序説③
文字数 5,752文字
米
さて居館へ招じ入れられたイナーシャは応接間へと通され、メイドによって茶器の一式が運びこまれる。イナーシャは下女として招集された筈の屋敷で、そこの主人と差し向かいで茶を呑むことになり、もちろん何も言付けられずに居て、そのことで却って言いようのない居辛さと緊迫感に包まれていた。
「御来着お疲れ様です。お砂糖はお入れいたしましょうか?」
黒縁眼鏡を掛けて芙蓉の相貌を凛と取澄ました女性が、茶車で運ばれてきた茶器をすいと前に押した。その動作はきわめて品品しく、間然する所がない。彼女のメイドとしての容儀帯佩は誠に見上ぐべしとイナーシャは下に尊敬した。爾今イナーシャの上司となるアフィーネという女性で、その年嵩はちょうどイナーシャの亡くなった母親ほどのものである。
「結構なお点前で……」
イナーシャは鯱張って訥るばかりで、蛇に睨まれた蛙もかくやと、借りてきた猫のように縮こまっていた。給仕が終わるとアフィーネは主たるクラウスに颯爽と一礼して応接間から退き下がった。
「あれはアフィーネという。優秀だから雇ってはいるが、精霊が見えるわけではない。だから肚の中では俺のことをどう思っているかは分からん。が、少なくとも役には立ちたいらしく、ときどき要員補充などするのだが、なにせ本人が精霊のことを弁えないので、雇った者も不心得揃いであって、離職率は推して知るべしだ」
とこの調子で愚痴を始め、気兼ねして縮こまったイナーシャはそのまま愚痴を只管聞かされることになった。
「そもそも、俺の行跡を理解する者は少ない。まして感謝してくれる者など……民草は弟のルーカスばかり尊敬して瞻仰する。馬鹿げたことだ。精霊と愚かな
縷縷と紡がれる言葉は恨み骨髄である。怨言は、その大半が現国王のルーカス、あるいは貴族たち、あるいは蒙昧無知なる頑民たちに宛てられるものであったが、考えようによってはこのジオイアに活命するほとんど凡ての人間に対してと言えた。なぜといって、彼らは概して精霊を信じてもいないし、その目で捕らえることもできないのだから。ただし、イナーシャの祖母をはじめとする一部の民は除かれるようだった。
「賢いのは、分別のあるわずかな年長者ばかりだ。彼らは長く生きているから、特別な能力はなくとも精霊のことわりがちゃんとわかっている。もしやするとその長い人生史のうちに、一度くらいは精霊と対峙したことがあるやもしれない。それにつけても当世流の人間は、きわめて現世的な利益ばかりを求める」
「はぁ……」
「あれら愚民共が王に求めるのは、卑小な手前の暮らしている都市区画の石畳が、どれほど整然と舗装されているかばかりなのだ。もちろん俺はそんなことに釐毫も興味がない」
「えーと」
(そういうことも、ちょこっとは大事だし、興味をもったほうがいいとは思いますけど……)
言えない言葉は、逆立ちしても言えはせぬ。やがて没入するクラウスは持論を発展して、
「そもそも大陸は古来より、精霊が伸び伸びと活動する精霊の楽園だった。あるときその一隅を占めるに過ぎなかった人間が擡頭し、精霊は逐われていった。精霊の
「ははあ」
イナーシャはクラウスの胡乱な発言にもめげず相槌を打った。続いてクラウスは語らく
「よもや勝てまいと思っているのだろう。しかし古来、王とは神によってその御位を授けられるものだ。王たる者の資質には、強大な武力や卓抜した知恵のほか、超自然的な力によって国を守る神通力も当然のように数えられた。飢饉に瀕して祈祷すれば海から大量の魚が打ち揚げられ、敵国に襲われてこれまでと思えば河が氾濫して敵軍が流される、歴史上の王にはそのような逸話がいくつも残されているように。盟約をとり結び精霊たちを味方につけて戦えば、メトリア帝国から領土の一部をケーキのように切り取ってくることは容易い」
と。そうして鷹揚に眼下の砂糖菓子へフォークを穿鑿する。イナーシャはおそるおそる口を挟んだ。
「その作戦は、みなさんには……」
「理解できん。あいつらは精霊が見えんからな」
同じく鏡映のように砂糖菓子を切り取りながら、イナーシャはこっそりとクラウスを俯瞰した。クラウスとルーカスは兄弟としてまったく好一対である。民衆からの信望が厚い弟と、まったく持たない兄。精霊のことが見えない(クラウスに曰わせれば、それが致命的だという)ルーカスと、およそ精霊のことしか念頭にないクラウス。そのどちらがよいかイナーシャには測りかねた。だが一つだけ言えることは、いまのままではクラウスは二度と王座に返り咲くことはないということくらいである。
「民衆からの支持は……ルーカスさんですよね」
イナーシャの大胆なる現状分析の提示に、クラウスは反駁する。
「どうかな。民衆など現金なものだぞ。彼奴は戴冠に際してジーゲル水路の建設を公約したが、これから3年たっても水路は一向に完成せず、成果は何ひとつ得られないのだから、民衆からの人気が地に落ちることは必定、必ずや破滅するだろう」
なぜ皆から待ち望まれているジーゲル水路は完成しないのか、クラウスはとくに説明を弄しなかった。クラウスの話し振りは少し粗忽で、いつも爛爛と眼を血走らせる獣のように直情径行であり、たぶん、何か精霊が関係しているのだろうとイナーシャは推知した。
イナーシャは当初、クラウスから目をかけられて枉りなりにもこうして歓待される運びとなったことを嬉しく思った。此館の主人で王族でもあるのだから、昵懇にして悪いわけがない、と。しかしいまや、彼我の断絶は門前払いされかけたときよりよほど際立ったものに観ぜられた。何となれば、クラウスにとって人間は基本的に取るに足りず、王威もて守るべき民草さえどうでもいい存在であり、ただ神さびた精霊こそが怖畏しおろがむべき対象であるという由が明らかになった為である。
陽の中る絢爛豪華な茶室で差し向かいの会話に付き合いながら、イナーシャは一刻も早く雑事に励みたくてたまらない気分になった。星よりも遠い精霊について考えることを打ち切って、肩肘張らずに
「あの、精霊は見えないので、見えないなりに働きたいと……」
さりげなく、話の流れを打ち切ってイナーシャは切り出した。内容はどうあれ目上の者の会話を遮るのは一掬の不安があったが、幸いにしてクラウスはその辺りの礼儀作法に余りうるさく云わない性分らしく、イナーシャの倦意も含めて不問に付される。
「最初の1月で辞めるだろう。この見立ては過ち得ない。もしお前が1月も勤められたら、それだけで6ヶ月ぶんの給料をやろう」
クラウスがゆくりなしに提示した条件は破格のものだった。精霊が見えれば1か月以上働くことができ、見えないならば1か月で辞めるという道理はない。メイド長のアフィーネとて精霊が見えないというのに問題なく働いているではないか、そう勘定すれば、イナーシャにとってこの6ヶ月分の給与は道に落ちているようなものであった。
「アフィーネか? 嗚呼、あれはな、何があろうと絶対にやめないのだ。暇乞いすらしない」
アフィーネの話題がのぼった拍子、クラウスはふと呟いた。
「どうして……?」
問われるやクラウスは目を点のようにして
「なぜだか、不明にして知り及ばないが」
と答えるのみであり、尚且無関心そうである。そこでイナーシャは勤労初日までの貴重な時間を割いて、メイド長のアフィーネから殊勝な助言を賜ることを企図した。
2
米
アフィーネはこの
「あなたも気の毒ね。いろいろと」
そういって謎めいた哂笑を浮かべるのは、この都、他に行く宛もない身空とイナーシャが溜息がちに聞こえごちたからであろうか。
「あの……この仕事を末永く続けていくコツとかってありますか?」
イナーシャが単刀直入に求法すると
「そうね。忍耐力かしら。あとは、理解を越える物事が天と地の
常人には迚も勤まらざる荒行を繼續しているはずのアフィーネは、いとも涼しい顔で簡潔に道破した。
「なら、
イナーシャは晴れがましく応じた。実際、現世的な理不尽に対する耐久力なら、どうして胸を張れるほどのものがあると她は誇っている。
「我慢は大切ね、でもそれだけじゃきっとだめよ。私はそれに加えて、若旦那様のことを超お慕いしているからこの職務を続けていられるの」
そういってアフィーネは悪戯っぽく舌を出した(もちろんこれは比喩表現であり、『舌を出す』という動作は普遍的意味を有しているわけでもなければ、彼女らが住まう国で偶々同じ意味を伴っていたわけでもない。単に相等の行為を換言したに過ぎず、実のアフィーネがどのような動作を以てこの場で意を濁したかについては、猶想像の余地が残されている。といって、本当に試みれば即ち奇妙なことになってしまうだろう。頬を両側から叩いたり、下瞼を引っ張ったり、じっと両掌を合わせてみたりなど多彩な挙止は、吾々にとって『舌を出す』に相通ずる動作とはとても呼べないのだから)。
「仕える相手は憎からず
アフィーネの忠節を前にしてイナーシャはそれ以上々等の言葉が継げない。
「さては 彼の魅力がわからないのね」
とアフィーネはさぞ残念そうに呟くが、イナーシャは等閑にて、言下に嘆息して次の質問を投げかけた。
「この館で働いていて、何か酷い目に遭ったことってありますか?」
かかる質問の応答には、アフィーネは暫くの考量を要した。やがて
「そうね。1回だけ、……死の恐怖を感じたことがあるわ」
と振り返り、その不吉な内容にイナーシャはたじろぐ。
「それは……どんな?」
「ちょうどこんな日に、ひとりで廊下で立っていたときだったかしら?」
「え? なんで又た、そんなときに?」
「さあね。でも、あのときはほんとうに命に迫る危険を感じたし、それがおかしいなんて微塵も思わなかったの。イナーシャちゃんも気をつけてね」
などと神妙に腑に落ちないエピソード記憶を開陳されても、イナーシャとしては生返事で応じるよりほかはないのであって、アフィーネの真剣な表情とは裏腹に呆けた顔で見返すのみである。
「それって、もしかして精霊の仕業ですか?」
イナーシャは推察する。アフィーネは
「さあ? ただこのお屋敷の敷地内はクラウス様の法力で守られているから、よく分からない邪悪な力で命まで獲られる心配はないそうよ。あ、思い出した、アデールハイト様を怒らせてはいけないわ。精霊よ、この館に棲み着いているの」
と答えた。
「待ってください。見えないのに怒らせてはいけない相手がいるんですか!?」
イナーシャにとってとんと聞き捨てならない留意点である。
「ええ、通称アデール様。簡單よ。そのお方が祀られている部屋に、闇雲に近づかなければいいだけのこと。若旦那様の書斎左隣にある……あら、向いだったかしら? 因みに書斎右隣にある物品庫は開かずの間になっていて、この部屋にだけは絶対に近づいたりしちゃいけないわ」
「それはもう、クラウス様の居るお弐階へは絶対に近づかなければ良いだけの話では?」
「そう云うわけには行かないもの。なぜって、掃除も為なければいけないし、お食事だって運ばなければいけないでしょう、それに……」
アフィーネはそうやって日常業務をひとつひとつ品出ししてみせた。そして「これから貴方がやる仕事よ」のひとことで、イナーシャを一転して険しい表情へと陥れたのだった。