五~八

文字数 19,906文字

 五
 「だれかが前に使ったんだ。でもそのあと、元に戻さなかった」
 夏崎は車のキーを抜き、後部座席から自分のリュックを引っつかんで、元来た道をあと戻りしはじめた。そこに後続車が一台でもやって来たのなら、ちょっとはほっとできたのだが、あいにくただの一台のエンジン音も聞こえなかった。それでも白石は聞かざるをえなかった。とにかくいまの状況を信じたくなかった。
 「おい、どこに行くんだよ」
 「戻らないと。車じゃ、もう無理ですよ」
 「本当なのか? どういうことだよ」
 「説明してるひまないですよ。車のことなんかどうでもいい。明日でもあさってでも、ゆっくり取りに来ればいい。だけど、いまは一刻も早く駅に向かわないと。ヒッチハイクでもなんでもいいんですから」
 「戻るって言ったって――」
 「だいじょうぶですよ」自信ありげに夏崎は言った。「迂回路の看板が出ていたところまで戻ればいいだけです。いまごろ、工事も終わって車が通れるようになっている。あとから来たゴルフ客が平気な顔で通過してることでしょう」
 「待てよ。この迂回路に入ってからずいぶんたってるんだぜ。そこを歩いて戻るなんて、いったいどれくらい時間がかかるか知れない」
 できるだけ冷静にそう伝えると、下請け会社の社長である中学の同級生の顔が曇った。
 「迂回路の出口まで、結構いいところまで来てるんじゃないのか?」
 「そうなのかな……そうだ」夏崎は車に戻り、カーナビを操作した。「ほんとだ。戻るんじゃなくて、進んだほうが県道には早く出られるみたいだ」
 白石は助手席に頭を突っこんでカーナビを確かめた。「直線距離で五百メートルもないじゃないか」
 「急ぎましょう」
 白石はボストンバッグをつかみ、夏崎のあとにつづいた。後続車の一台も来てくれれば助かったが、そもそも迂回路じゃないからそれも期待できそうになかった。時間が許すなら、JAFでも呼ぶのだが、スマホは圏外をしめしていた。
 道はやや上り坂となり、じわじわと山奥に分け入っているような感じがした。心なしかあたりが薄暗くなっているのは、日が傾きだしたからなのか、頭上を覆う木々が増してきたからなのか判然としなかった。
 「方角的にはまちがっていないはずです」心配になってきたころ夏崎が口を開いた。「もうすぐ下り坂になるはずです。そうしたら県道も見えてくるでしょう」
 「山形新幹線って本数あるのか?」
 「一時間に一本はあります」
 「このままうまく県道に出られても、乗せてくれる車が見つかるまで時間がかかるだろう。あとの新幹線にしたほうがよさそうじゃないか」
 「もうちょっとですよ。ぎりぎりですが、がんばりましょう」
 そう言うと夏崎は前よりもいっそう力強い足取りで進みだした。長年、工場で鍛えてきただけあって足腰は強そうだった。世界を飛びまわってきた商社マンとはいえ、最近では白石はめったに汗をかかない。体は衰える一方で、すぐにあごがあがり、息が切れてきた。白石はポロシャツのボタンを全開にし、裾もズボンの外に出した。こんなことならクラブハウスでもらったミネラルウォーターのペットボトルを捨ててくるんじゃなかった。「おれもあした休みつければよかったよ」
 苦しまぎれに白石が言うと、夏崎は気の毒そうな顔で振り返った。「わたしなんて自分で切り盛りしてるから、そのへんのところは臨機応変にできる。気楽なもんですわ」
 「うらやましいな」
 「通勤ラッシュだってないんですから」
 夏崎はペースを合わせるように白石と並んで歩きだした。
 「それが一番だ」
 「時差通勤とかないんですか」
 「そうもいかないんだよ。もっと悪いことに、本社の役員連中は年寄りばかりだから、みんな早起きだ。だからあしたみたいに本社で会議があるときは大変なんだ。八時には出社してないといけない」
 「早いですね。でもラッシュにはまだ早いでしょう」
 「そうでもないんだ。結構混んでるよ」
 夏崎はいずれ下り坂になるとは言ったが、道は上る一方だった。そこを夏崎はまるでロバのようにしっかりと進んでいく。それにつられてかえってペースが乱れ、白石はどんどん苦しくなっていった。
 「前の晩、会社の近くに泊まっちまうってのはどうなんですか。わたしならそうする」
 「ホテルだとかえって疲れが取れないんだ。それにやっぱり家には帰らないとな。女房が心配性なんだ」
 「待ってる人がいるって……うらやましいなあ」
 「立ち入ったことを聞くが、いまは一人なのか、夏崎」
 「はい。もう何年もそうです。妻は、いろいろあって苦境に立たされていたわたしに愛想をつかして、羽振りのいい男に飛びついて。相手は妻子持ちだっていうのにね」
 「それでどうなったんだ」
 「愚かな行為は自分に帰ってくる。ある冬の晩のことなんですけどね、遅くに玄関をたたく音がしましてね。びっくりして開けたら、女房が荷物抱えて立っていた。出て行ってから三年が過ぎたときでした。雪が降りそうなくらい寒い夜で、がたがた震えて凍えてました。わたしが黙ってたら、ぼろぼろ涙こぼして謝るんですよ」
 愛人の下へ走った妻が帰ってきたその日とおなじとは言わないまでも、せめて上着を羽織りたくなるくらいの涼しさが、いまはこの上なく素敵な気候に思えた。
 「帰巣本能か」
 「捨てられたんですよ」夏崎は吐き捨てた。こんな事態になって自棄になって話しているにちがいない。だったら適当に付き合ってやればいい。足下からわきあがるひどい蒸し暑さがすこしは忘れられるってもんだ。
 「元々、ぴゅいって出て行っちまったんだろう」
 「そうです」
 「それでさんざん楽しんだあげくに捨てられて、のこのこ帰ってきたのか。勝手なもんだな。せめて土下座の一つもせんとな」
 「しましたよ」
 「えっ」
 「わたしがずっと黙ってたら、ほんとに土下座したんですよ。額を玄関のコンクリにすりつけてね。血がにじむくらい」
 それには白石も二の句がつげなかった。しかしその先の話は白石をさらに凍りつかせ、都会の人工的な熱気とは異なる、太陽と土が作りだす天然の暑気でさえもどこかへ消し去ってしまった。
 「それでも許せなかった。わたしという夫がいるのに、ほかの男に体をゆだねたのですよ。わたしが眠れずに悶々としているとき、あの女は相手の男にしたい放題のことをされていた。許せるわけがないでしょう。わたしは玄関を閉め、あの女を家には入れなかった」
 「気持ちはわかるな」
 「翌朝、死んでましたよ」
 「え……凍死か……」
 「なんて言うか、まあ――」
 「やりきれんな」
 「どうぞ、これ」
 それまでの話がうそのように平然とした顔をして夏崎はペットボトルを差しだしてきた。自らの愛人遍歴を思い起こしていた白石は、はっと我に返った。
 ゴルフ場にあったミネラルウォーターだった。
 白石はためらうこともなくそれをつかみ、がぶがぶと飲んだ。ぬるかったが、渇いた喉を潤すには十分だった。
 「玄関先で失禁したまま冷たくなってる妻を見て、悲しいというより、なんだか自分が情けなくなりましたよ」
 冷えていないからかもしれないが、ミネラルウォーターにしては妙な雑味がした。水道水のような金臭さともちがう、泥水のような後味だった。だがボトルを検分しても、きちんと賞味期限内だった。
 「それでなんていうか、じわじわと怨念が増してきたんです。相手の男に対してね」
 「ちょっといいか、この水、なんか変な味がしないか」
 そう言ってペットボトルを返すと、夏崎はけげんそうにキャップを開け、中身をすこしだけ口にした。
 「うっ……」口にふくんだばかりの水を夏崎はたちまち吐きだした。
 「そうだろ。なんかおかしいだろ」
 「す、すみません。帰りに自分で水くんできたんです」
 「え、ミネラルウォーターじゃないのか」
 「湧き水があるってキャディが言うもんですから……すみません」何度も頭を下げながら夏崎はペットボトルを逆さにし、中身を捨てた。たまらず白石も口にたまった唾液を吐いた。
 「もう十分ぐらい歩いてるだろ。そろそろ県道が見えてきてもいいころだ」
 「おかしいですね」
 「まちがえたんじゃないのか」
 「そんな……道は一本だったはずです」
 「舗装道路じゃないんだ。一本道かどうかなんてわかるものか」つい責めるように言うと、夏崎は困り果てた顔になった。「たしか県道は、車停めた場所の南東の方角だったよな。おい、夏崎、山歩きするなら方位磁石ぐらい持ってるだろ」
 「なるほど。ちょっと待ってください」リュックを下ろし、夏崎はサイドポケットをがさごそやりだした。「あった。ええと……南東だと、こっちです」夏崎は林道の右手に広がる森のほうに手を広げた。
 白石は考えた。もうずいぶん歩いたから、このまま南東に進んでも県道には出まい。車を停めた位置から林道はたしか東に延びていた。だとすれば、いまの位置から南または南南東に進めば県道に出られるだろう。
 森のなかを。
 そのことを告げると、夏崎はあからさまにいやそうな顔をした。
 「危険ですよ。足下が悪いし、熊が出る」
 「だがここで正しい林道を探していても時間を食うばかりだ。近道しよう。そうすれば新幹線だってちゃんと間に合う。おまえだって、時間通りにおれを駅に送り届けたほうがすっきりするだろう」
 夏崎は答えず、唇を噛みしめていた。
 「このあたりの地図かなにかないのか」
 「ざっとしたものならあります」夏崎はリュックから登山用の折りたたみ式の地図を取りだした。
 白石はそれを奪い取り、下草の生い茂る森へと足を踏み入れた。真夏のこの時期だ。熊が出たとしても、冬眠前のように襲ってきたりはしまい。白石は方位磁石のしめす方角へずんずん進んで行った。
 「危ないですよ!」背後で夏崎が叫んだ。
 白石は聞く耳を持たなかった。予定した新幹線にはもう間に合うまい。だが頭のとろい同級生の言いなりとなって、これ以上もたついていたら本当に日が暮れてしまう。口のなかに残る泥水の味も手伝って、白石の苛立ちは高まっていた。
 振り返ると、夏崎は苦しげな顔であとからついてきていた。かっとしてアドレナリンが大量に分泌されたせいだろうか、いまは白石の足どりのほうがしっかりしていた。
 ふん、そんなふうに優柔不断だから女房に逃げられるんだ。だからおまえは一生、日の目を見ない下請け生活しか送れない。男っていうのは、やるときはやるものなのだ。毅然として進むべき道に分け入る度胸がないかぎり、希望はかなえられない――。
 足下には知らぬ間に薄闇が忍び寄っていた。白石はそれには気がつかなかった。頭にあるのは、専務主催のあすの会議のことだけだった。

 六
 いつもよりスローペースで上腕に十分な負荷をかけながら、サナエは規則正しいリズムで腕立て伏せをつづけた。トレーニング用のタイトなTシャツは胸のところが汗でぐっしょりと濡れ、こわばった乳首が浮きでていた。連続百回、じっくりと腕を曲げ伸ばしたら、マシンでほかの筋肉の調整を始める。それから呼吸が整い、気分が落ち着くまで太極拳に没頭する。
 人形町の古びたマンションの最上階。毎日繰り返される日課だった。
 等身大の鏡に汗を流す自分の姿を映し、サナエは小さくうなずいた。「サラ・スーク」では決して見せない、完璧に鍛えあげた肉体だった。唯一、この体を目にする機会のある館野伊佐夫には、ボディビルをつづけていると言ってある。それを真に受けて、時折、張りつめた腹筋に子どものように唇を這わせる伊佐夫のことを、サナエはふといとしく思うことがある。高校の同級生で、いまではただのセックスフレンドでしかないのに、なぜそれ以上の感情を抱くのだろう。
 答えは簡単だった。
 孤独だからだ。
 マンションの前で着信した伊佐夫からのメールには「来月またメシ食おう。スケジュール教えて」とあった。欲望があふれていた。
 いまは返信する気になれなかった。郵便受けにいつもの通販会社からの小包が入っていたからである。トレーニングに移る前、サナエは無造作にそれを開梱し、なかの札束のうち、十万を財布に、残りをウォークイン・クローゼットの棚に載せたクッキーの空き缶に放りこんだ。これでも毎月の給与だ。サナエに銀行口座はない。そもそもサナエなんて仮の名だ。でも本名自体、もう使うことがない。遠い昔、浜辺に流れ着いた貝殻のようなものだった。
 マシンの最上部にジャンプして飛びつき、懸垂を開始しながらサナエはテレビの夕方ニュースに目をやった。テロに関するニュースだった。アラブの放送局に届けられたビデオに、CIAの一員である白人の男が拷問に遭うシーンが録画されていたという。男はゲリラ組織に潜入していたが、素性がばれたらしい。年に何度かサナエはこの手のニュースを見聞きしなければならない。そのたびに思うことがある。
 話がしたかった。
 ちょっとでもいいから。
 自分が属する側の者たちと。
 ひと通りのトレーニングが終わると、耐えがたいくらい暑くなった。サナエはシャツを脱いだ。小ぶりの胸に浮かぶ汗の滴をタオルでぬぐい、そのまま流れるように太極拳を開始する。しなやかで、それでいて隙のない動き。唯一、動きが乱れるのは、背中の痛ましい稲妻と前髪が揺れたときにのぞく恐ろしい額が鏡に映ったときだけだった。
 拷問の傷痕だった。
 背中は鞭で、額は硫酸で焼かれたものだった。どっちもイラクのアブグレイブ収容所の取調室で受けた傷だ。
 サナエは今年で三十七歳になる。
 警察庁の警部補だった。
 組織犯罪に蹂躙される我が国の治安を取り戻そうと、十七年前、刑事局と警備局が共同で“埋めこんだ”潜入刑事である。
 映画やドラマでは、主人公が官憲であることが途中で明かされる。そこが現実との大きなちがいだった。同志ザゴラがこよなく愛する「マイアミ・バイス」では、ソニー・クロケットもリカルド・タブスも夜はヘロインの密輸に付き合ってるくせに、昼間は本部と称される建物で、警察のバッジを胸につけて容疑者の取り調べにあたっている。たとえ彼らが逮捕され、刑務所に送られたとしても、出所するまで取調官の顔は忘れまい。そうでなくとも、ソニーやリカルドが本部に出入するところは市民の目にさらされている。組織の人間も表向きはその一員であるふつうの市民の目に。
 高校卒業後、警察学校には入学せず、新橋の古い雑居ビルの地下に二年間通いつづけた。そこで“埋めこみ”としての教育を徹底的に受けた。予算の都合というより、保秘の観点から年に一人ずつしか養成されないから、同期生は一人もいない。何人かの教官とつねに一対一だった。格闘技をふくむ体力の向上については、通販会社からの小包で毎月届く給与を使って自力でなんとかする必要があった。
 二年の訓練期間がすぎたとき、サナエは口頭で辞令を受けた。警察庁の刑事局付き、警備局兼務を命ず――。糊のきいた制服も、拳銃も、警察官の身分証明書もなかった。霞ヶ関の合同庁舎に登庁を命ぜられることもなかった。官舎はなく、架空の会社の在籍証明書を一通渡され、自力で住まいを探す必要があった。
 おなじ時期に入庁した職員は相当数いるし、警視庁にはさらに多くの同年代の若者が採用され、交番に立っていた。その初々しい姿を目にして、初めのころサナエはつい声をかけたくなる衝動に駆られた。だがそれは絶対にできなかった。たった一人で行動し、情報を入手するのもサナエだけの判断にまかされた。それが守れないのであれば、正真正銘の潜入捜査官の養成に費やされた国費が無駄になるだけである。すなわち潜入先の組織のほうで彼女のことを始末するだろう。
 サナエには四歳離れた弟がいた。丸の内の旅行代理店でもう十年も堅実に働いている。二年前に職場結婚し、今年一月には長女も生まれた。十代のとき、おなじ凄惨な体験をしたにもかかわらず、姉弟でどうしてこうもちがった人生を歩むのか。はつらつとした裏表のない姿を見るにつけ、サナエは血を分けた弟とのギャップにたとえようのないさみしさをおぼえるのだった。
 姉はいまはエスニック料理屋に勤めるフリーターだと、弟は信じている。三十七歳になっても男っ気がなく、勝手気ままに過ごしていると思いこんでいる。街中で道を訊ねるふりをして近寄ってくる男たちに軽くだまされて痛い目に遭うような、無防備な女だとふんでいるにちがいない。
 弟のみならず傍目にはきっとそうなのだろう。人がいいから、街でよく道を訊ねられるというのも正解だ。ただ一つだけ言うなら、道を聞かれたとき、サナエは相手の言葉のなかに、その日の朝に受信したレンタルビデオ店からのメルマガにあったフレーズが出てくるかどうか、チェックするようにしている。
 ズボラなあなたもきょうから大変身――。
 飼い犬に手をかまれたハリウッドセレブ――。
 ゴルフのスイング中にお腹が見える女性は要注意――などなど。
 そのフレーズが相手の言葉のなかに確認できたとき、道を教えてもらい謝意をあらわす相手に一言二言、こんどはこっちから不可解な言葉を投げかける。
 ジークは歩いてる――。
 チーターの死骸にハゲタカが群れる――。
 マイナス査定でリップスティックが折れた――といった感じで。
 逆に相手のほうが、つづけざまに意味不明な言葉をサナエに投げかけてくることもある。サナエはそれを注意深く聞き取り、ふたたび雑踏にまぎれていく。裏社会の深海に潜った捜査官が海面近くまで浮上してくるのは、そのときだけだった。あとはせいぜい、へたな所轄署の潜入刑事の首筋にナイフを這わせ、致命傷にならぬ傷を上手に残して帰してやることぐらいだった。
 締めくくりに深呼吸を三回行い、トレーニングを終える。体内の老廃物が汗として完璧に噴出し、あとは熱いシャワーで流し落とすだけだった。サナエは聡明さを取り戻した頭脳をふたたびフル稼働させるべく、磨きあげたバスルームに向かった。
 サラ・スークに勤めて八か月になる。
 米軍基地からの爆発物流出事件の捜査上、接近しないわけにいかない店だった。その後、ヘロインの密売人の話から、そう遠くない将来、店にあるシリア人がやって来ることがわかった。大規模なテロを実行する場合、現場を指揮する幹部を事前に送りこんでくるのが一年ほど前にサナエの諜報活動によって存在が確認された「沈黙の塔」のやり方だった。そして密売人から聞いたとおり二か月前、背の高い、端整な面持ちの男がふらりと店にやって来た。アラブ系の顔だったが、ひげは薄かった。
 それがサイード・クリヤムだった。
 日本でのジハードは、経験豊富なこの男が仕切ることになっていた。麻薬売買なんていういつものやわな仕事とはわけがちがう。最高潮に張りつめた緊張感のなかで準備を進めねばならなかったが、来年四十歳になるというサイードは、その任務に自信と誇りを抱いていた。
 サナエは「沈黙の塔」によるジハードの中身をつかんでいた。
 国会議事堂の爆破だ。
 それは9.11とおなじ手法を取る。
 決行は一週間後。
 たとえサナエからの通報により、最終的に未遂に終わるとしても、準備までは慎重に進めねばならなかった。実行グループとなるザゴラとムハマド、それにサナエは、ふだんの活動も休止するわけにいかなかった。ヘロインの取引だ。それをないがしろにすると、取引相手である香港マフィアのほうが不審がり、そっちに潜っているべつの捜査官に気取られる恐れがあった。手柄を急ぐ彼らに余計な手出しをしてほしくなかった。サナエには任務以上にやらねばならぬことがあったのだ。だからサイードからはもっと情報を引きださねばなるまい。そうしないかぎり、サナエの個人的な調査は終わらなかった。
 この仕事をつづけるには、体力はもちろん強靭な精神力が必要だった。それが確実にあると思量される者のみが“埋めこみ”となるのである。
 それがサナエにはあった。
 熱い湯につかり、ゆっくりと体をほぐしながら、サナエはきょうもあの日のことを思いだし、黒々とした冷たい悲しみの海を漂っていた。そうすることが唯一、いまの不安定な暮らしをつづける原動力となるのである。
 ダイニングの中央を占拠する大きなチークテーブルに置いた携帯電話が振動していることなど、サナエは気づきようがなかった。

 七
 「開けて! 開けて!」
 停止してから一時間がすぎたエレベーターで、ついに祐子がキレた。換気口からたばこの煙が抜けていかない事実より、はるかに目のさめる事態だった。専務の威を借るだけのただの女狐かと思ったが、それよりも閉所恐怖症の症状について、見事に実演してくれる患者だった。縦横一・五メートルほどの四角い籠に押しこめられれば、だれしも潜在的パニックにおびえるものだが、この女はそれを一気に爆発させた。
 「開けて! 開けてぇっ!!」
 高価なトートバッグを床に放りだし、髪を振り乱して扉に両手をたたきつけながら叫ぶと、隣で呆然とする警備員のすねをエルメスのハイヒールでいきなり蹴りつけた。
 「…………!」
 たまらず村山は懐中電灯を取り落とし、その場にしゃがみこんだ。光の領域が減り、闇がいっぺんに拡大する。それでも祐子はおさまらなかった。
 「あんた、なにやってんのよ! このバカ! 早く開けなさいよ! 死んじゃうじゃない! 空気がなくなるのよ!」
 あわてておれは二人の間に割って入ったが、遅かった。われを失った元専務秘書が、さっきよりもずっと高く足をあげ、警備員の顔面にヒールを打ちつけたあとだった。
 村山は両手で顔を多い、さらなる危険から身を守るように背中を丸めた。懐中電灯の光に鈍く黒光りする床に赤い滴がぽたぽたと落ちる。おれは言葉を失った。
 予定外。
 こんなのまったくの予定外だ。
 「出してよ! 外に出して! 早く――」
 たまらずおれは祐子の頬を平手で叩いた。祐子はその場にしゃがみこみ、わっと泣きだした。手に負えないガキみたいな女だった。おれは懐中電灯を拾い、村山の顔を照らした。
 「だいじょうぶですか?」エミが心配そうに村山に声をかけ、ハンカチを取りだした。垢抜けしないフリルのついたピンクのハンカチだった。
 「ひどいことを……」よろよろと村山は立ちあがった。左目の外側一センチぐらいのところから、まるで打たれまくったあげくに最終ラウンドを迎えたボクサーさながらに、血がだらだらと噴きだしていた。それを制服の袖でぬぐい、あとはズボンのポケットから薄汚れたタオル地のハンカチを取りだして傷口をおさえた。エミのハンカチは受け取らなかった。せっかくなら受け取るぐらいしておけば、いつかべつの機会にもっといいことに使えただろうに。とっさにおれはそんなことを考えた。
 「あやうく失明するところでしたよ」恨みがましく吐き捨てると、村山は無言のまま天井に手を伸ばした。四人のなかで、そこまで手が届くのはこの男だけ。ちびのおれには到底、無理だった。やむなくおれは、蛍光灯が埋めこまれたプラスチック製の天井カバーに明かりを振り向けた。カバーのまわりを囲む形で換気口がある。
 「あらかじめ聞いておくが、エレベーターに閉じこめられて窒息するってことはないんだよな?」
 「必ず換気装置がついてますから」
 「おいおい、停電してるんだぜ」
 「換気装置がついてるというのは、停電しても換気口だけは確保されてるってことですよ」
 「なるほど」だがそれで喜べないのがいまの状況だった。「ならどうしてたばこの煙が抜けないんだ?」
 ハンカチをしまいながらエミが口を開いた。「なんだかさっきより息苦しくなっていますよね。たばこの煙で気分が悪くなっただけじゃないかもしれませんよ」
 「いまそれを調べますから」村山は、まるまる三十分もかけて天井カバーを取り外した。そこには八本の蛍光灯が収まり、その上に村山の言う換気装置が見えた。扇風機の羽のようなものが顔を出すのかと想像したが、そうではなく、空気穴のついた直径十センチほどの円形の小窓が取りつけてあるだけだった。その向こうに電動式のファンがあるのだろう。「おかしいな」
 「どうした」
 「窓がふさがれてる」
 時間をかけた結果がそれか。おれは腹が立った。「ふさがれてるだと?」
 「これですよ」村山は血まみれの右手をいったん腰のベルトに下ろし、そこにあったものをつかんで頭上で伸ばした。交番の警官がひまなときに路上でぶん回している特殊警棒だった。村山はその先端を換気装置の小窓に突っこみ、力いっぱい押してみた。
 「やっぱりだ。鉄板かなにかでふさがれている」
 「どういうことだよ!」思わずおれも声を荒げてしまった。
 「どうなっちゃうんだろう」エミがそれまでになく心配そうに言った。その足下で祐子がひざを抱え、肩を震わせていた。
 「空気の出入りがないんです。十階建てのマンションとかのエレベーターなら扉の下に隙間が開いてるんですが、高層ビルになると風切り音がうるさいんで高速エレベーターの扉は密閉タイプが多い。このビルもそうです。前にレクチャーを受けたことがあります」
 「つまりなんだよ。酸欠になるってことかよ」
 「完全に密閉されているわけじゃありません。扉と扉の間にわずかですが隙間があるはずです。そこから酸素が――」
 「だけど」エミが声をひそめて言った。「消費する酸素量のほうが多かったら?」
 それはその場のだれもが考えていることだった。家計とおなじで、空気にだって需給バランスってやつがある。おれはいきり立った。「いったいだれが……いたずらなんかじゃないぞ。殺人じゃないか」
 「それよりもいまはなんとかしないと」
 「あとどのくらい持つのかしら」
 不安がるエミに、付き合いはじめたばかりの恋人のような口調で村山が答えた。「まだだいじょうぶ」
 だがその言葉はだれも喜ばせなかった。そのときおれは、テレビドラマによくある解決法を思いつき、村山に提案したが、不愉快にもあしらわれた。
 「天井に非常口なんてないんですよ。そこから外に出てワイヤーを上るなんて映画の世界の話です。それよりも緊急停止の場合、非常電力を使って最寄り階に移動して、扉が開くというのが普通です」
 「そうだよ。非常電力だよ。うちの会社、自家発電の設備ぐらいあるんだろ」
 「ありますよ。だけど一時間以上たっても動かないんですから」
 エレベーターの天井の隅に据えつけた防犯カメラに向かって村山は、むなしく何度か手を振り、あきらめた。「エレベーターに一基でも異常が起きたら、警備室のパソコンに表示が出るはずなんです。それを専門にチェックしている担当者もいるくらいです。それなのに――」
 「ねえ」ふいに足下で声があがった。祐子だった。泣きやみ、トートバッグを抱えたまま青白い顔をしている。「空気がないんでしょ。だったらすこし黙っていない? 無意味なこと話して酸素を消費したくないの」
 こんな事態でもわがままに振る舞える女にしてはいいことを言った。それからはだれもが口をつぐんだ。さすがにおれもその場にへたり、向かいでひざを抱えたままの祐子のわきに足を投げだした。ついでに上着を脱ぎ、ネクタイも取った。シャツのボタンもあらかた外した。すこしだけ気分がらくになった。
 おれの足をはさんで祐子の隣にはエミがしゃがみこみ、おれは二人の女から狭い箱のなかで人事面接でも受けているような格好となった。さすがにエミもスカートの裾を引っ張っている。
 村山だけが立ちつくし、無言のまま特殊警棒で天井の換気口を突きあげていた。その鈍い音がむなしく響くなか、おれは酸素に関し、ふとあることを思いついた。それは脳内酸素の減少が導いた妄想と言えなくもなかったが、とにかく後生大事に腹の前で抱える紙袋の行く末を案ずる上ではナイスなアイデアで、長身靴を脱いだときのおれより明らかに背の低い新入社員の男を、入行式で見つけたときとおなじくらいうれしくなった。
 酸素がなければ火もつかない。
 だったらC4も起爆しないのではないか?
 カトリックの大司教から慰めを受けたかのように、おれはちょっとハイな気分になった。フランス外人部隊とか特殊部隊の連中が推奨するたぐいのポジティブシンキングだった。
 だがその前にこっちが酸欠で死んだら元も子もない。つまり虫のいいことを言わせてもらうなら、起爆に必要な量まではいらないが、自分ひとり生き残る酸素だけはなんとしても確保したい。
 不可能だ。
 現実に引き戻され、すぐにそのことに気がついた。C4については起爆装置のスマホが圏外であること信じて、まずはこの場を生き延びねばならなかった。
 それには一つだけ、発想の転換とも言えそうなじつに巧妙な方法があった。
 おれはシャツのボタンをもう一つ外すふりをして、あとの三人にすばやく目をやった。そして救世主はエミしかいないと思った。村山は男だし、祐子はなにかと抵抗するだろう。必殺技のハイヒールキックも考えただけで恐ろしい。
 エミはいま、大荷物のキャリーバッグにもたれかかり、それに顔をうずめていた。いったいなにを詰めてるっていうんだ。まさかこのビルぜんぶが吹っ飛ぶぐらいの爆弾とかじゃあるまい。窓口係なら、せいぜい客に迷惑がられるだけのリーフレットかなにかだろう。そいつを配るために毎日、会社にやって来ているんじゃないか。おれは憐れみをおぼえた。
 しかしエミというこの女もいつかきっと会社の役に立つときが来るのだろう。だったらちょっとちがう形で貢献してくれたっていい。おれには将来がある。経営企画室次長ぐらいで満足するわけにいかない。もちろん、みなさまからお預かりした大切なお金の記録が消滅した際に稼働するはずのバックアップシステムに不備が見つかり、その責任を追及されることになろうと、へこたれるわけにもいかない。そしてなにより、こんなところで息を詰まらせている場合ではなかった。だからこの女のぶんまでたっぷり空気を吸って生き延び、なんとしてもわが経営企画室御用達の黒塗りクラウンまでたどり着かないと。
 懐中電灯が消えたらなにも見えなくなる。首を絞めるならそのときだ。
 ふと恐ろしい予感が背筋を這いあがってきた。
 村山と祐子もおなじことを考えていたら?
 いや、待て。
 エミだって闇のなかでは別人になれる。あのダサいキャリーバッグのなかにジェイスンも真っ青の牛刀が入っていないなんてだれに言えよう。
 そう思ったらなんだか明かりが消えるのが怖くなってきた。おれはもう一度、全員に目をやった。だが正真正銘の恐怖は、鋼鉄の籠に囚われた四人組のところへ思わぬ形でどろりと滑りこんできた。
 まもなく六時半になろうというころ、明らかにボイスチェンジャーを使っていると思われる人の声が、スピーカーから降ってきたのだ。

 八
 指定席を取らずにおいてよかった。白石はつくづく思った。
 午後六時二十分。
 予定していた列車どころか、このぶんだとつぎの新幹線にも間に合いそうにない。ゴルフまでは順調だったのに、最後の最後でこんな目に遭うなんて。いまや腰まで生い茂るようになった熊笹をかき分けながら小さく毒づいた。
 方位磁石で見るかぎり、白石は南または南南西に向かっていた。この時間の太陽の位置から考えても、それはまちがいなさそうだった。それなのに一向に道路が見えない。急な崖をいくつか下り、小川が足下を流れる谷間も抜けてきた。ゴルフ場は山岳コースだった。ならば町中の標高はもっと低く、そっちに向かっているのなら緩やかでも下り斜面となっているはずだが、そのきざしさえない。むしろひざにかかる負荷を考えれば、上り坂がつづいているようだ。
 頭に浮かんだ不安を夏崎のほうが口にした。「やっぱり戻ったほうがいいかもしれない。あとどれくらいか見当もつかないし」
 「いや、もうちょっとさ。中途半端にあきらめると、かえって無駄足になる」
 ここで素直に夏崎に従ったのなら、林道まで戻ったところで意外にもべつの車に出くわすかもしれない。そしてそのまま天童駅まで乗せてもらい、一本遅れで東京行きの新幹線に乗れる……。胸のどこかでそんな期待がないわけでなかった。だが元請け会社の副社長としてのプライドが、白石をかたくなにした。人のあとばかりついてくる下請けの男は、いまごろ腹の底で疑っていることだろう。吹けば飛ぶような取引先の男にそんなふうに思われること自体、白石を居たたまれなくさせた。
 賢明な判断はつねに白石が下さねばならない。こっちはいつだって指示する立場であり、向こうはそれに黙々と従う。
 逆はだめだ。
 絶対に。
 「あっ……」背後で夏崎が大声をあげた。
 白石は振り返った。熊でないにしろ、マムシぐらい出てきてもおかしくなかった。「どうした」
 「しっ……」夏崎はストップモーションのように体の動きをとめ、右手の人差し指を口の前に立てた。「聞こえたんです」
 喉の奥にごりごりした違和感を白石は覚えた。「なにが?」
 「車の音です」それっきり夏崎は声をひそめ、じっと周囲に耳をすませた。
 それが本当ならやはり白石の選択は正しかったことになる。白石も片手を耳にあて、夏崎が聞いたという音を探った。
 夏崎が西のほうを指さした。白石はそっちに目をやり、あらゆる物音に耳をかたむけた。すると遠ざかるエンジン音がかすかにとらえられた。
 「車だ」
 「まちがっていなかったみたいですね。あっちだ」
 こんどは夏崎が先頭に立って熊笹をかき分けだした。その意気揚々とした後ろ姿になんだか腹が立った。ついさっきまで抱いていた無礼な猜疑心などとうに忘れ、こっちの的確な判断に感謝の言葉もない。まるで出口に急ぐ子どもだ。しかし下請け工場の連中なんて、その程度だ。こっちとおなじ尺度で考えないほうがいい。
 白石はだまって夏崎を追い抜き、やや下りだした地面にテンポよく足を下ろしていった。県道といっても山あいを抜ける小径のような道路なのかもしれない。故郷の鎌倉にも似たような道があった。緑の多い時期など、遠くからはそこに道があるようには見えない。そんなようなところにいま向かっているのだ。
 期待もそこまでだった。
 車のエンジン音を白石の耳がとらえてから二十分が過ぎても、アスファルトはおろか獣道さえ出くわさなかった。
 「ずいぶん歩いたのに」夏崎は両ひざに手をやり、腰を折って肩で息をしている。「おかしいですね」
 「たしかにエンジン音がしたんだが」
 「わたしもそれは聞きました。こっちだと思ったのですが」
 それからまるまる一分間、二人は口を開くことなく、ただじっと耳をすませた。そのときになってようやく白石は気づいた。真夏だと思っていたが、もうずいぶんと日がかたむき、あたりの草木があらかたオレンジ色に燃えだしていた。山だから平地よりも早く日が落ちるようだった。
 「どうしましょう」都合よく夏崎はこっちに下駄をあずけてきた。
 白石は依然として圏外をしめすスマホを見つめた。まもなく七時だった。それでも戻ると言えないのが白石だった。「もう一度、南に向かうほかあるまい。おおむね方角的にはそっちなんだから」
 それから二人は口をきかなかった。下草を踏みしめる回数をひたすら数えているかのようだった。白石の頭のなかでは、在来線の線路を走る山形新幹線の銀色の車両がいくつも通過し、トンネルの奥へ消えていった。
 冗談じゃない。
 最終列車の時間を夏崎に聞こうか迷ったとき、白石はそれまでにない怒りに駆られ、首の後ろにかっと熱いものを感じた。そのときにはすでに暗闇が足下に忍び寄り、あたりにはさっきより静寂が広がっていた。
 白石は意地になった。どこまでも南に歩いているのに、一本の道にも出ないなんて絶対におかしい。
 「どうします?」がまんできなくなったらしく夏崎が声をかけてきた。「迷っちまったみたいですね」
 「迷っちまったって……おまえ」
 「確かに車が動かなくなったところで待っていてもらちが開かなかったでしょう。歩くほかなかった。だけどこうなった以上、ちょっと考えないと……天童駅の最終列車は八時前だったんじゃなかったかな。あと一時間もありません。どうしましょう?」
 「どうしましょうって」
 居心地が悪くて頬が引きつるような気がしたが、こっちの表情がわからなくなるくらいあたりは暗くなっていた。
 「闇雲に歩き回るのも、もうなんですよね」
 「まあ、そうとも言えるがな。ただ――」
 「絶対に今日中に帰らないとまずいですか? ひと晩ぐらい、なんとかしのげる用意はありますけど」
 現実的な選択を迫られた。
 いくら田舎とはいえ、それほど奥深い山というわけではない。GPSで見たかぎり、町中まで五キロもなかった。それもゴルフ場からの帰り道だ。べつにキノコ採りに出掛けたわけでも、難しいオリエンテーリング大会に参加したわけでもない。下請け会社の社長がもてなす接待旅行のごく平凡な帰り道だ。それなのに――。
 遭難しただと?
 「まずいんだよ。こんなことなら、クラブバスを使うんだった。たしかおれたちより前に出発したんだよな」
 いやみを口にすると、夏崎はすまなさそうに頭を下げた。「ほんとそうでした。クラブバスはわたしがフロントで精算してるときに出たんです。時間的には間に合わないこともなかったんですが、お風呂でくつろがれている副社長を急がせるのも申し訳ないと思いまして」
 「言ってくれればいいのに。風呂なんてどうだってよかったんだ」
 つい語気を荒げると、夏崎は肩をすくめた。「最後までわたしの手で送り届けようと考えたのですが……」
 「ああ、いいよ、いいよ」すがりつくような目の夏崎を白石はうるさそうにあしらい、西日がわずかに残る方角に目をこらした。「とにかくすこしでも移動しないと」
 「危険ですよ。足下も見えないんですから」
 「べつに遭難したわけじゃないんだ。もういいところまで行ってるはずだから、がんばれば最終列車にだって間に合うだろう」
 「自信ないですよ」
 「いいさ。おれは一人でも行ける。元々、駅まで一人で帰ろうと思っていたんだから」
 白石はわずかな残照で方位磁石を確かめると、夏崎を無視してさらに南へ歩きだした。やがてその足下を黄色い光の輪が照らすようになった。夏崎がリュックから懐中電灯を取りだし、それをつけて渋々ついてきたのだ。
 「べつに遭難したわけじゃないんだからさ」白石はくりかえしそうつぶやいた。
 夏崎はもうなにも口にしなかった。
 だが山のほうが白石の無謀を非難しだした。雨が降ってきたのである。それもかなり強い。驟雨のようだった。
 「ちょっと待っててください!」
 雨宿りのために身を寄せた大木の枝の下で夏崎が叫んだ。時折、あたりが閃光に包まれ、遠くで不気味な雷が聞こえた。雨はみるみる強まっていく。
 白石のいるところはかろうじて雨をよけられたが、夏崎は離れたところにリュックを置き、地面に転がした懐中電灯の光のなか、ずぶ濡れになりながらなにかを取りだし、せっせと組み立てていた。
 「テントがあるんです!」夏崎の手元で青っぽいものがジャンプ傘のようにぱっと広がった。「早く! 入ってください!」
 それは二人用と思われるワンタッチタイプのテントだった。夏崎は本当に山歩きをするつもりだったようだ。四の五の言ってられなくなった白石は、泥のついた靴のままそのなかに飛びこんだ。
 「ひどいもんだ」直後に入ってくるなり、夏崎は懐中電灯を天井の中央部から下がるフックにぶら下げ、靴を脱ぎだした。あわてて白石もスニーカーを脱いだ。
 「これ使ってください」夏崎はリュックから乾いたタオルを取りだした。
 「悪いな」濡れた頭を拭き、シャツを脱ぐと、なんだか人心地ついた。「助かったよ」
 狭苦しいテントのなか、白石は夏崎とひざとひざが接触するぐらい接近し、向かい合った。
 「どうせこんなこともあろうって買っておいたんです。使うのは初めてです」
 「にわか雨だろ」
 「たぶんそうだと思いますが、どうですかね。前線が近づいているみたいですし」
 雨があがったら、白石が途端に南進を再開すると心配しているらしい。
 「まいったな。もう進めないのか」
 「連絡がないから、奥さんが心配してますね」
 「女房なんてどうだっていいんだよ」
 「あしたは八時に本社に出社でしたっけ?」
 「そうだ。遅れるわけにいかん」
 「あしたの朝に出発するんじゃ間に合わないんですね」
 「よしてくれ。野宿なんて考えたくもない」
 「深夜バスって手がありますよ」
 「深夜バス?」
 「鶴岡から出ているやつで、東京駅行きです。このあたりなら寒河江に停留所があるはずです。たぶん九時過ぎに通るんじゃなかったかな」
 それこそが白石にとって一条の光明だった。「まだ時間がありそうだな」
 「雨さえやめばだいじょうぶです。それまでじっとしていましょう。そうだ」夏崎はリュックからビニール袋を取りだした。「ビーフジャーキーです。非常食で持ってきたんです。まさかほんとに食うことになるとは」
 途端に腹が鳴った。
 もうずいぶん山歩きをしてカロリーを消費した。しかしそれ以上に失われたのは水分だ。とにもかくにも白石は水が飲みたかった。いや、水じゃない。冷えたビール。体はいま、それをなにより欲していた。
 「うまいですよ」
 夏崎は親切にもジャーキーを白石の目の前に突きだしてきた。やむなく白石はそれを口にした。意外とうまかった。味がしみ、塩気が疲れた体にしみていく。結局、白石は煎餅一枚ぶんぐらいのジャーキーをたいらげていた。
 「いい味してるでしょう。山形で作ってるんですよ」満足そうに夏崎が説明した。無添加で割高だが、味は日本一だという。懐中電灯の光が作る影のせいで、夏崎の表情は微笑んでいるにもかかわらず、どこか狡猾な詐欺師ように見えた。
 「水かなにか持ってるか」
 単刀直入に白石が訊ねると、詐欺師の顔は申し訳なさそうないつもの表情に戻った。「それが……手つかずのものが一本残っていたのですが、さっき歩いているときに飲み干しちまって……」
 リュックを広げて確かめてやりたかったが、ぐっとこらえた。いざとなれば、口を開けて外に出ればいいのだ。このあたりは大気汚染にさらされていないから、雪解け水並みとは言えないまでも、ちょっとぐらい飲んでも問題あるまい。
 それをうながすかのように雨はいつまでもやまなかった。三十分がすぎても、二人の男はテントのなかから動けなかった。白石の渇きは最高潮に達していた。それをあおるように夏崎はこんどはクッキーを差しだしてきたが、白石は受け取らなかった。
 「テントに入るなんて何年ぶりかな」
 あぐらをかいたまま夏崎は稲光のすけて見える布地に手をやった。強い雨がバラバラと音を立ててそれにあたっている。
 「中学のとき、海でキャンプやりましたよね。わたしはあれ以来だ」
 「ああ、それならおれも覚えてる。あのときはもっと大きなテントだったよな」
 「そうでしたね。みんなで力を合わせてテント張って、飯も炊いて。後片付けもぜんぶみんなでやった」
 「やらないと怒られたからな。あのころの先生は怖いのがそろっていた。いまとはぜんぜんちがう。ビンタなんてあたりまえだったし、軍隊みたいだった」
 「だけど不思議ですよね、白石さん」
 「なにが?」
 「大人になったら、いやな仕事を他人に押しつけようが、先生に怒られることはない」
 「先生なんていないからな。気をつけなきゃならないのは、せいぜい警察とか役所だろ」
 「それだってほんとの意味じゃ、怒りはしない。ほったらかしだ。いやな仕事はずっとおなじ人間が背負いこまないといけない」
 夏崎はなんだか、出向組となった白石の境遇に義憤を感じてくれているようだった。
 「社会なんてそんなものさ。不公平なんかなくならない。逆に言えば学校がおかしいんだよ。なんでもかんでも平等にしちまって。子どもたちにへんな錯覚を起こさせる。おれなんて三十五年も額に汗して働いてきたのに、最後は会社、出されちまった。それなのにずっとぬくぬくしてて出世したやつが何人もいる」
 「子どものころはね、いくら見かけのちがいや勉強のできるできないがあっても、心のなかでは、みんなおなじだって思っていましたよ。特別なのは先生だけ。生徒のことを好き勝手にあやつって、まるで王様みたいに振る舞える。嫌いな生徒を殴ったり、かわいい女の子を呼びだしたり……あんはふうにできたら、どんなにいいかってずっと考えてましたよ。だけどいくらあこがれても、先生にはなれなかった」
 「狭い世界のばかみたいな話だけど、先生は絶対だった。なんで毎日、あんなにびくびくしてなきゃいけないのかって思ったよ」
 ふと目をあげたとき、懐中電灯の揺れる明かりのなか、夏崎の顔がどこか恍惚としているように見えた。
 「だけど大人になったら、いつだって先生に出くわす。身にしみてますよ」
 「先生に出くわす?」
 「そうですよ。たとえば会社がそうでしょう。上司と部下の関係。そう、元請けと下請けの関係だってそうだ。こっちが相場にらみながら頭下げに行っても、ぜんぜん聞く耳を持ってもらえない。二日酔いだからって平然と言ってのけて、午前中のアポをキャンセルして、午後、それも夕方遅くに回される。待たされるうちに相場は変わって、こっちは大損。それでもわびのひと言もない。もちろん文句だって言えない。そんな目に遭っても、こっちはにこにこしてなきゃ、ね。仕事、来なくなったら干上がっちまいますから」
 なんのことを言われてるのか白石は見当がつかなかった。いつだったか自分がそんな態度を取ったのだろうか。だが総合商社の東洋開発から関連会社の東洋ファイバーに出向したのは二年前のことで、以後、夏崎のアロー・コネクタ産業とはうまくやってきたつもりだった。それ以前に白石は夏崎との付き合いはない。アロー社が東洋ファイバーの仕事を請けるようになったのは、ここ一年ほどのことだ。夏崎がそこの社長だというのも、あとでわかったことだ。
 「白石さんがそうだったってわけじゃありませんよ。だけどつくづく思うんです。中学のころなんかより、恐ろしい先生がいるってね。そいつにビンタくらったら、顔が腫れるどころか首が折れちまうんですから」
 ぶすぶすした気持ちになってきた。白石は思いきって訊ねた。
 「うちの会社もそうなのか?」
 「どうですかね。立場がちがえば、感じ方もちがうと思いますよ」
 夏崎はさらりとこたえたが、白石の目は見ていなかった。その目はリュックに突っこんだ右手に注がれていた。白石はそこからペットボトルが顔を出すことを祈った。水を飲み干してしまったというのが勘ちがいであってほしかった。いや、下請け会社の社長が仕事の愚痴にかこつけて、わざとそんな意地悪なことを言ったとしても、白石は許してやるつもりだった。外の雨とは裏腹に、喉の奥は焼けつき、火を噴いていた。
 だが夏崎の右手が握りしめているものを見たとき、白石は言い知れぬ寒気を覚えた。
 「まあ、よしましょうね、そんな話。ここじゃ、そんなことでくよくよすることなんかないんだし。力を合わせて、この山から抜け出さなきゃならない。なんだかあのころに戻ったみたいですよ」
 間伐にはうってつけの鉈だった。
 夏崎はそれを狭い天幕のなかでこれ見よがしに振り回した。山道を切り開くのは容易そうだった。だが弱々しい懐中電灯の明かりを照り返すその刃は、油が浮いているかのようにぎらぎらとして生々しく、行く手をはばむ木々なんかよりもっと柔らかいものを求めているように見えた。
 「こいつがあれば、熊がやって来てもだいじょうぶです。工場長が言ってましたけど、今年はよく出るらしい」
 雨さえやめばな。つい思っていることを口走りそうになった。あわててそれを飲みこみながら白石は足下で口を開けるリュックに目をやった。そのなかでなにがが輝いている。夏崎はうっとりとした顔つきのまま、白石の鼻先で鉈をまだ振っていた。
 白石は息を飲んだ。
 リュックの奥で光を放っていたのは、忍者が使うような金属の鋲だった。
 それを使えば、車のタイヤなら容易にパンクさせられそうだった。
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