十七~二十
文字数 17,434文字
十七
キンジロウという小太りの男は終始、無言のままハンドルを忙しく右に左に切り、道なき道を進んだ。
ギョーザでも食べていたのか強烈なニンニク臭を吐いていたが、白石はそれでさえ芳しかった。ようやく悪夢とおさらばできるのだ。ものの十五分かそこらだという。だったら三十分後にはバスのなかだ。平日だし、こんな田舎を通る深夜バスだから混んではいまい。座席を二つ占領して、できるだけ体を伸ばして眠りたいものだ。その手のバスなら高速の途中でサービスエリアに入るはずだ。飲み物も食べ物もそこまでがまんするとしよう。ここまで堪えたのだ。あと三、四時間、飲まず食わずだってへっちゃらだ。
助かったのだから。
夏崎も運転席と助手席の間に座ったまま黙っていた。それはなにかたくらんでいるというより、やつ自身、山を下りられて安堵しているように感じられた。そう思ったら、やつを置き去りにして一人で逃げようとしたことが、なんだかとても恥ずかしいような気になった。ただ、どうしても胸に引っかかるものがある。
星状に棘の広がったあの鋲だ。
山登りに使う道具かなにかだろうか。たとえば沢を渡るようなときに靴に一時的にはめるスパイクとか――。
いくら考えてもしっくりとくる答えは見つからない。だがすぐに白石はそんなこともうどうでもよくなった。キンジロウが運転する軽ワゴンが突き進む獣道がしだいに林道並みに広くなり、ヘアピンカーブをいくつか曲がったところで、ついにタイヤがアスファルトを踏む感触が尻に伝わってきたからだ。
「明かりだ!」夏崎が叫んだ。ダッシュボードに身を乗りだし、フロントグラスの向こうを指さしている。初めはヘッドライトでよくわからなかったが、よく見ると、たしかに左手の林の奥に白々とした明かりが一つ見えた。途端、白石のなかにある種の感慨がどっとわき起こり、たまらず目頭が熱くなった。
「着いたみたいだな」
車は平地に出たところで停車した。そこは途中まで舗装がすんだ林道へと連なる片側一車線のまだ新しい道路だった。片側の路肩に水銀灯が立ち、無数の昆虫が乱舞している。
「このあたりでいいですか、副社長」
「バス停はこのへんか?」
「だと思います」
「じゃあ、降ろしてもらうか」
白石が先に降り、夏崎があとにつづく。人間界に降り立った二人を祝福するかのように白いセンターラインが左右にどこまでも伸び、どっちもゆるやかなカーブの向こうに消えていた。右手の方角にもう一本ある水銀灯の明かりが反対側の路肩に立つ道路標識のようなものを照らしだしていた。
山形 25km
「だとするとバスはあっちに向かうってわけか」早々に車の方向転換を開始したキンジロウに会釈してから、白石は口を開いた。
「そうですね。だからもしバスが来るとしたら、向こうからってことになる」夏崎は左方向に大きく手を広げた。車が山に消えると、心なしか暗くなったような気がしたが、それでも夏崎はうれしそうに笑みを浮かべている。
「さて、バス停はどこなんだ」
「あっちの水銀灯の下、ちょうどあの標識の真向かいになにかありますよ」
白石はそちらに向かって歩きだした。まだ濡れたままだったが、靴を通して踏みしめるアスファルトの感触は、毎日顧みることもないままに通過している東京の道路を思い起こさせた。あれは母親の羊水のような、心から安堵できる場所だったのだ。
どこからかぶーんとうなるような音が聞こえた。
規則的なうなりは車のエンジン音のようでもあった。バスがもうそこまで来ているのかもしれない。白石はそれにせかされるように小走りになった。
大人の背丈とおなじくらいの高さのステンレスの立て札だった。錆びてはいないが、ずいぶん前に設置されたようだった。てっぺんにはプラスチックの板が張りつけられ、二枚の板の間にはさんだ紙に地名のようなものが記してある。にじんでいるところを見ると手書きのようだった。
「岩内沢作業場……か。ここだよな」
「ここがバス停ですね」
「でも時刻表がないぞ」
「そうですね」夏崎は首をかしげた。「でも深夜バスは九時三十六分って言ってましたから。もうすぐですよ」
白石は思いだしたようにスマホを取りだした。あいかわらず電波の圏外だった。「あと二分か。助かったよ。ところで夏崎、おまえはどうするんだ、これから」
「ご一緒しますよ。いえ、驚かないでください。頃合を見て別れますから。どこかで宿をとって、今夜は休みます」
「そうだな。それがいい。考えるのはあすにして、ぐっすり休んだほうがいい」
「ありがとうございます」
「なんて言うかな、おれもきょうはいろいろ動転しちまって……」
「わたしだってそうですよ。たいせつな取引先の副社長さまをこんな目に遭わせてしまうなんて心苦しくて」
エンジンらしきうなりは相変わらずだった。低く、一定している。まだ離れたところを走っているのだろうか。すこし遅れているのかもしれない。
「作業場ってのは石切り場かなにかか?」
「いえ、わたしたちの作業場です」
「え?」
「構外作業を行う地区の呼び名なんです」
「そんなところにバス停を」
「物騒ですか」
「だって受刑者だろ。それに一般人の目にはあまり触れさせないほうがいいんじゃないのか。受刑者にだってプライバシーはある」
「まあそうですけど、ここのバス停はそんなに使われないですから」
「利用がないところにバス停を置くなんてな……いや、そんなこと言っちゃいけないか、こうやって救われるんだから」
夏崎は満足げに何度かうなずき、あとは二人でぼんやりとバスがやって来るのを待った。煌々と灯る水銀灯の電球の下に、ビルの建築現場に設置される落下防止ネットのような網が取り巻いていた。なにかのメンテナンスを施している最中のようだった。
十分が過ぎた。
「遅れてるんだな」
独り言のように白石はつぶやき、天をあおいだ。雨はあがり、雲もきれいに晴れて星が出ていた。ぶーんという機械音はそのままだった。もしかするとバスのエンジン音ではないのかもしれない。不安がよぎり、白石は耳をすました。しかし音はたしかにバスがやって来る方角から聞こえるし、内燃機関特有のうなりはまちがいなさそうだった。
「近づいてるのにな」
「なんのことです?」
「この音さ」思いきって白石は訊ねてみた。「聞こえるだろ」
「ああ、あれですか」やけに落ち着いて夏崎は言った。「こっちです」バスがやって来るというのに夏崎は路肩から背後の草むらへと入っていった。「だいじょうぶですから。どうぞ」夏崎は手招きをした。
白石はなんのことかわからぬまま足を草むらに踏み入れ、ゆるやかな斜面を下る同級生のあとにつづいた。心なしかエンジンのうなりが高まったような気がした。それは道路の方角でなく、林の奥からだった。
右の足首になにかが引っかかり、あやうく転倒しそうになった。
「気をつけてください。キンジロウさんが仕掛けたシカ用のトラバサミがあちこちにあるし、電気コードも延びてますから」
白石は足下を懐中電灯で照らしてみた。直径一センチほどの黒い電気コードが左右に走っている。夏崎はそこにしゃがんでコードを手に取り、それをたぐるようにして林のさらに奥へと進んでいった。エンジン音がどこからあがっているか、もう白石にも把握できた。あと十五メートルかそこら。目の前だった。
「これです」
懐中電灯の光の輪のなかに赤い金属の箱のようなものが浮かんだ。そこからドッドッドッという低い規則的な音があがっている。
「発電機です。水銀灯に電力を送っているんです」
「電力って……」
「キンジロウさんが虫取りをするんです。さっきもずいぶん集まっていたでしょう。電球の下の網に仕掛けがしてあって、一度入ったら出られなくなるんです。カブトムシよりクワガタのほうがいい値で売れる。さっき言ってましたよ。数少ない現金収入の口だそうです」
「じゃあ、あの水銀灯は――」
「この発電機でつけてるんです。二本だけですから、それほど電気も食わないみたいです」
背中に氷の塊を押しつけられたみたいだった。
「二本だけだと? どういうことだよ」白石は踵を返して道路に駆け戻り、そのまま山形方面に向かって走った。ゆるやかな左カーブを曲がった途端、闇が深まった。道はアスファルトだが水銀灯が消えていたのだ。「どういうことだよ……」口走りながら白石はさらに走った。明かりは電池の切れかかった懐中電灯だけだった。
その先、さらに水銀灯が三本立っていた。どれも消えている。それ以上に白石を驚愕させる事実があった。靴底の感触ではっきりとわかった。アスファルトが切れているのだ。認めたくない気持ちに鞭打って、白石は懐中電灯を足下に照らした。さっきまでの雨でぬかるんだ泥道だった。そこから先、三十メートルもいかないところで道はせばまり、そのすこし奥で木々に完全に飲みこまれている。
「あそこで行きどまりってわけじゃないんですよ」いつの間にか夏崎がやって来ていた。「前はちゃんとバスが通れたんですから。だけど作業が中途半端で終わっちまったものだから、せっかく切り開いた道も元に戻ってしまった」
「前はバスが通れたって……どういうことだ!」白石は怒鳴った。「深夜バスはどうしたんだよ!」夏崎は平然としていた。白石はいきり立った。「ここにバスが来るんだろ!」
「深夜バスは寒河江の停留所に停まります。でもここじゃない。もう到着して新しい客を乗せて出発しているころでしょう」
「きさま!」白石は夏崎の胸ぐらにつかみかかった。はずみで二人とも転倒し、そのまま白石は同級生を組み伏せた。「おちょくるのもいいかげんにしろ!!」
怒声が山にこだました。
「降りると言いだしたのは副社長のほうですよ。キンジロウさんはこの先も下って寒河江まで乗せて行ってくれるつもりだったのに」
「『バス停はこのへんか』って聞いたら、きさま『だと思う』って言ったじゃないか」
「刑務所のバスがわたしたちを乗せてやって来るのは、ここでまちがいありません。小岩沢停留所。夕方、道路工事を終えたわたしたちをピックアップするときもここにバスが停まるんです」
「たわけ! どうしてくれる!」
殴りかかろうと拳を振りあげたとき、夏崎が身をかわし、さっと立ちあがった。「あなたが降りると言いだしたんだ。それをわたしがとめる筋合ありませんよ」
「あとどれくらいなんだ、街まで」白石は泣きそうな声になって夏崎を見あげた。
「基本的に道は切ってあります。ただ歩いたらずいぶんでしょう。二時間かそこらはかかるんじゃないですか」
「二時間だと? 車ですぐのはずじゃなかったのか」
「キンジロウさんはわたしたちが開いた道なんか通りやしませんよ。あの人にしかわからない獣道みたいのがあるんです。そこを車で下れば寒河江までもすぐだった。でもキンジロウさんがいないんじゃしかたない。どうしますか? 町まで出ますか? 受刑者たちが切り開いたまま手つかずになってる道を通って」
「ほかにないだろう」憮然として白石は立ちあがった。「もう一度、あの男を呼ぶなんてできまい」
「無理ですね」懐中電灯の弱々しい光に浮かぶ同級生の顔には、底知れぬ悪意が漂っていた。
白石は確信した。
やはりこの男は、鋲を使ってタイヤをパンクさせたのだ。
「町に出るんだ。あとはタクシーを拾う。おれは帰るぞ。今夜のうちに絶対に東京に戻るんだ。こんなところもうごめんだ」
「白石さん、わたしだってこんな山奥、いやですよ。早く熱い湯にでもつかりたい」
「うそをつけ!」
白石は夏崎の胸を両手で力いっぱい突いた。夏崎はもんどりうって倒れ、後頭部をしたたか濡れた地面に打ちつけた。アスファルトでないのが残念だった。白石はこの男の息の根をそのままとめてやりたかった。
「ぼ……暴力はやめてくださいよ」夏崎は手で後頭部を押さえながら、幽霊のようにふらふらと立ちあがった。
白石は怒りをみなぎらせて詰め寄った。「きさま、そのリュックのなかに鋲を入れてるだろう。それを使ってわざとタイヤをパンクさせたな」
あとじさりして夏崎は路肩の草むらに片足を突っこんだ。「言いがかりはよしてください。それに忍者映画じゃないんだ。そんな鋲、持ってきてませんから」夏崎は肩からリュックを下ろし、わざわざなかを広げて白石に見せた。「ほらね、ないでしょう」
「捨てたんだろ、途中で」
「よしてください。だいいちそんなことしてなにになりますか」
「おまえの言うことは信じられない。なにかたくらんでるな。元請け会社がそんなに憎いか。刑務所入れられたのは、クスリ以外もいろいろ悪さをしてたからだろう」
「悲しいですよ」ぽつりと夏崎が言った。「いつもそうなんです。誤解され、いわれなき誹謗中傷を受ける。刑務所に入ったのだってそうだった。わたしはなにもしていなかったんですよ。それなのにいくら説明しても、検事も裁判官も聞く耳を持たなかった。冤罪なんです」
「犯罪者ってのはみんなそう言うんだ。自分はなんにもしてないとかなんとか。生まれながらの犯罪者はとくにそうだ。そう言いながら、片方で悪事を楽しんでる」
「わたしはそんなのじゃない」大きくかぶりを振ると、夏崎はリュックに手を突っこんだ。
即座に例の鉈のことが頭に浮かび、つぎの瞬間、白石はリュックに飛びついていた。
「あうっ!」
リュックを奪われまいと草むらを一歩下がった夏崎が、突如、大声をあげた。奥深い森にそれがこだまし、夜鳥の群れが枝という枝から飛び立った。
白石は切れ味の鋭い鉈を入れたリュックを手にしていた。夏崎はそれを奪い返しにはこなかった。路肩から広がる緩斜面にうずくまり、くぐもった悲鳴をあげていた。足首を押さえている。白石はそこを懐中電灯で照らし、愉悦を覚えた。
トラバサミだった。
キンジロウがシカ獲り用に仕掛けたものらしい。夏崎の右足首は人食い鮫の口のようなそれに噛みつかれ、どくどくと出血していた。そればかりでない。足首の形が見事なL字に変形していたのだ。さっき沢で遭遇した熊にも対応できそうな強力タイプの罠だった。
さてどうしたものか。
折れた足首から流れ出る血の量を見つめながら、白石はゆっくりと頭をめぐらせた。
十八
浜野誠とは、渋谷の二四六号線沿いにある古いマンションで会った。
九時半だった。
看板は出ていないが、そこが浜野の事務所だった。新宿中央公園でホームレスにふんした連絡係の捜査官が、サナエからのメッセージを受けて調査を手配し、その結果、「ハマノ」「フィリピン人ダンサー」とのキーワードから警察庁のコンピューターが住所と携帯電話の番号を弾きだした。
人身売買ブローカーのイメージとはほど遠く、浜野はこの時間でもきちんと趣味のいいネクタイをしめ、上着を羽織ってサナエを出迎えた。居室の奥まったところにある部屋に彼女を通し、わざわざ紅茶を入れてくれた。
「こんな上品な美人がやって来るとは思わなかったな。もっと極道らしい派手な女か場末のバーのホステスみたいなやつかと勝手に想像していたんだが」
浜野はデイパックを胸の前で抱えるサナエと向き合う格好でソファに座った。年のころはサナエよりひと回り上だった。中肉中背で、落ち着いた雰囲気は普通の中年サラリーマンと変わりない。
ただ一つ異様だったのは、左の耳がないことだった。なにかの不始末で切り取られたのだろうか。浜野はそれを隠さなかった。それを見せるだけでたいていの相手は言うことを聞く。無言の威圧をしていた。
サナエにはそれが理解できた。前髪の下におなじ役目をになう傷痕を持っていたからだ。だがいまはそれに力を発揮させるときではない。サナエはもっとべつの方法でブローカーに口を割らせるつもりだった。「ヤクザでも水商売でもないわ。ヘロインはビジネスのために売ってるだけ」
「個人営業ってわけじゃあるまい。アラブ人たちと付き合ってるようじゃないか。きみからヘロインを買った連中から聞いたよ」
「仕入れを協力してるだけ。販売組合みたいなものよ」
「おれになんの用がある。そっちがビジネスって言うなら、こっちはもっとまともなビジネスをやってる自信がある。日本で働きたいって娘たちを集めて、あっちこっちの店に送りこむ。あとは彼女たちの自由裁量。店主になにを強要されようが、知ったこっちゃない。その意味じゃ、お天道さまに顔向けのできないことはこれっぽっちもしていない。だがな、ヤクはだめだ。人間を荒廃させる。おれは世界中でそういう連中を何百人も見てきた。絶対にそいつにだけは手は出さない。いくら儲かろうとな」
「五十歩百歩ってところでしょう。だから浜野さん、あなただって、自分のビジネスが脅かされたりしたらイヤでしょう。ムハマドのことは知ってるわよね」
「ムハマド……もしかしてヘロインの密売人のことかな。きみとおなじ“販売組合”の」
「知り合いなの?」
「どうかな。でもどうしてきみにそんなこと、言わなきゃならない」
「サイードよ。あなた、ムハマドからサイードを紹介してもらったでしょう。ヤクはやらないとか言って、こっそりサイードから買いつけようなんて思ってるんじゃないの?」
「ヤクはやらんって言ったろう。サイード……あのインテリぶったアラブ人か。やつとはもっとべつの用があってな」
そこまで言うと浜野は口をつぐみ、探るような目でサナエのようすをうかがってきた。サナエはデイパックから封筒を取りだし、そこから一万円札を何枚か抜きだし、浜野に見せる。
「買収しようったって無理だぜ。この仕事は信義則が第一だ」
「わかってるつもりよ。わたしだって修羅場は何度もくぐってる。あなたもそうでしょう。だったらおたがいに得になることをしたほうがいいわ」
「内輪もめでもしてるのか。勘弁してくれよ。そんなのにかかわりたくはないんだ」
どさりと音がして封筒が浜野の眼前のテーブルに放りだされた。「二百万あるの」
「そいつはすげえな。やっぱりヤクの密売人は金回りがいいんだな」
「どうぞ」
「いいって。おれは買収はされない」そう言いつつも浜野は唾を飲み、ふたたび値踏みするような目でサナエのことを見た。
「足りないなら相談に乗るわ。数えるぐらいしたらどうなの? 偽札かもしれないんだし、それがこの世界の礼儀ってもんでしょう」
「まあそうだな」がまんできなくなって浜野は封筒を手に取り、逆さまにして中身を滑りださせた。
そのときだった。
札束と一緒に封筒のなからマッチ箱のような黒い塊がテーブルに転がり出た。十五センチほどの赤いリード線が札束につながっている。とっさにサナエは、札束を持つ浜野の右手をつかんで動かなくした。
「手を動かさないで」
「な、なんだよ」
「お金はちゃんと二百万円分あるの。でも中がくり抜いてあってね。火薬が詰まってる。その黒い箱は起爆装置。いま封筒から出たときに安全装置が外れたの。十秒後からセンサーが働くように設計されててね。震度一の地震でもドカンといくわよ。でも気にしないで。プロパンガス程度の爆発力だから。あとで妙な詮索をされることもない。まあ、生きてればの話だけどね。もう十秒たったわ」
「ちきしょう……」
「ムハマドとはどういう関係なの?」
「やつとはカジノバーでよく会う仲だ。何度も言うがヤクじゃねえ」紳士然とした余裕の態度が一変し、浜野は額に脂汗をかきだした。
「サイードに会ったのはどうして?」
「ある男を紹介したんだ。ムショで一緒だったんだ」
「刑務所仲間?」そう訊ねつつ、サナエはフィリピン人ブローカーの口からサイードの言っていた銀行員――新たなマネロン先――の身元が明かされることを期待した。だが銀行なら職員の過去の行状に厳しいはずだ。とくに前科などもってのほかだろう。
「そうだ……おい、たのむ、なんとかしてくれ」
「だれなの?」
「夏崎巌って男だ。いまは大田区のアローなんとか産業って町工場の社長だ」
銀行員にたどり着くまでまだ時間がかかりそうだった。サナエは焦りを隠して訊ねた。「刑務所出てから社長になったの?」
「……ヤクで入ってきたんだ。山形刑務所だ。もう二十年も前の話さ。本人は濡れ衣だって言ってた。まともな男だったよ。ヤクの取り引きでへまやらかして、詰め腹切らされたおれとはわけがちがう」
「あら、いやだ。浜野さん、あなた、やっぱりクスリの商売してたんじゃない。でもどうしてその男がサイードと?」
浜野の手は小刻みに震えだし、その振動はいまにもリード線を通ってその先の小さな黒い箱に伝わりそうだった。
「知らねえんだよ。ほんとさ。夏崎の町工場に行ってみろよ。コバヤシって男がいるはずだ。ちんぴらみたいな男だからすぐわかるはずだ」
「コバヤシ?」
「ヤクやってたときに知り合った仲買人さ……たしかコバヤシ・リョウスケとかいうんじゃなかったか。何度かムショに出入りしてて、何年か前にシャバに出たとき、夏崎が自分の工場に誘ったんだ。社会復帰させるとかなんとか言ってた。これ以上の話ならそいつに聞いたらどうだ。スマホに電話番号も登録してある。上着の内ポケットだ……もういいだろ、勘弁してくれ――」
いまにも泣きだしそうな顔の浜野を尻目にサナエはその上着に手を入れ、スマホを取りだした。電話帳を調べると「小林良介」という人物が登録されていた。サナエはそのスマホをポケットにしまってから、浜野が凝視する黒い小箱をつかみ、リード線ごと札束から引き抜いた。
なにも起こらなかった。
「こんな手に引っかかるなんてね。でもお金は取っておいてくれていいわ。くり抜いてなんかいないから安心して。二百万そっくりあなたのものよ」
浜野はソファに倒れこんだ。汗びっしょりだった。
「妙な考え起こさないでね。こんどはほんとに火傷させるから。このスマホはあとで必ず返すから安心して」そう言いきるやいなや、サナエは浜野の首筋に、デイパックから取りだした注射器をすばやく打ちこんだ。
小林良介――。
マンションのエレベーターで、サナエはその名を何度も復唱した。聞き覚えのある名前だった。もうずいぶん前、サナエがいまの仕事に就くより前に出くわした名前のようだった。その男のところへ電話を入れる前に、サナエはまずその記憶をたどらねばならなかった。二十三年前、警視庁の刑事だった父が潜入していた暴力団の構成員名簿には、組長以下、十四人の氏名が記されていた。小林良介はそのうちの一人だったような気がしてならなかった。
十九
村山はついに特殊警棒を振り下ろした。
それも力いっぱい。
クロスのボールペンで応戦するどころでなかった。おれは首をすくめ、両手で脳天を覆ったまま腰を抜かしてしまった。
おれの頭はまたしても割れなかった。言っとくが、いくら金融機関でもエレベーターの防犯カメラは一つきり。そいつはさっき破壊されたばかり――。
ナチスの兵士がかぶっていたヘルメットでさえも一発で粉々になりそうなぐらいの一撃を食らったのは、あろうことか専務の元愛人でいまは照明係を買って出た女の無防備な頭蓋骨だった。床にぺたりと座った格好となったおれの顔に、冷たいものと生温かいものが同時に飛び散り、思わずおれは情けない悲鳴をあげてしまった。
祐子は懐中電灯を落とすだけでなんとか一発目は堪えたが、つづけてくりだされた二発目に大脳の決定的な部分を破壊されたらしい。がくりと前のめりに倒れ、おれに土下座して謝るような格好になってシャネルのトートバッグの上に突っ伏した。体はぴくぴくとけいれんしている。
「このアマ! 死にくされ!」
村山は罵声を浴びせながら警棒を振りつづけた。わずかな米の食いぶちを守るために幼子の口減らしに踏み切る母親のせつなさとはまるでちがう、残忍な殺し方だった。おおむね二十発目をお見舞いするころには、祐子の頭は半分ほどの大きさとなり、床は一面、血の海となった。もう呼吸はしていないからやつが酸素を消費することはありえない。だからもうそろそろやめたらどうなんだ? だがそんな提案ができる状況じゃなかった。
「人の顔を蹴るなんて、どういうことなんだよ!」さっきハイヒールキックを食らったときのことを言っていた。「なんでそんなことが平気でできるんだよ!」
電気が流れすぎた機械のように警棒はくり返し打ちつけられ、いまや頭蓋骨のボウルからマドリッド名物のガスパッチョ並みに液状化した脳みそが、赤く染まった髪を伝ってずるずると床に流出しはじめていた。
村山は警棒を放りだし、壁に背中をあずけて血塗れた床にどさりと腰を下ろした。
「いつかこうしてやろうと思ってたんだ」
エミは恐怖のあまり、キャリーバッグに顔をうずめたまま肩を震わせている。おれはと言えば、いまや鉄籠の王となった警備員さまの前で居住まいをただし、正座までして、鎮まりかけたその怒りを再燃させないよう努めていた。
「前から知ってたんだよ、この女。朝晩、こっちが正面玄関で『おはようございます』『おつかれさまでした』って言ったりすると、たいていの社員さんは三回に一度は会釈ぐらいしてくれるもんさ。だけどこの女は顔一つ上げやしない。ただの一度もだぜ。社員さんにとっちゃ、おれたちは目立っちゃいけない存在なんだろうが、こっちはじっと社員さんのことを観察してるんだ。入館証をちゃんと見せないやつとかのことは、とりわけよく覚えてる。顔も所属も名前もな。就職にあぶれたただのぐうたらじゃないんだぜ。ちゃんと目も耳もついてるんだ。そいつらが獲得した情報によると、この女は札付きの遅刻常習者で、入館証なんてわざとおれたちに見せようとしない。声でもかけようなら、怖い目つきでにらんでそのまま行っちまう」
村山は憑かれたようにしゃべりつづけた。
「問題はそのあとだ。おれたちの何人かが泣かされた。総務部長さんが血相を変えて飛んできて、そこにいた警備員全員を集めてこう言うんだ『入館証の確認は、通行を妨げないようスムーズに』ってな。だけど首から裏返しにさげられた入館証をどうスムーズに調べろって言うんだよ。おっぱいにタッチするぎりぎりのところで、合気道の達人みたいに気を使って入館証を引っくり返せってのか? なあ、どう思う? 笛吹次長さんよ」
いきなり名前を呼ばれ、どきっとした。だがここで駅の便所でフランケンシュタインに遭遇した子どもみたいに口をあんぐりと開けていたら、そこに必殺の警棒が突っこまれるのがおちだ。だからおれはなにか言わなきゃいけないと思って一生懸命、頭をめぐらせた。
気の効いたことなんて出てきやしない。月並みなことしか口にできなかった。でも自分が発したその言葉を耳にしたら、それがなんだかその場にもっとも適した回答に思えたから不思議だ。「だから女ってやつは……」語尾が尻すぼみになったが、趣旨は殺人鬼にも伝わった。
村山はにやりとした。「そうなんだよ。次長さん。でね、じつを言うと、おれはこの女、いや、この“元”女のことをもうすこし知っていてね。池袋の要町に住んでるのさ。なにもストーカーしたわけじゃないぜ。偶然なんだが、おれもおなじ町の住人なんだよ。だから休みの日なんか、たまにディスカウントストアとかスーパーで、ばったり遭遇する。こっちはいつも制服だし、だいいち向こうはこっちの顔なんて見たことないんだから、覚えられちゃいない。だけどさっきも言ったけど、こっちはマンウオッチングが仕事みたいなもんだろ。カジュアルウエアに着替えたって見まちがえようがないのさ。高級バッグがコンビニのビニール袋に変わったっておんなじだぜ。そんなときは、こっちからわざと近づいてやる。挑発するみたいでわくわくするんだ」
警備員はぺらぺらとしゃべりつづけた。
「不思議なもんさ。職場じゃ、社員と派遣の警備員なんて、人と獣みたいな絶対的なちがいがあるように思われてるだろ。だけどゴキブリホイホイとかキャットフードとかプリンターのインクとかを買いこんでるとき、どんなちがいがあるってんだよ? 駅前の百円ショップで、すこしでも格好のいいグラスを見つけようと、並んで品定めしていたとき、おれたち、なんの偶然かナイキのおんなじデザインの白いスニーカー履いてたんだ。あのときは、ちょっとおれのほうがショックで、買おうと思ったグラスを棚に戻してそそくさと帰って来ちまった。なあ、わかるだろ? この気持ち、えらい、えらい次長さんよ」
「不条理だな」
「認めたな、ついに」村山の口元が奇妙にゆがみ、いまにもそこから紫色をした毒の息が吐かれそうだった。「あんたもさっき、おれにさんざんなこと言ってたんだぜ。社員さまだからってよ。だけどあんたの家の下駄箱にだって、ナイキのおんなじデザインの白いスニーカーが放りこんであるかもしれないんだぜ。男どうしだからサイズまで一緒かもしれない。ところがところが、だ。言わなくてもわかってるよな」
おれは生唾を飲みこんだ。いつの間にか村山は取り落としたはずの凶器をふたたび手にしていたのだ。
「言っとくが、おれはあんたの顔もちゃんと覚えていたんだぜ」
おれに対する印象をここで開陳してもらう必要はなかった。どうせ最悪なんだから。それよりもおれは、とにかくやつをなだめる方策を思案した。気絶でもしたのかエミはキャリーバッグから一向に顔をあげようとしない。よほど大事なものが収まっているか、知らぬ間に窒息死したかのどっちかだ。
おれは思いつくままにしゃべりだした。「たぶん社員っていうより、人間としての問題なんだよ。おれは人と競争して、だれかを蹴落とすことでここまで這いあがってきた。だからいつだって他人に対して攻撃的だ。たまにいやになるよ、こういう性格。ほんとだぜ。だからあれこれ文句言ったあとは、人知れず自己嫌悪。部屋に引きこもって、晩飯も食いたくない日だってあるんだぜ」
「いいんだよ、男は」
パンパンに膨れあがったビニール袋からガスが抜けるようにいっぺんに緊張が解けた。だれからも見放された鋼鉄の籠のなかだし、床は一面、血と脳漿の海。そんでもって空気は汚れ、浅くしか息がつけなくなっているというのに、なんだかおれはほっとして、凍てつく真冬に源泉かけ流しの露天風呂につかったような気分になった。
「でも女はだめだ。とくに電車で経済新聞広げてるようなやつを見ると、無性にぶん殴りたくなる」
すげえ差別だぜ、てゆうか、ひがみだぜ、それ。
そんなこと口が裂けたって言えない。おれは頭に浮かんだことを唾液と一緒に飲みくだした。
「なあ、ちょっと見てみようぜ、このバッグ。シャネルだろ。おれだってそれくらい知ってるさ」
そう言うと、村山は祐子のトートバッグをひっくり返し、なかのものを血だらけの床にぶちまけた。化粧品と生理用品が入っているらしいポーチやスマホ、ライターとたばこ、それにコンビニの袋に入ったままのテレビ誌が転がりでた。さらに村山はサイドポケットやジッパーを開き、すべての中身を取りだした。
「見ろよ。やっぱりだ。満員電車で小わきに抱えるのは経済新聞。だけどほんとはこいつがやりたくてやりたくてしかたないんだ」警備員が手にしていたのは、発売されたばかりの携帯ゲーム機だった。「おれはこんなもんぜんぜん興味ないぜ。やるかい、次長さん」
いきなり携帯ゲーム機を投げつけられ、おれはそれを取りそこねた。村山がじっとそれを見ている。たまらずもう一度、唾を飲んだ。金臭い血の香りが喉の奥を刺激したとき、やつの本性がさらに明らかとなった。
やつは頭のつぶれた祐子の体に手を伸ばし、年甲斐もない短いスカートの内側に汚れた指を滑りこませたのだ。
「まだあったかいぜ。いいな、女の体って」この先、この男がなにをしだすか考えると、暗澹たる気分になった。だがなにもできなかった。いま、村山に人の道を諭そうものなら――。「ほんとはおれ、この女のことが好きだったのかもしれない。好きで好きでしょうがなくて、ちょっとでも振り向いてほしかったのかもな。持たざる者のあこがれの対象だったのかな」
村山の手は明らかに祐子の秘部をまさぐっていた。それまでとちがう硫黄とアンモニアの臭いが鼻を突き、おれは手で口元を覆った。
「あんまり美化しないほうがいいと思うがな」C4を詰めたタッパーはエレベーターの隅に鎮座している。そっちも気になったが、いまはとにかくこの男を正気に返らせたかった。「やっぱり木村祐子は会社の寄生虫だよ。額に汗して働いたことなんてないだろう。たぶんきみが自衛隊時代に味わった苦労なんて、これっぽっちもわからずに、ただ隣の席のやつが言うからそれにつられてつい『戦争反対』なんて言っちまう部類だ。見かけだけさ。女なんて、もっといいのがいくらもいる。あわてることなんかないさ」
「ふふ、おっかしいよな」村山はにやついた。まるでおれのズボンのチャックが全開になって、ついでにトランクスの前も開いていて、なかのものがぽろんと顔を出しているとでも言いたげだった。
「なんだよ、おれの言ってることはどこかおかしいか?」毅然とできる気分じゃなかったが、おれは無理に胸を張って、話のわかる大人のふりをしようと努めた。
「おれ、自衛隊になんか入ってねえんだよ」空威張りだったぶん、一気に消沈し、おれはまるでイソギンチャクにでもなったみたいにとことん縮こまった。「ほんとおっかしいぜ。適当に言ってみただけなのによ。おれはたんなるミリタリーおたくなんだよ。それも筋金なんかどこにも入っちゃいねえ。エアガンとかナイフとか、マニアに言わせりゃ、ちょっとかじったことがある程度さ。ちゃんちゃらおかしいったらねえ」
「じゃあ、爆弾のことは――」
「たぶんプラスチック爆弾だってことは当たってるんだろうが、細かいことは知らねえよ。ビル一棟吹き飛ばす破壊力なんてのも、ぜんぶでたらめさ。でもあのとき、おれがそこのタッパーいじって、うまいこと起爆装置かなにか外せたらカッコいいだろ。要はそれだけのことさ。うまくいったかもしれないし、いかなかったかもしれない。でもあのときはとにかく、そう言ってみたかったんだ。それだけさ。ホントそれだけ」
奈落の底に突き落とされたような気分だった。この男が、女のあそことおなじぐらい敏感な雷管に不用意にタッチしていたらどうなったか。想像しただけで恐ろしかったが、それでいておれはあのとき、心の隅っこで一縷の望みをこの男に託していた。
それがただの不毛な願いだとわかった途端、おれのなかで動揺が深まっていった。結局のところただの一歩も前進していない状況に焦燥感が高まる一方で、貴重な酸素を無駄にすべきでないとの冷静な思考も失われず、まるで心が左右に引き裂かれたかのようだった。
こんな落ち着かない気分はひさしぶりだった。
つまり前にも一度、似たような気分を味わったことがある。しかし大昔の記憶が突如よみがえってしばし言葉を失うかのように、なんだか打ちのめされたようなぼうっとした感覚がつづいただけで、すぐにはそれがなんだったか思いだせなかった。
それはたぶんずっと前、おれがずいぶんと若い時分の話だ。この会社に入って何年かして、あっちこっちで悪いことを覚え始めたころ、きっとそのころだ。そう言えば、あのころなんて毎日がスリル満点のジェットコースターみたいだったじゃないか。口八丁手八丁でしたい放題やってきた。
そうだ。
どこかに夜中、侵入した。
そう、窓を破って忍びこみ、そこにあった大きな机のひきだしに、おれはそっと置いてきたのだ。
取り返しのつかぬなにかを――。
二十
声にならぬ声でうめきつづける夏崎を、白石は自家発電の水銀灯の明かりのなか、じっと見つめた。
「た……たすけ……て……」
ネズミ捕り程度ならいざ知らず、トラバサミのバネは、育ちすぎたミミズほどの太さがあり、威力はすさまじかった。たぶん野ウサギの足ならちょん切れてただろうし、誤って頭を挟もうものならトマトみたいに一撃でぐちゃっといってただろう。五十八歳になる町工場の社長の右足はそれに見事に噛みつかれ、皮膚は裂け、肉をつぶし、骨まで砕かれていた。
「こりゃ、ひどいな。折れてるよ。たぶん複雑骨折だ」それが自分の声だとの自覚がなかった。なんだか体の内に長いこと潜んでいたサディズムのような感覚がふっと表にあらわれたかのようだった。
立ちあがることも四つん這いになることもできずに、真っ青な顔でただ苦痛に耐えるだけの男を見下ろしながら白石は首をかしげた。
「そんなんじゃ歩けまい。どうだ、おれが町まで行って医者を連れてこようか? 肩を貸すなんて、おれのいまの体力じゃちょっと無理だしな」
夏崎は声すら出せず、額から脂汗を流しながら罠と格闘していた。
たとえ舗装が途切れていても、この道を下れば町に出られる。白石は時計を見た。もう十時を過ぎていた。タクシーを使ったら東京までいくらかかるだろう。話のわかる運転手ならメーターも深夜料金も度外視で交渉の余地もあろう。痛い出費だが、こうなったら不慮の事故と思って腹をくくるしかない。そう思ったらなんだか吹っ切れたような気分になった。それになにより、下請け工場の社長相手のじりじりした争いの形勢逆転が明確になったことで、白石のなかに大きな安堵が生まれていた。同時に自分でも驚くほどの黒々とした思考が頭のなかでめぐりだしていた。
夏崎は白石のほうを見あげ、血のついた片手を突きだしてきた。その目の奥に白石は弱々しい青い炎のようなものを見た。消え入る寸前だ。
「おれにできるかな。ホワイトカラーだから腕力はないし、手の皮も薄い。そんな恐ろしいものに触ったら、たちまち指を切るのが落ちだとも思うが。それにもしそいつを外した途端、後悔するようなことだって起きないともかぎらない。動脈か静脈かわからないが、そのトラバサミの歯が取り急ぎ止血帯がわりになってるかもしれないんだぜ。だからやりようによっちゃ、出血がひどくなるってこともある。ここは慎重に考えないとな。やっぱり医者を呼んでくるほうがいいんじゃないか。そいつをそのままにして――」
「は……はず……して……」
喉の奥から絞りだされた声に驚いたのか、杉林からまたしても黒い影がばさばさと飛び立った。それがコンドルとかハゲワシでないことを夏崎は必死に祈ってることだろう。ますます白石は愉快になった。
白石はトラバサミの前にしゃがんだ。
「どうなっても知らないからな」
血まみれの金属歯に片足をかけ、両手で引っ張ってもびくともしない。かえってとがった歯が夏崎の肉をぐりぐりと苛むだけのようで、夏崎はリングで四の字固めを食らったレスラーさながらに、湿った地面を何度も叩いてのたうちまわった。やむなく白石はあたりを探し、近くの木から直径四、五センチの手ごろな枝を二本折り取り、それをトラバサミの口に無理やり押しこんで、てこの原理を応用して左右に開いてみた。すると足首の肉に食いこんでいた歯がゆるみ、足が抜けるだけの隙間が生まれた。
「ほら……抜けよ、足……」
言われなくとも夏崎は罠から足を引き抜こうと必死の形相をしていたが、神経がぶつ切れになったのか、ひざから下が言うことを聞かないようで難渋していた。だから白石のほうで木の枝の先で口を広げる罠の位置を微妙に動かし、夏崎の足を解放してやった。
夏崎は肩で猛然と息をしていた。白石は傷ついた部分に懐中電灯を照らした。
「出血もひどいが、骨のほう、なんとかせにゃならんな」
L字形になった足首を見るかぎり、トラバサミの一撃によって骨が粉砕されているのは明らかだった。複雑骨折だ。テレビで見たことのある荒療治がどうやら不可欠なようだった。もちろんそんなの初めてだ。
「引っ張って元に戻さないことにはな。痛いかもしれんが、ほっとくわけにいかない。まっすぐになったら、この枝をあてて添え木にしよう。いいか――」
返事をするかわりに夏崎は目をつむったまま何度もうなずいた。白石は夏崎と向き合って座り、変形したほうの足のかかとを両手でつかみ、右足を伸ばして夏崎の股間に固定した。
「金玉潰さないようにしないとな」
せめてものジョークのつもりだったが、その直後に森にこだましたのは、元クラスメートの絶叫だった。白石のほうは、折れた骨と骨の端をうまい位置に合わせるのに必死で、耳を覆うことも不平を言うこともできなかった。
やっとこL字が解消されたとき、夏崎は昏倒して地面に仰向けに倒れていた。白石は患部を自分のタオルでぐるぐる巻きにし、そこに二本の木の枝を左右からはさむ格好であてがうと、リュックの外側にぶら下がっていた二本のバンドを上下に巻きつけて固定した。
五分ほどして夏崎が痛みの世界に戻ってきた。白石は言ってやった。「初めてだったけど、われながらうまくいったと思うよ。すこしはましになったろ」
「す……すみませ……ん」
「見ればわかるが、ずいぶんと出血してるし、腫れもひどい。歩けるかな」
「やって……みます」
白石は立ちあがろうとする旧友に肩を貸した。
「うぅっ……」
「そうだ。こいつを杖にしろよ」
白石は木の枝をもう一本、折って手渡した。夏崎はそれを使ってかろうじて一人で立つことができた。白石は自分のかばんと夏崎のリュックを持って、黙って歩きだした。アスファルトの切れた道路を山形方面へ。
「痛み止め……ください。リュックに……入ってる」うしろで夏崎が求めてきた。
白石は無視した。
受刑者たちが作ったという道路に連れて来られるまでに味わったものが、頭から離れなかった。
「おねがい……します」
「ああいう薬は眠くなる。そうなったら歩けないだろう。悪いが、おれはどうしても今夜のうちに東京に帰りたいんだ。それにおまえだって、できるだけ早く医者に診てもらったほうがいい。眠気は禁物だと思うがな」
それにもう一つ理由がある。
痛みは飼い犬を従順にする。
人間だっておなじだろう。しだいに狭くなる山道を進みながら、白石はほくそ笑んだ。
キンジロウという小太りの男は終始、無言のままハンドルを忙しく右に左に切り、道なき道を進んだ。
ギョーザでも食べていたのか強烈なニンニク臭を吐いていたが、白石はそれでさえ芳しかった。ようやく悪夢とおさらばできるのだ。ものの十五分かそこらだという。だったら三十分後にはバスのなかだ。平日だし、こんな田舎を通る深夜バスだから混んではいまい。座席を二つ占領して、できるだけ体を伸ばして眠りたいものだ。その手のバスなら高速の途中でサービスエリアに入るはずだ。飲み物も食べ物もそこまでがまんするとしよう。ここまで堪えたのだ。あと三、四時間、飲まず食わずだってへっちゃらだ。
助かったのだから。
夏崎も運転席と助手席の間に座ったまま黙っていた。それはなにかたくらんでいるというより、やつ自身、山を下りられて安堵しているように感じられた。そう思ったら、やつを置き去りにして一人で逃げようとしたことが、なんだかとても恥ずかしいような気になった。ただ、どうしても胸に引っかかるものがある。
星状に棘の広がったあの鋲だ。
山登りに使う道具かなにかだろうか。たとえば沢を渡るようなときに靴に一時的にはめるスパイクとか――。
いくら考えてもしっくりとくる答えは見つからない。だがすぐに白石はそんなこともうどうでもよくなった。キンジロウが運転する軽ワゴンが突き進む獣道がしだいに林道並みに広くなり、ヘアピンカーブをいくつか曲がったところで、ついにタイヤがアスファルトを踏む感触が尻に伝わってきたからだ。
「明かりだ!」夏崎が叫んだ。ダッシュボードに身を乗りだし、フロントグラスの向こうを指さしている。初めはヘッドライトでよくわからなかったが、よく見ると、たしかに左手の林の奥に白々とした明かりが一つ見えた。途端、白石のなかにある種の感慨がどっとわき起こり、たまらず目頭が熱くなった。
「着いたみたいだな」
車は平地に出たところで停車した。そこは途中まで舗装がすんだ林道へと連なる片側一車線のまだ新しい道路だった。片側の路肩に水銀灯が立ち、無数の昆虫が乱舞している。
「このあたりでいいですか、副社長」
「バス停はこのへんか?」
「だと思います」
「じゃあ、降ろしてもらうか」
白石が先に降り、夏崎があとにつづく。人間界に降り立った二人を祝福するかのように白いセンターラインが左右にどこまでも伸び、どっちもゆるやかなカーブの向こうに消えていた。右手の方角にもう一本ある水銀灯の明かりが反対側の路肩に立つ道路標識のようなものを照らしだしていた。
山形 25km
「だとするとバスはあっちに向かうってわけか」早々に車の方向転換を開始したキンジロウに会釈してから、白石は口を開いた。
「そうですね。だからもしバスが来るとしたら、向こうからってことになる」夏崎は左方向に大きく手を広げた。車が山に消えると、心なしか暗くなったような気がしたが、それでも夏崎はうれしそうに笑みを浮かべている。
「さて、バス停はどこなんだ」
「あっちの水銀灯の下、ちょうどあの標識の真向かいになにかありますよ」
白石はそちらに向かって歩きだした。まだ濡れたままだったが、靴を通して踏みしめるアスファルトの感触は、毎日顧みることもないままに通過している東京の道路を思い起こさせた。あれは母親の羊水のような、心から安堵できる場所だったのだ。
どこからかぶーんとうなるような音が聞こえた。
規則的なうなりは車のエンジン音のようでもあった。バスがもうそこまで来ているのかもしれない。白石はそれにせかされるように小走りになった。
大人の背丈とおなじくらいの高さのステンレスの立て札だった。錆びてはいないが、ずいぶん前に設置されたようだった。てっぺんにはプラスチックの板が張りつけられ、二枚の板の間にはさんだ紙に地名のようなものが記してある。にじんでいるところを見ると手書きのようだった。
「岩内沢作業場……か。ここだよな」
「ここがバス停ですね」
「でも時刻表がないぞ」
「そうですね」夏崎は首をかしげた。「でも深夜バスは九時三十六分って言ってましたから。もうすぐですよ」
白石は思いだしたようにスマホを取りだした。あいかわらず電波の圏外だった。「あと二分か。助かったよ。ところで夏崎、おまえはどうするんだ、これから」
「ご一緒しますよ。いえ、驚かないでください。頃合を見て別れますから。どこかで宿をとって、今夜は休みます」
「そうだな。それがいい。考えるのはあすにして、ぐっすり休んだほうがいい」
「ありがとうございます」
「なんて言うかな、おれもきょうはいろいろ動転しちまって……」
「わたしだってそうですよ。たいせつな取引先の副社長さまをこんな目に遭わせてしまうなんて心苦しくて」
エンジンらしきうなりは相変わらずだった。低く、一定している。まだ離れたところを走っているのだろうか。すこし遅れているのかもしれない。
「作業場ってのは石切り場かなにかか?」
「いえ、わたしたちの作業場です」
「え?」
「構外作業を行う地区の呼び名なんです」
「そんなところにバス停を」
「物騒ですか」
「だって受刑者だろ。それに一般人の目にはあまり触れさせないほうがいいんじゃないのか。受刑者にだってプライバシーはある」
「まあそうですけど、ここのバス停はそんなに使われないですから」
「利用がないところにバス停を置くなんてな……いや、そんなこと言っちゃいけないか、こうやって救われるんだから」
夏崎は満足げに何度かうなずき、あとは二人でぼんやりとバスがやって来るのを待った。煌々と灯る水銀灯の電球の下に、ビルの建築現場に設置される落下防止ネットのような網が取り巻いていた。なにかのメンテナンスを施している最中のようだった。
十分が過ぎた。
「遅れてるんだな」
独り言のように白石はつぶやき、天をあおいだ。雨はあがり、雲もきれいに晴れて星が出ていた。ぶーんという機械音はそのままだった。もしかするとバスのエンジン音ではないのかもしれない。不安がよぎり、白石は耳をすました。しかし音はたしかにバスがやって来る方角から聞こえるし、内燃機関特有のうなりはまちがいなさそうだった。
「近づいてるのにな」
「なんのことです?」
「この音さ」思いきって白石は訊ねてみた。「聞こえるだろ」
「ああ、あれですか」やけに落ち着いて夏崎は言った。「こっちです」バスがやって来るというのに夏崎は路肩から背後の草むらへと入っていった。「だいじょうぶですから。どうぞ」夏崎は手招きをした。
白石はなんのことかわからぬまま足を草むらに踏み入れ、ゆるやかな斜面を下る同級生のあとにつづいた。心なしかエンジンのうなりが高まったような気がした。それは道路の方角でなく、林の奥からだった。
右の足首になにかが引っかかり、あやうく転倒しそうになった。
「気をつけてください。キンジロウさんが仕掛けたシカ用のトラバサミがあちこちにあるし、電気コードも延びてますから」
白石は足下を懐中電灯で照らしてみた。直径一センチほどの黒い電気コードが左右に走っている。夏崎はそこにしゃがんでコードを手に取り、それをたぐるようにして林のさらに奥へと進んでいった。エンジン音がどこからあがっているか、もう白石にも把握できた。あと十五メートルかそこら。目の前だった。
「これです」
懐中電灯の光の輪のなかに赤い金属の箱のようなものが浮かんだ。そこからドッドッドッという低い規則的な音があがっている。
「発電機です。水銀灯に電力を送っているんです」
「電力って……」
「キンジロウさんが虫取りをするんです。さっきもずいぶん集まっていたでしょう。電球の下の網に仕掛けがしてあって、一度入ったら出られなくなるんです。カブトムシよりクワガタのほうがいい値で売れる。さっき言ってましたよ。数少ない現金収入の口だそうです」
「じゃあ、あの水銀灯は――」
「この発電機でつけてるんです。二本だけですから、それほど電気も食わないみたいです」
背中に氷の塊を押しつけられたみたいだった。
「二本だけだと? どういうことだよ」白石は踵を返して道路に駆け戻り、そのまま山形方面に向かって走った。ゆるやかな左カーブを曲がった途端、闇が深まった。道はアスファルトだが水銀灯が消えていたのだ。「どういうことだよ……」口走りながら白石はさらに走った。明かりは電池の切れかかった懐中電灯だけだった。
その先、さらに水銀灯が三本立っていた。どれも消えている。それ以上に白石を驚愕させる事実があった。靴底の感触ではっきりとわかった。アスファルトが切れているのだ。認めたくない気持ちに鞭打って、白石は懐中電灯を足下に照らした。さっきまでの雨でぬかるんだ泥道だった。そこから先、三十メートルもいかないところで道はせばまり、そのすこし奥で木々に完全に飲みこまれている。
「あそこで行きどまりってわけじゃないんですよ」いつの間にか夏崎がやって来ていた。「前はちゃんとバスが通れたんですから。だけど作業が中途半端で終わっちまったものだから、せっかく切り開いた道も元に戻ってしまった」
「前はバスが通れたって……どういうことだ!」白石は怒鳴った。「深夜バスはどうしたんだよ!」夏崎は平然としていた。白石はいきり立った。「ここにバスが来るんだろ!」
「深夜バスは寒河江の停留所に停まります。でもここじゃない。もう到着して新しい客を乗せて出発しているころでしょう」
「きさま!」白石は夏崎の胸ぐらにつかみかかった。はずみで二人とも転倒し、そのまま白石は同級生を組み伏せた。「おちょくるのもいいかげんにしろ!!」
怒声が山にこだました。
「降りると言いだしたのは副社長のほうですよ。キンジロウさんはこの先も下って寒河江まで乗せて行ってくれるつもりだったのに」
「『バス停はこのへんか』って聞いたら、きさま『だと思う』って言ったじゃないか」
「刑務所のバスがわたしたちを乗せてやって来るのは、ここでまちがいありません。小岩沢停留所。夕方、道路工事を終えたわたしたちをピックアップするときもここにバスが停まるんです」
「たわけ! どうしてくれる!」
殴りかかろうと拳を振りあげたとき、夏崎が身をかわし、さっと立ちあがった。「あなたが降りると言いだしたんだ。それをわたしがとめる筋合ありませんよ」
「あとどれくらいなんだ、街まで」白石は泣きそうな声になって夏崎を見あげた。
「基本的に道は切ってあります。ただ歩いたらずいぶんでしょう。二時間かそこらはかかるんじゃないですか」
「二時間だと? 車ですぐのはずじゃなかったのか」
「キンジロウさんはわたしたちが開いた道なんか通りやしませんよ。あの人にしかわからない獣道みたいのがあるんです。そこを車で下れば寒河江までもすぐだった。でもキンジロウさんがいないんじゃしかたない。どうしますか? 町まで出ますか? 受刑者たちが切り開いたまま手つかずになってる道を通って」
「ほかにないだろう」憮然として白石は立ちあがった。「もう一度、あの男を呼ぶなんてできまい」
「無理ですね」懐中電灯の弱々しい光に浮かぶ同級生の顔には、底知れぬ悪意が漂っていた。
白石は確信した。
やはりこの男は、鋲を使ってタイヤをパンクさせたのだ。
「町に出るんだ。あとはタクシーを拾う。おれは帰るぞ。今夜のうちに絶対に東京に戻るんだ。こんなところもうごめんだ」
「白石さん、わたしだってこんな山奥、いやですよ。早く熱い湯にでもつかりたい」
「うそをつけ!」
白石は夏崎の胸を両手で力いっぱい突いた。夏崎はもんどりうって倒れ、後頭部をしたたか濡れた地面に打ちつけた。アスファルトでないのが残念だった。白石はこの男の息の根をそのままとめてやりたかった。
「ぼ……暴力はやめてくださいよ」夏崎は手で後頭部を押さえながら、幽霊のようにふらふらと立ちあがった。
白石は怒りをみなぎらせて詰め寄った。「きさま、そのリュックのなかに鋲を入れてるだろう。それを使ってわざとタイヤをパンクさせたな」
あとじさりして夏崎は路肩の草むらに片足を突っこんだ。「言いがかりはよしてください。それに忍者映画じゃないんだ。そんな鋲、持ってきてませんから」夏崎は肩からリュックを下ろし、わざわざなかを広げて白石に見せた。「ほらね、ないでしょう」
「捨てたんだろ、途中で」
「よしてください。だいいちそんなことしてなにになりますか」
「おまえの言うことは信じられない。なにかたくらんでるな。元請け会社がそんなに憎いか。刑務所入れられたのは、クスリ以外もいろいろ悪さをしてたからだろう」
「悲しいですよ」ぽつりと夏崎が言った。「いつもそうなんです。誤解され、いわれなき誹謗中傷を受ける。刑務所に入ったのだってそうだった。わたしはなにもしていなかったんですよ。それなのにいくら説明しても、検事も裁判官も聞く耳を持たなかった。冤罪なんです」
「犯罪者ってのはみんなそう言うんだ。自分はなんにもしてないとかなんとか。生まれながらの犯罪者はとくにそうだ。そう言いながら、片方で悪事を楽しんでる」
「わたしはそんなのじゃない」大きくかぶりを振ると、夏崎はリュックに手を突っこんだ。
即座に例の鉈のことが頭に浮かび、つぎの瞬間、白石はリュックに飛びついていた。
「あうっ!」
リュックを奪われまいと草むらを一歩下がった夏崎が、突如、大声をあげた。奥深い森にそれがこだまし、夜鳥の群れが枝という枝から飛び立った。
白石は切れ味の鋭い鉈を入れたリュックを手にしていた。夏崎はそれを奪い返しにはこなかった。路肩から広がる緩斜面にうずくまり、くぐもった悲鳴をあげていた。足首を押さえている。白石はそこを懐中電灯で照らし、愉悦を覚えた。
トラバサミだった。
キンジロウがシカ獲り用に仕掛けたものらしい。夏崎の右足首は人食い鮫の口のようなそれに噛みつかれ、どくどくと出血していた。そればかりでない。足首の形が見事なL字に変形していたのだ。さっき沢で遭遇した熊にも対応できそうな強力タイプの罠だった。
さてどうしたものか。
折れた足首から流れ出る血の量を見つめながら、白石はゆっくりと頭をめぐらせた。
十八
浜野誠とは、渋谷の二四六号線沿いにある古いマンションで会った。
九時半だった。
看板は出ていないが、そこが浜野の事務所だった。新宿中央公園でホームレスにふんした連絡係の捜査官が、サナエからのメッセージを受けて調査を手配し、その結果、「ハマノ」「フィリピン人ダンサー」とのキーワードから警察庁のコンピューターが住所と携帯電話の番号を弾きだした。
人身売買ブローカーのイメージとはほど遠く、浜野はこの時間でもきちんと趣味のいいネクタイをしめ、上着を羽織ってサナエを出迎えた。居室の奥まったところにある部屋に彼女を通し、わざわざ紅茶を入れてくれた。
「こんな上品な美人がやって来るとは思わなかったな。もっと極道らしい派手な女か場末のバーのホステスみたいなやつかと勝手に想像していたんだが」
浜野はデイパックを胸の前で抱えるサナエと向き合う格好でソファに座った。年のころはサナエよりひと回り上だった。中肉中背で、落ち着いた雰囲気は普通の中年サラリーマンと変わりない。
ただ一つ異様だったのは、左の耳がないことだった。なにかの不始末で切り取られたのだろうか。浜野はそれを隠さなかった。それを見せるだけでたいていの相手は言うことを聞く。無言の威圧をしていた。
サナエにはそれが理解できた。前髪の下におなじ役目をになう傷痕を持っていたからだ。だがいまはそれに力を発揮させるときではない。サナエはもっとべつの方法でブローカーに口を割らせるつもりだった。「ヤクザでも水商売でもないわ。ヘロインはビジネスのために売ってるだけ」
「個人営業ってわけじゃあるまい。アラブ人たちと付き合ってるようじゃないか。きみからヘロインを買った連中から聞いたよ」
「仕入れを協力してるだけ。販売組合みたいなものよ」
「おれになんの用がある。そっちがビジネスって言うなら、こっちはもっとまともなビジネスをやってる自信がある。日本で働きたいって娘たちを集めて、あっちこっちの店に送りこむ。あとは彼女たちの自由裁量。店主になにを強要されようが、知ったこっちゃない。その意味じゃ、お天道さまに顔向けのできないことはこれっぽっちもしていない。だがな、ヤクはだめだ。人間を荒廃させる。おれは世界中でそういう連中を何百人も見てきた。絶対にそいつにだけは手は出さない。いくら儲かろうとな」
「五十歩百歩ってところでしょう。だから浜野さん、あなただって、自分のビジネスが脅かされたりしたらイヤでしょう。ムハマドのことは知ってるわよね」
「ムハマド……もしかしてヘロインの密売人のことかな。きみとおなじ“販売組合”の」
「知り合いなの?」
「どうかな。でもどうしてきみにそんなこと、言わなきゃならない」
「サイードよ。あなた、ムハマドからサイードを紹介してもらったでしょう。ヤクはやらないとか言って、こっそりサイードから買いつけようなんて思ってるんじゃないの?」
「ヤクはやらんって言ったろう。サイード……あのインテリぶったアラブ人か。やつとはもっとべつの用があってな」
そこまで言うと浜野は口をつぐみ、探るような目でサナエのようすをうかがってきた。サナエはデイパックから封筒を取りだし、そこから一万円札を何枚か抜きだし、浜野に見せる。
「買収しようったって無理だぜ。この仕事は信義則が第一だ」
「わかってるつもりよ。わたしだって修羅場は何度もくぐってる。あなたもそうでしょう。だったらおたがいに得になることをしたほうがいいわ」
「内輪もめでもしてるのか。勘弁してくれよ。そんなのにかかわりたくはないんだ」
どさりと音がして封筒が浜野の眼前のテーブルに放りだされた。「二百万あるの」
「そいつはすげえな。やっぱりヤクの密売人は金回りがいいんだな」
「どうぞ」
「いいって。おれは買収はされない」そう言いつつも浜野は唾を飲み、ふたたび値踏みするような目でサナエのことを見た。
「足りないなら相談に乗るわ。数えるぐらいしたらどうなの? 偽札かもしれないんだし、それがこの世界の礼儀ってもんでしょう」
「まあそうだな」がまんできなくなって浜野は封筒を手に取り、逆さまにして中身を滑りださせた。
そのときだった。
札束と一緒に封筒のなからマッチ箱のような黒い塊がテーブルに転がり出た。十五センチほどの赤いリード線が札束につながっている。とっさにサナエは、札束を持つ浜野の右手をつかんで動かなくした。
「手を動かさないで」
「な、なんだよ」
「お金はちゃんと二百万円分あるの。でも中がくり抜いてあってね。火薬が詰まってる。その黒い箱は起爆装置。いま封筒から出たときに安全装置が外れたの。十秒後からセンサーが働くように設計されててね。震度一の地震でもドカンといくわよ。でも気にしないで。プロパンガス程度の爆発力だから。あとで妙な詮索をされることもない。まあ、生きてればの話だけどね。もう十秒たったわ」
「ちきしょう……」
「ムハマドとはどういう関係なの?」
「やつとはカジノバーでよく会う仲だ。何度も言うがヤクじゃねえ」紳士然とした余裕の態度が一変し、浜野は額に脂汗をかきだした。
「サイードに会ったのはどうして?」
「ある男を紹介したんだ。ムショで一緒だったんだ」
「刑務所仲間?」そう訊ねつつ、サナエはフィリピン人ブローカーの口からサイードの言っていた銀行員――新たなマネロン先――の身元が明かされることを期待した。だが銀行なら職員の過去の行状に厳しいはずだ。とくに前科などもってのほかだろう。
「そうだ……おい、たのむ、なんとかしてくれ」
「だれなの?」
「夏崎巌って男だ。いまは大田区のアローなんとか産業って町工場の社長だ」
銀行員にたどり着くまでまだ時間がかかりそうだった。サナエは焦りを隠して訊ねた。「刑務所出てから社長になったの?」
「……ヤクで入ってきたんだ。山形刑務所だ。もう二十年も前の話さ。本人は濡れ衣だって言ってた。まともな男だったよ。ヤクの取り引きでへまやらかして、詰め腹切らされたおれとはわけがちがう」
「あら、いやだ。浜野さん、あなた、やっぱりクスリの商売してたんじゃない。でもどうしてその男がサイードと?」
浜野の手は小刻みに震えだし、その振動はいまにもリード線を通ってその先の小さな黒い箱に伝わりそうだった。
「知らねえんだよ。ほんとさ。夏崎の町工場に行ってみろよ。コバヤシって男がいるはずだ。ちんぴらみたいな男だからすぐわかるはずだ」
「コバヤシ?」
「ヤクやってたときに知り合った仲買人さ……たしかコバヤシ・リョウスケとかいうんじゃなかったか。何度かムショに出入りしてて、何年か前にシャバに出たとき、夏崎が自分の工場に誘ったんだ。社会復帰させるとかなんとか言ってた。これ以上の話ならそいつに聞いたらどうだ。スマホに電話番号も登録してある。上着の内ポケットだ……もういいだろ、勘弁してくれ――」
いまにも泣きだしそうな顔の浜野を尻目にサナエはその上着に手を入れ、スマホを取りだした。電話帳を調べると「小林良介」という人物が登録されていた。サナエはそのスマホをポケットにしまってから、浜野が凝視する黒い小箱をつかみ、リード線ごと札束から引き抜いた。
なにも起こらなかった。
「こんな手に引っかかるなんてね。でもお金は取っておいてくれていいわ。くり抜いてなんかいないから安心して。二百万そっくりあなたのものよ」
浜野はソファに倒れこんだ。汗びっしょりだった。
「妙な考え起こさないでね。こんどはほんとに火傷させるから。このスマホはあとで必ず返すから安心して」そう言いきるやいなや、サナエは浜野の首筋に、デイパックから取りだした注射器をすばやく打ちこんだ。
小林良介――。
マンションのエレベーターで、サナエはその名を何度も復唱した。聞き覚えのある名前だった。もうずいぶん前、サナエがいまの仕事に就くより前に出くわした名前のようだった。その男のところへ電話を入れる前に、サナエはまずその記憶をたどらねばならなかった。二十三年前、警視庁の刑事だった父が潜入していた暴力団の構成員名簿には、組長以下、十四人の氏名が記されていた。小林良介はそのうちの一人だったような気がしてならなかった。
十九
村山はついに特殊警棒を振り下ろした。
それも力いっぱい。
クロスのボールペンで応戦するどころでなかった。おれは首をすくめ、両手で脳天を覆ったまま腰を抜かしてしまった。
おれの頭はまたしても割れなかった。言っとくが、いくら金融機関でもエレベーターの防犯カメラは一つきり。そいつはさっき破壊されたばかり――。
ナチスの兵士がかぶっていたヘルメットでさえも一発で粉々になりそうなぐらいの一撃を食らったのは、あろうことか専務の元愛人でいまは照明係を買って出た女の無防備な頭蓋骨だった。床にぺたりと座った格好となったおれの顔に、冷たいものと生温かいものが同時に飛び散り、思わずおれは情けない悲鳴をあげてしまった。
祐子は懐中電灯を落とすだけでなんとか一発目は堪えたが、つづけてくりだされた二発目に大脳の決定的な部分を破壊されたらしい。がくりと前のめりに倒れ、おれに土下座して謝るような格好になってシャネルのトートバッグの上に突っ伏した。体はぴくぴくとけいれんしている。
「このアマ! 死にくされ!」
村山は罵声を浴びせながら警棒を振りつづけた。わずかな米の食いぶちを守るために幼子の口減らしに踏み切る母親のせつなさとはまるでちがう、残忍な殺し方だった。おおむね二十発目をお見舞いするころには、祐子の頭は半分ほどの大きさとなり、床は一面、血の海となった。もう呼吸はしていないからやつが酸素を消費することはありえない。だからもうそろそろやめたらどうなんだ? だがそんな提案ができる状況じゃなかった。
「人の顔を蹴るなんて、どういうことなんだよ!」さっきハイヒールキックを食らったときのことを言っていた。「なんでそんなことが平気でできるんだよ!」
電気が流れすぎた機械のように警棒はくり返し打ちつけられ、いまや頭蓋骨のボウルからマドリッド名物のガスパッチョ並みに液状化した脳みそが、赤く染まった髪を伝ってずるずると床に流出しはじめていた。
村山は警棒を放りだし、壁に背中をあずけて血塗れた床にどさりと腰を下ろした。
「いつかこうしてやろうと思ってたんだ」
エミは恐怖のあまり、キャリーバッグに顔をうずめたまま肩を震わせている。おれはと言えば、いまや鉄籠の王となった警備員さまの前で居住まいをただし、正座までして、鎮まりかけたその怒りを再燃させないよう努めていた。
「前から知ってたんだよ、この女。朝晩、こっちが正面玄関で『おはようございます』『おつかれさまでした』って言ったりすると、たいていの社員さんは三回に一度は会釈ぐらいしてくれるもんさ。だけどこの女は顔一つ上げやしない。ただの一度もだぜ。社員さんにとっちゃ、おれたちは目立っちゃいけない存在なんだろうが、こっちはじっと社員さんのことを観察してるんだ。入館証をちゃんと見せないやつとかのことは、とりわけよく覚えてる。顔も所属も名前もな。就職にあぶれたただのぐうたらじゃないんだぜ。ちゃんと目も耳もついてるんだ。そいつらが獲得した情報によると、この女は札付きの遅刻常習者で、入館証なんてわざとおれたちに見せようとしない。声でもかけようなら、怖い目つきでにらんでそのまま行っちまう」
村山は憑かれたようにしゃべりつづけた。
「問題はそのあとだ。おれたちの何人かが泣かされた。総務部長さんが血相を変えて飛んできて、そこにいた警備員全員を集めてこう言うんだ『入館証の確認は、通行を妨げないようスムーズに』ってな。だけど首から裏返しにさげられた入館証をどうスムーズに調べろって言うんだよ。おっぱいにタッチするぎりぎりのところで、合気道の達人みたいに気を使って入館証を引っくり返せってのか? なあ、どう思う? 笛吹次長さんよ」
いきなり名前を呼ばれ、どきっとした。だがここで駅の便所でフランケンシュタインに遭遇した子どもみたいに口をあんぐりと開けていたら、そこに必殺の警棒が突っこまれるのがおちだ。だからおれはなにか言わなきゃいけないと思って一生懸命、頭をめぐらせた。
気の効いたことなんて出てきやしない。月並みなことしか口にできなかった。でも自分が発したその言葉を耳にしたら、それがなんだかその場にもっとも適した回答に思えたから不思議だ。「だから女ってやつは……」語尾が尻すぼみになったが、趣旨は殺人鬼にも伝わった。
村山はにやりとした。「そうなんだよ。次長さん。でね、じつを言うと、おれはこの女、いや、この“元”女のことをもうすこし知っていてね。池袋の要町に住んでるのさ。なにもストーカーしたわけじゃないぜ。偶然なんだが、おれもおなじ町の住人なんだよ。だから休みの日なんか、たまにディスカウントストアとかスーパーで、ばったり遭遇する。こっちはいつも制服だし、だいいち向こうはこっちの顔なんて見たことないんだから、覚えられちゃいない。だけどさっきも言ったけど、こっちはマンウオッチングが仕事みたいなもんだろ。カジュアルウエアに着替えたって見まちがえようがないのさ。高級バッグがコンビニのビニール袋に変わったっておんなじだぜ。そんなときは、こっちからわざと近づいてやる。挑発するみたいでわくわくするんだ」
警備員はぺらぺらとしゃべりつづけた。
「不思議なもんさ。職場じゃ、社員と派遣の警備員なんて、人と獣みたいな絶対的なちがいがあるように思われてるだろ。だけどゴキブリホイホイとかキャットフードとかプリンターのインクとかを買いこんでるとき、どんなちがいがあるってんだよ? 駅前の百円ショップで、すこしでも格好のいいグラスを見つけようと、並んで品定めしていたとき、おれたち、なんの偶然かナイキのおんなじデザインの白いスニーカー履いてたんだ。あのときは、ちょっとおれのほうがショックで、買おうと思ったグラスを棚に戻してそそくさと帰って来ちまった。なあ、わかるだろ? この気持ち、えらい、えらい次長さんよ」
「不条理だな」
「認めたな、ついに」村山の口元が奇妙にゆがみ、いまにもそこから紫色をした毒の息が吐かれそうだった。「あんたもさっき、おれにさんざんなこと言ってたんだぜ。社員さまだからってよ。だけどあんたの家の下駄箱にだって、ナイキのおんなじデザインの白いスニーカーが放りこんであるかもしれないんだぜ。男どうしだからサイズまで一緒かもしれない。ところがところが、だ。言わなくてもわかってるよな」
おれは生唾を飲みこんだ。いつの間にか村山は取り落としたはずの凶器をふたたび手にしていたのだ。
「言っとくが、おれはあんたの顔もちゃんと覚えていたんだぜ」
おれに対する印象をここで開陳してもらう必要はなかった。どうせ最悪なんだから。それよりもおれは、とにかくやつをなだめる方策を思案した。気絶でもしたのかエミはキャリーバッグから一向に顔をあげようとしない。よほど大事なものが収まっているか、知らぬ間に窒息死したかのどっちかだ。
おれは思いつくままにしゃべりだした。「たぶん社員っていうより、人間としての問題なんだよ。おれは人と競争して、だれかを蹴落とすことでここまで這いあがってきた。だからいつだって他人に対して攻撃的だ。たまにいやになるよ、こういう性格。ほんとだぜ。だからあれこれ文句言ったあとは、人知れず自己嫌悪。部屋に引きこもって、晩飯も食いたくない日だってあるんだぜ」
「いいんだよ、男は」
パンパンに膨れあがったビニール袋からガスが抜けるようにいっぺんに緊張が解けた。だれからも見放された鋼鉄の籠のなかだし、床は一面、血と脳漿の海。そんでもって空気は汚れ、浅くしか息がつけなくなっているというのに、なんだかおれはほっとして、凍てつく真冬に源泉かけ流しの露天風呂につかったような気分になった。
「でも女はだめだ。とくに電車で経済新聞広げてるようなやつを見ると、無性にぶん殴りたくなる」
すげえ差別だぜ、てゆうか、ひがみだぜ、それ。
そんなこと口が裂けたって言えない。おれは頭に浮かんだことを唾液と一緒に飲みくだした。
「なあ、ちょっと見てみようぜ、このバッグ。シャネルだろ。おれだってそれくらい知ってるさ」
そう言うと、村山は祐子のトートバッグをひっくり返し、なかのものを血だらけの床にぶちまけた。化粧品と生理用品が入っているらしいポーチやスマホ、ライターとたばこ、それにコンビニの袋に入ったままのテレビ誌が転がりでた。さらに村山はサイドポケットやジッパーを開き、すべての中身を取りだした。
「見ろよ。やっぱりだ。満員電車で小わきに抱えるのは経済新聞。だけどほんとはこいつがやりたくてやりたくてしかたないんだ」警備員が手にしていたのは、発売されたばかりの携帯ゲーム機だった。「おれはこんなもんぜんぜん興味ないぜ。やるかい、次長さん」
いきなり携帯ゲーム機を投げつけられ、おれはそれを取りそこねた。村山がじっとそれを見ている。たまらずもう一度、唾を飲んだ。金臭い血の香りが喉の奥を刺激したとき、やつの本性がさらに明らかとなった。
やつは頭のつぶれた祐子の体に手を伸ばし、年甲斐もない短いスカートの内側に汚れた指を滑りこませたのだ。
「まだあったかいぜ。いいな、女の体って」この先、この男がなにをしだすか考えると、暗澹たる気分になった。だがなにもできなかった。いま、村山に人の道を諭そうものなら――。「ほんとはおれ、この女のことが好きだったのかもしれない。好きで好きでしょうがなくて、ちょっとでも振り向いてほしかったのかもな。持たざる者のあこがれの対象だったのかな」
村山の手は明らかに祐子の秘部をまさぐっていた。それまでとちがう硫黄とアンモニアの臭いが鼻を突き、おれは手で口元を覆った。
「あんまり美化しないほうがいいと思うがな」C4を詰めたタッパーはエレベーターの隅に鎮座している。そっちも気になったが、いまはとにかくこの男を正気に返らせたかった。「やっぱり木村祐子は会社の寄生虫だよ。額に汗して働いたことなんてないだろう。たぶんきみが自衛隊時代に味わった苦労なんて、これっぽっちもわからずに、ただ隣の席のやつが言うからそれにつられてつい『戦争反対』なんて言っちまう部類だ。見かけだけさ。女なんて、もっといいのがいくらもいる。あわてることなんかないさ」
「ふふ、おっかしいよな」村山はにやついた。まるでおれのズボンのチャックが全開になって、ついでにトランクスの前も開いていて、なかのものがぽろんと顔を出しているとでも言いたげだった。
「なんだよ、おれの言ってることはどこかおかしいか?」毅然とできる気分じゃなかったが、おれは無理に胸を張って、話のわかる大人のふりをしようと努めた。
「おれ、自衛隊になんか入ってねえんだよ」空威張りだったぶん、一気に消沈し、おれはまるでイソギンチャクにでもなったみたいにとことん縮こまった。「ほんとおっかしいぜ。適当に言ってみただけなのによ。おれはたんなるミリタリーおたくなんだよ。それも筋金なんかどこにも入っちゃいねえ。エアガンとかナイフとか、マニアに言わせりゃ、ちょっとかじったことがある程度さ。ちゃんちゃらおかしいったらねえ」
「じゃあ、爆弾のことは――」
「たぶんプラスチック爆弾だってことは当たってるんだろうが、細かいことは知らねえよ。ビル一棟吹き飛ばす破壊力なんてのも、ぜんぶでたらめさ。でもあのとき、おれがそこのタッパーいじって、うまいこと起爆装置かなにか外せたらカッコいいだろ。要はそれだけのことさ。うまくいったかもしれないし、いかなかったかもしれない。でもあのときはとにかく、そう言ってみたかったんだ。それだけさ。ホントそれだけ」
奈落の底に突き落とされたような気分だった。この男が、女のあそことおなじぐらい敏感な雷管に不用意にタッチしていたらどうなったか。想像しただけで恐ろしかったが、それでいておれはあのとき、心の隅っこで一縷の望みをこの男に託していた。
それがただの不毛な願いだとわかった途端、おれのなかで動揺が深まっていった。結局のところただの一歩も前進していない状況に焦燥感が高まる一方で、貴重な酸素を無駄にすべきでないとの冷静な思考も失われず、まるで心が左右に引き裂かれたかのようだった。
こんな落ち着かない気分はひさしぶりだった。
つまり前にも一度、似たような気分を味わったことがある。しかし大昔の記憶が突如よみがえってしばし言葉を失うかのように、なんだか打ちのめされたようなぼうっとした感覚がつづいただけで、すぐにはそれがなんだったか思いだせなかった。
それはたぶんずっと前、おれがずいぶんと若い時分の話だ。この会社に入って何年かして、あっちこっちで悪いことを覚え始めたころ、きっとそのころだ。そう言えば、あのころなんて毎日がスリル満点のジェットコースターみたいだったじゃないか。口八丁手八丁でしたい放題やってきた。
そうだ。
どこかに夜中、侵入した。
そう、窓を破って忍びこみ、そこにあった大きな机のひきだしに、おれはそっと置いてきたのだ。
取り返しのつかぬなにかを――。
二十
声にならぬ声でうめきつづける夏崎を、白石は自家発電の水銀灯の明かりのなか、じっと見つめた。
「た……たすけ……て……」
ネズミ捕り程度ならいざ知らず、トラバサミのバネは、育ちすぎたミミズほどの太さがあり、威力はすさまじかった。たぶん野ウサギの足ならちょん切れてただろうし、誤って頭を挟もうものならトマトみたいに一撃でぐちゃっといってただろう。五十八歳になる町工場の社長の右足はそれに見事に噛みつかれ、皮膚は裂け、肉をつぶし、骨まで砕かれていた。
「こりゃ、ひどいな。折れてるよ。たぶん複雑骨折だ」それが自分の声だとの自覚がなかった。なんだか体の内に長いこと潜んでいたサディズムのような感覚がふっと表にあらわれたかのようだった。
立ちあがることも四つん這いになることもできずに、真っ青な顔でただ苦痛に耐えるだけの男を見下ろしながら白石は首をかしげた。
「そんなんじゃ歩けまい。どうだ、おれが町まで行って医者を連れてこようか? 肩を貸すなんて、おれのいまの体力じゃちょっと無理だしな」
夏崎は声すら出せず、額から脂汗を流しながら罠と格闘していた。
たとえ舗装が途切れていても、この道を下れば町に出られる。白石は時計を見た。もう十時を過ぎていた。タクシーを使ったら東京までいくらかかるだろう。話のわかる運転手ならメーターも深夜料金も度外視で交渉の余地もあろう。痛い出費だが、こうなったら不慮の事故と思って腹をくくるしかない。そう思ったらなんだか吹っ切れたような気分になった。それになにより、下請け工場の社長相手のじりじりした争いの形勢逆転が明確になったことで、白石のなかに大きな安堵が生まれていた。同時に自分でも驚くほどの黒々とした思考が頭のなかでめぐりだしていた。
夏崎は白石のほうを見あげ、血のついた片手を突きだしてきた。その目の奥に白石は弱々しい青い炎のようなものを見た。消え入る寸前だ。
「おれにできるかな。ホワイトカラーだから腕力はないし、手の皮も薄い。そんな恐ろしいものに触ったら、たちまち指を切るのが落ちだとも思うが。それにもしそいつを外した途端、後悔するようなことだって起きないともかぎらない。動脈か静脈かわからないが、そのトラバサミの歯が取り急ぎ止血帯がわりになってるかもしれないんだぜ。だからやりようによっちゃ、出血がひどくなるってこともある。ここは慎重に考えないとな。やっぱり医者を呼んでくるほうがいいんじゃないか。そいつをそのままにして――」
「は……はず……して……」
喉の奥から絞りだされた声に驚いたのか、杉林からまたしても黒い影がばさばさと飛び立った。それがコンドルとかハゲワシでないことを夏崎は必死に祈ってることだろう。ますます白石は愉快になった。
白石はトラバサミの前にしゃがんだ。
「どうなっても知らないからな」
血まみれの金属歯に片足をかけ、両手で引っ張ってもびくともしない。かえってとがった歯が夏崎の肉をぐりぐりと苛むだけのようで、夏崎はリングで四の字固めを食らったレスラーさながらに、湿った地面を何度も叩いてのたうちまわった。やむなく白石はあたりを探し、近くの木から直径四、五センチの手ごろな枝を二本折り取り、それをトラバサミの口に無理やり押しこんで、てこの原理を応用して左右に開いてみた。すると足首の肉に食いこんでいた歯がゆるみ、足が抜けるだけの隙間が生まれた。
「ほら……抜けよ、足……」
言われなくとも夏崎は罠から足を引き抜こうと必死の形相をしていたが、神経がぶつ切れになったのか、ひざから下が言うことを聞かないようで難渋していた。だから白石のほうで木の枝の先で口を広げる罠の位置を微妙に動かし、夏崎の足を解放してやった。
夏崎は肩で猛然と息をしていた。白石は傷ついた部分に懐中電灯を照らした。
「出血もひどいが、骨のほう、なんとかせにゃならんな」
L字形になった足首を見るかぎり、トラバサミの一撃によって骨が粉砕されているのは明らかだった。複雑骨折だ。テレビで見たことのある荒療治がどうやら不可欠なようだった。もちろんそんなの初めてだ。
「引っ張って元に戻さないことにはな。痛いかもしれんが、ほっとくわけにいかない。まっすぐになったら、この枝をあてて添え木にしよう。いいか――」
返事をするかわりに夏崎は目をつむったまま何度もうなずいた。白石は夏崎と向き合って座り、変形したほうの足のかかとを両手でつかみ、右足を伸ばして夏崎の股間に固定した。
「金玉潰さないようにしないとな」
せめてものジョークのつもりだったが、その直後に森にこだましたのは、元クラスメートの絶叫だった。白石のほうは、折れた骨と骨の端をうまい位置に合わせるのに必死で、耳を覆うことも不平を言うこともできなかった。
やっとこL字が解消されたとき、夏崎は昏倒して地面に仰向けに倒れていた。白石は患部を自分のタオルでぐるぐる巻きにし、そこに二本の木の枝を左右からはさむ格好であてがうと、リュックの外側にぶら下がっていた二本のバンドを上下に巻きつけて固定した。
五分ほどして夏崎が痛みの世界に戻ってきた。白石は言ってやった。「初めてだったけど、われながらうまくいったと思うよ。すこしはましになったろ」
「す……すみませ……ん」
「見ればわかるが、ずいぶんと出血してるし、腫れもひどい。歩けるかな」
「やって……みます」
白石は立ちあがろうとする旧友に肩を貸した。
「うぅっ……」
「そうだ。こいつを杖にしろよ」
白石は木の枝をもう一本、折って手渡した。夏崎はそれを使ってかろうじて一人で立つことができた。白石は自分のかばんと夏崎のリュックを持って、黙って歩きだした。アスファルトの切れた道路を山形方面へ。
「痛み止め……ください。リュックに……入ってる」うしろで夏崎が求めてきた。
白石は無視した。
受刑者たちが作ったという道路に連れて来られるまでに味わったものが、頭から離れなかった。
「おねがい……します」
「ああいう薬は眠くなる。そうなったら歩けないだろう。悪いが、おれはどうしても今夜のうちに東京に帰りたいんだ。それにおまえだって、できるだけ早く医者に診てもらったほうがいい。眠気は禁物だと思うがな」
それにもう一つ理由がある。
痛みは飼い犬を従順にする。
人間だっておなじだろう。しだいに狭くなる山道を進みながら、白石はほくそ笑んだ。