本説①
文字数 4,077文字
気韻に溢れるこの館は、かつてイナーシャが雑用人として働いていたスピノール家の表御殿と比べてはさすがに見劣りするものの、あの時のように廝舎ではなく館の空いている任意の一室を分け与えられたのは望外の値遇といえる。故地を離れ首府にのぼりて、一時の郷愁に揺蕩ったのも束の間、何ら不満もない過分の厚遇に恵まれ、これに馴れてしまうことが最も恐ろしいというのが目下の最大の悩みである程だった。ただひとつ、上階の空き部屋に大きめの小動物でも棲み着いているのか、たまにがたがたと床板を踏み荒らす騒音が不規則に鳴るのが少し気になるところであったが(勿論それだけのことで帰去来辞を連想する程ではない)。
扠も、動もすれば淪落の淵に沈みかけているこの館には、大雑把な清掃では到底罷り成らないほど荒れた部屋が間間あって、アフィーネはクラウスが叱咤も命令も特に為ないからといって、館の普段遣いでない場所は埃払いもせずに放置していたが、一部分が傷めば全体に波及するというのが建築物の常であろう、イナーシャは人手が増えた甲斐とばかりに、まだ使われていない区画を少しずつ灑掃していった。此れは己も棲む塒が一部といえど廃れているのは嫌気がしたからで、別に頼まれた事ではない。一念良かれと思って邁進するイナーシャを、アフィーネは心配そうに蔭から見守った。
「いや、別条ない筈だ。しかし、その熱意が裏目に出なければいいが」
クラウスは逐次報告するアフィーネに興味も薄そうに言い放ったが、ここ一週間ほど面も合わせていない新米下働きのことなど、顔貌から何から殆と忘れ去っていた。のを、一瞬にして思い出したのは、庭先でイナーシャが芥を掃くのを書窓から目睹したときのことである。イナーシャの胸元には取り分け質素な首飾りが収まっていた。事は数日前に遡る。
『この首飾りをつけた女性が、度々失踪するという事件が起こったのです。曰く付きの品でしてね、〈アントワーヌの首飾り〉といって、もともとはある地方の村で結納のために特注され……』
言い乍ら老爺が桐箱から選り出したのは、首飾りとは名ばかりの一円の金輪に近しい代物である。間尺は差渡三寸ほど、一見して値打ち物とわかる派手さはない。
『この首飾り、勝手に動いたという報告はあるか? 知らぬ間に保管場所から無くなっていたとか』
『ははあ、実はそうなので』
『なら受け取れないな。申し訳ないが、処分は知り合いの僧院に委すことにするから――』
そういう遣り取りが在ったのだ。
「イナーシャ、その首飾りはまたどうしてつけているんだ?」
主にこと問われてイナーシャは
「はい、貰いました!」
と元気よく返事した。クラウスはさしあたり頭を抱えた。
「せめて熱意が裏目に出ろ」
「はい?」
「いや、なんでもない。取り乱した。で、何処で誰が、いつ遣った?」
「えっと、背戸で、たしかマリーというご婦人から……2日前のことと思います。あの、やっぱり規律的にまずかったですか? おしゃれとか……」
むろん職務規定などあってないようなものであり、すべて交渉次第ということになる。イナーシャは諮らいの気色を見せたが
「おおいに拙かったな。ちょっと、この場で外してみなさい」
クラウスはたちまち無感動に下命した。
「わかりました。あれっ、はずせない……?」
しかるを、イナーシャの首からこの花車な鎖がはずれることはなかった。クラウスは彼女を鎮まらせ、含めるように訣を説明する。
「数日前に縋ってきた爺の話では、その首飾りをめぐって数名の者が非業の死を遂げている。その縁起にマリーという女性の名もあった。つまりそれは――呪いのアイテムだ」
「ええっ!?」
「この家によく運ばれてくる。俺も面倒がって断ってしまったが、なに、ちゃんと解呪すればいいだけのこと。いいか、くれぐれも屋敷から出るなよ。それ迄」
「は、はい……。お屋敷にいれば、平気なんですよね?」
クラウスは頑丈めかした高塀に視線を遣って頷いた。
「七里結界が張ってある。背戸でこの首飾りを受け取ったと言ったが、そのマリーとかいう女は、敷地の中まで入って来たか? 入って来れなかったなら……」
「たぶん入ってきましたけど」
数拍の黙があって。
「死に水は取ってやろう」
「はあ。それってどういう意味ですか?」
「驚いた。最近の若人は仕来りを識らないな」
「あの……助けてくれるんですよね? 気のせいですか? 万事休すっていってる様に聞こえるんですけど……!?」
「一旦断ってしまったから、解呪すれど見料と紹介料しか入らない。まったく、骨折り損だ」
クラウスは独り言をぶつぶつ並べながら、落ち着きのないイナーシャをよそにさっさと書斎へ引き揚げてしまった。残されたイナーシャは我が人生ではじめて巡り合う「呪い」という概念の前に、遣り場のない不安に慄くのみであった。
米
「どうしたのイナーシャちゃん、元気ないじゃない」
数日経って尚、首飾りは彼女の頸元にあった。クラウスはあれから用意のためといって門を跨ぎ出掛けてゆく日もあったが、解呪の糸口は杳として掴めぬまま、事態は宙ぶらりんになっている。
「アフィーネさん……えっと、仕事で少し失敗してしまって」
「噫、もしかして呪いのネックレスのこと?」
「聞きましたか」
「イナーシャちゃん、呪殺されちゃうの? 結構、あなたのこと気に入ってたのに」
「じゅさっ……!?」
「冗談よ。でも不思議ね。その首飾り、此間と形が変わってる気がするわね」
「だから怖いことを言わないでください!」
イナーシャが満腔の想いで抗議するとアフィーネは、静かに首を振った。
「大事なことよ。理解を超えたものを前にしては、観察が何よりも大切になるって若旦那様がよくおっしゃっているもの」
「あ……」
イナーシャは喫驚した。マリーという亡霊(いまや彼女はそう信じ切っている)から手渡されたとき、確かに鉄輪が連なるだけの簡素な首飾りだったはずのそれは、いまや数多の鎖が繰り込まれた複雑精巧な細工に変じており、よく見れば首飾りの外輪を構成する鎖の一つ一つが同じ構造の鎖で組成される意匠になっている。数えてみれば、18個連なる輪が18個連なり全体を成す。イナーシャが言われるまでこれに気がつかなかったのは、灯台下暗しの謂の通りである。
「それ、御主人様に報告したほうがいいわよ。なるはやで」
まさしく呪術的作用の産物に相違ない。アフィーネの眞面目な忠告通り、すぐさまクラウスの許へ渡り
階上を訪ねると、仄かに心を愉します筈だった蘭麝の香りが辺りを漂った。香を焚くというあてなる慣習を知らないわけではなかったが、まるで黄泉府から立ちのぼってくるような不吉な忌避感にイナーシャは思わず眉を顰めた。小暗い中に強盗提灯の燈火が頼りないのも相俟って、おのずから人恋しくならざるを得ない。
適当に呼ばって、戸扉を押し開けてそそくさと中へ顔を覗かせると、クラウスは書斎で脇息に凭れ掛かって、窓外の隠れがちな月を双眸に捕らえているといった調子だった。
「で、お前たちが気づいたことはそれだけか?」
クラウスは話を聞き終わるや沈毅な態度で云った。それなりに横柄だが、普天を統べる王たる威厳までは感じられない、むしろどこか親しみやすくすらある彼独特の声色で、半ば夜闇に(というより、その向こうにある月へ)気をとられながら発した言葉だった。
「はい」
イナーシャが即に肯定すると厭に長い沈黙があって、
「お前、体が透けているような気がするが」
と矢庭に投げかけられたのは素っ頓狂な指摘だった。
「はい!?」
イナーシャは驚いて眺め回してみたが、吾の体躯が透けているなどということはない。常世の住人でもあるまい。たちの悪い諧謔と受け取ったイナーシャは、たちまち詛わしげな瞳でこの主人を睨め掛けた。
「莫迦な事だが、見えないならいい。だが何せ、その首飾りを身に着けた乙女は、烟霞のように消えてしまうと云うからな」
「どういうことですか?」
「分からん。将、蝉蛻というやつかも知れぬ」
「?」
「却って話をややこしくしたようだ。なに、その首飾りの前の持ち主が、相次いで不可解な失踪を遂げているという経緯がある。無根拠な噂の尾ひれでなく、元を辿れば真実のようだ。ひとりは商家の娘、もうひとりは都の婦人。これでいいか?」
クラウスは扇子を広げながら静かに説明した。如上のことは、おそらく数日前に出掛けて御自ら確認をとったのだろうと、そうイナーシャは推測した。
「嗚呼、お手を煩わせたこの上に大変恐縮ですが、私は助かるんですか?」
イナーシャはたまらず不安に気圧されて、それだけが気になっているという事柄を問うた。ほんとうはいの一番に尋ねたかったのだが、あまりに直接的すぎて訊くことすら躊躇われたのである。結果、クラウスは何も答えなかった。むろん非情な無関心ではなく、むしろどう答えるかを苦慮して決めかねているようであった。
「ふむ、もう23日様子を見よう……」