二十五~二十八

文字数 17,494文字

 二十五
 酸素は確実に消費が半減し、二酸化炭素の放出量も五〇%が削減された。だがそのぶん、祐子と村山の体から流出する血液と禁を破って染みだしてくる糞尿の臭いがエレベーター内に充満し、とても息が吸えたものでなかった。
 それにこの暑さは最悪だ。
 もう七時間近くエアコンがとまっているから、サウナのようになっている。それも乾式でない。体から蒸発する汗が霧となって広がるのが見えるくらいのミストサウナだった。
 おれは二つの遺体とシャネルのバッグから飛び出した祐子の所持品の一切合切を壁に寄せつけ、流れ出た血に侵食されていないところを選んで腰を下ろした。ペットボトルでもあれば、そこに小便をするのだが、あいにくだれも持っていなかった。こんなときでもどうして人目を気にするのか、おれは自分でも理解できなかった。
 「もう電池が切れるな」時折、眠るようにふっと消える明かりを呼び覚まそうと、おれは昔の中学教師よろしく懐中電灯にばんばんと平手打ちを食らわせた。そのたびにすこしだが電球が明るくなる。けなげなやつだった。死にかけた愛犬のようだった。だからってライターをつける気にはならない。そんなので酸素が減るなら暗闇のほうがましだった。
 そのときだった。
 貴重な酸素を守るための口減らし争いに押し黙ったままだった例の声の主が突如、息を吹き返した。
 「笛吹次長、メールアドレスを教えてください。メルアドが言えないなら、金を洗った報酬はどうやって手に入れるのか。その方法を教えてください。さもなければ、メコンプレックの大時計だ。あれはどこに売り払いましたか」
 一気にまくしたてられ、さすがにおれはへこんだ。
 おれは自分以外の唯一の生存者であるエミのほうを見た。村山を襲った悲劇についさっき尿を漏らしたエミもいまでは正気を取り戻し、ひざを抱えていた。座っている場所には、もはやべっとりとした血と尿の絨毯が敷き詰められていた。
 「笛吹……さん」弱々しい声だった。
 「なんだよ。メルアドだろ。待てよ。いま、悩んでるんだ。言おうか言うまいか。この警備員さえ、あんなことしなきゃ、おれだってもっと早く腹を決めてたんだぜ。それがなんだよ。あんたにゃ悪いが、すこし考えさせてくれ。頭が混乱してるんだ」
 「さっきは……ありがとうございました」
 「あたりまえさ。目の前でうちの女子行員がレイプされるんじゃ、たまったもんじゃないからな。それもあんな野獣に」咳きこみながらおれは言ってやった。だがそれは本心ではない。村山がいなけりゃ、おれだって似たようなことをしていたはずだ。
 「だれなんでしょう」あえぐように訊ねてきた。言いたいことはわかった。声の主のことだ。「心当たりは……あるんですか」
 「あんた、相当まいってるな。だけどおれだってそうだぜ。こんなこと、半日前には想像だってしなかったぜ。だけど二人きりになっちまったから白状するけど、心当たりがないとは言えないな」
 エミはそれ以上訊ねることができず、ぐったりとしてキャリーバッグに顔を押しつけるようにして寄りかかった。落盤事故の起きた炭鉱内で死にゆく年老いた低賃金労働者のようだった。
 おれは祐子がコンビニで買ったテレビ誌に手を伸ばし、ぱらぱらとめくってみた。中学生でも読める中身だが、どれもまるっきり頭に入らない。
 「バイトしてるんだよ。銀行の給料だけじゃ、なかなか実現できない夢もあるからな。それには原資が必要だ。いくら銀行員だからって、金庫から拝借するわけにはいくまい。あんただって、それくらいわかるだろう。だから外部の仕事をいろいろこなさなきゃならん。おれだけじゃないぜ。みんな、いろんなことやってるんだ。お堅い銀行に片足突っこんで、もう一方で魑魅魍魎の世界とお付き合いしてる。へへ、なかなか刺激的なんだぜ、これがまた。たとえばおれの場合、察しはついてると思うが、金を洗って手数料をもらってる。さて、その金だが、要は薬物売買の代金なんだな。覚せい剤とか大麻とか、ほら、渋谷のセンター街でよく売ってるやつさ」
 そこまでしゃべったら途端に気分が明るくなった。二日酔いの頭を抱えて大学に行ったら、ストで授業がぜんぶ休講になってたときみたいだった。でも冷静に考えれば、そこまでブリーフィングするのは、自殺行為とも言えた。このまま運よく扉が開いたら、鋼鉄の箱の内側で起きた惨劇に関して、エミは事情聴取を受けるだろう。そして彼女は、勤務先の幹部社員による見過ごせぬ不正について話すはずだ。でもそれには条件がある。クリアされねばならぬ高いハードルだ。
 エミが生きていれば、という。
 おれはある決断をくだしていた。ゆるぎない大英断だった。おれを破滅に招く事態に至らぬよう、問題の条件が満たされないよう必要な措置を取るのだ。
 意識朦朧となっている女に向かって、おれはしゃべりつづけた。
 「おれの依頼主は暴力団だ。だがここにあるタッパーウエアをおれに渡してくれたのは、やつらじゃない。たぶんべつの組織。外国のマフィアかなにかだ。だってそうだろ、日本のヤクザがスマホを起爆装置にした遠隔操作の爆弾なんて作れるわけないじゃないか」
 軽口をたたくふりをしながら、おれは子どものころを思いだしていた。ハチとかカナブンとかトカゲとかを捕まえて、へいきで首をちぎったり、足を引っこ抜いたりした。もっと大きなものでは、田んぼにいたウシガエルを高速道路に放り投げて、ベチョッて轢かせたこともある。
 でも豚や牛はおろか、鶏だって絞めたことはない。さっき村山警備員の目に祐子のハイヒールを突き立てたのは、エミを守るためにどうしようもなかったからだし、無我夢中だったからだ。法律的に言えば、第三者のための正当防衛が成立するし、過剰防衛にもあたるまい。ところがこんどは自ら積極的に人の命を奪うわけだ。
 なんて人生だ。
 おれは天井をあおいだ。
 融資がとまって干上がった小さな貿易会社にとどめを刺すべく、下痢ピーで使えないちんぴらの代役として、白い粉末を抱えて事務所に侵入するほうがよっぽど気がらくだ。相手は豚箱に放りこまれても、死ぬわけじゃない。だいいち有罪になったのは、おれだけのせいじゃない。検察だか裁判官だかが買収されていたんだ。やくざ連中に。
 心を鬼にする必要があった。
 「つまりこういうことさ。おれに絡んでくる組織は二つあって、たぶんそいつらが抗争を始めて、おれはそれに巻きこまれた――なあ、そうだろう、マイクに向かってるそこのあんたよ!」
 操作パネルのほうを見あげ、吐き捨ててやったが、反応はなかった。もしかしたらクライマックスを前に小便でも行ったのだろうか。そう思った途端、破裂寸前の膀胱がずきりとした。事をなしおえたら、まっさきに喫緊の生理的欲求を解放しないと。
 手順はもう決めてあった。
 目をつけたのはテレビ誌が入っていたコンビニ袋だった。さすがにこの手で首をひねるなんてできない。一生その感触につきまとわれそうだった。かといって、祐子や村山の死に方も参考にならない。残酷すぎる。エミには穏やかに逝ってもらわねばならない。
 真っ暗闇のなかで。
 おれは、放りだされたコンビニ袋の位置を横目で確かめた。
 「まったく聞いてるんだか聞いてないんだかわからねえな……まあいいさ。でもな、エミちゃんよ、ボイスチェンジャー野郎はいいから、あんただけでもよく聞いてくれ。おれはマネーロンダリングの片棒かつぐ程度の、いかにもホワイトカラーが片手でできそうなアルバイトばっかりしてきたわけじゃないんだぜ。それなりの報酬を受け取るんだ。マジに金玉が縮こまるようなリスクと隣り合わせの仕事もやってきたんだ」
 たまたま開いたテレビ誌のページが新しい刑事ドラマを紹介していた。
 「ほら、こういうドラマ」
 ぐったりとしたままキャリーバッグにもたれるエミにおれはそのページを見せてやった。
 「悪いことはぜんぶ暴力団がしてくれることになってるだろ。だけど現実はちがう。昔、成田にな、どうしてもぶっ潰さなきゃならない会社があったんだ。それでいろいろ策を練って、まずは適当ないちゃもんつけて、融資をストップした。それからそこの従業員の机からヘロインが見つかったように工作してやった。ぜんぶおれがやったんだぜ、この手でよ。ほんとはちんぴらの鉄砲玉がやるはずだったんだけど、いざというときに使えなくなっちまってな。あれはアルバイトっていうより本業に近かった。だからそのときおれは、強烈なプロフェッショナリズムを感じたよ。結局、頼りになるのは自分だけ。仕事ってのはそういうもの。これこそが男の仕事だってな。要は信念の問題なんだよ。警察なんかクソ食らえだ」
 えいとばかり、おれは懐中電灯のスイッチを切り、コンビニ袋に手を伸ばした。想定外だったのはガサガサといういかにも不穏な音がしたことだった。本当に玉袋が収縮してきたので、おれはもう音なんか気にしないで両手で一気にそれを開き、闇のなかで適当に当たりをつけてエミの頭にかぶせようとした。
 一発で決まれば気がらくだったが、当然ながら抵抗され、顔を爪で引っかかれたりもした。それでも四度目の挑戦でようやく袋のなかに人間の頭をすっぽり収めることができた。すかさず首のところから空気が入らないよう、袋の持ち手を使ってしっかりと結び、あとはばたつく手足を押さえつけた。
 「やめて!」
 闇のなかでエミは、くぐもった悲鳴をあげた。そのたびに袋が膨らむパリパリという音がした。空気を吸いこんだときには、唇にビニールが張りつくぺたっという音もする。最初の一分間は体の抵抗が激しく、おれのなかに罪悪感の芽が伸びたり縮んだりした。しかしあとは波がひくように静かになり、三分を過ぎたころに二、三回、体が小刻みに震えるのが感じられた。それでもおれは全体重と全神経をエミの体の制圧に注ぎつづけた。
 結局、十分間以上、おれはそうしていた。気づいたときは、般若心経の一節を声に出して唱えていた。体はぐしょ濡れで、毛穴という毛穴から体内に残った汗がすべて噴出してしまったかのようだった。
 もはや女はぴくりともしない。
 おれは激しい動悸を覚えつつあとじさりし、懐中電灯をつけた。
 エミはキャリーバッグのわきに袋をかぶされた頭を寄せつけ、動かなくなっていた。腰のところがみるみる濡れ、床に透明の液体が広がる。新たなアンモニア臭が立ちこめた。村山の死に動転して失禁したときよりも量が多く、おれの足下まで達しそうだった。
 途端、おれの体も禁を失っていった。

 二十六
 うっそうと葉を繁らせる木々の合間に隠れるようにして避難小屋は建っていた。山男のキンジロウの家なんかよりもしっかりとした建て付けだった。さすがは国費で作っただけある。中学校のグラウンドわきにありそうな体育用具室ほどの広さのログハウスで、入口には「山形刑務所構外作業施設」との木の札がさげてあった。
 入口に鍵はかかっていなかった。
 「建てたのもわたしたちなんですよ」遅れて到着した夏崎が言った。息があがり、もうしゃがんでいる。
 それを無視して白石はなかに入った。小屋を探している間も始終、獣らしき視線を感じていた。もたもたしていたら熊に食い殺されそうだった。
 なかは異様に蒸し暑く、ふかふかの布団が積んであるわけでも、すぐにも使えそうなかまどがあるわけでもなかったが、板張りの床は十畳ほどの広さがあった。これなら大雨に降られた受刑者たちを二十人は収容できそうだった。切れかかった懐中電灯の明かりが天井からさがるランプを照らしだした。白石は自分の荷物と夏崎のリュックを下ろし、それに手を伸ばして検分した。
 「アルコールランプだ」
 「もう長いこと使っていないはずですが、棚にアルコールが残ってるかもしれない」
 夏崎の言うとおり、作りつけの棚に理科の実験で使うような瓶に入ったメチルアルコールが見つかった。白石はそれを丁寧にランプに注ぎ、おなじ棚にあったマッチで明かりを灯した。
 「ありがたい。ほっとする明かりです」
 言葉とは裏腹に苦しげに床に突っ伏す夏崎に目も向けず、白石は扉をしっかり閉め、小屋の内部を確かめた。
 アブやハチといった無数の昆虫が壁にへばりつき、何匹かが突如灯された明かりに興奮して乱舞しはじめた。ランプのあった棚の上の段には非常食を入れた麻袋が二つ、その隣には殺虫剤のスプレー缶が何本かあった。白石はそれを小屋じゅうに撒いた。
 下の引き戸には、二リットルのミネラルウオーターのペットボトルが三本あった。賞味期限ぎれだった。さっき川で水をくんでおいてよかった。
 「わたしにも……」足下に夏崎が這ってきていた。床に血の筋をつけている。その量からしてかなり体力を消耗しているようだった。
 憐憫は起きなかった。
 リュックのサイドポケットが開いていた。床には錠剤を詰めた薬瓶が転がっている。風邪薬だった。白石は戸棚の前に立ちはだかり、主人の許可なくリュックに触れた男が近づけないようにした。
 「水は賞味期限がきれてる。腹痛起こすぞ。錠剤なら水なんかなくても飲めるだろう。それにおれは水が欲しかったわけじゃない。食糧だってそうだ。無線機だ。無線機はどこだ」
 「ありますよ」うめくように夏崎は言った。「でも今夜呼んだって、救助隊が来るのは朝ですから」
 「ふつうならそうだろう。だがここはそれほどの山奥じゃあるまい。おまえたちが道を開こうとしたぐらいなんだからな。でもな、たとえ奥深い山でも、人殺しと一緒だと言ったらどうなる? ほったらかしにはできまいよ。すぐに警察がヘリを飛ばしてくれるはずだ。国営施設が建ってる場所なんだから、GPSを使えばどこにあるか容易にわかる。木は繁っているが縄ばしごなら下ろせる」
 「人殺しだなんて……」
 「ちがうのか? おまえの魂胆なんてわかるものか」
 「ならやってみるといい。無線機は――」夏崎は半身を起こし、左手で小屋の奥を指さした。隅のところにブルーシートがなにかに掛かっていた。「水をください」
 「勝手に飲めばいいだろ」白石は、鉈が入ったリュックをつかみ、殺虫剤で落ちた虫たちがぴくぴくしている場所の奥にあるブルーシートに近づき、それを取り払った。
 大量の埃とともに、ケーブルテレビのセットトップボックスのような金属の箱が姿をあらわした。ハンドマイクもつながっている。電池式だったが、無線機のようだった。
 白石はスイッチを入れた。
 ボッという電源が入る音がした瞬間、それまでの緊張が解けていく感覚が胸に広がった。スピーカーからはブーンという通電音が漏れてくる。無線ならジャカルタ支店にいたころ、車載のものを使ったことがある。記憶を呼び覚ましながらスイッチをいじり、白石はマイクにしゃべりつづけた。
 十分が過ぎても返事は一向になかった。それどころかそれまで聞こえていた通電音も聞こえなくなっていた。
 「もしもし、もしもし……こちら山形刑務所の構外作業施設……ちくしょう、どうなってんだ」
 「前は使えたんですよ」またしても夏崎が背後に這ってきていた。ペットボトルを抱えている。中身は半分以上なくなっていた。
 「きさま、どういうことだよ!」だまされたと思った途端、激しい怒りが爆発し、つぎの瞬間には靴で夏崎のあごを蹴りあげていた。
 ぐふっという低い声が喉から漏れ、夏崎の体はごろごろと転がっていった。壁際に達するや、夏崎は飲んだばかりの水をあらかた吐いた。白石は虫の死骸を踏みつけて近づき、その前に仁王立ちになった。
 「はめたのか」
 「ち……ちがいます」つぎの攻撃から身を守るように背中を丸め、両手を顔の前にかざしながら夏崎は白石のことを見あげた。「ほんとなんです。長いこと使っていなかったので漏電かなにかしたのだと思います」
 腹いせに白石は夏崎の手からペットボトルを奪い取り、壁に向かって投げつけた。それからふたたび無線機の前に戻り、格闘を始めた。「どうしても明日の朝八時までに本社に行かないといけないんだ。専務主催の会議なんだよ。絶対に欠席するわけにいかない。そういうところで点数稼がないと本社に戻れなくなるんだよ! おまえみたいな下請けの町工場の野郎になんか、邪魔されてたまるか!」白石は泣きそうだった。無線機はもう完全に死んでいる。「同期の連中がどうなってると思う? 本社でどんどん上に行ってるんだぞ。そのうち役員になるやつも出てくる。昔はおれのほうがずっと上を行ってたっていうのによ。それなのにおれだけ、なんであんなちっぽけな会社に出て、おまえみたいな連中の相手をしながら定年を迎えなきゃならん。冗談じゃない。おれは終わってないんだ。まだまだなんだよ!」
 気づいたとき、白石はリュックから鉈を取りだしていた。両手で柄をつかみ、ひと振りで太い枝をもなぎ払う分厚い刃を壁際の夏崎に向けていた。
 「それを使おうっていうんですか」
 「なんだと」
 白石はどすをきかせたつもりだったが、夏崎はひるまなかった。
 「人殺しはどっちですか」白石の目を盗んで飲んだ薬が効いてきたのか、夏崎はさっきより落ち着いた口調になっていた。目つきもとろんとしている。だがそれは薬のせいなのか、骨折と大量出血のせいで頭がおかしくなっているのか判然としなかった。「あなたには言いたいことがたくさんあった。ずっとずっと前からだ。自分の利益のためなら犯罪でもなんでもする人なんだ」
 「なに言ってんだ。おれをこんな目に遭わせておいて。それでもまだそんなことをぬかすのか。信じられない阿呆だな、きさま」
 「貝塚エクスペリメントって会社、覚えてますか」
 唐突に言われ、白石は眉をひそめた。「なんのことだ」
 「成田にあった輸入会社、貝塚エクスペリメントですよ。小さいながらも、実験用のカニクイザルの輸入じゃ、そこそこ実績があった。お忘れですか? 二十二年前のことです」
 二十二年前――。
 カニクイザル――。
 たしかにそのころ、動物実験に使う猿を扱ったことがある。ボルネオからの輸入だった。白石のなかでは比較的好成績をあげた事業の一つだった。
 「一九九二年ですよ。当時、わたしは貝塚エクスペリメントの役員で営業部長を務めていた。役員ったって、東洋開発なんかにくらべると米粒みたいな会社です。上に創業者の社長が一人いただけです。社長は元々、大手の商社マンで、独立して貝塚を興した。わたしに目をかけてくれたのも社長で、独立したときに、横浜の貿易会社にいたわたしを引っ張ってくれた。だから二人三脚ですこしずつ事業を広げていったんです」
 両足を伸ばし、ぼそぼそとつぶやくように語る夏崎の太ももに大きなスズメバチが落下した。殺虫剤を吸ってもがいている。夏崎はその腹を指でつまみ、もてあそぶように目の前にかざした。
 「ところがその年の夏、悲劇が起きた。取引先の銀行がいきなり融資を渋ってきて、それがもとで不渡りを出しそうになった。そりゃもう大変でしたよ。わたしも社長も連日、べつの銀行や信用金庫を回って融資を取りつけようとした。そんなある日のことです。わたしが出社しようと家を出ると、外にいた二人組の男に声をかけられたんです。刑事でした。会社の机からヘロインが見つかったって言うんです。そのままわたしは警察に連行され、つぎにシャバの土を踏んだのは出所した二年半後でしたよ」
 そのときには白石も思いだしていた。
 総合商社の東洋開発は当時、実験用動物の輸入に力を入れており、とくにカニクイザルは取引強化が厳命されたジャンルだった。白石はその最前線にいて、なんとか他社の取り扱い物件を奪取しようと日々もくろんでいた。その他社のうちの一つにたしか貝塚エクスペリメントというのがあった。
 「もちろんでっちあげの冤罪でしたが、だれも信じてくれなかった。わたしは逮捕され、社長は心労で倒れ、巨額の負債を抱えて会社は倒産した。小さな会社でしたから、役員であるわたしの財産まで差し押さえられた。一番ショックだったのは、そんなわたしを見限って妻が小学校にあがったばかりの娘を置いて家出をしたことです。まだ七歳の一人娘は独りぼっちになった。父親は塀のなかですから。親せきは食べ物をすこし置いていっただけで、あとは面倒を見てくれなかった。財産を処分しに裁判所の執行官がやって来たときも、家には娘しかいなくてね。幼心に大切にしているおもちゃとかを守ろうと、いろんなところに隠したそうです。でもどさくさのなかで根こそぎ持っていかれてしまった。娘はがらんどうになった家ん中で泣きつづけたそうです。だからそのあと、里親に出したんです。そしたらね――」
 夏崎は指でつまんだ死にかけのスズメバチの腹に力を加え、そのまま胴体と胸の部分を爪の先で切断した。
 「不幸は取りつくんですよ。底なしに落ちていく。娘を預けた先が悪かった。刑務所に入って半年がすぎたころ、児童養護施設の人が訪ねてきました。娘が交番にかけこんだそうです。里親にいたずらされたらしいんです。まだ初潮も迎えていない時分ですよ。わたしにはどうしようもなかった。それでその人の施設に入れてもらいました。そのころ、うちが扱ってたボルネオのカニクイザルの輸入を始めたのが東洋開発。白石さん、あなたが責任者だった。そして刑務所仲間の話から、冤罪事件をだれが仕組んだかわかりました。暴力団をつかって検察官や裁判官まで買収して」
 「待ってくれ。確かにカニクイザルはあのころ、おれも担当していた。だが冤罪を仕組んだなんて……おれはなんにも知らん。ほんとだぞ。だからおれを恨むのはおかどちがいだ」
 「あなたがわたしを陥れたとは言ってませんよ。それはわたしにもわかっています。たぶんあなたはうちの会社の利権を奪いたい、その一心だったのでしょう。そのために腐心したのは、当時、あなたの腹心ともいえる付き合いをしていた銀行マンだ。ここまで言えばわかるでしょう。笛吹勝二。東洋開発のメインバンクである帝都大洋銀行新宿支店の法人営業課にいた男です」
 「笛吹が……あいつがそんなことを」
 「けなげじゃないですか。客のためなら、危ない橋でも渡る。戦国時代の家臣みたいでしょう。銀行マンの鏡ですよ。だけど白石さんだって、笛吹が裏社会とつながっていることぐらい知ってたでしょう。ジャカルタ時代はいろいろ面倒見たんだし」
 白石は息を飲んだ。
 どうしてジャカルタのことを知っている?
 おれのもっとも脂の乗っていた時期であると同時に、自分のなかの暗部、他言をはばかるような仕事が一番多かった時代だった。
 刑務所情報だろうか。
 笛吹と付き合わなくなって何年になる?
 十年以上だろうか。フットワークがよく、はったりのきく男だったから、かつては白石も一緒に仕事をしたものだ。海外の商社マンがときとして出会う怪しげな人物たちを何人か紹介したのも事実だ。ただそれも、メインバンクとの持ちつ持たれつの関係を維持する上で必要だったからだ。
 「あの男とは大昔はよく付き合っていたよ。でも夏崎、おまえの会社の件であいつがなにをしでかしたかなんて知らん。ほんとに知らないんだ」
 「じゃあ、神沢涼子って女はどうです?」
 小屋を取り囲む真闇よりも暗く、巨大な悪魔の手が白石の胃袋をわしづかみにした。「いきなりなんだよ」
 「知らない名前じゃないでしょう」
 「なんのことだか――」
 「顔が引きつってますよ。白石さん、あなたにとって、笛吹勝二なんかよりずっと生々しい名前でしょう。いまだって顔が浮かぶはずだ。銀座のクラブで見つけて、そのまま自由にできる女にした。年はあなたより三つ下だ。バツイチとか言ってたんじゃないかな。あなたは『妻とは別れる』と言っては彼女のマンションに通い詰め、三年間も関係をつづけた」
 「さっぱりわからんな」
 かろうじて言ってみたが、つぎなる夏崎の言葉に白石は絶句した。
 「わたしが刑務所に入ったことで家を出た妻はその後、勝手に離婚届を出して旧姓に戻りました。それが神沢です。浪費家で派手なところはありましたが、それでもわたしは妻を愛していました。いい女だったんですよ、涼子は」
 あれからもう十九年がたったのか。
 白石は過去に呼び戻されたかのような感覚にとらわれた。たとえるなら、アロー・コネクタ産業山形工場の工場長がゴルフに連れて来たスナックのママと似た雰囲気の女で、だからこそラウンド中、ママ――シホさんとかいう名前だった――のことが気になったのだ。
 「自分の妻が、まさか中学の同級生の愛人になり下がるとは思いませんでしたよ」
 たしか夏崎は、自分を捨てた妻は三年後にもどって来たものの、夫に受け容れられず、結局、家の前で凍死した、とか話していた。それがおれの――。
 「いつかこの話をあなたにしよう。そう思って職を転々とするうちにいまの会社を見つけたんです。そこで頑張るうちにわたしはいつしか社長になっていた。そしてあなたが東洋ファイバーに出向になったことを知って、急きょ、光ファイバーのコネクタを作り始め、社名もただの『アロー産業』から『アロー・コネクタ産業』に変えて、御社に売りこみに行ったんですよ。去年のことです」そこまで言うと夏崎は疲れ果てたようにがっくりとうなだれた。腹と胸を切断されたスズメバチは、根深い恨みを抱えた男の左足の下ですり潰されていた。
 白石は床にひざをついていた。すでに鉈は手放している。いまはもうそれを振り回す気分じゃなかった。
 そのとき白石は気づいた。
 この小屋はどこかおかしい。
 長年使っていないと言いながら、どことなく人が出入りしている感じがした。それに妙な臭いがする。肉が腐ったような臭いが。

 二十七
 「なにかご用ですか?」夏の夜風に吹かれ、老人の頭頂部にわずかに残った白髪が孤高の枯れ木のように立ちあがっていた。
 「すみません。こちらの会社の方ですか?」
 「そうだけど。どうしました? こんな時間に。このへんはね、若い女の人が夜中に出歩くようなところじゃない。空き巣も多いし、悪い連中がいたずらしようって車を流したりしている」
 もう七十歳近いだろう。骨の上に皮がのっているだけの、いかにも田舎のおじいちゃんといった感じの男だったが、背筋はぴんと伸びていた。
 「ちょっとうかがいたいことがありまして」
 「新聞記者かなにかですか? まさか警察の方じゃないでしょう」
 善良な市民を相手にするのが“埋めこみ”にとってはもっともつらかった。むしろ裏社会の人間のほうが呼吸(ルビ、いき)が合いやすい。「事情がありまして。でも決して怪しい者ではありません」
 「みんな、そう言うね。このあたりをうろつく連中は。でも見てのとおり、会社は閉まっている。だれも残業なんかしてませんよ。おれはね、夜警も兼ねて住みこみで働かせてもらってるのさ。だからここはいまのおれの家でもある。だけど最近じゃ、それほど仕事がこなくてね。ゆっくり風呂に入れるのはうれしいけど、あんまり長くつづくとリストラされちまう」
 「社長は夏崎巌さんですよね」
 「そうだよ。社長がどうかした?」そう言いながら老人は重たい鉄門にかけた南京錠を開けてなかに入り、サナエを招き入れた。「夏でも夜風は体に悪いからね」
 二階建ての建物の裏口からなかに入った。すぐのところにある引き戸を開けると、八畳ほどの和室が見えた。万年床にちゃぶ台。小さなテレビとガス台にかけたやかん。そこが老人の家のようだった。身分を明かさぬ若い女を自室に招く男の腹のなかには、たいていよこしまな考えがしまってある。しかし断るわけにいかない。サナエは畳にあがった。非常事態を想定したデイパックは肩にかけてある。
 明るいところで老人は改めてサナエのことを見た。「わけありって感じだね。でも目を見りゃわかる。あんた、うそつきじゃないね」
 あとはなにも訊ねぬまま、老人はやかんを蛇口の下に持っていって水を入れ、火にかけた。たまらずサナエが聞いた。
 「夏崎さんと連絡を取りたいんですが」
 「おれもなんだよ。社長、きのうから山形に行ってる」
 「山形?」
 「河北町ってところに新工場ができたんで視察に行ってるんだ。一にも二にも仕事って男だから、今夜九時にはこっちに帰ってきて、会社に顔を出すはずなんだけど、電話一本ないんだよ」
 「携帯とかは?」
 戸棚から湯飲みを二つ取りだしながら、老人は首を横に振った。
 「取引先のお偉いさんが一緒だから、連絡するひまがないのかもしれない。たいへんなんだよ、下請けは」
 花火は今夜遅くにあがる――。
 サイードはそう言っていた。だったら仲介役としては、できるだけ事件の現場から離れていたいというのか。だがそもそもどこで花火があがるか自体、判然としなかった。
 老人はテレビをつけた。
 ニュースをやっていた。高性能プラスチック爆弾の炸裂を思わせる大規模な爆発が今夜起こったような緊迫感は画面から伝わってこなかった。焦る気持ちを抑えてサナエは訊ねた。「もしかして一緒に出張に行った相手って、銀行の人ですか? 融資元とか?」
 老人はやかんの火をとめ、眉をひそめた。「どうしてそんなこと聞くんだね?」
 「それは――」
 「社長は悪い人じゃないよ。苦労人だから他人の痛みがわかる。おれがここにいられるのもあの人のおかげだからね」
 「夏崎さんがいなくなったら、この会社どうなります?」思いきって言ってみた。
 老人は茶葉を入れた急須に湯を注ぎ、しばらく押し黙ってから口を開いた。「あんた、やっぱり警察の人だろう。警察のこと、おれだって知らないわけじゃないんだから」
 サナエは返事ができなかった。
 出所後、夏崎に引っ張られたという小林の話が思いだされた。ことによると夏崎は本心から小林を更生させようとしたのかもしれない。一瞬、そんな考えが頭に浮かんだが、それ以上にじりじりと焦りが募り、手は自然と自白剤を収めたデイパックに伸びた。渋谷で浜野誠に使用した、直近の記憶を失わせる薬もそこに入っていた。浜野はまだ夢のなかのはずだ。あすの朝目覚めたときは、前夜の出来事をすっかり忘れていてくれる。
 「ここに勤めて何年になるんですか? ええと――」
 「熊谷だ。みんなはじいさんって呼んでるけど。もう五年になるかな。住みこみだから社長とは当然、よく話す。人に言えないことまで相談する仲さ」
 「じゃあ、夏崎さんのこと、心配もしている。そうでしょう、熊谷さん。あなたを信頼して話しますけど、いまわたしが言った銀行の方を早く見つけないと、ものすごくたくさんの人の命が危険にさらされるかもしれないんです」
 湯飲みをちゃぶ台に並べる老人の手がとまった。「おれには関係ないな。それに悪いやつらが死ぬならこんないいことないだろう」
 「テロなんです。二十メートルもまともに弾が飛ばない拳銃で撃ち合うヤクザどうしのけんかとはわけがちがう。ダイナマイトなんかよりずっと破壊力のある爆薬をあたりまえのように使う無差別大量殺人なんですよ。女子どもの分け隔てなくみんな殺される。もちろん遺族も一生、心の傷を負う。そこまでの権利が夏崎さんにあるんですか」
 熊谷は震える手で無理やり茶を注ごうとして失敗し、あらかたちゃぶ台にこぼした。「東洋ファイバーって元請けの副社長を連れて行ったのさ。白石っていう人だ」
 湯飲みに口をつけながら、サナエはあやうく頬がひきつりそうになるのを気取られまいとした。真夏の宵にすする熱い緑茶がサナエの頭をクリアにした。
 いまもっともC4を必要とする笛吹勝二は、それを所持していたアラブのテロリストとの間を仲介した夏崎巌とは一緒にいない。しかし夏崎がきょう行動をともにしていると考えられるのは、笛吹の背後にいたという商社マンの白石だ。
 「夏崎さんですけど、ずっと前に有罪判決を受けて刑務所に入ってますよね」
 「知ってたか。ヘロイン所持で捕まったんだ」
 「ヘロイン……冤罪なんですよね。帝都大洋銀行の笛吹勝二がやったんですか?」
 「社長はそう言ってたよ。銀行員って恐ろしいんだな。そのせいで社長は一家離散さ。それでもここまで盛り返してきたんだから、すごいよな」老人はしみじみとして茶をすすった。
 「笛吹はいまも悪事に手を染めてるらしいですよ。おなじ薬物がらみ。暴力団が売りさばいた金を洗っているみたい」
 「こないだ飲んだときに社長、言ってたよ『笛吹を八つ裂きにして、やつが洗った金もみんな奪っちまいたい』ってな。頭の足りないやつなら、自分をはめた野郎をぶっ殺すぐらいのことしか考えない。だけど社長はそれだけじゃ満足しなかった」
 「無理ですよ。暴力団と銀行が相手だなんて。とくに銀行のガードは厚い」
 「だから白石のほうにしたんじゃないか。中学の同級生って話だよ。それなのに笛吹を使って、会社を潰しに来たって、涙流しておれに訴えるんだ」
 だったらC4は元同級生の殺害に使うのか?
 「まったくどこ行っちまったのかなあ」老人はテレビのチャンネルを切り替えながらぼやいた。ニュースをやっていたが、まだ爆発事件の一報は入っていなかった。「いまの子どもたちって、GPS機能がついたスマホを親に持たされてるんだろう。あれがありゃ、誘拐されても居場所がわかるって言うからな。便利なもんだよ。社長のスマホにもそういうのがついてりゃよかったんだが――」
 サナエのなかでなにかがきらめいた。
 それがなんだったかつかもうと、サナエはもう一度、熱い緑茶をすすった。
 GPS――。
 そうだ。
 GPSとは、人でも車でも現在地を知らせる機能で、それは人工衛星を使って捕捉する。そう、この「捕捉」こそが問題なのだ。これを金融機関で言えばどうなるか?
 預け入れと引き出しの記録だ。
 マネーロンダリングでも着服でも、それをたどることが捜査の基本となるし、逆にそれが消失していると捕捉は困難――場合によっては不可能――になる。
 それにC4を使うのか。
 だが大きな問題があった。
 笛吹を八つ裂きにするのは簡単だ。しかしやつが洗った金を奪うには、帝都大洋銀行の恐ろしくガードの堅い端末を操作する必要があった。そんなこと一介の町工場経営者には無理だ。
 「夏崎さんの家は近いんですか」サナエは老人の目を見つめた。
 そこには取り返しのつかぬ事態に至ったことに罪悪感を覚え、おびえた色が漂っていた。「車ですぐだよ」老人はチラシの裏に地図を書いてくれた。「これ、持っていっていいよ。非常用に預かってたんだ」チラシと一緒に老人が手渡したのは一本の板鍵だった。「無事だといいんだが……長くないんだよ、うちの社長。検診の結果が悪かったんだ」

 二十八
 「死体が三つに、もうすぐ死体になりそうな男が一人。なあ、あんた、結構、楽しんでるだろ? えっ、わかってるんだぜ」しばらくの間、うんともすんとも言わなくなった操作パネルを下から懐中電灯で照らし、おれは罵ってやった。
 トランクスの内側はびしょびしょだったが、膀胱はらくになっていた。せめてジッパーを開けてから思う存分撒き散らしたかったが、やむをえまい。それにもう人目を気にすることもない。ところが酸素の消費量は絶対的に減少しているはずなのに、ちっとも気分がよくならない。
 最悪だった。
 人間の感覚器官のなかで、鼻が一番順化しやすいって教えたのはどこの無能教師だ。硫黄とアンモニアと鉄、それに人体のたんぱく質が徐々に腐敗していく臭いが猛然と自己主張をつづけ、おれの鼻をひん曲げてくれる。肥溜めだってこれほどじゃないだろう。へたに息をすると咳きこんでしまい、あげくの果てにむかむかして吐きたくなる。
 「自業自得とか思ってるだろ、なあ? 正解だぜ。まあ初めは村山の腋臭がたまらないだけだったけど、あとは人為的なもんだからな。でもって、おれが爆弾なんて持ちこまなきゃ、あんただってエレベーター停めたりしなかったろ。ああ、わかってるって。ほんと間抜けだな、おれって」
 三人のなかで一番座り心地がよかったのは村山だった。おれは好んでそれに腰掛けていた。死んでからもふかふかして、大きなソファにいるみたいだった。
 「でももうすぐこれも終わりにしたいんだな。まじだぜ。そろそろ新鮮な空気と健康的な蛍光灯の明かりの下に出てみようと思う。ただほんの一瞬、考えさせてくれ。だってそうだろ。このまま外に出てダッシュこいて逃げたとしても、高性能爆弾の威力ってすさまじいんじゃないか? いまおれのケツの下にいる男の話じゃ、ビル一つ吹き飛ばすなんて言ってるが、所詮、軍事おたくのたわごとかもしれん。それにしたって相当な爆風であるのはまちがいないだろう。なあ、そうだろ? それからどうやって逃れるかも考えなきゃならないんだよ。それにあんたが、じつは話のわかる人物で、携帯メールを送るなんてしないかもしれない。そんときはそんときで考えなきゃならない。防犯カメラが壊れちまったからわからないと思うが、おれのいまの格好、かなりスプラッター状態なんだ」
 そろそろマジにやばくなってきた。
 酸素がほんとになくなってきたんだ。話は簡潔明瞭に。定年間際の不定愁訴を紛らわせようとつい力の入った演説を長々とぶってみた校長先生の目の前で、子どもたちがばたばたぶっ倒れる朝礼みたいなことはごめんだ。
 「とにかくいまのままじゃ、まともに外に出られない。緊急事態のエレベーターはたしか最寄り階で停まるんだったよな。そこをなんとかうまく操作して、できるだけ人気がないフロアで扉開けてくれないかな? たとえばふだんは開かずの間の三十七階なんてどうだ? あそこはおれたちだって容易には入れない。許可されたごく一部のコンピューター技術者とお偉いさんしか入っちゃいけないことになってる」
 うちの銀行の心臓部。
 サーバールームのことだ。
 防犯カメラにさえ捕まらなきゃ、うまく非常階段に抜けることができる。そこで汚れたシャツを脱いで二十九階まで降りる。そこはこの時間、無人の従業員食堂だ。厨房に行けば、割ぽう着の一つもぶら下がってるだろう。あとは一階目指して階段をひたすらゴー。難関の通用口さえクリアしたら、いよいよ無罪放免だ。
 おれはズボンの右ポケットに手を突っこみ、紙切れを一枚取りだした。四十三階のトイレで走り書きしたものだ。それに懐中電灯の明かりをあて、おれは腹を決めた。タッパーウエアを確かめたら、起爆装置がわりのスマホは依然として圏外のままだった。これならメール送信されても怖くない。
 「メルアド言うから、メモのご用意を!」
 たいしたアドレスでなかった。@マークの前は「towerofsilence」
 ものすごくわかりやすい。
 沈黙の塔――か。
 アルファベットを十四文字。腐臭をがまんして吸いこみ、大サービスして三回もくり返してやった。どんなもんだい。これでバイバイ、昇降機監獄ともおさらばだ……というわけにはいかなかった。
 エレベーターはぴくりとも動かず、扉も開かなかった。
 「おいおい、笑わせないでくれるか? あんた、このプラスチック爆弾に火をつけるスマホのメルアドを教えろって最初に言ったじゃないか。おれはうそなんか言ってないぞ。爆発しないのは、エレベーターが停まってる場所が圏外だからなんだよ。だからって、圏内になるまでエレベーター下げるなんて言うなよ!」
 三人の死体に囲まれながら、おれはがなりたてた。
 だってそうだろ?
 ルール違反じゃないか。あいつは最初、このメルアドを教えたらドアを開けるって言ったんだぜ。
 「金を洗った報酬はどうやって手に入れるのか。その方法を教えてください」
 予想しないでもなかったが、その声が降ってきたときは、さすがにむかついた。こいつ、おれのこと、おちょくってんのか。
 「爆弾破裂させるだけじゃ、不満だって言うのか? なめんなよ。こっちだって命がけでバイトしてんだ。そうやすやすと教えられるもんじゃねえんだよ!」
 それから先、空気も流れない鋼鉄の籠のなかで、ずいぶんと長いこと、沈黙が流れた。その間、加速度的に酸素が減少するのが感じられた。さっきいきり立って大声出したのが災いしたらしい。おれは村山の死体の上で呼吸を整え、できるだけ空気を吸わないよう努めた。まあ、そうでなくとも悪臭ふんぷんたる環境下、極力息をとめていたいのが本音だったが。
 しびれを切らせたのは、やっぱりおれのほうだった。「わかったよ。バイト代のことだろ。支払いは毎月十日なんだ」
 自分で口にしてみて、SGコーポレーションの長年にわたる支払いが、意外にもきっちりしていたことに気がついた。ヤクザにしてはなかなかのものだ。信頼できるビジネスパートナーの域に達している。
 「月末にその月の売り上げを洗ってやると、翌月の十日に家に封書が届く。いつもちがう封筒だぜ。不動産屋とか車のディーラーとかの封筒さ。でもなかに入ってるものはいつもおなじ。コインロッカーの鍵さ。メモも入っていて、どの駅のロッカーか指示されている。女房はもちろん気にもとめない。翌日、おれはどきどきしながら指定されたロッカーに向かうってわけさ。な、簡単だろ?」
 さて問題――。
 すでに腐敗が始まった三人の死体を乗せたエレベーターは、それまでの強情ぶりをいっぺんに放棄して、最寄り階までスムーズに動きだしてくれたでしょうか?
 じゃじゃん!
 答えはノー!!
 見事な拒絶ぶりだった。
 いまは懐かしき祐子や村山、それに窓口係のエミが生きていたころにやり合っていた以上の激しさで、おれは憤激し、拳に血がにじむのも気にせずにスピーカーを殴りだした。だが頭の片隅では、残された最後のチャンスに賭けようと全力で頭をめぐらせていた。
 メコンプレックの大時計――。
 果たしてそれがなんであったか、三人が放つ強烈な死臭を胸いっぱいに吸いこんでもなお、おれはわからないでいる。
 そして考えれば考えるほど、頭の奥がぼんやりしてきた。それがどんな状況であるか、ひと言で表現するのは難しい。気がつくと、意識がふっと遠のいているのである。言うなれば、眠気のようなものだ。目を閉じ、脳の活動が停止し、何時間か後にそれが再開して――ペニスが充血したりして――目も覚める。人間としてじつに基本的な生理サイクルだ。
 でも今夜はちょっとちがう。だからおれは必死に抗おうとした。ここでくじけたら、これまでの銀行マン人生が否定される。
 ほんとに台なしになる。
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