プロローグ~四

文字数 20,308文字

 プロローグ 1992年 夏
 「おねえちゃん、真っ暗だよ!」
 「しっ! 聞こえちゃうよ。だいじょうぶ、怖くないから。狭いけどこのひきだしのなかにいれば見つからないよ。あとでおねえちゃんが助けに来てあげるから」
 「ほんと? 悪い人たちにさらわれない? 悪い人は子グマを捕まえて食べちゃうんでしょ」
 「だいじょうぶ。じっとしていれば見つからないからね。おねえちゃんがかならず迎えに来てあげるからね……」

 一
 いたずらにもほどがある。
 役員会の途中で抜けだして飛びこんだトイレが満杯だったときでも、これほどいらだつことはあるまい。ヨガでも習ってたら、この場にばっちりの呼吸法でも始めるところだったが、あいにくおれにはそんな趣味も余裕もない。ただ、大手町にある帝都大洋銀行本社ビルの四十三階から降下中に急停止したエレベーターのなかで、やけに重たい銀行の紙袋を抱えたまま、ケツの穴をきゅっとしめるのがせいぜいだった。
 「なにこれ」
 三人の同乗者のなかで、まっさきに口を開いたのは木村祐子だった。四十を過ぎてもミニしか穿いてこない人事部の女狐だ。秘書部時代、ただでさえ高血圧を患う専務を徹底的に苦しめたその脚は、いまも面影を残している。でもおれはまったく興味がなかった。この女のことなら、おれにも多少なりとも知識がある。うちの銀行でも一、二を争う計算高さだ。だいたい秘書をクビになってから、人事部に潜りこめたのもカモシカのようなその脚のおかげだ。経営企画室にも色気を見せていたが、次長であるこのおれが四年前に断った。若いころ、おれをコケにするような目で眺めていた罰だ。
 「地震かしら」
 「エレベーターにいると、揺れたのがわからないんですよね」乗り合わせた図体の大きい警備員が祐子の独り言にこたえる。たぶんこの男が祐子に声をかけるのはこれが初めてだし、その後は未来永劫、その機会はないだろう。祐子は上は見るが、下は絶対に見ない。いまの祐子には、この愚鈍そうな男のことなど視界に入っていないだろう。たとえ二メートル四方の鋼鉄の箱にいっしょに押しこまれていたとしても。「地震波感知器が作動したのかな。そのうち動きだしますよ」
 所詮は育ちすぎただけの警備員だ。短い研修期間中に教えられたことしか言えないし、自分で口にしたことについての責任なんてありゃしない。三分たってもエレベーターは動きださなかった。
 「防災センターと連絡取れるんでしょうね」
 祐子の厳しい口調に警備員――名札には村山正博とある。就職活動でいかにも敬遠されそうな平凡な名前だ。そのせいで派遣会社なんかに転がりこんだのかもしれない――をあわてさせた。ふだんしいたげられているから、せめて制服を着ている間は従業員に指示を出す側に立ちたい。それが警備員なんかになる連中の本音だ。だから勤務中に従業員から歯向かわれるほど、腹がたち、動転し、めまいを覚えることはないのだ。
 「もしもし、もしもし」緑色の通話ボタンをいくら押したところで、鋼のパネルに埋めこまれたスピーカーはうんともすんともいわない。ジーという通電音すらしなかった。
 「緊急停止のときって、最寄りの階で扉が開くんじゃなかったでしたっけ?」
 悪運四人組の一人、たぶん窓口係らしい制服を着た若い女――こっちの名札は小黒エミ――が口を開いた。おなじ高卒でも、村山くんより偏差値は高そうだった。たぶん職場結婚目当ての腰掛け女だろう。それに失敗すると、あとは祐子のように脚を武器に男たちの間を行ったり来たりしないといけなくなる。でもこの女は、器量はそこそこだが、祐子ほどのスタイルも、妖艶さも持ち合わせていない。だいいち、なんの資料を入れてるんだかわからないが、目黒の不動前あたりのスーパーにやって来るばあさんが引っ張ってるようなダサいキャリーバッグを忠犬のようしたがえている。この手の女は縁故採用と相場が決まっている。
 「避難訓練のとき、実演してましたよ」
 しびれることを言う。避難訓練か。ヘルメットかぶって、みんなで階段をぞろぞろ。おれはそんなのただの一度も参加したことがないから、どんなものだかよくわからない。
 「そうなんですよ。だからたぶん、いまもどこかのフロアで停止しているんだと思います。開くはずなんだけどな」村山はおれより頭一つぶん大きい体を扉の前に押しつけ、両手の指をその間に突っこもうとした。だが扉はびくともしないどころか、ご太い指が滑りこむ隙間すらできない。「もしもし、もしもし」いきりたちながら村山は緑色のボタンをたたきつづけた。「点検でもやってるのかな」
 八月二日金曜の午後四時半。
 あと一時間もしないうちに、定時退社の行員たちが、欲まみれのこのビルから脱出しようと先を争って押し寄せてくるというのに、生命線であるエレベーターの保守作業だと? そんなことを思いつく村山の知能レベルには拍手を送りたかった。こんな連中がうちの会社の警備をしていると思うと情けなくなる。総務部には早めに忠告しておいたほうがいい。
 「ちょっと貸してくれる」
 祐子に言われると、村山は巣穴にもどる山椒魚のようにのそのそと操作パネルの前からどいた。そこに祐子がおさまり、さっきよりも激しくボタンをたたき、マイクに向かって吠えだした。狭い箱のなかで空気が乱れ、汗と入り混じった女の匂いが小鼻をくすぐる。たまらずおれはつぶやいた。
 「そのうち動くって。あわてることはないさ」もちろんそれは、真っ赤な炎を噴きあげるおれの内心に向かって放った言葉だった。手にずしりとくる紙袋を、おれは腹の前で怖々と抱えなおした。
 駐車場は地下二階。
 一刻も早くそこにたどり着かねばならないのだ。

 「ポルチーニのパスタならトリュフかけてもらいましょうよ、笛吹さん」
 趣味の悪い真っ赤なネクタイを締めたじいさんだった。頭のてっぺんにわずかに残った白い髪は、そよ風が吹いただけで北斎の富嶽三十六景に描かれた波しぶきのようになること請け合いだ。それにしても初対面の人間からこんなことを言われると、妙な気持ちになる。白金のフレンチの店だった。ちょっと前まで鳴り響いていたおれの胃袋は、いまや声をひそめるどころか、この手の店でチーズと一緒に出てくる乾燥イチジクぐらいに縮こまっていた。
 「ワインはシャルドネ、ボトルで取りましょうや。喉が渇いていけない」
 マフィアの仲間には見えなかった。このやせぎすのじいさんがお似合いなのは、荒川あたりの路地裏の縁台か廃校寸前の小学校の事務室だ。
 「そうもいかなくてね。会議が詰まってる。おれがいないと始まらないんだ。抜けだしてくるのもひと苦労だったんだ」
 「そんなこと言わないでくださいよ。さみしいじゃないですか。初対面なんだし」
 「初対面だからあまり長居はしたくないんだよ」
 「お気持ちはわかりますよ。ただね、今回は笛吹さんのほうから――」
 「すまん。相談したいことがあって」
 「そのことなら、もううかがってます。お安い御用ですよ。あなたは依頼人にとって貴重な方だ。そっぽ向かれたら困りますからね」
 「そっぽ向いたらどうなる?」
 そんなことを聞くなんて、おれはあのとき、ほんとにどうかしていた。
 「あなたはそんなことはしない。心の広い方だ」
 タイミングよくウエイターが食前のシャンパンを持ってきた。おれは自分に折り合いをつけ、とにかく目の前の障害を取り除いてくれるよう、初対面でいまだ名乗りもしないこの老人に頼んだ。
 「これをお持ち帰りください。いまから使い方を説明します」
 妙なもので、話を聞き終えたときには、おれもなんとなくうまく事が運びそうな気になっていた。トリュフのかけ過ぎで真っ黒になったパスタも黄金色に輝くカリフォルニアのシャルドネも、じつにうまく感じられたのだから。
 「電源を入れてメールアドレスを確かめてから、ダッシュボードに放りこめばいい。簡単でしょ。あとは好きなときにそのアドレスにメールを送ればいい」
 「それだけでいいんだな」
 「事前の準備があります。スマホですから使わないときはスリープ状態になっている。使うときは当然パスワードが必要です。それをあとでお教えします」
 「念入りだな」
 「駅のホームとかに非常ベルってあるでしょう。あなたの会社にだってありますよね。ああいうのって、つい押したくなる。じっと見つめていると、衝動が怖いくらい高まってくる。それが人間心理ってもんですわ。ところがそれをやっちまうと、たいていは後悔する。駅のホームなら駅員か、運が悪けりゃ、お巡りさんが飛んでくる。まぁ、親心みたいなもんと思ってください」
 「で、そのパスワードはいつ教えてもらえるのかな?」
 「あわてなさるな。でもご心配なら、ダッシュボードに放るところまで引き受けますよ」
 「それは自分でやる。それにうちは金融機関だ。ふつうの会社よりガードが厳重だ。駐車場だって防犯カメラだらけなんだ」
 「そんなにカメラがあって、車には近づけるんですか?」
 「うちの部でいつも使ってる車だ。黒塗りだが、社員が運転することになっている。前はおれもよく運転したよ。専務とか乗せて」
 「ダッシュボードはあまり開けませんよね」
 「そこまで錠はかかってないさ。車内でごそごそやるのはものの十秒もかからんはずだ」
 「なるほど、じゃあ心配ない。あなたならきっとうまくいく」

 じいさんのその言葉におれは安心し、結局、べつの白ワインをもう一本をあけ、デザートまでたらふく楽しんだ。でもあとの会議では神妙な顔で通した。担当している勘定系バックアップシステムに強烈なウイルスが混入していることがわかり、業者を選定したこのおれが吊るしあげを食いそうだったからだ。結局、そうはならずにすみ、おれはせいせいした気分で役員会議室をあとにできた。格安のコンピューターシステム会社が少々わけありで、そこの役員の一人は元暴力団の組長だったなんてことを追及してくる輩はいなかった。
 だが二日後にXデーの朝がやって来てもなお、おれはスマホのパスワードを教えてもらえなかった。これにはおれも閉口した。じりじりと半日がすぎ、結局、それを伝える電話が夕方の四時過ぎになってかかってきた。決行時間ぎりぎりだった。
 ふゅー、あんまりじらさないでくれよ――。
 文句を言ってるひまはなかった。そこでこのおれ、笛吹勝二はそのまま四十三階のトイレに駆けこむなり、渡されたスマホに電源を入れた。ところがパスワードを打ちこもうにも、指が震えて何度もまちがえる。四回目の挑戦でようやくボタン操作が可能になった。おれは念願の起爆用のメールアドレスと対面し、満を持してエレベーターに乗りこんだ。
 それなのに無情にも鉄の籠は途中で停止し、以来、なにも進まぬまま二十分がすぎている。
 「スマホも圏外じゃない。蒸し暑いし、もう……」祐子は地団太を踏むようにハイヒールの踵を何度も床に打ち鳴らした。
 「エアコンがとまってる」
 村山の言葉が祐子の神経を逆なでした。社員が快適に過ごせるよう設備の安全性を保つのが警備員の仕事ではなかったか? お局OLご自慢の脚の先から頭のてっぺんまで、アドレナリンが逆流するのが見て取れるようだった。「なんとかできないの?」
 「す、すいません」村山にはなすすべがなかった。まるで錠でもかけられたかのように扉は閉ざされたままだった。
 「エアコンがとまったって……停電なのかしら」エミのほうが、まだ祐子より落ち着いていた。だが童顔を覆い隠そうと塗りたくった化粧には、汗がじっとり浮かんでいた。きょうの最高気温は三十四度とか言っていた。そんな真夏に鋼鉄製の籠に押しこめられて、まもなく三十分。息を吐くのが、しだいにためらわれてきた。昼に食ったざるそばのつゆにねぎを入れなかったのが幸いだった。
 「明かりはついてるぞ」思わずおれが口にしたときだった。電動籠の神さまがまたしてもいたずらをした。
 「キャッ!」
 闇が落ちてきた瞬間、祐子とエミが同時に悲鳴をあげた。そればかりか村山も泣きそうな声を短くあげた。自慢じゃないが、ただ一人、おれだけが冷静を保っているかのようによそおえた。
 だが内心は、油をひいた中華鍋で飛び跳ねるアスパラガスのようだった。たとえ電波の受信状況が悪いとはいえ、エレベーターを覆う暗闇のなかでこっそり紙袋に手を入れ、万が一にそなえてスマホをオフにするのが、この場合、理にかなっているとも言えた。しかしいまのおれにはその選択肢はなかった。
 起爆信号を受信するスマホに一度、電源を入れたら、もう落とせない。それこそが、最後まで名乗らなかった老人から渡された高性能プラスチック爆弾の構造だった。

 二
 アロー・コネクタ産業の車で、外壁のあちこちに錆の浮いたクラブハウスをあとにしたとき、白石巳喜男はもうくたくただった。林間コースに足をやられたせいもあるが、なにより山形は初めての土地だった。総合商社・東洋開発のジャカルタ支店にいたころ、ジャワ島の田舎に何度か足を運んだことがある。そのうちのどこかの村と、どことなくたたずまいの似た一面の水田と緑濃い山々、それに空気のなかに漂う物寂しさは、懐かしさよりも苦々しさを白石の胸にわきあがらせた。
 あれが商社マンとしての自分の頂点だったのか。
 まもなく五十九歳を迎えるいま、そんなことがいやでも胸をよぎる。関連会社に出て副社長に収まった。だが役員といっても、傍流の会社だからあまり旨味はない。あと一年ちょっとで定年だ。同期の連中は本社で執行役員や本部長として活躍している。それを考えると穏やかでいられない。一度は出世コースのどまんなかにいた。それがかえって白石の自尊心を傷つける元凶となっている。
 だが企業戦士とは不思議な生きものだ。心の半分であきらめていても、残り半分は川のよどみでみっともないくらいあがきつづける。この年になってもだ。だからこそこんな寂れた田舎からは一刻も早く脱出せねばならなかった。
 「思ったより時間かかっちまいまして」ハンドルを握る白髪頭の男が肩をすぼめ、ぺこりと頭を下げた。「急ぎますから」
 「いいって。まだ間に合うだろう」
 「ほんと、すんません」恐縮しているようでいて、どうせ腹のなかではなんとも思ってないのだろう。見た目は白石のほうが若々しかったが、アロー・コネクタ産業の社長、夏崎巌と白石は同い年だった。「このまま県道に出たら、天童駅まで三十分もかからないですから」
 情報通信産業が全盛期のいま、通信回線、とくに光回線の敷設は国家的課題として位置づけられていた。このためかつては電力会社が中心となって事業が展開されてきたが、いまでは総合商社が牛耳るようになっている。東洋開発でいえば、二十一世紀になって設立された東洋ファイバーが回線敷設事業を行っており、白石は一昨年からそこの副社長を任されていた。
 東洋ファイバーは、技術開発から光ファイバーの製造まで実際に行っているが、細かな部品となると、当然ながら系列の下請け企業が扱っている。その一つが、大田区のガス橋近くにあるアロー・コネクタ産業で、主にLANケーブルを接続するさいのコネクタを製造していた。
 前夜、白石は天童の温泉ホテルに宿泊した。隣接する河北町という小さな町がIT系の工業団地を作り、そこへアロー社が新工場を開いていた。白石はその視察にぜひと夏崎から請われ、あご足つきでやって来たのだ。工場は建物が新しいほかは、ほかのどの下請けとも変わりなかった。外国人が黙々と働き、日本人労働者のほうは、どこかうらぶれて見えた。
 正直言って、白石は下請けの社長にしつこく誘われて出張した自分に幻滅していた。こういう人のよすぎるところが、出世レースでの致命傷となったことは、多くの先輩や後輩たちから幾度となく指摘されていた。ただ今回ばかりは、ちょっと事情がちがう。夏崎はただの下請けの男ではなかった。だからきょうは朝から河北町の林間コースで接待ゴルフにも付き合ってやった。
 「あの柴田さんって工場長だけどさ」傾きかけた夕陽をぼんやりと見つめ、白石は話題を変えた。「なかなか達者だけど、いくつなの?」
 「三十八です」
 「若いのにやるね」
 「地元で採用したんですよ。前は自動車部品メーカーの営業マンだったって言ってました。如才ない男でしょう」高らかに言うと、夏崎は勝手に大声で笑いだした。
 「そうじゃないよ。ゴルフだよ。ほんとはもっといいスコア出せたはずなのに、うまいことセーブしてくれた」
 「え、そうでしたか? ぜんぜん気が付かなかったな。わたしも一緒に回るのは初めてでしたから」
 「シホさんは彼が呼んだの?」
 従業員がよく顔を出すというスナックのママもゴルフに参加した。大阪出身の割には口数がすくなく、控えめな女性だった。どちらかというと、白石の好みだった。
 「そうです。柴田と懇意でして。なかなかいい女でしょう」
 「新工場もすばらしかった」
 「ありがとうございます。喜んでいただけて光栄です、副社長」
 「よせって、その呼び方」
 「へへ、すんません。でもあれがうちの地方工場の第一号でして、わたしもうれしいんですよ。お客さまをお招きするというんで、従業員一同、かなり緊張していて、ほんとならもっとにぎやかなところをお見せできたんですけど――」
 「雰囲気がいいのはわかったよ。ゴルフも楽しかった」
 「ありがとうございます、副社長……いや、白石さん」
 「このへんはいいよな、手つかずの自然が残ってる」
 「それをこれから満喫するんですよ」夏崎は後部座席に親指を向けた。小ぶりのリュックが一つ転がっている。夏崎はあすの早朝から月山に登ると意気込んでいた。たった一日だけの夏休みだという。
 「よく行くのか? 山は」
 「夏はたいてい一度はどこかに登ってます。もう何年になるかな」
 白石は山はやらない。神奈川県出身なので、子どものころ箱根や大山に登った程度だった。
 「夏休みはどうされるんで?」
 「家でごろごろしてるだけさ。ただ最近は、古本屋めぐりがなんとなく趣味になってな。神保町とか女房と行ったりする」
 「いいですね、古いものは」
 「結局はごみになるだけだよ。ガラクタ本さ」
 「ガラクタ集めならわたしもずっと前に凝ったことがあります。本じゃないですけど。アンティークです。ひまを見つけちゃ、あっちこっちに旅して集めたものです。スイスにも行ったくらいです」
 「スイスか。時計だろ」
 「はい。老舗レストランの置時計を買い取ったりしていました。でも最後はみんな手放してしまいましたが」
 「うらやましいな」
 「懐かしいですよ。いまじゃかえって忙しくて。不思議ですよ。若いころのほうがひまがあったなんて」
 「年取ってから忙しいほうが幸せだよ。おれは逆だ。若いころは忙しくてまとまった休みも取れなかったんだがな、出向してからは海外旅行にも行けるようになった。ハワイ程度だけどな」
 「いいじゃないですか。わたしも行きたいなぁ、ハワイ。老人にはあったかいところのほうがいい。それに山もいいけど、やっぱり海ですよね。覚えてますか? 中三の夏休み、ちょうどこの時期じゃなかったかな」
 「中三の夏休み……極楽寺の話か」
 「そうです。いまもわたしのなかで最高の夏だった」
 ラウンド後の心地よい疲労感のなか、突如、白石は四十年以上昔に引き戻された。穏やかな鎌倉の海を眺める小高い山の斜面に建つ家を飛び出すと、五分もしないうちに鎌倉市立極楽寺中学校の裏門にたどり着けた。
 「夏の海に夕陽があたると、ちょうどこんな感じにきらめいて見えましたよね」
 夏崎の視線の先にあったのは、道に沿って流れる川の水面だった。
 「ああ、そうだったかな」
 「九月の文化祭で使う大看板、みんなで描いてましたよね。海を見ながら。そうだ、あれはたしか東海大相模が甲子園で初優勝した年だったんだ。昭和四十五年ですよ。決勝戦中継が始まると、仕事そっちのけで学校のテレビにかじりついてた」
 その言葉に白石の意識は、たちまち相模湾を見下ろす美術部の薄暗い部室へと引き戻された。それはこの何十年もの間、記憶のひだにも触れることのなかった思い出だった。
 「東海大相模か。学校で見たんだっけか。もう忘れちまったなぁ」
 「視聴覚教室を開けてもらって、文化祭の準備で来てる連中がみんなで集まって見たじゃありませんか」
 「文化祭か……あまり覚えてないな」
 「たしか愛とか勇気とかがテーマだった。それを海にからめて絵にしていった」
 「そうだったかな。でも夏崎、おまえ、たしかに絵がうまかったよな」
 「好きでしたから。画家になるのが夢だった」夏崎はハンドルを握りながらうっとりとするような目をしていた。
 「思いだしたよ。たしか、おまえ、ダリみたいな絵を描いてたんじゃなかったか」
 「まねっこですよ。文化祭の大看板も似たようなタッチにした。明るくてさわやかなテーマなのに、構図自体は歪んでいた」
 「そうか。中三のこの時期だったか。懐かしいな」
 白石にはその絵を描いた覚えがない。好きで入った美術部だったが、絵の才能がないことがわかるまでそれほど時間はかからなかった。あとは仲間とつるんで無駄な時間ばかり過ごしていた。だが夏崎はちがった。毎日、毎日、洗いざらしの白シャツに絵の具を飛び散らせ、黙々と文化祭で使う大看板に向かっていた。
 「一人で勝手に描かせてもらってましたけど、楽しかったなあ、とっても。絵ができるのをみんなが待ってるのがわかるんですよ。家に帰ったあとも、ずっと興奮していて。早く学校に行きたくてうずうずして夜も眠れなかった」
 「いい思い出だな。おれにはなんにもない。遊んでばっかりだったから」
 「まともな絵を描いたのはあれが最後でした。燃えつきちまった」
 県道に出るまでの接続道路は、どこまでもうねうねとつづいた。まるで緑の巨人の腸のなかを下っている感じだった。画家というより、食堂の親父といったほうが似合っている小太りの男は、自らたぐり寄せた記憶に息苦しくなったのか、マニュアルシフトの営業車は、いまにもエンストを起こすくらいにまで減速していた。だが時間ならまだある。懐かしさもあり、白石は昔話に付き合ってやった。
 「高校は美術部じゃなかったのか」
 「絵はやめたんですよ。食っていけないでしょ。親父は乾電池工場のフォークリフト係、母親は専業主婦。時代も時代だったから、絵なんかより簿記のほうがよっぽど役に立った。高校卒業して就職したのはちっぽけな貿易会社でした」
 「たいへんだったんだな。おれはそのころ、平凡な大学生さ」
 「勉強もされたんでしょう?」
 「多少はな。下宿は本だらけだった。でもなんの役にも立たなかった」
 「そんなことないですよ。学があれば、足りない部分をカバーできるし、人の心をつなぎとめられる……女房がぼくに愛想をつかしたのだって、結局はそのへんのところに原因があるんです。やりきれないったらない。この年になってそんなこと考えると」
 「よせって。いま立派にやってるじゃないか」
 つまりこの男はいまは独り者ということだろうか。下請け会社の社長の身上調査など、いちいちやってないし、気にもとめなかった。いずれにしろ白石は無関心だった。天童から東京まで三時間はかかる。帰りはグリーン車でビールでもひっかけて、ぐっすり休んでいこう。あすはひさしぶりに親会社に乗りこむ。頼みの綱は、会議の仕切り役である専務だ。あの男の眼鏡にかなうよう振る舞わないと。
 「そのあと女房が飛びついた男はやっぱり高学歴だった。ぼくもバカだからいちいち調べたりして。知らなきゃいいこともあるっていうのに」
 「男を見る目のある女なんていないよ。おれだって何度か痛い目に遭ってる」
 「家族持ちに飛びついたんですよ」
 たまらず眉をひそめたとき、タイミングよく話をそらすにふさわしいものが眼前にあらわれた。「おい、なんだよ、あれ」
 白石が気づくよりも先に夏崎がブレーキに足をかけていた。営業車はあやうく「迂回」と書かれた大きな看板にぶつかるところだった。夏崎は日焼けした額に手をあて、苦しげにうなった。この先で排水管工事が行われており、五時までは迂回路を通らねばならなかった。四時四十分だった。
 「朝は工事なんてしていなかったのに。いつ始まったんだろう」夏崎は苦りきった。
 「待つのもばかばかしいだろう」
 「おっしゃるとおりです。二十分待ったら、新幹線に間に合うかどうか微妙だな」
 「だったら行こう。迂回ったって、ちょっとだろう。地酒の一本も買う時間があったほうがいい」
 「林道ですから、道が悪いですよ」
 「ほかにないんだ。行けよ」
 「了解!」夏崎はいったん車をバックさせ、左手からのびる薄暗い林道へフロントグリルを向けた。
 「なんだかジャングルみたいだな」
 「ぼくもよくわからないですけど、このへんはみんなこんな感じじゃないですかね」
 車一台しか通れぬ林道には、上からも足元からも木の枝や下草が迫っていた。夏崎の言うとおり、始終、尻の下から硬いものが突きあげてくる。たとえ家で乗ってるベンツでも、こればかりはどうにもならないだろう。それだけで白石は東京が恋しくなった。山よりも海。昔からそう感じていたのは、なにも湘南で育ったからというわけではない。白石は山間地特有のこの閉塞感が嫌いだった。わざわざ山登りに出かける人間とは、決して相容れないだろう。
 うねうねと続く道をしばらく進んだころ、車が停まった。
 「おかしいな」夏崎がつぶやいた。
 「なんだよ」
 「迂回路にしちゃ、長いでしょ」
 夏崎は車を降り、一人で前方に走っていった。その先で道は右に曲がっていた。旧友の姿が見えなくなると、かすかな不安が白石のなかにあらわれた。たまらず白石は振り返った。
 いつしかアスファルトが途切れている。本物の林道だった。首筋がかっと熱くなり、頬を這いのぼってきた。
 「ちょっと戻りましょう。たぶん曲がるところがあったんです。この先はどんどん山に入っていくばかりだ。看板でも出しといてくれりゃいいのに」憤然として運転席に戻ると夏崎はアクセルを吹かして車をバックさせた。
 「あそこで待ってりゃよかったかな。おれが無理させたから」
 「すんません。でもだいじょうぶでしょう」
 ところが言葉とは逆に十秒もしないうちに車がふたたび停まり、夏崎がふたたび運転席から飛びだしてこんどは後方に回った。それにつられて白石も振り返った。
 「うそだろ!」
 夏崎は後輪のところでしゃがんでいた。あわてて白石も外に出た。
 「どうした?」
 夏崎はじっとタイヤを見つめ、そこに指先をはわせていた。白石は血の気が失せるのを感じた。タイヤがぺしゃんこになっていた。
 「いつやったんだろう。変な感じはしなかったのに……古釘でも踏んだのかな」
 「どうすんだよ」白石には時間がなかった。すくなくともこんな人里離れた山奥で立ちつくしている時間はない。「走れないのか」無理とわかっていたが、聞かないわけにいかなかった。
 「これじゃ、ちょっと……」夏崎は迷いを振り切るように立ちあがった。「急いでスペア履かせますから」
 「落ち着け。一本逃がしたって、まだ次がある」
 「いえ、間に合わせます」
 「おれも手伝う」
 だがトランクを開けた夏崎が放った言葉が、泣く泣く頭を切り替えたばかりの白石を青ざめさせた。
 「ない!」
 たまらず白石はトランクをのぞきこんだ。アロー・コネクタ産業の社名を印字した段ボール箱をどかして夏崎がめくった中敷の下には、普通の車なら必ず入っているはずのスペアタイヤが見あたらなかった。

 三
 「マン アジラ ナディマ」
 流暢にあやつっていたアラビア語の最後にサナエが付け加えた言葉に、ムハマドとザゴラがうなずいた。それを確かめ、サナエは長時間におよぶ拷問でぐったりとした若い男の首にあてたナイフに力をこめた。
 急いては事を仕損じる(ルビ、マン アジラ ナディマ)。
 それは、潜入がばれた若い刑事を嘲る同志たちとは趣の異なる、深い失望に満ちたサナエの本心だった。
 ほとばしる鮮血をよけ、血が滴らないようブルーシートで体をくるんでいく。
 イラク北部ではきょうも米軍が無人機による空爆を行った。そこから八千キロ以上離れた新宿・歌舞伎町にある空きビルの地下だった。
 ブルーシートごと巨大な焼却炉に放りこみ、灯油をまいて火を放つ。やつらのいつものやり方だった。若い刑事よりずっと深く潜っているサナエは、事態に気づいた一時間ほど前、焼却炉に工作をほどこしておいた。直径六十センチほどの円柱形の煙突を分解して、途中にある金網を外し、さらにそれが伸びた先にある鉄柵のねじを外しておいた。そこから先、あとは自力で屋外に出られるだろう。前にもおなじケースがあった。そのとき起きたことを考えるとサナエは胸が絞めつけられた。拷問を受けた警視庁公安部のスパイは焼却炉の扉が閉まったあと、煙突を上る力を失い、業火に飲まれた。
 だがサナエが手心を加えるのはそれで精いっぱいだった。前回の教訓としては、頚動脈を外してナイフの刃をはわせるにしても、上皮を剥ぐ程度にしないと失血による体力の消耗速度が速くなるということだ。そこに注意したつもりだったが、確信はない。ムハマドとザゴラの厳しい目があった。
 シートにくるまれた男を三人がかりで抱えて焼却炉に押しこみ、ムハマドが灯油を取りに階段をあがっていった。
 火を放つのはサナエだ。
 やつらとて人間だから、いくらアラーを口にしてもこの手の処刑はやりたがらない。燃えさかる炎の内に聞こえる断末魔の悲鳴からも体よく耳をふさげるよう、アラブ音楽をスマホで大音量でかける腰抜けぶりだ。銃の引き金を一回絞るほうがよっぽど気がらくなのだろう。だが証拠隠滅の必要からは、やわなことは言ってられない。サナエとしてはそれを逆手にとって処刑吏役を買って出て闘士の気概を見せつけたかった。なにより刑事が脱出を図って空になったブルーシートを二人に見せないようにできる。
 サナエは祈った。
 火を放つまでのわずかの間に、せめて金網があったあたりまで煙突をよじ登っていてくれ。あとの面倒は見られないのだから――。
 最高気温が三十四度まで達した真夏の夕方。処刑は行われた。
 アラブ音楽が停まり、三人は足を引きずるようにして空きビルを出て行った。
 午後四時半だった。
 人気のない地下室とは真逆の雑踏が熱気を増幅させ、サナエは目まいを覚えた。そのとき気づいた。額にかぶせていた髪が乱れ、青く腫れあがったような傷痕があらわになっていた。サナエはあわてて手をやり、つらい過去を仲間の目から隠した。アスファルトは陽炎にゆらめいていた。その向こうに遠い記憶がよぎる。
 「店に戻るの?」ムハマドが訊ねてきた。ひげ面だから老けて見えるが、まだ三十歳になったばかりだ。板橋の土建屋に勤めて五年になる。組織での活動はそのときからだ。勉強熱心で日本語もずいぶん上達した。
 「早番だったから、もう帰るわ。店はタツヒコがいるから」
 タツヒコは、パキスタン人の父親と日本人の母親を持つ二十八歳の若者だ。ムハマドやザゴラが出入りするパキスタン料理専門店「サラ・スーク」にはサナエよりも前から勤め、副店長として、不在がちな店長に代わって店を切り盛りしている。いまどきめずらしい誠実な青年だった。
 「タツヒコがさみしがるだろう。いっつもサナエのこといやらしい目で見てるんだから」
 「よしてよ、ムハマド」
 「ほんとだよ。おれにはわかる。あいつ、絶対サナエに気があるね」
 「ばかね。あの子は疲れたおばさんなんて目じゃないわ。わたしがいないでせいせいしてるはず」
 だがサナエもタツヒコの気持ちに気づかないわけではないし、男性としても彼に好印象を持っていた。というよりおなじ苦悩を心のどこかに抱えていそうな気がしたのだ。
 「じゃあ焼き肉食おうぜ。そのあと、カラオケ行こう」声をかけたのは、ムハマドより四つ年上のザゴラだった。小太りのムハマドとは対照的な長身で顔だちもハンサムだ。分厚い胸板はよく訓練された兵士のそれだったが、一応、私大の国際学科に留学中の身だった。
 「遠慮しとくわ」
 「なんで? 行こうぜ。ムハマドと二人じゃ、気持ち悪いぜ」
 「行くところがあるのよ」
 「どこ?」つまらなさそうにザゴラが訊ねてきた。このエジプト人と知り合って半年になる。しつこくサナエをデートに誘い、サナエもしかたなく何度か付き合ってやったが、こっちはその気はまるでない。ザゴラは母国には妻も子どもいる闘士だった。
 「下見よ。あんたたちじゃ、うろつくわけにいかないでしょ」
 「熱心だな。でもサイードは本当にジハード(ルビ、聖戦)を実行するとは、まだ言ってないんだぜ」
 ザゴラがあてつけるように言った。サナエは足をとめ、筋肉の張りつめた腕をつかんだ。負け惜しみにしては聞き流せなかった。
 「どういうこと? ザゴラ、あなた、まさか怖気づいたんじゃないでしょうね」
 「ばかなこと言うなって」ザゴラは鼻で笑った。「おれがビビッてどうするよ。おれには本物のアラブの血が流れてる。ジハードで死ぬことはこの上ない名誉だ。いつ実行指令が出てもいいように心の準備はできてる」
 「ジハード専門のサイードがダマスカスの本部からやって来た。それが実行指令なんじゃない。ちがうの?」
 「ほんとならそうだ。でも事態は動いている」
 歌舞伎町の汗まみれの雑踏のなか、サナエの頭に疑問符が点灯した。同時に警戒警報も発令された。組織の密使が東京支部のほころびに気づいたのだろうか。額の傷どころでない。あすにでも自分が焼却炉にくべられる危険とサナエはいつも隣り合わせだった。
 「あなた、なにか聞いているの?」
 「あとで電話があるだろう」
 「なんのこと? 教えなさいよ、ザゴラ」
 しかしザゴラはじらすようにいたずらっぽい笑みを浮かべるだけだった。
 「焼き肉とカラオケね。来ればいいのに」ムハマドがにやりとした。
 ふん、そうやって気を持たせて、遊びに誘おうって魂胆か。サナエは二人から顔をそむけた。
 いつもこんな調子だ。緊張と安堵が交互にやって来る。そのくせ物事はいっこうに進まず、変化も見られない。こんな苦行のような潜入生活をしている人間がどれだけいよう。地下の排水溝からあがるすえた臭いに、サナエは吐き気をおぼえた。
 「じゃあ、サイードさまからの電話を待つとするわ」手を振って別れを告げると、サナエは地下鉄の入口に吸いこまれていった。
 丸ノ内線のホームに立ち、携帯電話を確かめた。留守電が一件入っていた。
 和幸からだった。
 サナエはそれを再生した。
 「今夜、品川のチームと練習試合やるんだけど、カナちゃん来てくれる? 調子いいから、こんどこそ息切れしないで最後まで頑張れると思うんだ……待ってるよ」
 探るような、試すような声音だった。サナエは留守電を切り、滑りこんできた電車に乗った。
 息切れしないで……か。
 練習試合なら八時すぎに顔を出してもだいじょうぶなはずだ。ぎりぎりで間に合うかもしれない。この三週間というもの、例のスパイの一件もあって、江東の体育館には顔を出していない。「中尾香奈」は、それまで週に一度は必ず有明バンディッツの練習に参加するボランティアだった。
 テヘランの日本大使公邸が爆弾テロに遭ったのはいまから十二年前のことだ。その実行犯役がサナエだった。当時、米国の同盟国でありながら、ほとんど破壊活動にさらされてこなかった日本の在外公館だったが、自衛隊による米軍支援の領域が拡大するにつれ「アラーの獅子」でも、それを標的とせざるをえなくなった。そこで当時、ダマスカスで活動していたサナエが実行犯として選ばれ、同志二人とともにテヘランに送りこまれた。
 計画では、いつものように商社や銀行の駐在員たちを集めたガーデン・パーティーが開かれる日曜の午後、ロケット砲を会場に撃ちこむことになっていた。ロケット・ランチャーを携えて五百メートル先のビルに陣取ったサナエは、わざと狙いを外して、高性能火薬を詰めたロケット弾が大使公邸の中庭をすり抜け、その時間帯に無人のはずの図書室に着弾するように作戦をたてた。微妙なずれだったし、物的被害は甚大だから、組織もやむをえないと考える。それにより組織への忠誠がまた一つランクアップするはずだった。
 ただ、人的被害がまったく出ないとは言いきれなかった。そのためサナエは、その日の朝、ケータリング業者を装って公邸に侵入し、無線式の発煙装置を図書室のごみ箱に放りこんでおいた。ロケット・ランチャーで照準をつけたとき、同志たちに気づかれぬようそれを操作すれば、すくなくとも邸内で安閑としている者はいなくなる。そう考えて実行におよんだのだが、一人だけ、よりによって図書室に残っていた者がいた。
 それが大手石油会社駐在員の家族としてパーティーに来ていた、当時六歳の能村和幸だった。
 人的被害は和幸一人で、直接の着弾場所であるにもかかわらず生存していたことは奇跡だった。とはいえ和幸は大けがを負った。半年後には帰国して私立の小学校に入学するはずだった少年は、爆風で両足を切断されたのだ。
 不安になって足を運んだテヘランの病院でそれを目の当たりにしたとき、サナエの心は揺らいだ。なんのためにテロ組織に身を置き、破壊活動をつづけているのか理由がわからなくなった。和幸のような目に遭う者を出さないために、警察官の身分証明書すら持たぬ特殊な潜入刑事として組織の奥深くに沈んでいったはずなのに、この手で被害者を生みだしている。それもあんないたいけな子どもを巻き添えにしてしまった――。
 信念が揺らいだとき、サナエを支えたのは家族の写真だった。組織犯罪の根絶――たとえそれが対症療法だとしても――のためには、絶対にサナエのような存在が必要なのだ。
 だが和幸に対する贖罪の気持ちはいつまでも薄れず、その後、日本に拠点を移したサナエは、少年の居所を探した。六年前のことだ。そして彼が公立小学校の六年生になり、有明のマンションで両親と暮らしていることがわかった。もちろん車いすの生活だった。すでにそのときにはバンディッツに所属し、ジュニアチームで活躍していた。
 練習中、どうしても息がつづかないのが和幸の弱みだった。あのとき、爆風で吹き飛んだ鉄片が少年の胸郭を突き破り、肺に穴を開けていたのだ。その後遺症ゆえに和幸は心肺機能に問題を抱えていたが、それでも必死になってボールに食らいついていた。同志の目を盗んでその姿を何度か見に行くうちに、サナエは心を決めた。「中尾香奈」はそのとき、サナエがボランティア申込書に記入した偽名だった。
 サナエは心のなかで微妙なバランスを保っていた。香奈は贖罪にいそしむ存在である。そして彼女がそれに全身全霊をかけて打ちこんでいる間に、サナエは反社会的な組織で活動をつづけるのである。社会正義とは別次元に存在する、自らの黒々とした怨念を晴らすために。
 だがそれもそろそろあきらめねばなるまい。入線してきた地下鉄の轟音がサナエの心をかき乱した。
 失われたものを取り返すより、失われたところから始めるほうがらくなのは、もう何年も前からわかっていた。

 四
 ジッポのライターを灯したのは正解だった。闇のなかで長居するのは時間の無駄でしかないし、こんな狭いところで四人そろってパニックに陥ったら、その狂気がおれの抱える紙袋にいずれ伝播しないともかぎらない。
 スマホも通じないエレベーターに閉じこめられた運命共同体を見回し、おれは蝋人形館にでもいるような気分になった。祐子もエミもそのまま床が抜けると心配しているかのように両手を広げて壁にへばりついていた。警備員の村山は本物の阿呆みたいにあんぐりと口を開け、おれのすぐ目の前で立ちつくしている。
 「懐中電灯ぐらい持ってるんだろ。このままじゃ、手が火傷しちまうんだがね」
 いやみったらしく言ってやると、ようやく村山は正気に返り、腰のベルトから小型のマグライトを取りだした。
 「電池を交換したばかりですから、これで当分持ちます」
 「明かりが復旧しないなんてだれが言った? それにしてもだな」おれは、フレンチをごちそうしてくれたじいさんからの贈り物をわきへ押しやり、いまいちばん気になることを急に口にしたくてならなくなった。「なんかくせえぞ。汗くせえ」
 「ほんとそう」そう言って祐子は鼻を手で覆った。
 悪臭の源は明らかだった。この鉄の箱のなかでもっとも汗っかきと思われる大男だ。言っちゃ悪いが、こいつはかなり臭う。だが村山はそれを認めようとせず、ふたたび非常ボタンを押しはじめた。
 「ちくしょう。うんともすんともいわないぞ」
 村山は懐中電灯を床に置き、またしても扉の間に指を押しこんで両手で引き開けようとした。額からは滝のように汗が滴り、それがブルーのシャツに濃い染みをみるみる広げていく。おぞましいものでも見るように祐子の目がそれに吸い寄せられ、ルージュがぬらぬらと輝く口元が歪んだ。
 「あなた、臭うわ。動かないほうがいいと思うの」
 それにはさすがにおれも唖然とした。おれは村山が臭うとはひと言も口にしていないのに、この女ときたら。
 村山は蝋人形に戻っていた。ただしこんどは顔つきがちがう。学校帰りにいじめられた木偶の坊の中学生のようだった。祐子はおなじ年代のころ、教師すらものともしない女王さまとして教室に君臨していたことだろう。
 「待つしかないですよ」ようやく人間としての誇りのかけらを取り戻したらしく、額の汗をぬぐいながら村山が言い放った。「このビルには自家発電の設備がある。停電したら自動的にそれが作動して復旧するシステムです。もうすぐですよ。そうすれば明かりもつくし、最寄り階について扉も開く」
 「それが四十分もつづいてるのよ。非常ベルも鳴らなければ、インターホンも通じない。それでいてだれも助けに来ない。真夜中でもないのに。あなたたちみたいな警備員だけじゃないわ。社員だってまだたくさんいるのよ。それなのにこんなのおかしいでしょう」
 「そんなにいきり立つなって。エアコンとまってるんだからな」おれはまたしても自分に言い聞かせるつもりで声に出し、そのまま床にあぐらをかいた。
 そう、たかが四十分が過ぎただけだ。
 経営企画室の黒塗りのクラウンが出発するまではまだ二時間以上ある。おれがなんらかの事情でメールを送れない場合、高性能プラスチック爆弾のC4には第三者の手で起爆信号が送信されるよう保険がかけてあったが、それとてもっと先ということになる。要はそれまでにクラウンのダッシュボードに忌々しいこのスマホごと放りこんでくればいいわけだ。
 「まったくどうなってるのかしら」
 祐子もしゃがみこんだ。スカートが短いものだから、もうすこし明るければ下着が見えるはずだが、そうはいかなかった。だがそれよりもおれは仰天することがあった。まるで手品師のようにいつの間にか祐子はたばこを指にはさんでいたのである。
 「急いでるっていうのに。行くところがあるのよ」
 右手にはしっかりとスリムなライターが握られている。たばこはほっそりとしたメンソール系だった。どっちもシャネルの羊革らしきトートバッグから飛びだしてきたんだろう。それにしてもこんな早い時間に通勤に持ち歩くようなでかいバッグを後生大事に抱えているということは、もう帰って遊びに行くってのか。こっちは毎晩遅くまで残業してるんだぜ。
 「よせよ、こんなところで」
 「ごめん。でもいらいらしちゃって」
 「エレベーターは禁煙ですよ」この場でこんなことを堂々と口にできるのは村山以外にいなかった。さっきのあてつけというより、警備員特有の杓子定規ぶりのなせるわざだった。
 「一本だけ」祐子は媚を売るような目で村山を見あげた。まるでクラブのホステスだ。「おねがいよ。さっきはひどいこと言っちゃってごめんなさい。だから吸わせてちょうだい。わたし、だめなのよ、狭いところって」
 「禁止ですよ。火災の原因になる」村山はかたくなだった。
 「いい考えですよ」口を開いたのはエミだった。「煙感知器があるなら、反応するかもしれない」
 「停電してるんだろ」
 おれが疑問を差しはさむと、エミはおれの目の前にしゃがみこみ、上気した顔で言った。「やってみる価値はあると思います。外の人たちが異常に気づくかもしれない」
 あまり期待は持てなかったが、ストッキングの奥にエミのレモン色のパンティーが丸見えになったから、ついおれも同意してしまった。
 がまんしきれずに祐子がライターをメンソールたばこに近づけ、それこそダイソンの掃除機のような勢いで胸の奥まで深々と吸いこんだ。それから永遠とも思われる間があった後、灰色の煙がインディアンの狼煙のように元専務秘書の口から立ちのぼった。
 だが相当量の煙が天井に吹きかけられたにもかかわらず、警報音が鳴るわけでもスプリンクラーが作動するわけでもなかった。これも停電の影響なのだろうか。祐子はスカートをおさえて立ちあがり、指にはさんだたばこを高々と天井に向かって突きあげた。
 「早く火を消してください」村山が逆襲した。あれだけやりこめられても黙らないところは、ある意味、見あげたものだった。ことによると中学時代のいじめを克服して、高校では空手部の主将でも務めていたのだろうか。「禁煙なんですから」
 「そういうの、一度言えばわかるわ」いらだちを解消しようと祐子は、前代未聞とも思える吸引力でメンソールの先端を赤熱させ、機関車のように大量の煙を鼻から吹きだした後、ようやくたばこを床でもみ消した。「なんか余計いらいらしてきた」
 うちの専務は人事総務系からのしあがってきた男だ。ヒラの行員時代は、つねに口うるさい女たちに囲まれて過ごしてきた。だから女を見る目はずば抜けて肥えているし、メス族の醜さもよく知っているはずだった。それがどうしてこんな非常識な女につけいられたのか理解に苦しむ。
 女狐を見あげ、おれは言ってやった。「専務の前でもそんなふうに吹かしてたのか」
 途端、シャネルのバッグを抱える祐子の目がきつくなった。いやな客にへいきでつばを吐きかける場末のホステスの顔だった。「なにおっしゃるんですか? 笛吹さん」
 「村上専務はたしか十年以上前にたばこをやめてる。禁煙した人間の常で、いまじゃ逆にたばこが嫌いなはずだが。おれもちょっと前に専務から注意されたよ『吸わない相手と話しているとき、吸いたいのをがまんできなくなったら負けだ』ってね。たばこは決してコミュニケーションを円滑にしない。救われるのは自分だけ。相手はずっと離れた高いところからじっと見下ろしてる。もうそのときにはおたがいのギャップが太平洋みたいに広がってるってことさ」
 「村上さんはそんなこと言うような小物じゃないですわ」
 「……!」言葉が喉に詰まって出てこなかった。
 小物――。
 それは四半世紀勤めたこの会社で、いちばん言われたくないことだった。だれかの言葉の受け売りばかりしているうちに、おれは、いつも長身靴でごまかしている百六十センチジャストの身長同様、心まで縮こまってしまった。胸のなかのもう一人の笛吹勝二が長年連れ添う相方を残念そうに見つめ、冷たく笑っている。だからこそおれは、もう一人の自分にいろんなことを期待し、できうるかぎりの悪事に走らせたのだ。
 「おれが小物なら、木村、おまえはなんだよ。いつまでも専務がいると思うなよ」
 「やめていただけますか、こんなところで人聞きの悪い。でも、笛吹さん、あなただっておなじでしょ。人事なんて、専務がぜんぶ決めているんですよ。それにあたしは女ですから。なにしたってかまわない。クビになるわけでもなし。どこに飛ばされたって、なんとかやっていけますから」
 おいおい、それじゃまるで、おれが必死になって品行方正に振る舞って、携帯電話のストラップみたいにいまのポストにしがみついてるみたいじゃないか。だけど待てよ。おまえはいまでも、専務の下半身にしがみついて離れないんだろ。それくらい知らないとでも思ってるのか。
 「わかったよ。熱くなるなって」
 「それは笛吹さん、あなたのほうでしょう。たばこの一本ぐらいで」
 「そのたばこですけどね」
 またしても村山が余計なことを言いそうになった。これには祐子ばかりか、このおれまで頭に血が上った。きさま、自分を何様だと思ってる。
 「ぼくの頭の上に溜まったままなんですけど」村山はマグライトを天井のあたりに振り向けていた。電池を交換したばかりという威勢のいい光を浴びた白煙は、警備員の言葉どおり、行き場を失い、祐子が吐きだしたぶんだけそっくりそのまま居残っているようだった。「換気装置が働かないのはわかるんですけどね。それにしたって空気の抜けが悪い」
 抜け――。
 いかにもその筋の専門家のような口ぶりが気に触ったが、元いじめられっ子の警備員が言いたいことは、底意地が悪いだけで知能レベルは低い祐子には無理としても、なんとなくおれには理解できた。
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