必要があるかもしれない。逆に果たせるかどうかさえ見通せない願いを抱えたままつづけるこんな刹那的な暮らしのほうと決別したほうがいいのだろうか。
 でもいまはいいだろう。
 サナエはどうしようもなく寂しかった。甘美な記憶をたぐり寄せながら指先はしだいに激しさを増し、吐息がバスルームに響くようになっていった。

 十
 暗がりからそれが聞こえてきたとき、おれも祐子もエミもびくりとし、村山に至っては肛門にスタンガンでも撃ちこまれたかのように、十センチは床から飛びあがった。
 「気の毒なみなさん、このエレベーターが停まってしまったのは、経営企画室の笛吹勝二次長が乗っているからです」
 「もしもし、もしもし!」村山はすぐに正気を取り戻し、通話ボタンを叩きだした。
 だがボイスチェンジャーを通した声の主は一向に意に介さずに話しつづけた。
 「笛吹次長は今夜どうしてもしなければならないことがあって、地下の駐車場まで降りて行く途中でした」
 「もしもし……ちくしょう、無視してやがる」
 「防災センターなんでしょ」祐子がいきり立ち、村山を押しのけて通話口に顔を寄せる「聞いてるんでしょ。早くここから出して!」
 「まさか防災センターが――」
 村山の言わんとすることは、おれにも理解できた。だがそれは認めるわけにいかなかった。そんなのあんまりだぜ。運が悪すぎる。だが相手はおれが乗っていることを知っている。しかもその目的も。
 「ちょっと、笛吹さん」祐子だった。トートバッグを肩にかけ、すごんでくる。「あなた、なにたくらんでるの?」
 「冗談よせって」
 「じゃあ、どうしてあなたの名前が出てくるの?」
 そんなことおれにだってわからない。ところがスピーカーから漏れる声はさらにたたみかけてきた。
 「笛吹次長が抱えているもの。そこに秘密が隠されています」
 つぎの瞬間、祐子とエミと村山の視線が、おれが腹の前で抱える紙袋に注がれた。おれは、まるで悪い油で揚げた天ぷらでも食べたかのような重苦しさを腹に覚えた。懐中電灯なんてないほうがよっぽどありがたい。本気でそう思ったくらいだった。
 いったいだれだ。
 防災センターを占拠したとはどういうことだ。だが待て。これまでおれが付き合ってきた連中のことを考えれば、そんなの屁でもない話だろう。おれが洗ってきた金を考えてみろ。一度に二千万、三千万という額をあつかってきたではないか。そんな金が平気で集められる連中だ。銀行の警備室ぐらい、やろうと思えばいくらでも襲撃できるはずだ。怖気づくわけにいかなかった。
 「なんだよ。なに見てんだよ」
 すごんだつもりだったが、声は情けないかぎり。運動会の徒競走ですっころんだ子どもが、一等を期待してやって来た親の前で泣き言をほざくような調子だった。
 「笛吹次長から、スマホのメルアドを聞きだしてください。ドアはそのとき開きます」
 思わずおれは紙袋を抱きしめた。電源を入れたスマホがそこに入っている。そのメルアドのことだろう。それを言えばドアを開けるだと? ばか言え。いくら圏外だからって、そんな無用心なこと、できるわけないだろう。
 「なにが入ってるんですか」
 まるで警察の職務質問みたいに懐中電灯の明かりを振り向けて、村山が訊ねてきた。腹が立っておれは木偶の坊の警備員をにらみつけた。

 知り合いの商社マンのつてで、ジャカルタ在住の怪しげな華僑の男に会ったのは、もう四半世紀も前になる。会社に入って二年目か三年目のことだ。インドネシアにしてはめずらしくフランスワインの品ぞろえが豊富な高級店で、しこたま高い酒を飲まされた。華僑の男のほか、運転手と用心棒コンビといった風情の、ともにひげ面の二人の若い男が隣のテーブルにひかえていた。
 いまも覚えているのは、この二人がなかなかのコンビだったということだ。値の張る料理は知人である商社マンと華僑とおれのところにばかりサーブされ、手下たちには、まかない料理にもならないようなピーナツや海老せんべいなどの乾物が一皿盛ってあるだけで、飲み物は二人そろって小瓶のコカ・コーラだった。ところが二人はうらやむような顔も見せずに、肉切り包丁並みにでかいナイフを無造作にテーブルに放りだしたまま、ただ黙々とトランプに興じていた。それがポーカーとかなら、すこしはさまになったが、どう見てもババ抜きでしかなかった。
 一人はひょろひょろと背が高く骸骨のような印象があった。相方は深煎りのコーヒー豆のような肌の色をした、おれよりわずかに背が高い小男だった。たぶんジャワなんかよりずっと南方の島の出身なのだろう。だったらバナナでも出してやればいいのにと思った。のっぽがホテルのフロント係なら、チビはさしずめ客が寝てる間にプール清掃をまかされる役回りだろう。それでも仕事が終わったら、安いバーで仲よくババ抜き大会。なんなら一緒のベッドに入ったあともカードを切り合っていそうな感じだった。
 零時を過ぎるころ、当然のような顔をして華僑の男は白い粉末状の結晶をすすめてきた。絶品の北京ダックに舌鼓を打ったそのテーブルでだ。店にほかの客はいなかった。トランプコンビだけが、何百試合目かを始めていた。商社マンはもう帰っていた。女ならいくらでも抱くが、さすがにおれはクスリにまで手を出すつもりはなかった。そんなニュアンスを伝えると、相手はがっかりしたが、すぐに商売の話を切りだした。
 東京では、日本のヤクザ「菅和会」が代理店になっているが、そこのもうけを洗ってもらえないだろうか。遠まわしな言い方だったが、その手の言いにくい話を察知して、斟酌してやるのが銀行マンの本当の仕事であるとは、当時の先輩から聞かされていた。
 だからおれは白い結晶は遠慮したものの、きつめのたばこはもらうことにして、くらくらした頭をもう一度しゃっきりさせて考えてみた。
 「つまりマネロンしろってこと?」いろいろ言葉を選んでみたつもりだったが、結局、単刀直入に聞くのが一番だった。「難しい話じゃないですよ。口座番号とかを教えていただけたら操作できる。ぼくが黙っていればいいだけですから。問題はそれをぼくが請け負うかどうかってこと」その問題はすぐに解決され、おれは喜んで資金洗浄に手を貸すことになった。
 マネーロンダリングについては、いろいろな手法がある。いまでは株の売買や先物取引、ネットバンキングまで活用されているが、もっとも確実な方法は、アナログなやり口ながら銀行の内部に“友人”を持つことだ。入社試験の成績がよかったから、おれは新宿支店の法人営業課にいきなり配属された。それが運の尽きだったのかラッキーチケットだったのかわからないが、ちょっと勤めただけで金に汚い世界であることに気づいていた。だからおれは自分なりのビジネスを考えなきゃいけないと思ったわけだ。
 “友人”として。
 その後、代理店をまかされていたヤクザ「菅和会」が独立した。ババ抜き二人組も参加して、血で血を洗う仁義なき戦いがくりひろげられたかはさだかでない。だいいち、ババ抜き二人組は、たしか、よりによって華僑の主人に反旗を翻して、クアラルンプールで独立したとかいう話だ。もう日本のヤクザとはかかわっていないだろうし、扱っているのはヘロインでなく、もっとべつのもののようだった。
 ともかく、おれからすればいまも昔もビジネスの相手は、そのヤクザ――口座欄には「SGコーポレーション」というもっともらしい名称が記されていた――のみだった。そこの“社員”たちに実際に面会したのも(したくはなかったが)独立戦争に勝利したことを伝えに日曜の午後、自宅にやって来られたときだけだった。
 銀行の給料の倍近い固定給の見返りに、金を洗うのは月末に一度だけ。しかも社内で出世するにつれ、端末を操作するのも容易になっていった。いまなんか経営企画室という中枢部門にいるし、次長なんてありがたいポストもいただいたので、おれが端末をいじることにだれも文句はつけない。おおむね上層部の悪だくみに手を貸しているとでも思っているのだろう。それ以上詮索してくるやつはいなかった。触らぬ神にたたりなしってやつだ。
 ところが最近、向こう見ずな輩が出現した。
 おなじ経営企画室にいる羽毛田(ルビ、はもた)という若造だ。きっかけは、例の勘定系バックアップシステムへのウイルス混入問題だ。施工にあたったコンピューター業者の責任だったが、業者を連れてきたのはおれだった。そしてこともあろうに羽毛田は、業者の役員にSGコーポレーションの男が名を連ねていることをどこからかつかんできた。そして大学のゼミにでも提出するのか、余計なことを調べあげてきて、よりによってこのおれにそのレポートを突きつけてきた。二週間前のことだ。
 題して「本店営業部扱いSGコーポレーション名義口座の月額2000万円以上の不明朗な資金の流れについて」
 なにかつかんでるとでも言いたげな自信満々な顔つきだった。たぶんこういう男は近い将来、コンプライアンス室とかに放りこんで、監禁しておくのが会社のためになる。そう思ったが、そのままうっちゃって行きつけの恵比寿のバーに飲みに行くわけにはいかなかった。あちこちで触れ回られる前に、悪い芽は摘み取らねばならない。
 ところが「駐車場内の事故について責任は一切負いません」という看板とおなじで、SGコーポレーションのほうはのれんに腕押しだった。ただ、日曜午後の家族団らんの最中に前ぶれもなしに遊びに来た男たちのうちの一人が、ちょっとだけ心配してくれた。そいつにおれは泣きついた。もちろん有料だったけど。
 それから一週間ほどして電話をかけてきたのが、例のじいさんだった。おれはトリュフの店に呼びだされ、計画を聞かされ、白い粘土のようなものを詰めたタッパーウエアとそれにコードがつながったスマホを渡された。おとといの昼のことだ。
 おれのすることは簡単だった。
 経営企画室は専務お抱えの組織だから、専務が外出するときに車を運転するのは経企室の若手と決まっている。最近では羽毛田がずっと経企室御用達の黒塗りのクラウンのハンドルを握っていた。経費節減の意味もあるが、専務は用心深く、どこの馬の骨か知れぬ運転手のハイヤーで、仕事の話をするのを嫌がった。
 専務は今晩、大阪から羽田に帰って来る。羽毛田はそれを迎えに行く予定だった。羽田までは高速に乗る。それを外で待っていたおれが尾行し、タイミングよく携帯電話にメールを送信すると、ドカン!
 高速のカーブを狙って起爆させるつもりだったし、そもそも火薬量がさして多くないとの話だったから、傍目にはハンドル操作を誤って壁に激突し、その衝撃で炎上したとしか思われまい。携帯電話は粉々、接続コードは爆風に吹き飛ばされる。はい、さよなら。ようやくおれは恵比寿のバーに顔を出せるようになる。
 頭のなかではそんな成り行きを描いていた。

 「こいつが仕掛けたんですよ、エレベーターが停まるように」村山が苦々しい声をあげた。ボイスチェンジャーの主のことを言っていた。
 エミが口をはさんだ。「だけど防災センターに押し入るなんて。警察にも自動的に通報されますよね」
 それももっともだった。いくらSGコーポレーションが粋がってみても、大銀行の警備システムの中枢を制圧することなんて難しいだろう。
 「そうか。防災センターは気づいていないんですよ。エレベーターの運行状況や防犯カメラの映像はそれぞれのユニットから光回線を通じて送られてくるんですが、そこを中断して、べつのデータを送ってやれば、防災センターの監視パネルには正常に運転しているように映る」
 「その回線ってどこにあるんです?」
 「ユニットの上についてるはずです。犯人はそこに入りこんで回線を切り替えた。そしてついでに換気口もふさいだんだ」
 「じゃあ、この声はどこから来るのよ。防災センターじゃないならどこよ」祐子がいきりたった。
 村山は落ち着いていた。腹がたつぐらいに。「もしかしたらあのことと関係しているのかな」
 「あのことって?」エミが警備員のほうに身をのりだした。
 「一週間ぐらい前ですが、施設保全部からエレベーターの操作パネルを開けるマスターキーがなくなったんです。パネルには、ドアを強制的に開くスイッチもついてる。だからリモコン式の装置かなにかをそこにかませれば、外部からドアを開くことも可能だ。この声だって、防災センターと通話するスピーカーなんか通す必要はない。パネルのなかに受信機を放りこんでおけばいいんだ」
 いまにもキレそうな祐子を落ち着かせようと村山が言う。体臭ばかりかほんとに鼻につく態度だった。ブルース・ウイリス気取りだ。大事な荷物さえなければ、揚げ足の一つも取ってやるのだが、いまは自重することが肝心だった。
 「トランシーバーみたいなやつでしょう。それでどこかから交信してくるんだ。ドアの開閉に使うリモコン片手にね。いまの電波状況を考えれば、そんなに遠くじゃないはずだ。最寄り階かもしれない」
 「待てよ。要はこのパネルを開けられればいいんだろ。そうすりゃ、スイッチがあるんだろ」
 おれが迫ると、村山はポケットをがさごそやりだした。だがピッキングに使えそうな道具など、村山ばかりかほかのだれも持っていなかった。
 「笛吹さん、あなた、なにか隠してるんでしょう。なんでもいいから、そのメルアド、言ってちょうだいよ。あなたのせいでこんな目に遭ってるんでしょう」そう言うと祐子は、おれの大事な宝物に薄闇のなかからすっと手を伸ばしてきた。
 「なんだよ、やめろ!」おれは立ちあがり、やつらに背を向けた。「メルアドだかスマホだか、なんのことかさっぱりわからん」
 「でもその紙袋、大事なものなんですよね」気温は三十七度ぐらいありそうだった。エミの額には汗がしたたり、制服のブラウスのボタンは三つも外されていた。白いブラジャーの隙間からコリコリしていそうな乳房がのぞいているのが、こんなに暗くてもはっきりと見える。
 「個人的なものさ。だれかにとやかく言われるものじゃない。まったくおかしいぜ。こいつ、狂ってるのさ」
 それからしばらくは沈黙がエレベーターを包んだ。
 午後七時を回るころになって、ふたたびボイスチェンジャーの声があがった。
 「笛吹次長、悪あがきはよしてメルアドを教えてください。ほかの方を地獄に突き落とすつもりですか」
 村山の言うとおりだった。声はスピーカーそのものでなく、その下にある操作パネル内から響いてきた。
 耐えられなかった。
 祐子のことをとやかく言ってる場合じゃない。おれは上着からたばこを取りだし、あわててライターをすった。
 「やめてください!」信じられなかった。高卒で就職活動にも失敗したあげくにようやく派遣会社に登録できたはずの男が、よりによって社員のなかでも最上位のランクにいるこのおれの手から、火のついたジッポを奪い取ったのだ。
 「きさま、何様だと思ってる!」思わずおれは両手で村山の胸を力いっぱい突き飛ばした。大男は背後にいたエミもろとも壁に激突し、後頭部を強打した。その衝撃で、さっき祐子にヒールキックを食らった額の傷がまた開き、だらだらと血が流れだした。
 「何様もないでしょう……」額を押さえながら村山が、よろよろと詰め寄ってきた。目がすわり、いまにもキレそうだった。「空気がないんだからダメなんですよ……社員だろうがアルバイトだろうが関係ない……ばかにするような態度はやめてください」
 村山は殺気だっていた。
 怖くなっておれはやつに背を向け、エレベーターの隅で紙袋を守ろうとした。だがそこにはいつの間にかシャネルのバッグを放りだした祐子がすっぽりとおさまっていた。そして飢えた野良猫のように歯をむきだしにすると、一気におれの右手に噛みついてきた。
 「あぅっ……!」
 つぎの瞬間、足下でどさりと音がして、そこに向かってエミが飛びつくのが見えた。ほっとくわけにいかなかった。おれは女吸血鬼を突き飛ばし、床に落ちた紙袋に手を伸ばした。エミが袋をつかむのと同時だった。どっちも力を入れていたから、綱引きのようになり、袋はあっという間に上下が逆さまになった。
 中身が滑り落ちてきたときは、全身の血の気が引いた。イブ・モンタンの「恐怖の報酬」だったら、とっくにドカン!
 ところがそこにはうまいことに村山の手があった。
 「これは……」念願かなって手に入れた紙袋の中身に、村山は不満でもあるかのような口ぶりだった。

 十一
 本人から直接聞かないわけにいかなかった。
 サナエは地下鉄を乗り継いで根津までやって来た。夜七時すぎだった。うそぶいているだけかと思ったが、ザゴラはまじめに言っていたのかもしれなかった。
 髪を乾かし、冷たいものを飲もうとリビングを横ぎったとき、スマホにメールが着信しているのに気がついた。サイードからだった。留守電が短く入っていた。
 ジハードは当面、延期する――。
 買い物客でにぎわう商店街にある小さなアパートの階段をあがり、サイード・クリヤムの部屋の明かりをたしかめる。表向きIT企業の海外研修生であるサイードは、千駄木の職場をいつも午後五時半に退社する。その後、歌舞伎町の「サラ・スーク」に顔を出すことはめったにない。銭湯に直行して汗を流し、近くの弁当屋で安い弁当を買ってまっすぐ帰宅する。酒は買わない。そこまではサナエも調べあげた。部屋に帰ってからは、きっと遅くまでパソコンに向かっているのだろう。課された任務の大きさからすれば、かなり綿密なやり取りを「沈黙の塔」の本部としなければならないはずだ。友だちがいないから、しかたなくまっすぐ家に帰るのとはわけがちがう。
 決行は一週間後のはずだった。
 ムハマドの話では、もう三年近く準備を進めてきた話だという。「沈黙の塔」の存在と日本での活動拠点が「サラ・スーク」であることは一年ほど前にサナエ自身がつかんでいた。そして八か月前、「アラーの獅子」での活動実績をちらつかせて彼女は接近をはかったのである。
 「電話してくれればいいのに」流暢な日本語でそう言うと、サイードは部屋に通してくれた。
 サナエが来るのは初めてでなかった。引っ越しのときも手伝ったし、ザゴラたちと鍋を囲んだこともある。近所にはアラブ系の留学生も多く、たいていが日本の社会に溶けこんでいるから、サナエがサイードの部屋に出入りしても、さしてあやしまれなかった。
 「ごめん。でも留守電聞いたら、直接たしかめたくなって」
 「気持ちはわかるよ」
 白いTシャツに短パン姿となったサイードは、狭いワンルームの壁に背をあずけ、ミネラルウオーターを口にした。ザゴラが武将なら、この男はさしづめ知将といったところか。組織の中枢から派遣されてきたとあって、インテリであること以上に、人をひきつける包容力と無理にでも動かせる知恵があった。そんなすぐれた男がなぜテロリストになんか志願したのか、つまるところ日本人であるサナエにはわからなかった。
 サナエは小さなちゃぶ台をはさんで立ったままサイードと対峙した。「バレたの?」
 「バレた? 情報が漏れたってこと?」目をすがめ、疑るようにサイードは見た。
 サナエは注意した。「沈黙の塔」がなにかに気づいたのかもしれない。組織内部の小さなほころびかなにか。歌舞伎町の空きビルの地下に据えつけられた焼却炉がすぐそばにあるような気がした。
 「そう」
 「いったいだれから?」穏やかな口調だった。
 それがサナエの首筋にかすかな寒気を走らせ、同時に彼女にしかわからないベールが一枚余計に顔にかかる。「わからない。でもジハードを延期するって――」
 「そうなんだ。でも安心してほしい。スパイが潜りこんだわけじゃない。ザゴラもムハマドもほかの連中も忠誠を誓っている。組織と、アラーに」
 そこに自分の名前が出てこなかったのが気になったが、尻尾をつかまれるまねは一度だってしていない。とはいえ始終接触しているわけでないこの男には忠誠を印象づけねばならないし、なにより自宅にまで訪ねてきた真意を理解させねばならない。組織の女闘士は、突然の計画変更に自分なりの疑問を抱いている、と。
 「ムハマドとザゴラは去年、命がけであれを手に入れた。でも売人がつい最近逮捕されているのよ。あなたも知ってるでしょう。ぐずぐずしてたら、その売人が買い手について口を割るかもしれない。それに調布飛行場で奪うセスナの目安もついてるんだし、いまから延期だなんて」
 セスナに積みこむのは、サナエが「サラ・スーク」を見つける端緒となったプラスチック爆弾C4だ。横田基地の米兵から手に入れたもので、高層ビルを半壊させるだけの量がある。
 「それはわかってる。だからそう遠くない時期に実行する。でも一週間後はやらない。それだけだ。警察だってそこまで早くは動くまい。スパイも入っていないんだし」
 最後の言葉に安堵したが、それが顔に出ないようサナエは注意した。口調は穏やかでも、組織が送りこんだ密使の目は鋭かった。
 「わたしも悩んだんだよ」サイードはさしたる逡巡もなく説明した。
 「沈黙の塔」は三十代を中心とする若手のイスラム過激派だ。サナエの情報源となったヘロインの密売人によれば、サイードはそのなかでもトップに近い人物で、東京でのテロをステップにさらにのしあがろうという上昇志向の強い男のようだった。そんな人間が長年の計画をあっさり延期させた。
 「組織を強化するのはやっぱり金だ。だが東京からの資金流通は額がすくないし、不安定だ。要はクリーニング屋の問題さ」
 クリーニング屋とは、資金洗浄、マネーロンダリングのことだ。東京で薬物をばらまいて稼いだ金をダマスカスの本部に送金する。そのためには日本の金融機関を介さねばならなかったが、つい最近までそのために使っていた証券マンが事故死して――欲をかいて洗濯物の受注をべつの家からも取るようになったのがいけなかった――送金が容易でなくなっている。その話はムハマドからも聞いていた。
 「新しいクリーニング屋が見つかったんだ」
 「それがジハードの延期とどう関係するの?」
 「もともとヤクザの金を洗ってる男なんだ。銀行員でね。われわれが喉から手が出るほど欲しがるようなかなりの大物さ。その彼がSOSを発信してきた。『渡りに船』って言うんだろ、こういうの」
 「助けるってこと?」
 「社内で一人、厄介な部下がいて、上司のサイドビジネスに気づきそうなんだ。もともと、客の預金記録を管理するメインコンピューターのバックアップシステムにウイルスが混入していたとかで、その部下は施工業者の責任を追及しようとしたらしい。メインコンピューターに障害が起きたときに切り替えるシステムなんだが、切り替えた途端にウイルスがまかれる恐れがあるみたいなんだ。そうなったら取引の記録はすべて吹っ飛ぶ。銀行はおしまいさ。だからその部下とやらは、業者を徹底追及しようと調査を始めた。それが綿密すぎてね。上司が引っ張ってきたその業者にヤクザの息がかかっていて、そもそも上司とヤクザの間に預金事務処理上の黒い関係があることに気づいてしまった。だからこっちで、その心配を解消してやるってわけさ」
 「消すの?」
 「C4でね」
 「たかが人間一人のために?」
 「サナエやムハマドに頼むわけにいかないだろ。この大事なときにこっちが手を汚して、警察に尻尾をつかまれるようなまねはしたくない。それでいて向こうにも身ぎれいでいてもらわないと。だったらある程度の荒技もやむをえまい。安心してくれ、C4をすべて使うわけじゃない」サイードは冷蔵庫から白っぽいものが半分ほど詰まった大きめのタッパーウエアを取りだした。「ほんの一部さ。すこしだけ渡してやった。きのう電話で本人と打ち合わせもした。きょうの夕方、本人の手でセッティングして、花火は今夜遅くにあがる手はずだ」
 最後の言葉にサナエはひるんだ。それでも冷静を努める。
 「起爆装置は?」
 「スマホを使う」
 「メール? C4とスマホを組み合わせて、外からメールを送る方式?」
 「そうだ。ロンドンで使ったやり方だ。ぜんぶセッティングしてから、スマホの電源を落として、仲介役の協力者に渡した」
 「協力者? 信頼できるの?」
 いくらで売ったの?
 そこまでは聞かなかった。ただそれを疑う視線は送りつけてやった。「沈黙の塔」による東京攻撃計画の首謀者は、組織の資産を使ってひそかなアルバイトを始めた――女闘士がそれを疑っているとの印象を抱かせるには十分だった。
 「わたしが判断した。電源を一度入れたあと切ろうとしても爆発するから、協力者が途中でスマホのメルアドをのぞき見て、ふたたび電源を落とすこともできない。それにスリープ状態ではボタン操作にロックがかかっている。それを解除するパスワードはきょうの夕方、わたしから直接、本人に伝えたばかりだ。信頼するならわたしのことを信じてほしいな、サナエには」
 「ごめん、わかってるつもりよ。でも――」
 「ありがとう、サナエ。きみたちにはいつも感謝している。ただね、アメリカがわれわれの占領地域への空爆を開始したいま、東京をただ一度だけ攻撃するのと、永続的な洗濯屋を確保するのとでは、どっちが組織にとって重要だろうか? うまくいけばこの先、十年も使えるんだよ。それに東京にダメージをあたえるなら、ほかの方法でも可能さ」
 「あなた一人で決めたの?」それはザゴラやムハマドと相談したのかという意味で訊ねたのではない。組織の上層部に諮ったうえで下した決断なのか。サナエはその点を迫っていた。
 「サナエ、わかってくれ。東京での計画はわたしにすべてまかされてるんだ」サイードは初めて苦しそうな顔になった。
 サナエが気にしていたのは、そんなことではない。サイードは「すこしだけ」と言ったが、最初はタッパーウエアいっぱいにC4が詰まっていたはずだ。それがいまは半減している。それだけの高性能プラスチック爆弾を使って殺害する人間なんて、ロボコップかターミネーターぐらいしかいない。
 ワンルームの小さなアパートから転がりでた粘土状の白い爆薬には、新たなテロの臭いが漂っていた。まもなく八時になる。いまから急げば、バスケットコートに躍る和幸の勇姿を目にすることもできただろう。そうしたら和幸が喜ぶし、サナエとしてもどれだけ幸福で、いまの暮らしを改めるきっかけとなることか。しかしいまここで心を鬼にしないと、和幸に背負わされたよりも――もっと言うならサナエ自身が背負ってきたよりも――ずっと深刻な不幸に見舞われる人が生まれるかもしれないのだ。
 それも今夜のうちに。

 十二
 白石は音を立てずにテントから抜けだすことに成功した。
 たった五分ほどの作業だったが、神経がすり減り、心臓は早鐘のように打っていた。熱っぽく頭がふらつくような気がしたが、ここでしゃがみこむわけにいかなかった。雨はうそのようにあがっていたが、まもなく午後七時四十五分だった。
 それよりすこし前、白石と夏崎は雨があがるまで狭いテントのなかで横になることにした。明かりを消すと、これまでただの一度も味わったことのない真闇に包まれた。夏崎は一分もしないうちにいびきをかきだした。そのうちに雨が弱まりだしたのである。その好機を逃がすわけにいかなかった。やつはなにかたくらんでいる。それがわかった以上、猶予はならなかった。
 懐中電灯と方位磁石は奪ってきた。足下はひどかったが、とにかく南だ。そっちに進むしかない。白石は進むべき方角を見きわめると、手探りでテントから離れたところまで進み、懐中電灯を灯した。ゆるやかな崖を下り、藪をかき分ける。シャツもズボンも靴もずぶ濡れだった。だが財布もクレジットカードもしっかり確保されている。たとえタクシーで東京まで帰るとしても運転手を泣かせることはない。なんなら途中で銭湯にでも寄って身ぎれいにして、ついでにコインランドリーを使ったっていい。
 そんなことを夢見ながら白石は疲れた足に鞭打って前進をつづけた。
 二十分も歩いたところで小川に出た。
 テントを張ったところからは完全に離れている。いまごろ唯一の明かりを奪われ、あの男は暗闇のなかで地団駄を踏んでいるころだろう。だが山姥じゃないんだ。夜目をきかせて追って来るなんてことはあるまい。
 川の水をすこしすくって恐るおそる口にふくんでみたが、だめだった。雨が降ったばかりでひどい泥水だった。
 白石は選択を迫られた。
 小川は方位磁石の東に向かって流れている。道路は南に走っているはずだが、川は低いところに流れ、さらに大きな流れと合流するはずだ。ならばこの先にあるのは、けさ、ゴルフ場に連れて来られるときに見た最上川だろうか。
 多少の蛇行はあるかもしれないが、事態を考慮すれば確実なほうがいい。白石は岩がごろつく川原を進みだした。時折、川の水に足を突っこんだが、もともとスニーカーは水を吸って飽和していたから気にすることもなかった。水は深くない。せいぜい十センチかそこらだ。
 やれやれ。
 とんでもないことになっちまった。
 懐中電灯の弱い光を早足で追いかけながら、白石はつくづく思った。
 気になるのは、リュックにあったあの鋲だ。あれがパンクに使われたのなら、やつはこのおれをどうしようとしていたのだろう。
 考えると気が遠くなった。それについては帰ってからゆっくり考えればいい。いまはこの場を切り抜けることに集中しよう。白石は自分に言い聞かせた。それでも中学時代の記憶は自然と頭に浮かんできた。
 川崎方面から流れてくる光化学スモッグに彩られた懐かしい昭和の記憶とはちょっとちがう、いま思えば不可思議な思い出だった。夏崎とは美術部で一緒だっただけだ。クラスは二年生のときに一度だけ一緒になった。草野球にも来なかったし、家もちがう方角だった。だからあまり口はきかなかった。ただ、勉強は目立たなかったが、絵ばかりでなく、木版画などもうまかった。町工場にはおにあいの手先の器用な男だった。
 川原を進みながら、肝心なことに白石は頭をめぐらせた。
 いじめを受けていたわけではない。
 むしろそういうところとは無縁だったのではないか。夏崎自身が語ったように、なにをするにもみんなで力を合わせ、一緒に行動していたような記憶がある。それが昭和四十年代だった。逆に中学の一時期、中流階級の家の子に対するよくあるやっかみを遠因とする、いじめに近い行為を受けていたのは、白石のほうだった。だからやつが白石を恨む理由は、すくなくとも中学時代には見あたらなかった。
 そのときだった。
 ガサガサという音が左手の藪であがった。はっとして白石は足をとめ、懐中電灯をそっちに振り向けた。
 息がとまりそうだった。
 さっき夏崎が振り回していた鉈のことが頭をよぎる。あいつだってこんなことを見越してあれをリュックに入れてきたのだ。どうしてあれを持ち出してこなかったのだろう。
 獣だった。
 黄色く反射する両眼は、二メートルも離れていなかった。緑の藪のなかに黒光りする体が見えた。斜面に前脚と後ろ脚の爪を立て、不快そうにこっちに顔を向けている。雌雄は不明だったが、立ちあがれば百六十センチはありそうだった。白石は野生動物とは無縁の生活を送ってきた。熊の出没を伝えるニュースは見たことがあるが、遭遇した際の対処法などいちいち覚えていない。
 藪がもう一度ガサリと音を立て、よりによって熊は威嚇するようにひと声吠えた。こんなとき動物学者なら向こうの機嫌を推し量れようが、白石はその場で凍りつくほかなかった。身を守れるものといえば、懐中電灯か落ちている石しかない。走って逃げるほかないのだが、はたして背中を見せていいものかどうか。それよりもこの場でじっと対峙してにらみつけていたほうが得策か。いずれにしろ両脚は、石のようにこわばり、突っ張っていた。
 格闘したら殺されるだろう。そうでないとしても重傷は避けられまい。歩くこともままならなくなる。最悪だ。
 ところが五分もの間、睨みあった末、熊のほうでゆっくりと藪の奥に消えてくれた。尻尾を巻いたわけであるまい。噛みごたえのない相手に興味を失ったのだ。
 白石は全身に玉のような汗をかいていた。蒸し暑さもあったが、これは冷や汗だった。体重が二キロぐらい減ったような感じだった。ようやく神経が戻った足に力を入れ、白石は急いだ。いつまたおなじ目に遭うとも知れないし、つぎもうまくいくとはかぎらない。
 川は予想どおり蛇行を開始した。不安が頭をもたげたとき、懐中電灯が前方できらりと光るものをまたしても見つけた。絶望感に襲われた。ここはサメの群れる海か。すこしも気を抜けないなんて。
 光り輝いたのはツキノワグマの目ではなかった。野犬や大蛇のそれでもなかった。ただ、絶望感という意味では、野生動物なんかよりずっと窮まった。前方約二十メートルのところで光を放ったのは、見覚えのある鉈だった。
 「ずっと川沿いに歩いてきたんですよ」夏崎は大きな岩に背中をあずけていた。
 白石が懐中電灯を振り向けると、あいさつがわりに左手の先から光が放たれた。ペンライトだった。肩に掛けたリュックには畳んだテントがバンドで固定されていた。さっきの熊の頭でも一撃でたたき割れそうな鉈は、右手にしっかりと握られていた。
 「追いつくかと思ったんですが、こっちのほうが早かったとは。川に出るまで時間がかかったんですね」
 「どうしても今夜のうちに帰りたいんだ……」子どもの言い訳のようなことを言うしかなかった。
 「わかってますよ。起こしてくれたらよかったのに。そうじゃないと、さっきみたいなことになるんですから」
 「さっき……って」
 「熊が出たでしょう。あれは雌ですよ。小熊がいなかったのが幸いしたんです」
 「見てたのか」
 「はい。でも下流を調べといたほうがいいと思って、先に進んでしまいました。それにあのとき、わたしが声をかけたら熊のほうが驚いていたかもしれない。そうなったときの保障はありませんからね」
 「それでおれが熊に食われたら、してやったりなんじゃないのか」疑念が口をついて出た。
 沈黙が流れ、夏崎が不快そうに鼻を鳴らした。「よしてくださいよ。縁起でもない。そんなひどい目に遭わせるもんですか、副社長」
 「なぁ、夏崎」
 「はい」
 「さっきは勝手に出て行って悪かった。あやまるよ……そうだ。たばこ、あるか」
 「たばこですか……あいにくわたしは吸わなくて。でも白石さん、やめたんじゃないんですか」
 「三か月前にな。でもだめだ。いまはどうしようもなく一本吸いたい。頭がへんになりそうだ」
 「だいじょうぶですよ。深呼吸しましょう。もうすこしですから」
 「やっぱりこの川でいいのか。下っていけば――」
 「だめなんです」
 「え?」
 「この先で伏流して川はなくなるんです。さっきたしかめてきました。やっぱりそうです。昔、作業で来たときとおなじ場所です」
 「作業?」
 「刑務作業ですよ。山形には縁がありましてね。山形刑務所にいたとき、よく来たものです」
 白石はひざから崩れ落ちそうになるのを必死にこらえ、すこしでも楽天的になろうと心がけた。
 「刑務官だったのか」
 「ちがいますよ。二年半、食らっていたんです」
 きょうは本当にいろいろなことがあった。こんなにどぎまぎさせられる出張は初めてだ。安全装置のいかれたジェットコースターに何時間も乗せられてるみたいだ。だからこっちは、もうずいぶん前から白旗をあげているつもりだったが、下請け会社の社長はどうしても許してくれない。ふらふらになったところで、強烈なボディブローをくりだしてきた。
 夕方以来、最強の一発だった。なにか訊ねたくても、いろんなことが頭のなかで渦巻いて言葉にならなかった。それを察してか夏崎のほうで勝手に話してくれた。
 「麻薬取締法違反です。初犯でしたが、薬物犯罪は厳しいんですよ。執行猶予がつかなかった。でも模範囚でしたから、半年分短縮されて出てこられました。構外作業のときはずっと班長でした。さっき車が動かなくなったときは気がつきませんでしたが、この川を見つけて思いだしました。春先から秋口まで一日中、木を切ったり、シイタケ植えたり。よく働きましたよ。いまじゃ懐かしい思い出です」
 「いつの話なんだ」ようやく白石はそれだけ聞くことがた。
 「九二年の十二月三日に入って、未決拘留日数を差っぴいて九五年三月二十日まで。おっしゃりたいことはわかりますよ。東洋ファイバーに提出したわたしの略歴では、その点は触れられていませんでしたね。でも略歴ですから。ただ十年以上前、うちの会社の中途採用に応募して願書出したときは、賞罰欄は空欄にしときましたけど」
 「麻薬って、おまえ……」
 懐中電灯とペンライトの明かりが交錯するなか、夏崎は沈鬱な表情を浮かべ、無言のままじっと白石を見つめ、それからゆっくりとかぶりを振った。
 だがいまのショックを跳ね返すくらいの慶事が突如、白石の下に訪れた。軽快ながらも力強さを感じさせるなんとも心躍る響き。こんどこそ本物だった。
 「車だ!」
 白石は右手の藪に駆けこんだ。もう山の獣のことなどいちいち気にしていられなかった。ツキノワグマだろうと跳ね飛ばし、即死させられる底力のある現代文明の賜物が目と鼻の先を走り去ろうとしているのだ。
 「気をつけて!」
 背後から聞こえた夏崎の声が、さらなるエンジン音にかき消された。こっちに近づいてくる。白石は懐中電灯を握る右手を前に突きだし、ゆるやかな崖を登りだした。硬い笹が頬や手に刺さり、血がにじみだしたが、白石はそれをかき分け、崖の頂上にまで達した。
 懐中電灯の明かりの何十倍もの強烈な光が目に飛びこみ、白石は思わず両手で顔を覆った。その間にも車はぐんぐん近づき、崖の反対側を左から右へと走り抜けていった。
 「おい! 待ってくれ!!」
 転がるように崖を下り、白石は猛然と車のあとを追った。踏みつける石の感触からして舗装道路ではない。林道だろうか。受刑者たちを乗せたトラックが構外作業にやって来るときに使うような。
 「停まってくれ! ストォォォォォォップ!!」
 ゴルフでOBを打ったときとおなじくらいの大声を出してみた。だが車――農家でよく使う白っぽい軽トラックだった――は、背の高い藪の間をすり抜けるように切られた細い道をどこまでも進み、すでに視界から消えかかっていた。
 「だいじょうぶですよ」
 うしろから息を切らせて夏崎が追いついた。
 「この先にムラがあります」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み