序説②

文字数 2,801文字

 イナーシャの旅程はとうとう王都のさなか、クラウスが隠棲する屋敷の前で停まった。これまで故郷を出立し、岨道をゆき峻険なる雄蜂を越え、塵埃にまみれた康衢を馬車で横切りまさに鵬程万里の道行きであった。然りながら息をつく暇もなく、息も止まるような緊張の刹那が目睫に迫っていることを彼女は予て身構えた。すなわち、身自らの去就を決する拝謁である。
 中へ入る決意を固めるまで一花(ちょっと)、イナーシャはクラウス邸の秘色色に塗りこめられた外壁と園丁によく手入れされた庭とを外郭から伺察してみた。かつてクラウスが領知した王家の大宮殿とは似ても似つかぬ小ぢんまりとした屋敷であろうが、一帯では破格に広く、出色の建築であることに胸を張れた。しかり彼女とて自今ここで働くにあたってこのような新築の立派な住館であることは誇らしい。後知るが、この豪邸は近所から「囹圄邸」と揶揄され、いつも貴族筋のひとりも来訪することがないことから、王宮を放逐されたクラウスはここで永蟄居に処されたものと考えられていた。実際には人を招いた饗宴のひとつも催されなかったのは、クラウスとありとある貴族たちが(かたみ)に反目しあってひそかに相異なる相手のいろいろな感性を侮蔑し軽蔑しあっているからであり、またそれだけで尽きており、この館自体をクラウスが出たり入ったりすることは無碍であった。
 現国王をつとめる賢弟ルーカスは、経綸の才に富む人物とされるが、また実の兄を処刑するほど残忍な性格でもなかったらしく、追い落とされたクラウスは都に建てられた囹圄邸で風流暮らしを行っている。まず敷地のぐるりに沿って散策したイナーシャだが、柵向こうに聳える庭木の(あわい)から屋敷人の気配を感じとり、耳朶をぴんと欹てた。何やら独り言をしながら奥手の赤詰草を摘む、どうにも雇われ者には見えぬその奇異な風采の青年こそ肇国以来の荒唐不稽、与太者にして一竿風月の君として知られるクラウス・ブレイドそのひとである。
 まず外貌たる、年の若いのに白髪が見えるその髪長(おぐし)に、イナーシャの孱弱な心は何よりも動揺させられた。穏やかなりし昼中にも異様に鋭い眼な差しが、ゆっくりと赤詰草からそれて、声を立てるか何かした(彼女のほうはまったくそんな憶えはなかったのであるが)イナーシャの方へと射掛けられる、彼女は怯えかつまた泡を食った。

「すみません!」

イナーシャは直ちに鞠躬如として項傾し、手短に身分を明かし、みずからが訪れた原由(よし)を告げた。

「お前は見える者なのか?」

なんら脈絡なき儘にそうこととわれ、イナーシャは呆気に取られて、白痴のように硬直して頓首することしかできずにいた。

「見えないのか」

見えないとは、何をいってか。まさかこの庭に風雅なる精霊がいて、その姿がとらまえられるかとでも問いかけたいのだろうか。先程していた独り言は、そういった見えない存在との対話により発せられたものか、それともこの庭に何か感じ入るような風流事があって、それを把捉できるかといわば詩味を問うているのだろうか? イナーシャはいろいろと想到はするが、しかし対峙するクラウスに返答できる言葉は一片だに浮かばない。しばらく間の悪い沈黙があって

「見えない人間は、もうこの屋敷には必要ないと言っておいたはずだが」

と宣言された。イナーシャはこう指図されてもさっぱり何のことだか分からず、突然の馘首に、もうほとんど周章狼狽していたが、

「見えないって、どういうことですか。私にはこの通りちゃんと眼がついてます。見えるものはすべてこの目で見えます……」

と泣きそうな声で反言した。クラウスは憮然として

「見えるものしか見えないのなら、俺の何も理解できまい。そんな人間にこの館で働かれる気持ちが、お前に判るか?」

(ひそ)めながら指弾した。

「わ、わかります」

イナーシャはこうなってしまえばもう、清水の舞台から飛び降りるよりほかない(その舞台はジオイア国の位置する大陸から何万海里も隔った遠い島国に存在する、あるいはかつて存在したのだが)、皆目わからないにせよ、「わかります」とだけ発言して、返す言葉に啖呵を切った。もっとしなをつくって男心の同情を誘い、やり込める(ばけ)もあったろうが、その手練手管に思い至らぬそこがイナーシャの天運と言えた。それでもまた発された言葉は、せめてこれきりに縁がなくなってしまうならと、精一杯に思いの丈をぶつけるかのように絞り出されたものだった。

「あなたは、めちゃくちゃな性格で王様をやめさせられた人だと聞いています。村では誰もあなたを悪く噂していました。でも私にはおばあちゃんが居て、おばあちゃんだけはあなたのことをとてもよい王様だと言っていたんです。どんなに周囲が反対しても。王様は精霊が見えるからといって。あなたは精霊が見えて、それで運河の建設を止めなければいけなかった、そうしなければきっと災いが起きたって……。あの、おばあちゃんはいつも、あなたのことを凄い方だって、誰にもできない役目を務めてるっていつも尊敬していました。わたしはおばあちゃんを信じたい、だからせめてここで働きたくて……」

戛戛たる音がして、イナーシャは我に返った。知らぬ間に頭を下げることも忘れて、両手で柵を握り込んでいたらしい。その搗ち合う音が辺りに煩く響めいたのだ。必死の相で檻めいた柵越しに直訴するさまは、この上級貴族にとって、さぞみっともなく映じたことだろうなどと、既に食い詰めようかという寸前(すんで)のイナーシャは呑気にも世間体を考えていた。それにしても、何時まで経ってもこの拙い愚見に対して嗤笑のひとつも返ってこないと、不思議がって視線を戻し遣ってみると、クラウスはにわか沈思黙考に耽り、

「そうか」

とだけ俯きがちに零すところだった。

「あの……?」

「その祖母を、大事にすることだ」

然りとて、曰われる迄もなくイナーシャは祖母の訓えを常日頃から拳拳服膺しているし、それでなくてはこの場所まで態々罷っていなかったのだ。が、それは黙って措くとして

「もちろんです。ここで働ければ、郷の祖母にも楽な暮らしを……」

と返り事をうつ。勿論かかる奉公が極めて一筋縄ではいかない苦艱であるとはもう重々伺われても、究竟、イナーシャはここで勤めることに決めて仕舞っているのである、もとより、運命の方がまるで然うなることと決って仕舞っているのであった。クラウスは

「もしこの舘で働けば、まあ一ヶ月と保たないだろう。洛中の娘御(もの)悉皆(みな)そうだった。お前が那辺(どこ)から都上りしてきたかは知らないし、かつ興味もないが、どうせ逃げ出すに決まっている」

と慳貪な応対を崩さなかったが、イナーシャのどこまでも食い下がろうとする覚悟を察してか、これ以上に曰わない。

「といって、門前払いするわけでもない。おまえの偉大なる祖母に免じて、客人として歓待するくらいはしよう」

紆余曲折の末、イナーシャを遂遂(とうとう)屋敷へ招き入れたのであった。
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登場人物紹介

クラウス・シャム・ブレイド

ジオイア王シロウの第一子。第八代天子。

王だったが追放されて囹圄邸で暮らしはじめる。

世間ずれしており精霊のことしか気にかけないというきらいがあるものの、王に返り咲き国を守ろうという使命感はある。

妖しげなアイテムをよく引き受ける(本意ではない)。

ルーカス・アミアン・ブレイド

第九代の現国王。幼き頃から優秀かつ実直で、非合理な考えが苦手な性格だった。戴冠後は民のことを第一に考える堅実かつ至誠な統治を行うが、精霊は見えない。クラウスを憎んでいるわけではないが、父シロウとも重ねて複雑な思いを抱いている。

シロウ・ブレイド

ブレイド王家の7代目当主。

人心をつかむ政治に加え精霊との適切な折衝をおこなった理想の王として語り継がれる。その早逝については、精霊の国に去ったとも言われる。在位中は精霊との兼ね合いのため正式な婚礼は行わず、内妻ユニタリアとの間にクラウスとルーカスの2子を儲ける。

イナーシャ

本作主人公?でクラウスの召使い

スピノール家当主と侍婢との間に生まれた隠し子。

祖母のいる山間部の田舎村にひきとられ、上京しクラウスに仕える。

姉のアナベリアンナを逆恨みしている。

アデール additive idèle

クラウスの正室?で精霊。人間の血が混じっているらしい。言葉は通じるが通じないらしい(クラウス談)。クラウスにしか見えないが人前に姿を表すことも可能。

アフィーネ

クラウス邸のメイド長を務める妙齢(詳細不明)の女性。

クラウスに執着している。仕事熱心なのも専らそのため。

ヘック・ザ・ロックディガー

脇役。ヘック。金鉱を掘り当てようとする純度の高い山師。一攫千金の志を持ち囹圄邸に出入りするクラウスときわめて親しい人物だが他からは信用されていない。クラウスから資金提供を受け、スペルナー山系で試掘を行う。

イディール

アデールの兄。気高き精霊であり、世世に渡り王宮に棲む。

たまに妹の様子を見に来る。


イズモ

ルーカスの秘書として雇われている。ルーカスから最も信頼される部下。

アフィーネの妹。

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