三十三~三十六

文字数 12,733文字

 三十三
 口が半開きになったまま、声ひとつ出せなかった。
 それまで強情だったエレベーターの扉が開き、おれは村山の肉詰めソファに腰掛けたまま、その向こうに広がる一面の花畑に目を奪われた。桃色と黄色とすみれ色の花びらがおだやかな陽光を浴び、クリスマスの電飾のようにきらきらと輝いている。汚臭は霧消し、かえってむせ返りそうになるほどのいい香りが漂っていた。
 いつからそんなに視力があがったのか知れないが、おれの目は花畑のずっと奥、紺碧の空と交わるあたりに吸い寄せられ、そこに一人の男――デジャビュがあった。それは絶対に男だった――が立っているのが見えた。顔までははっきり見えなかったが、声はまるで耳元で話しかけられたかのようだった。
 「こっちへ……」いちいち手は伸ばしてこなかったが、男はそうつぶやいて招いてきた。「どうぞ……」
 言われなくとも飛び出して行きたかったが、なぜかそこでおれは踏みとどまった。男はどこか浮かない声だった。
 だれだっけ?
 それがそのまま口をついて出てしまい、おれは急に緊張した。
 恐ろしい考えが頭に浮かんだのだ。
 もしあれがお釈迦さまとかそのたぐいだとしたら?
 真っ先に思うのは、あれだけの悪事をあっちこっちで働いておきながら、それでもなお極楽浄土を拝めたという御仏の寛大さ。つぎに思うのは、なるほどそういう結論になるのなら、もうちょっと現世を楽しませていただいてもよかったということ。そしてこれがたぶん、この場でもっとも肝要な点だが、それまでの熱望をすっかり忘れて、いまはとにかくこの鋼鉄の籠の内にとどまるべきである。
 「わたしは……」
 声はさらにクリアになり、まるで頭のなかにお釈迦さまの口がついているみたいになった。おれはびっくりしてエレベーターのボタンに手を伸ばそうとした。が、この手の話の定石で、腕どころか指先すらぴくりとも動かせない。きっとおれは、そのうち見えざる豪腕に首根っこをつかまれて、広大な花畑の貸切見学会に連れて行ってもらえることだろう。もちろんチケットフリーで、行ったきり。おれは怖くなって頭を下げ、目を閉じた。
 「わたしは……なにもしていません」
 お釈迦さまの口は、おれの密生した脳のしわをかき分け、記憶の森の奥深くに白っぽい息を吐きかけてきた。
 「わたしはなにもしていません」
 二度も言われ、たとえ相手が釈尊でもおれは腹が立ってきた。そればかりでない。首筋がかっと熱くなり、全身の毛穴が開いて湯のような汗が噴出してきた。それはたぶん、カルカッタの貧民街でやっているモノホンのアーユル・ヴェーダ並みにユニークなこの説法のなかに、わずかでもおれが感得した部分があったという証明だった。おれのなかで、とてつもない過剰反応が起きているというわけだ。
 「だから返してください」
 まさか――。
 釈尊なんかじゃない。
 聞き覚えのある声だった。
 おれは寒くもないのにがたがたと震えだした。
 足音がした。
 扉のすぐ外。
 やめろ。
 やつが来た。
 腕が伸びてきて、
 おれは連れ出される――。
 さらに足音が近づく。
 「……大時計……」
 おれは頭を両手で覆い、ハーレム争いに敗れたミナミゾウアザラシのオスのようにエレベーターの奥まで尻ごみした。祐子の脳しょうと糞尿が広がっているあたりだった。さすがにそこは臭った。卒倒しそうだった。
 「メコンプレックの大時計――」
 ボイスチェンジャーの声だった。
 「あれはどこに売り払いましたか」
 アンモニアと硫黄で香りづけした、ブラド公も顔をしかめる混合血液に、おれは鼻を突っこんでいた。それでもおれは卒倒しなかった。逆だ。そいつのおかげで、おれは悪夢から抜けだすことができたらしい。
 ちらつく懐中電灯の明かりのなか、目だけ動かして確かめたら、エミのおなじみの下着がかろうじて見えた。だがその隣で、鋼鉄の扉は貞淑な新妻の足のようにぴったり閉じたままだった。
 ふらふらと立ちあがった途端、世界が回りだしてすぐにしゃがみこんだ。口のまわりでぬるぬるする液体が放つ悪臭のせいじゃない。
 酸素だ。
 この鉄籠のなかにはもうそれがない。何秒だろう。いや、何分間だろうか。おれはそのせいで意識を失い、夢を見ていたのだ。広い広い花畑の――。
 夢だったのか?
 ぞっとしておれはぺたりと床に尻をついた。ひんやりとした液体がしみてくる。考えないほうがいい。 だってそうだろう。臨死体験した連中ってのはみんな、あっちの世界がとっても素晴らしいところだったって口をそろえるじゃないか。それなのにいまのおれはどうだ? びくびくして、ぶるぶる震えて。二度と思いだしたくない。
 いや、待て。
 なにかを思いだしかけていた。やつが言ってたことだ。
 ぜえぜえと息があがってまたしても気が遠のきそうになった。おれは力いっぱい頬をつねった。爪が肉に食いこむ。たぶんあとで赤くにじむことだろう。でも痛みの感覚がまだあるのがありがたい。
 返してください、とかなんとか。聞いたことのある男の声だった。
 なにもしていないから、返してくれ――。
 あのときのことか。
 かすかな記憶がおれのなかによみがえった。できることならおれだって忘れたい思い出のようで、こめかみがずきりと痛んだ。
 もう何年になる。
 さっきエミを殺すとき、勢いづけようとつい口走っちまった話。正確にはその後日談だ。おれの活躍で成田のあの輸入会社がつぶれたあと、麻薬取締法違反で逮捕された――というより白い粉末を会社のひきだしに入れることで逮捕させた――役員である営業部長の財産が差し押さえられた。小さい会社だったから、負債返済のために私財を投げ打つ必要があったのだ。取引銀行の担当者としては、土地家屋その他の競売も受け持つことになり、何度か自宅にも足を運び、財産目録の作成を手伝ったりした。
 そのときひときわ目を引く代物があった。
 たしか子ども部屋だった。高さは大人の背丈をはるかに超え、高級家具に使う針葉樹のナトー材がスレンダーなボディを形作っていた。心臓部はスイス製らしく精巧な作りで、飾り文字が刻まれた文字盤周辺のデザインはアールデコだった。ビーナスもどきの肉感的な裸婦がしがみつく巨根じみた振り子が収まってる場所の下には、二段のひきだしがあった。
 「言っとくがメコンプレックはメーカーの名前じゃないぞ。あれは元の所有者が文字盤に飾り文字で自分の名前を彫りこんだものだ」
 濡れた床にべったり座ったまま、おれは声を張りあげた。というか、そうでもしないとまた意識を失い、こんどこそ遠足に連れて行かれそうだった。こんどは極楽浄土は拝めまい。たぶん真っ暗な地獄だ。落ちる寸前の線香花火のように小さくなった懐中電灯の電球が不安をかき立てた。いまや死体たちの顔も見分けがつかない。
 「いや、訂正。自分の名前じゃないかもしれない。あのばかでかい置時計が鎮座していた店の名前とかかもしれない。なんの店だか見当もつかないけどな。鑑定士が言ってたよ。たしか一九四〇年代の代物で、そんなにびっくりするような値つけにはならないだろうってな。がっかりしたね。見た目はそんなに悪くなかったんだからよ。だけど銀行としちゃ、一円でも高くだれかに買い取ってもらって、金を集めないといけない。頭をひねったね。だって骨董商が喜ぶレベルじゃないんだぜ」
 自分でも驚いた。
 息をつくだけでもつらいのに、記憶をたどるうちに、みるみる当時のことが鮮明になってくる。たぶんあの事件自体、おれのなかでおぞましい体験だったから、無理に忘れようとしてきたのだろう。封印が解けた途端、パンドラの箱のようにあれこれ記憶の断片が飛び散ってきた。
 「知り合いにホテルマンがいてな。そいつが独立して軽井沢にペンションを作るって話があった。それで適当なこと言って、たしか三十万ぐらいで買い取らせたんじゃなかったかな。お人好しの男で、はっきり言えば、経営感覚ゼロのだまされやすい野郎だった。上だったか下だったか忘れたが、片方のひきだしの錠が掛かったままだったんだが、鍵はあとで見つけて送りますとかなんとかうそついて、そのままさ」
 限界だった。
 酸素不足によりついに肺がアラームを鳴らし、ゲホゲホ咳きこんだ。しかしそれ以外の理由から胸の奥がちくりと痛んだ。内部の規則をごまかして暴力団の金をせっせと洗ってるほうが、よっぽど気がらくだし、手の汚れない話だった。だがおれはあのとき、東洋開発の恩人――といっても突きつめたところ、最大の恩となるは、アルバイト先となる北京ダック好きの華僑の男を紹介してくれたことだが――に義理を果たそうと必死だった。恩人がそのとき手がけていたのはたしか実験動物の輸入で、成田の会社が持つ利権が手に入れば、効率のいい収益が得られるとかいう話だった。
 そこに思い至ったとき、おれはボイスチェンジャーの人物になんとなく察しがついた。うん、そういえばあのお釈迦さま、似てなくもない声だった。
 「あんなガラクタ返してほしかったのなら、電話一本ですむだろうによ。おれは話のわかる男なんだぜ。こんな手のこんだまねすることなかったのに……ええと――」無性にたばこが吸いたくなって、あちこち探した。しかしいろんな乱闘があったもんだから、ジッポとともにどこかにすっ飛んでしまっていた。やむなくおれは床に散乱する祐子の所持品のなかから、メンソールたばことライターを拾いだした。でもすぐに思い直した。約束どおりに扉を開けてくれるのなら、もうちょっとだ。最後までお行儀よくしてたほうがいい。祐子がその下半身を敬愛していた専務さまは、難しい交渉相手を前にした喫煙について一家言を持っていた。でもいまは大口の客の前で話に詰まって、つい手が伸びるのとはわけがちがうぞ。
 それにしても苦しい。声を出すのもいいかげんつらくなってきた。おれは隣に転がっていたエミらしき死体に寄りかかった。明かりはもう消えて真っ暗だった。「あんなガラクタ、いまも残ってるかどうかわからんぞ。でもたしか、ペンションの名前は……『ミスティーモーニング』とか言うんじゃなかったか。“霧の朝”だぜ。めずらしいっていうか変な名前だろ。名は体をあらわすって話がほんとなら、こりゃちょっとやばいよな。もうとっくに霧が晴れて消えちまってるかもしれないぜ。ペンションごとな」
 朦朧とした意識が、ふたたびあっちの世界に移ったのはそのときだった。こんどはやっぱり地獄みたいだった。闇のなかで、釈尊が変化した餓鬼たちが足をつかんで引っ張ってきた。
 下に向かって。
 まるで地の底に引きずり下ろそうしているみたいだった。おれはもう抗えなかった。深海に沈みゆくように体はみるみる落ちていく。あんまり速いものだから、かえって体がふわりと浮かぶような気さえした。

 三十四
 「おい、おまえ! いいかげんにしろ!」
 懐中電灯の弱々しい明かりを白石は天井に向けた。地下室への出入口は完全に閉ざされ、さらにそれを強固なものにしようと猛然と金づちが振るわれている。白石はいすを倒して立ちあがり、萎えた足で天井に向かってジャンプした。たちまち左のアキレス腱に鋭い痛みが走り、それをかばって着地した瞬間、両足ともひねってしまった。
 「うっ……」腐肉の甘ったるい臭いのなか白石がうめくと、心配したかのように金づちの音がやみ、同時に天井から光が入ってきた。
 出入口が開いたわけではなかった。
 上階のアルコールランプの光が漏れ入ってくる。出入口から一メートル半ほどずれたところ。人の目玉よりひと回りぐらい大きな穴が開いていた。
 そこを影がよぎったかと思うと、本当に目が見えた。なにかを取り付けるためにうがった穴なのだろうか。まさか正真正銘ののぞき穴ということはあるまい。しかし夏崎は虫の死骸が散乱する板張りの床には這いつくばって、地下室をのぞいていた。
 右の足首は本格的に捻挫をしてしまったようだ。激痛が白石から言葉を奪った。左のアキレス腱も負けず劣らず鋭い痛みが残っている。白石はむきだしの地面に転がり、のたうち回った。
 「やっとこの日が来たんだ!」嬉々とした声が降ってきた。「わたしが上であなたが下。しかもあなたはもうここから上がって来られない。無線機なんて使い物にならない。アンテナ線、引っ張ってごらんなさいよ」
 痛みを堪えて四つん這いになると、白石は地面のあちこちを手探りしてアンテナコードをつかんだ。木戸のほうへつづくそれに怖々と力を加えると、まるで針穴から糸が抜け落ちるようになんの抵抗もなくするりと引くことができ、木戸の下の隙間からその先端が顔を出した。
 「助けなんか来ないんですよ。いくらあがいたって無駄だ」そこまで言うと夏崎はのぞき穴から消え、ふたたび釘を打つ音が響いてきた。
 「なにしやがる!」白石は懐中電灯をつかみ、痛む足でふらふらと立ちあがった。甲高い連続音に合わせて、閉じられた出入口の下から大量の埃が落ちてくる。
 「ちょっとした大工仕事ですよ。あなたはもうこの出入り口は使えない」
 白石は無用の長物と化した無線機と腐臭を放つ麻袋を払い落とし、テーブルを埃の雨が降る真下までずらした。天板に上ると具合よく天井に手がついた。が、もはや遅かった。夏崎の日曜大工はすばやかった。長く太い釘が天井から六本も顔を出していた。悔しまぎれに鉈を振るってみたがびくともしない。白石は鉈を放りだした。
 「きさま、最初からたくらんでたんだろ!」
 「どうですかね」のぞき穴にすばやくもどって夏崎が答える。「ムショにぶちこまれるなんて、想像できないでしょう。わたしはあなたのせいでそこに入った。だからそれをあなたに味わってもらう権利がある」
 「ちくしょう。復讐はあきらめたようなことぬかしやがって」
 「わたしは地下室に降りて行くのをとめたじゃないですか。それをあなたは無視した。いつもそうやって人の言うことに耳を傾けない。自業自得ですよ。だいたいわたしの女房を寝取ったんだ。それなりの報いを受けるのは当然じゃないですか」
 「いまさらなにを!」
 「そうじゃないんですよ。わたしはついに端緒をつかんだんです。あなたのかつての友人、笛吹勝二さんに報復するためのね」
 証拠?
 白石はテーブルの上で眉をひそめた。「笛吹がなにをしたって言うんだ!?」
 「元々、あなたが笛吹さんをインドネシアのマフィアに紹介したんじゃないですか。それで笛吹さんはやれと言われたことを実行した。マフィアが日本のヤクザに販売するヘロインの代金を笛吹さんは洗いつづけた。ところが笛吹さんは自分の社内でそれを追及されそうになって、ヤクザに救いを求めた。それが運の尽きですよ」
 「知らないぞ、そんなこと! おれには関係ない! 笛吹なんてもう何年も会ってないんだ」
 それは本当だった。笛吹とはいまや没交渉だった。あのころの後日談で知っているのは、おれが笛吹との間を仲介したジャカルタの華僑がその後、自らの配下だった二人の現地人に殺されたことぐらいだ。ほんとの下っ端かと思っていたが、あの業界にも下克上というのがあるらしい。たしか二人は独立して、クアラルンプールに流れたとかいう話だった。ジャカルタ支店にいまも勤務する後輩がそんなような話をしていた。
 「そういう問題じゃないんですよ。わたしは、いや、わたしと娘はもう何年もこの機会を待ってきたんだ。約束したことがあるんですから」
 白石はテーブルから下り、足を引きずっていらいらと地下室を行き来した。
 「なんとしても探しださねばならないものがあったんですよ。それを見つけないかぎり、わたしたちの人生は元にもどらないんだ」
 「なんのことを言ってるかさっぱりわからん。元々、笛吹のやったことだろう。おれのせいじゃない!」
 「忘れないでくださいよ、副社長。たとえ笛吹さんのやったことでも、それによって妻はあなたの女になり、首を吊ったんだ。それでわたしと娘がどんなにみじめな思いをしたことか! さあ、その暗い地下室でたっぷり苦しんでくださいよ!」
 「狂ってる……おまえは狂ってるぞ!」
 「あのとき、わたしだっておなじことを思いましたよ。妻は、無実の罪で刑務所に放りこまれたわたしを見捨てて、あなたの胸に飛びこんだ。狂ってるとしか言えないでしょう!」
 「そうじゃない!」白石は声をめいっぱい張りあげた。「おれに報復したところで、どうなるって言うんだ! おれなんて、老いぼれの雇われ副社長なんだぞ!」
 「わかってますよ。だからあんたをここに閉じこめるのは、せいぜいわたしの密やかな趣味でしかない。だけど娘は父親ほどばかじゃない。もっと実りのあること考えているんですよ!」
 そのときだった。
 ギィという音とともに林道掘削に使う道具の保管庫と思っていた部屋の木戸がわずかに開いた。
 上階の男が息を飲むのがわかった。白石は足をとめ、残りすくない懐中電灯の明かりを禁の解けた木戸に向けた。
 「さあ、白石副社長」夏崎の声が一段低まった。「そこから出たいのならその木戸を開けるしかない。洞穴につながってるんです。そこを進めば外に出られる。でも途中でだれかに会うかもしれない」
 白石の全神経がいまや眼前の木戸に注がれていた。受刑者の手なる薄っぺらい戸板の向こうからあふれる気配、それも邪悪な何者かの気配がひしひしと感じられた。そこから外につながる洞穴にはだれかいる。それは暗く湿った洞穴の奥深くではない。
 半開きとなった木戸のすぐ向こうだ。
 「あなたはやつのねぐらを荒らしちまったんですよ」
 とっさに白石は地面に放りだした鉈をつかんだ。
 上階のペットボトルの水はとっくに賞味期限がきれてるのに、夏崎はがぶがぶと飲んだ。腐ってなんかいなかったのだ。空のボトルにくんだばかりの川の水だったのか。つまりこの小屋にはだれかがいた。麻袋の食糧も非常用なんかじゃない。常食にする者がいるのだ。しかもそいつは、レバー肉はすこし腐らせてから口にする変わった嗜好を持っている――。
 木戸はもはや音を立てなかった。懐中電灯の弱々しい光を浴びながら、静かに開いていく。洞穴と呼ぶにふさわしい底なしに暗い四角い空間が、地下室の壁に忽然と出現し、光がそこに吸いこまれていく。
 洞穴の数メートル奥だった。
 影が動いた。
 獣であったほうがよっぽどましだった。だが それは警戒するツキノワグマのような低いうなり声をあげたりせず、静かにこっちのようすをうかがっていた。それこそがこの小屋にやってくるまでの間、始終、背中で感じ取っていた凶暴な視線の正体だった。
 「キンジロウさんがいまもときどき面倒を見ているようですが、もう手に負えないって、さっき言ってましたよ」
 たすけてくれ……叫びたかったが、かすれ声すら出なかった。酸欠で水面に浮かんだ魚のようにただ口をぱくぱくやるだけだった。
 地下室の壁に生まれた暗がりの奥で、そいつが動いた。白石なんかよりずっと大きな影だった。白石は消えかかった明かりと、まっとうな人間相手なら役立ちそうな鉈を構えた。
 「さっき言いましたよね。構外作業の途中で、一人だけ逃げおおせた者がいるんです。もう何年になりますか。注意してくださいよ。ムショじゃ、そいつにかわいがられた連中がたくさんいたんですから」
 白石は祈った。
 ほかにできることはなかった。

 三十六
 甲高い呼び出し音を無視してサナエは走りつづけた。死への恐怖はなかった。かわりに言い知れぬ罪の意識が涙の奔流となって頬を伝った。
 コールはいつまでもつづいた。それが漆黒の悲しみの国へ旅立とうと心を決めていたサナエを現実に引きもどした。
 メールではなかった。
 サナエは足をとめた。広場の中央だった。車いすからはもう百メートル近く離れている。サナエはシャツをめくり、ブラジャーの谷間にはさんだアルミホイルを取り払った。ホイルのなかで電話が鳴りつづけている。サナエはそれを開き、スマホの液晶画面を見た。サイードの携帯番号が表示されていた。翻意してくれたのだろうか。
 「もしもし……もしもし」あえぎながらくり返したが返事はない。「もしもし……サイード、どうしたの……」
 「一応、連絡しとくよ」
 落ち着きだした心臓のギアがふたたび一段高まった。サイードの声ではなかった。それでも聞き覚えがある。ついさっき耳にしたような声だった。
 「だれなの?」
 サナエの問いかけを相手は無視して話しだした。「ロジャー・コーマンのあの最低の映画だけどね……」
 「え? なに?」
 「つまりきみのダンスパーティーは中止ってこと。妹は施設に入ってもらったから――」
 そこで電話は切れた。
 真夜中の公園でサナエは呆然と立ちつくした。電話の声が頭のなかでくり返される。
 きみのダンスパーティーは中止ってこと。妹は施設に入ってもらったから――。
 こんなことってあるだろうか?
 サナエは車いすを振り返った。水銀灯の明かりのまんなかで、じっとこっちを見ている。いったいなにが起きたのかわからずに困惑しているようすだった。
 きみのダンスパーティーは中止(きみの爆薬は爆発しない)。
 妹は施設に入ってもらった(サイードは始末した)。
 頭にインプットされた“埋めこみ”の暗号によれば、そういうことになる。そして名乗らぬ相手は、B級ホラー映画の巨匠が作った映画について、こんな夜中に議論を吹っかけようとしてきた……。
 乾きだした涙を腕でぬぐった途端、サナエはいまなすべきことを思いだし、急いで和幸のところに戻った。
 「カズくん、ごめん。帰ろう。ちょっと仕事入っちゃった」
 「仕事って?」
 プラスチック爆弾から抜き去ったコードを拳のなかに収め、サナエは車いすを無理やりUターンさせた。「いろいろやってるのよ。貧乏ひまなしってやつ。送っていくわ」
 「急いでるんだろ。一人で帰れるよ。それに風が気持ちいい」
 気づかいが有難かった。ワゴン車を停めたところに近づくと、和幸は自力で車輪を回しだした。力強いうしろ姿だった。ワゴン車のわきでサナエは足をとめた。それに合わせて和幸の手もとまる。
 「ごめんね、カズくん」
 「いいって。気にしないで。またこんど、ゆっくり」
 「うん、そうしよう」
 「でもなんて呼べばいい……?」
 「元のままでいいわ」
 「わかったよ、カナちゃん。だけど」
 「なに?」
 「泣いちゃだめだよ!」それだけ告げると、和幸はバスケットで鍛えた俊敏な身のこなしで車いすをターンさせ、猛スピードで無人の歩道を走りだした。
 「ごめんね、カズくん」サナエは運転席に飛び乗り、和幸とは反対方向にワゴン車を急発進させた。
 途中、公園の角を左折したときだった。サナエは白いブルゾンの若い男とすれちがった。はっとしてバックミラーに目をやったが、もはや男の姿はない。だがサナエは確信した。
 タツヒコ。
 どうしてあなたなの?
 あなたはなにを背負っているの?
 サナエはスマホをつかんだ。しかし激しい衝動を抑えつけ、一〇四を押すことにした。訊ねたのは、帝都大洋銀行本店の防災センターの番号だった。徹夜の行員も当番の警備員もとにかく逃げてくれ。和幸のように巻きこまれる人間は二度と出したくなかった。
 そしてうまくいくなら、サナエ自らの手でC4の起爆を阻止したかった。サイードがいなくなっても、笛吹勝二の手に渡ったスマホのメルアドをなんらかの方法で入手した者がいないともかぎらない。
 夏崎巌の娘だ。
 (笛吹を八つ裂きにして、やつが洗った金もみんな奪っちまいたい)
 夏崎は、会社に住みこみで働く熊谷にそう言っていたという。八つ裂きの刑にC4はうってつけだ。だから笛吹は、夏崎父娘の計画どおり、バックアップを失った勘定系システムの破壊に使われるプラスチック爆弾とともに、爆死する運命である可能性が高い。その笛吹は、二十三年前に起きた警視庁刑事一家惨殺事件の容疑者コンビについてなんらかの情報を持っているはずだ――。
 防災センターの電話は話し中だった。
 間に合わなかったか。帝都大洋銀行本店は大手町にある高層ビルだ。横流しされた量のC4なら、9.11ほどの破壊力はないが、フロアの一つや二つ、めちゃめちゃにできる。それがビルの構造上、致命的な場所を傷つけたなら、全体が倒壊しないともかぎらない。そうしたら電話回線だってちぎれてしまっているだろう。いや、そうでないとしても、爆発騒ぎを聞きつけたマスコミからの電話が殺到しているのだろうか。
 いらだちをおぼえつつサナエはラジオをつけた。
 NHKはのんきなラジオ深夜便、ニッポン放送は聞いたことのない若手のお笑い芸人がしゃべりまくっていた。有明インターから首都高に入ったサナエは、ジーンズの左ポケットにそっと手を触れた。
 笛吹を生かすことは本当に世のなかのためになるんだろうか?
 やつは無実の夏崎を陥れて刑務所に収監させ、会社をつぶして一家を崩壊させた。悪性腫瘍を患う夏崎と養子に出されたその娘が立てた計画は、テロと変わりない。だがその悲しみは、だれよりもサナエ自身が共感できた。ただ今夜、笛吹に鉄槌が下されたなら、サナエが長年抱いてきた黒々とした夢――和幸に言わせれば、いつまでも実らずに悶々するだけの妄想のようなもの――はまた実現から遠のくことになる。
 わたしにはまだ時間がある。
 それはタツヒコだってわかってくれるだろう。そう思ったらすこしだけ気が晴れた。レインボーブリッジを渡りきったところで道が混みだした。工事規制だった。速度を落としながらサナエは、もう一度だけ防災センターに電話を入れてみることにした。

 三十六
 「おぉ、神よ……」
 不信心な者ほど安直にその名を口にする。そのときのおれはまさにそうだった。地獄に仏とはこのことだ。餓鬼の手で地の底まで引きずり落とされたかと思ったら、それまで頑なに開こうとしなかった鋼の扉が、音もなくぱっくりと二つに割れたのだ。
 そこに広がる光景を悠長に鑑賞するより先に、おれは本能的に息を吸いこんだ。限界まで減少していた酸素はいまや完璧に回復していた。祐子のお漏らしだろうがなんだろうが、とにかくすべてが芳香と感じられるぐらいの幸福感におれは包まれた。
 脳のあらゆる細胞にフレッシュエアが送りこまれたことで、いっぺんに我に返った。もたもたしてるひまはなかった。これまた本能的に四つん這いになり、おれは気まぐれに開いた扉の向こうに転がり出た。
 明るい花畑はなかった。
 薄暗い殺風景な場所だった。
 極楽浄土でない。かといって灰色のカーペット敷きの地獄なんて、シックでモダン過ぎると思わないか? 目の前は一面のガラス張り。その向こうには青紫色の淫靡な明かりに照らしだされた大型冷蔵庫みたいな四角い箱状のものがいくつも並び、ガラスの向こうもこっちも天井にはいくつもの黒い異物が、威圧的に突きだしている。
 助かった……のかな?
 あまりの感動にしばし呆然としていたが、おれはようやくそこがうちの会社のどこかのフロアであると気づいた。
 いったいどこだ?
 経費節減もいいが、こうも明かりを消されては防犯カメラだって役立つまい。
 防犯カメラ?
 天井を見あげ、おれは合点した。
 エレベーターのある側はそうでもないが、ガラスに仕切られた向こう側はやけにたくさん黒い異物が飛びだしている。あれは4K画質で撮れる最新の防犯カメラだ。もちろん赤外線撮影も可能なタイプ。それがあれほどたくさん設置され、有楽町のビックカメラに並ぶ白物家電じみた形状の物体の周辺を監視している。
 スーパーコンピューター……サーバールームだ。特別に許可された技術者や役員が入るときしかエレベーターが停まらない、開かずの間の三十七階だ。
 ヤッホー!
 やっこさん、おれの脱出計画をちゃんと聞きとどけてくれたんだ。とっさにおれは、扉が開いたままのエレベーターのある壁際に身を寄せ、もう一度、天井を見あげた。
 運がよかった。
 ガラス張りのサーバールームの外に設置されたカメラは、どれもそっぽを向いているようだった。技術者や役員が使うのはべつのエレベーター。こっちのエレベーターは開かないことになっているから、監視の必要がないのだろう。
 やれやれ。非常階段はどっちだっけ?
 そう思ったとき、おれはさっきからずっと両手を握りしめていることに気づいた。極度の緊張のなせる業。鋼鉄の牢獄から這いでたときも、きっとコンゴのニシローランドゴリラさながらに床に拳をついてきたのだろう。そして神の御業におれはまたしても感謝した。おれは空っぽの拳を握っていたわけではなかった。右にメンソールたばこ、左にスリムな電子ライター。警備員に撲殺されたあわれな元専務秘書さまの遺品だった。
 あわてることはあるまい。
 おれはたばこを一本、口の端にくわえ、ラッキーストライクのあのハーレー野郎みたいにカッコつけて火をつけた。こういうときの一服なら、専務だって認めてくれるだろう。べつにぎりぎりの商談に負けそうになって、胸ポケットに手が伸びるのとはわけがちがう。
 ちょっと吸ってみて、おれは顔をしかめた。
 なんだ、こりゃ?
 ハーレー野郎が吸ったら泣きだしちまうぐらいの軽さだった。これじゃアラブのミント風味の水たばこのほうがよっぽどましだ。なんとか胸のなかを刺激で満たそうと、おれは先っぽが真っ赤になってそのまま爆発するぐらいの勢いでたばこを吸ってやった。
 そのときだった。
 食い終わったあとにだれかが置き忘れた弁当箱みたいなものが隣に鎮座していた。
 おやおや? ぼくちゃん、どうしたの?
 なんておれは思わなかった。まだ長いままのメンソールを痴呆のじいさんみたいにぽろりと落としただけだった。それが合図となったのか、三人の死体搬送を受け持つエレベーターの扉が閉じた。停止階の表示板におれの目は吸い寄せられた。元々、高層階用だったこともあるし、この時間だ。余計な客をピックアップすることもなく、猛然と降下している。
 こういう場合でも人間、怖いもの見たさの深層心理は失われないようだった。おれは弁当箱――育ち盛りの子どもにはちょっともの足りないサイズのタッパーウエア――をのぞきこみ、よせばいいのにライターをつけて近づけた。
 ふたを開けずにもはっきりと見て取れた。白い粘土の上に横たわるスマホの液晶画面が輝いている。そして電波の受信レベルをしめすバーは見事に三本立っていた。
 そう。おっ立っていた。
 ビンビンに。
 本腰を入れて非常階段を探しだしたのは、その瞬間からだった。それでもおれは納得がいかなかった。ゴリラの格好でエレベーターから転がりでてきたとき、誤ってスマホのスリープ状態が解除されるぐらい盛大にタッパーを蹴飛ばして、いっしょに脱出させてやるようなまねはしなかった。
 絶対に。
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