序説②
文字数 2,801文字
中へ入る決意を固めるまで
現国王をつとめる賢弟ルーカスは、経綸の才に富む人物とされるが、また実の兄を処刑するほど残忍な性格でもなかったらしく、追い落とされたクラウスは都に建てられた囹圄邸で風流暮らしを行っている。まず敷地のぐるりに沿って散策したイナーシャだが、柵向こうに聳える庭木の
まず外貌たる、年の若いのに白髪が見えるその
「すみません!」
イナーシャは直ちに鞠躬如として項傾し、手短に身分を明かし、みずからが訪れた
「お前は見える者なのか?」
なんら脈絡なき儘にそうこととわれ、イナーシャは呆気に取られて、白痴のように硬直して頓首することしかできずにいた。
「見えないのか」
見えないとは、何をいってか。まさかこの庭に風雅なる精霊がいて、その姿がとらまえられるかとでも問いかけたいのだろうか。先程していた独り言は、そういった見えない存在との対話により発せられたものか、それともこの庭に何か感じ入るような風流事があって、それを把捉できるかといわば詩味を問うているのだろうか? イナーシャはいろいろと想到はするが、しかし対峙するクラウスに返答できる言葉は一片だに浮かばない。しばらく間の悪い沈黙があって
「見えない人間は、もうこの屋敷には必要ないと言っておいたはずだが」
と宣言された。イナーシャはこう指図されてもさっぱり何のことだか分からず、突然の馘首に、もうほとんど周章狼狽していたが、
「見えないって、どういうことですか。私にはこの通りちゃんと眼がついてます。見えるものはすべてこの目で見えます……」
と泣きそうな声で反言した。クラウスは憮然として
「見えるものしか見えないのなら、俺の何も理解できまい。そんな人間にこの館で働かれる気持ちが、お前に判るか?」
と
「わ、わかります」
イナーシャはこうなってしまえばもう、清水の舞台から飛び降りるよりほかない(その舞台はジオイア国の位置する大陸から何万海里も隔った遠い島国に存在する、あるいはかつて存在したのだが)、皆目わからないにせよ、「わかります」とだけ発言して、返す言葉に啖呵を切った。もっとしなをつくって男心の同情を誘い、やり込める
「あなたは、めちゃくちゃな性格で王様をやめさせられた人だと聞いています。村では誰もあなたを悪く噂していました。でも私にはおばあちゃんが居て、おばあちゃんだけはあなたのことをとてもよい王様だと言っていたんです。どんなに周囲が反対しても。王様は精霊が見えるからといって。あなたは精霊が見えて、それで運河の建設を止めなければいけなかった、そうしなければきっと災いが起きたって……。あの、おばあちゃんはいつも、あなたのことを凄い方だって、誰にもできない役目を務めてるっていつも尊敬していました。わたしはおばあちゃんを信じたい、だからせめてここで働きたくて……」
戛戛たる音がして、イナーシャは我に返った。知らぬ間に頭を下げることも忘れて、両手で柵を握り込んでいたらしい。その搗ち合う音が辺りに煩く響めいたのだ。必死の相で檻めいた柵越しに直訴するさまは、この上級貴族にとって、さぞみっともなく映じたことだろうなどと、既に食い詰めようかという
「そうか」
とだけ俯きがちに零すところだった。
「あの……?」
「その祖母を、大事にすることだ」
然りとて、曰われる迄もなくイナーシャは祖母の訓えを常日頃から拳拳服膺しているし、それでなくてはこの場所まで態々罷っていなかったのだ。が、それは黙って措くとして
「もちろんです。ここで働ければ、郷の祖母にも楽な暮らしを……」
と返り事をうつ。勿論かかる奉公が極めて一筋縄ではいかない苦艱であるとはもう重々伺われても、究竟、イナーシャはここで勤めることに決めて仕舞っているのである、もとより、運命の方がまるで然うなることと決って仕舞っているのであった。クラウスは
「もしこの舘で働けば、まあ一ヶ月と保たないだろう。洛中の
と慳貪な応対を崩さなかったが、イナーシャのどこまでも食い下がろうとする覚悟を察してか、これ以上に曰わない。
「といって、門前払いするわけでもない。おまえの偉大なる祖母に免じて、客人として歓待するくらいはしよう」
紆余曲折の末、イナーシャを