本説③
文字数 4,583文字
出逢ったばかりの精霊アデールに引っ張られて書斎の
「おや。久しゅうぶりだな。イナーシャ だったか?」
「うう……」
喚ばれたイナーシャのほうは涙を潤潤と湛えて感極まった。この主君がおそらく権輿もなくて名前すら覚束ないのは恨めしかったが、今は歓びが優って
「酷い目に遭いましたぁ……気づいてくれたんですか」
と称述する。アデールは風雅なる容儀で何やらクラウスに耳打ちをして、クラウスはそれに「ふむ」とか「なるほどな」と応答していた。この、精霊であるアデールが普通の者からは観測できないことを考えれば、異常なまでの独り言の多さにも映じるものとイナーシャは気づいた。
「クラウス、あと任せる」
そう言い終えると、アデールは着物の裳裾を引き摺って散らかったクラウスの私物を掃きながら退室した。この館にいくつか具えてある開かずの間の、そのひとつが彼女の為の閨閤になっていて、そこへ戻って安らぐものであろう。そうした部屋はたとえ清掃でも家人は決して立ち入ってはならず、クラウスみずからが窃かに清めと手入れとを行っているのを、公然周知の事実としてではなく、むしろこの館にまつわるひとつの伝説としてイナーシャは知っていた。
「ご主人さま、いったい……」
「あいつなら下人たちが不吉がって噂している通り、族精霊で輿入れしてきた……」
そこまで言いかけて
「ああ、アフィーネ以外はもう全員辞めたのだったな。だから「たち」というのは可笑しいか? ふん……」と少しばかりの訂正をしてから「姿が見えなくなったのは少しばかり驚いた。あれから何があったか話してくれるか?」
とわざとらしく話題を換えた。
イナーシャはクラウスに仔細を話す折、ずっと頭の一隅で先程知り合った妤人のことを考えていた。その奇異な目つき、格好、言葉遣い、有無を言わせぬ威風、そのどれもが印象深く彼女の心に突き刺さるように留まっている。まるで薊の棘の指に付くように。あまりにもそのことが顔に出ていたのか、不図会話の中断せし折、クラウスがイナーシャの散漫を払うように曰く、
「精霊と隠栖していることを最初に伝えなかったが、別に恨み言も言うまいな。どうせ見えないと思っていたのだ」
この一言にイナーシャは目をしばたたかせた。クラウスはつづいて諭すように
「識ったからには忠告するが、人間の言葉も話せるようには見えようが、あまりそれを信頼するなよ。人間とは物事の捕らえ方が根本からして違う、精霊と付き合うには態度で示すのが一番だ。あれは少し人間の血も混じってはいるが」
と忠告した。基より情報の非対称性があるので、イナーシャは頷くほかない。が、下にはとさまこうさま想巡らしていた。半分は偏の驚きである。もう半分は感動のような、あるいはクラウスへの非難のような、そねみのような、兎角いろいろと綯交ぜになった感情である。
「さて、本題にはいるか」
翻って、クラウスは何かを為ようと蝋燭の芯を新しいものにつけかえた。イナーシャは察して固唾を呑む。
「これより
「何をするんですか?」
イナーシャは身を乗り出した。クラウス言いけらく
「この首飾りの縁起と、異常な振る舞いについてわかっていることを話すだけだ。呪(シュ)のあらましを詳しく知ること、それだけで解呪に一定の効果があるとされている。これを以て解法の祓えという。つまり、お前は聞け。右から左では困る」
「はい」
いつにも増して妙な行為だったが、これを医術と比べてみると、原因不明の癪よりも患部の判っている疵のほうが何となく楽に堪えられそうな気がするものかとひとり納得して、イナーシャは準備に心組を整え、しかるのち耳を澄ました。
クラウスは左記のように宣命を含めた。
「まず、お前はいま精霊の位相にいる。だからアデールが見えるし、俺にお前が見える。塵界とも呼ぶべき人間世界と比べてかなり階層が高く、大抵の人間はこれを見ることができない。
お前がそこへ逗まっているのは、もちろん首飾りのためだ。類感呪術の一種だが、驚くべきことに、アントワーヌの首飾りの反復は大千世界の位相構造を渡るらしい。鎖に絡まる輪の数が増えると、そのたびに位相が移る。首飾りを付けてからお前は仮初に薄れて消えたが、人間の目からは見えない位相世界へと入った為だ。俺は精霊を見る訣だが、たとえば死者の世界は見ることができないから、そういうところへ飛ばれるとこの館では誰からも観察されなくなる。お前が独りだったときに視たという奇妙なものたちは祖霊の類だろう。祛教の教義では、妖霊界、祖霊界、精霊界の順にあるとされている」
「はい」
「さて、このまま首飾りの鎖の輪が殖えるに従って、お前も精霊の位相に留まってはいない。むしろ大千世界の遥かな領域へ行くだろう。これより上の世界には、物質が見えず、精霊には感じられない神界という高次の領域がある。そこへ行くとお前をもう拾い帰って来ることを保証するのは難しいだろうが、流石に悪い場所でもないという。行きたいか?」
イナーシャはぶんぶんと首を左右に何度も往復させた。クラウスは少し名残惜しいのを観じさせる表情を浮かべながら(神界へ行って欲しかったのだろうか?)、続けた。
「ふむ……。では縁起に遷る。その首飾りはかつてレーベ地方のアントワーヌという男が婚約者のマリーに贈るはずだった物品だ。アントワーヌは賊に殺され、マリーとは幽明界を異にした。この男はきわめて不幸と言えるだろう、結納品と花嫁を一度に奪われたのだから。お前はマリーに会ったと白ったが、じつはマリーのほうはまだ生きていて、此度調べさせると約十年ほど前にその事件に遭遇したそうだ」
「え、マリーさんってまだ生きているんですか?」
「如何にも。お前が会ったと証言したマリーは定めしアントワーヌの執念が編み上げた残影に過ぎない。
これは推定だが、首飾りのイニシエーターから考えて元は指輪だったのかもしれない、しかし受け取られず、アントワーヌの遺志によって呪物へと姿を変えた。この首飾りはアントワーヌとマリーを引き合わせるため、霊界へ転移する力を有すると考えられる。ところ、いまの着用者がマリーでないと分かれば、本来の所有者ではなくいわば偶有者なのだから、この縁から逃れられる道理とは思われる」
「じゃあ、終りは本来の持ち主であるマリー様にこれを還し奉れば善いってことですね!」
「そうは問屋が卸さない。マリー嬢はもう、別の家に輿入れして了っている。アントワーヌなどまったく顧みない生活を送っているのだ。嘗て今生の別れを経たのだから、これを責むまい」
「悲しいお話ですね」
「迷惑な話だろう。そのために、お前はこんな羽目に陥っているのだからな」
「あ、はい…」
「というわけだ」
「とは?」
「もう解法の祓えは済んだ。充分に道理も含めたのだから、外して試ればいいだろう」
「え、はい、かしこまりました。外してみるんですね? あれ……うまく掴めません。申し訳有りませんが、ちょっと手伝って頂けますか? ほら、クラウス様のほうが霊験あらたかですから、事運びが上手くいく雰囲気もありますし……」
イナーシャは無明闇に藻搔いて鎖のとめをはずそうとしたが首尾よく行かない。首もとをあげてクラウスに依頼すると、しかし彼はものしいような面を浮かべて叮重に断った。
「生憎、お前に触れるとあれに嫉妬の情がおこり、殺意の念波を飛ばすことがあるからな」
といわれて、イナーシャは何のことやら一旦は恐ろしい気持ちになったが、すぐアデールのことと気づく。さらにかって廊下で訳もなく恐怖に見舞われたというアフィーネの回想を並べた。
「あれってその、精霊のアデール様ですよね? ご主人さまとあの方は
こう言われても、クラウスは非常に悩ましげに眉を曇らすだけだった。いわく、
「大方その通りで、俺が首飾りをはずそうと試みもしないのは些か非道い話だ。イナーシャが正しい。然といって、そうなるとわかっていて精霊を怒らせるのもまた恐ろしい。ということで、なんとか一力でその首飾りを解せないものだろうか?」
この協力者がいよいよ及び腰なのを悟って、イナーシャはむっとした。
「お言葉ですが私は、ここ数日独りで漂泊している間に何度も試みましたが、一向に叶ったことはありません。いまだって惜しいところにすら至りません、是非お力添えいただきたいです」
「困憊ったな。だから、お前に触れると……」
尽きせぬ問答で、クラウスは何時まで経ってもその調子を崩さなかった。から、とうとうイナーシャは
「クラウス様、たしかに精霊は無上無価です。このたび私もこれを身をもって知りました。あの方は私の何十倍も、億兆倍も貴いです。ほんとうに。あの方に比べれば私なんて塵の塵です。偽りなく。ただ、精霊のいっときの不機嫌と人間の一生分の大事となら、流石に後者へ天秤が傾くのが道理ではないでしょうか? あまり精霊の肩ばかり持っていると、将来あなたが王に返り咲こうが何だろうが、風輪際もう他人から尊敬の眼差しで観上げられることは望めませんよ」
とて、内に秘めた強い義憤を煥発するように言い切った。するとクラウスは軽く参ってしまった。
「嗚呼。そうだが。まったくお前は本当に怒ると鬼気迫るものがあるな。初対面でもそうだったか」
クラウスは気圧されて長嘆息する。
「いえそんなことはないと思います、もしそんな印象を持たれていたのでしたら、疾く忘れることをおすすめします」
「謙遜には及ばん」
クラウスはそう言い終わると渋面で、脇息から身を離して立ち上がり、イナーシャの首筋に手を伸ばした。
「きゃあああ!!!」
「ほら、どうやら外れたようだぞ」
またたく間にクラウスの手には首飾りが収まっている。
「あの、ご主人さま……」
「解呪は成功したようだ。心配するな。この環飾りが作用するのは女性だけで……」
「そうじゃなくて、もっとこう、ゆっくり取ってください……意趣返しですか?」
「冗談。やたらもたつくわけにはゆかない。要害に越したことはないのだ」
クラウスはそう言い終えるか終わらないかのうちにも右顧左眄して、辺りの容子を窺うように注意深く目を凝している。アデールの物言いを恐れているのだ。まったくの精霊本位である。イナーシャはあえぬがに片頬笑んで、
「もう、ほんとうに残念な人ですね」
と言い遣って暫し、流石に自らが精根尽き果てているのを自覚した。生身よりむしろ霊の位相にあったとはいえ、何日も絶食をしていたのだ。気を遣いこのまま書斎から罷るつもりであったが、何らか呑み、一服しないことにはこの場から一歩も動けないという具合だった。無言のまま主君を見上げると、クラウスは現状に通じたのか
「疾うに食事を用意させるから、お前は神庭(頭のツボ)でも押して静まっておけ」
と指示する。
「はあ? どこですか、なんですかそれ? わかりません……」
言い返したが、もう既にイナーシャは聞き返しもどうでもよくなっていた。