エピローグ

文字数 7,501文字

 エピローグ
 夜中だったらきっと迷って、おなじところをぐるぐると回っていただろう。下北沢駅界隈の雑踏から通りを一本入っただけで、昔ながらの高級住宅地にふさわしい静寂がいっぺんに広がった。肩を寄せ合う家々の合間を縫う路地は、どこか中東のメディナをサナエに思い起こさせる。
 予想最高気温は三十五度。
 焼けたアスファルトの上はもっと暑く感じられる。白のタオル地のサファリハットに色の濃いサングラスをしていても頭がくらくらした。日本の夏は緯度の割に体にこたえる。握りしめた住宅地図には汗がにじんでいた。

 大手町の帝都大洋銀行本店三十七階にあるサーバールームから火の手があがったのは、八月三日午前一時十六分のこと。ニュースによると、爆発物――早い段階でプラスチック爆弾と推定された――が設置されていたらしく、三十七階が完全に破壊されたほか、上下階もほぼ全壊していた。不幸中の幸いは、爆発による人的被害が三十七階で肉片となって見つかった一人だけだったということだ。深夜という時間帯だったこともあるが、爆発のすこし前に防災センターにかかってきた匿名電話により、残業中の行員と夜勤の警備員、計四十一人は避難できた。ただ、事件とのかかわりが不明な男女の遺体が一階に停止したエレベーター内から見つかっていた。
 専門家が調査したところ、ビルの躯体を保てなくなるような被害はいまのところ見つかっていなかった。が、それをはるかに上回る損害を帝都大洋銀行は被った。勘定系システムの心臓部であるサーバールームが破壊されたことで、預金者の全記録が消滅したのだ。
 週刊誌の指摘どおりだった。
 メインコンピューターの障害を受けてバックアップ機能が稼働した途端、ウイルスが拡散し、同行のあらゆる電磁的記録に襲いかかっていた。それは金融界全体にも影響をおよぼし、事件から一週間以上がすぎたいまも、日本経済は混乱したまま。円は下落して海外市場にも悪影響が出はじめていた。なによりカードも通帳もゴミ同然となった利用者からのクレームは、プラスチック爆弾の破壊力どころでなく、帝都大洋銀行の消滅は衆目の一致するところだった。

 たまらずサナエは足をとめ、いつものデイパックからスパークリングウォーターのペットボトルを取りだした。古い地図だから目指すアパートは載っていない。あと五分以内に自力で見つけないと熱射病で倒れそうだった。

 容疑者は比較的早く浮上した。
 三十七階の肉片を集め、それらのDNA鑑定により判明した男である。
 帝都大洋銀行経営企画室の笛吹勝二次長の姿は、爆発の直前、三十七階のエレベーター前で防犯カメラに撮影されていた。そこで爆弾らしき箱をいじっているように見え、笛吹が時限式の爆弾のセッティングに失敗し、誤爆させてしまった――というのが警視庁の見方である。一階に停止したエレベーター内から見つかった二人――実際は惨殺だったが、どのニュースも「頭などを殴られ」としか触れていなかった――は犯行完遂のための不運な同乗者であったと結論づけられた。
 問題は笛吹の動機だ。
 それをスクープしたのは、おなじ大手町にある新聞社だった。事件後、編集局に匿名の投書が送りつけられたのである。警視庁が調べたところ、そこに指摘されたとおり、家宅捜索後に笛吹宅に届いた未開封の封書からコインロッカーの鍵が見つかり、同封された走り書きに従って地下鉄白金高輪駅のロッカーを調べたところ、鍵が一致し、なかから現金二百五十万円が入った封筒が見つかったのだ。封筒は無記名だったが、笛吹の部下への聴取から警視庁が推理していた事態が裏付けられた。
 笛吹勝二は暴力団による薬物取引の売上金を洗浄していた。それが部下に発覚しそうになり、身の危険を覚えた。そこでバックアップシステムへのウイルス混入が焦眉の問題となっている現状にかこつけて、資金洗浄の記録が残るサーバールームの破壊を計画した――。記者はさぞかし嬉々として原稿を仕上げたことだろう。

 オリーブグリーンの看板を見つけたのは、サナエが袋小路の奥からもどってきたときだった。隣家の垣根から伸びる葉陰に隠れていて、あやうく見逃すところだった。住宅地図上の番地からはずいぶん離れたところだった。学生が住んでいそうな小さなアパートで、部屋は二階だった。サナエは鉄階段を上りだした。

 サナエは記者がつかめぬことまでつかんでいた。
 三十五歳の警備員と四十三歳の人事部員の遺体が見つかったエレベーターの天井裏に設置された換気口が、鉄板を溶接する形でふさがれていたのである。エレベーター内の防犯カメラと運行記録装置には細工が施され、前日の映像と運行状況が防災センターに送られるようになっていた。ただそれにより、防災センターでチェックにあたる警備員の目を欺くのはわかるが、換気口にふたをすることにどんな意味があったのか。捜査員たちはいまも首をひねっているという。新宿中央公園を根城とする連絡係からの情報だった。
 たぶんメルアドのせいだろう。
 それがサナエの見方だった。夏崎巌の娘は、父親が言うようにいくら笛吹を八つ裂きにしたくとも、それにわざわざC4を使う必要はないし、人目を気にしなければならない職場で命を奪うなんて危険すぎる。しかしC4はそれが接続されたスマホにメールを送ることで起爆させる仕組みだから、そのアドレスを把握しないことには、娘は目的を果たせない。そこで笛吹が、サイードから伝えられたスリープ状態解除のパスワードを自ら打ちこんで、メルアドがわかる状況が生まれている必要があった。
 サイードはパスワードを花火のあがる日の夕方になって、笛吹勝二に連絡したと言っていた。常識的には、笛吹はその連絡を職場で受けたはずだ。娘が動けたのはそれ以降である。だから娘ははなから、起爆に使うメルアドをエレベーターという密室内で笛吹に吐かせようとした。換気口をふさぎ、ちょっとした拷問部屋をこしらえることで。

 表札はなかった。
 サングラスを外し、サナエは大きく息を吸いこんだ。これは警察官としての職務だろうか。それとも個人的な怨念のなせる業だろうか。インターホンの小さな白いボタンには、テントウムシがたかっていた。それを指先ではじき、サナエはボタンを押した。
 自分はこれからどうなるのだろう? 二十三年前に家族を襲った悲劇が頭をよぎった。

 サイードの刺殺体は東雲公園の植え込みで見つかった。ムハマドもザゴラも、ヘロイン密売をめぐってヤクザと関係が悪くなったからサイードが殺された、とは考えていない。ジハードが公安警察に漏れたためと思っている。それについてサナエには、まだ表だっては疑いの目は向いていない。だからサナエも、サラ・スークでいつものとおりタマネギを炒めている。パキスタン人の血を引く青年と厨房に並んで。もちろん彼とロジャー・コーマンの映画について言葉を交わすことはない。

 サナエはインターホンの応答を待った。部屋の奥からは物音ひとつ聞こえてこない。さっきのテントウムシが挑戦的にふたたびインターホンにたかった。

 ホームレスの連絡係はさらに二つの点を教えてくれた。
 爆発の直後、深夜の銀行が上を下への大騒ぎとなるなか、ヘルメットにオレンジ色の救助服姿の一人の消防隊員が通用口を通過するのが、防犯カメラにとらえられていた。それを見た警察が疑問に思ったのは、隊員が奇妙なキャリーバッグを引いていた点だった。鑑識が調べたところ、バッグからビニールの管のようなものが飛び出しているのがわかった。
 そしてもう一つ。
 事件の一週間前、行内設備を担当する施設保全部から総務部あてに、ある備品の紛失届けが提出されていたのだ。

 彼女は三度目のインターホンに反応した。ブラジャーがすけているタンクトップに、サナエなら穿く度胸のないショートパンツ姿だった。日中でも物騒な事件が起きるいまの世のなかだ。サナエはそっちのほうが気になったが、防犯指導は管轄外だ。
 「小黒エミさんですね」
 「はい」女相手だからだろう。エミは屈託のない微笑みを浮かべた。「なにか?」
 近くでアブラゼミが鳴きだした。サナエはそれにかき消されぬようはっきりと言った。「笛吹勝二さんの件です」
 エミはきょとんとした顔になった。微笑は残っているが、しだいに動揺が広がるのが見て取れた。サナエは思わず口にした。「警察とかじゃありませんから。お父さんのこと、夏崎巌さんのこと、すこしお話しませんか。冤罪だったのでしょう」
 短い命を必死に燃やすアブラゼミが、サナエにもエミにも厄介だった。狭い玄関にサナエが足を踏み入れるのを、エミは拒まなかった。
 エアコンが心地よかった。サナエは友好的に話を進めたかった。「歌舞伎町に『サラ・スーク』っていうパキスタン料理の店があってね、そこでバイトしてるの。わたし、昔ね、家族を殺されの」
 部屋で二人きりになったこともある。エミの頬が引き締まった。
 サナエは気にとめなかった。いつも持ち歩いている家族の写真を見せ、二十三年前、川崎で起きた一家惨殺事件について、できるだけくわしく話して聞かせた。「犯人はまだ見つかってない。もう時効なんだけど、わたし、まだあきらめてないの」
 「あきらめてない……って」
 「自力で探してるの。それでね、つい最近、いいところまできたの。あと一歩って感じ。でもね、それにはどうしても笛吹勝二さんの協力が必要だった」
 「笛吹さん……」
 「あの爆弾事件で亡くなった人。自業自得って話もあるけど」
 「すいません、それでなにかご用なのでしょうか。ええと――」
 「めぐみ。わたし、厚川めぐみよ。笛吹さんのことはもういいの。わたしが知りたいのは、家族を殺した犯人につながる情報を持っているもう一人の人物の行方よ。悪いようにはしないから。まずは夏崎巌さん、あなたのお父さんがいまどこにいるか、教えてちょうだい」
 エミの顔がたちまち曇った。
 サナエはデイパックに手を入れた。取りだしたのは催涙ガスのスプレーでもアーミーナイフでもなかった。海外旅行のパンフレットの束だった。
 「うまいことやったわね。笛吹さんがマネーロンダリングしたお金、ぜんぶどこかに移したんでしょう。お金持ちじゃない。タヒチにでも行ってきたら?」
 「ほんとに警察の人じゃないんですか?」
 「うそじゃないわ。だいいち、警察の事情聴取なら、わたしが身分を明かしてなきゃ、違法捜査になるでしょ。見てごらんなさい」
 サナエは下駄箱にパンフレットを載せ、デイパックを大きく広げてなかを見せた。
 「警察の身分証明書だって入ってやしない。これじゃ、完璧に違法捜査よ。だからわたしは、正真正銘の一般人。店に電話してくれてもいいわ。店じゃ、サナエって名前で通ってるけどね。あなたとお父さんの苦労、わたしにもわかるの。おなじような道を歩んできたのだから」
 話の途中、サナエは部屋の奥に目を走らせた。防犯カメラに映っていたキャリーバッグは見あたらない。だがこのときサナエは、エミを銀行爆破事件の真犯人として検挙する気はさらさらなかった。それよりも協力を求めていた。
 黒々とした私怨を晴らすために。
 「あのエレベーターから見つかった二人だけど、酸素ボンベがあっても助からなかったでしょうね。ひどいけがだった。それにしてもよくエミさんだけ襲われなかったわね」
 「え?」
 「あなたがあそこにいたことは警察もつかんでいる。酸素ボンベをキャリーバッグに入れてたでしょう。消防服を着てそれを引っ張っているところが防犯カメラに映ってるのよ。知り合いに警察の関係者がいてね、いろいろ聞こえてくるの」
 エミの顔色が青ざめる。
 サナエはたたみかけた。「あのエレベーターは換気口がふさがれて密室状態だった。四人が乗ってたら、三時間もしないうちに空気がなくなる。酸素ボンベは必需品よ。そのなかで笛吹さんは起爆に使うメルアドを吐くよう真犯人から迫られたんじゃないかしら? だけど真犯人って、いったいどこにいたんだろう? 防犯カメラには、三十七階の笛吹さん以外、不審人物はだれも映っていないし、そもそも窒息寸前のエレベーターから転がりでてきた笛吹さんが、爆弾まで持ちだしたとは思えないわ。フロアはエレベーターのなかとちがって起爆電波の受信圏内なんだから。だけど結果的に爆弾はエレベーターの外にあった」
 「めぐみさん……上がってください」
 エミはサナエを玄関から奥の部屋にとおした。独身の若い女性にお似合いのワンルームだった。二人は白木のダイニングテーブルで向かい合って座った。サナエは自らの身分を明かそうか迷った。だが家族の怨念を晴らすまでは、サナエは“埋めこみ”である。それを忘れてはならなかった。
 「わたしなりに推理すると、真犯人はエレベーターのなかにいたと思うの。そこで徹底的に攻めて笛吹さんに自供させた。それからドアを開け、笛吹さんが飛びだしたら、爆弾も一緒に外に放りだす。それがあなた、エミさんのやったこと。たぶんエレベーターの内部スピーカーに手を加えるとかして、真犯人が外部から脅迫しているようなシチュエーションを作りだしたんじゃないかしら。エレベーターの操作パネルを開けるマスターキーがなくなってるの。いまごろ警察は、施設保全部の防犯カメラを徹底的に調べてるんじゃないかしら」
 エミは始終、レトロな感じのする大ぶりな真鍮製の鍵をいじっていたが、最後のサナエの言葉にぎくりとした。
 「わたし、あなたがどうやったかなんて、ぜんぜん興味ないの。でも警察はべつ。しゃかりきになってるわ。時間の問題かもしれない。逃げるなら早いほうがいいわ。タヒチじゃなくても、フィリピンでもブラジルでどこへでも行けるでしょう」
 「父のことを……言えばいいんですか」
 「そう。もっと言えば、白石巳喜男さんがいまどこにいるか。それだけでいい。警察に通報したりしないから安心して。わたしはね……あなたにはわからないだろうけど、とにかくいまみたいな生活を終わりにしたいの。あなただってそうだったんでしょう」いつしかサナエの頬を涙が伝っていた。「だからおねがい――」
 エミが息を飲んだ。その目はサナエの額に注がれている。女どうしだ。言葉より、前髪の下にすける痛ましい傷痕のほうが説得力があった。促されるようにエミは、ハンドバッグから小さな機械を取りだした。
 ICレコーダーだった。
 スイッチが入り、こんどはサナエが息を飲んだ。ボイスチェンジャーをとおした声が笛吹にスマホのメルアドを迫り、つづいてマネーロンダリングの対価の受け渡し方法も訊ねていた。それをマスターキーを使って開けた操作パネル内に置いて、リモコンで操っていたという。
 「ぎりぎりだったんです。空気がなくなってきて、しまいには笛吹さん、わたしの頭にビニール袋をかぶせて……暗がりでとっさにボンベの管をくわえられたから助かりました。ぜんぶ父が考えて、わたしがそれを実行したんです。残業のふりをして深夜まで会社に残り、父に言われた方法で、エレベーターの上に乗って換気口をふさいだり、会社のイントラネットをハッキングしてすでに録画されている防犯カメラの映像に手をくわえたりもしました。それもこれも大きな夢があったからです」
 「大金をつかむ夢ね」
 エミはかぶりを振った。「SGコーポレーションのお金は、父の名義でべつの銀行の口座に分けて送金しました。本当に苦労したのは父ですから。カードも通帳も印鑑も父が持っています。わたしにはどうしようもありません。それに父とはしばらく会えないでしょう。もしかすると一生会えないかもしれない。けど、それでもいい。おたがい納得して決めたことですから」
 恐れていたことが現実になりそうだった。サナエは絶望に打ちのめされまいと必死に耐えた。
 「胃癌だったのよね」
 「はい。医者からはあと三か月も持たないと言われました」
 「じゃあ、お父さんは白石さんと――」
 「わからないんです、それ以上のことは」
 エアコンは効いていたが、頭がくらくらした。目の前からジャカルタの二人組が急速に遠ざかっていく。息の詰まるような日々がまた始まるのだろうか。そして和幸を欺いたまま、タツヒコとともにおなじ舟で暗い海をさまよいつづける。これまでの長い時間が、アスファルトに浮かぶ陽炎のようにゆらめいた。サナエはすがりつくように訊ねた。
 「復讐するって……どんな気持ちかしら?」
 そのとき、唐突にインターホンが鳴った。
 宅配便だった。
 エミの顔がぱっと明るくなった。誕生日プレゼントを待ちきれない子どものような表情だった。
 二人がかりでないと運べない巨大な荷物だった。毛布の梱包が解かれ、二メートル近い高さの置時計が窓際に姿をあらわした。ワンルームの部屋にはおよそ不釣合いで、古い小学校の校長室あたりがお似合いだった。品のいいデザインの文字盤には、飾り文字がつづられていた。
 伝票にサインして業者を帰すなり、エミは大時計の前にしゃがんだ。長い振り子を収めた場所の下には、ひきだしが二つあった。
 「買ったの? これ」
 サナエの声が、エミにはまるで聞こえていないかのようだった。ずっと握りしめていた真鍮の鍵を下のひきだしに差しこみ、ぐるりと一回転させる。エミは鍵を引き抜きもせず、ひきだしを開けた。
 「あぁっ……」
 エミはわっと泣きだした。悲しいわけではない。震える背中でわかった。
 「ごめんね、おねえちゃんが隠れ家をまちがえちゃって……長かったでしょう。でもだいじょうぶ。これからずっと一緒よ。これでやっと元にもどれる――」それこそが彼女の夢だった。
 過酷な生にさいなまれる潜入捜査官の目は、ひきだしから飛びだしたクマのぬいぐるみに吸い寄せられた。それは家族がバラバラになる以前、誕生日を迎えたエミに母親がプレゼントしてくれたものだった。サナエはエミの背中に自らの半生を見た思いだった。
 わたしの旅はこれからもつづく。深い霧に包まれた夜の海を進みながら、いつかきっと終着地にたどり着くはずだ。だがそのとき、心の内にあふれるのはこんな無垢な感慨だろうか。
 厚川めぐみは自信がなかった。
 (了)
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