本説④
文字数 3,421文字
「貴方、精霊を見たのね」
あれなり気を失っていたイナーシャを、アフィーネは三日三晩看病しつづけて、あるとき焦燥を隠さず云った。
「とうとう、あたしはお役御免になってしまうのね。精霊が見える召使いなんて、そっちの方がいいに決まっているもの。旦那様とお話も弾むでしょうね」
やや平穏ならざる様相だった。それでイナーシャは、アフィーネが恐れていたのは精霊の見える者が手下に現れて自分より重用されることなのだと知った。幸いその事態は未だ出来したとは言い難い。いまのイナーシャは元の木阿弥に精霊を見る能力を逸失しており、おそらく爾後取戻すこともないと思われたからである。この事実を穏当に言い伝えると、アフィーネはあからさまに安堵した笑顔を浮かべてイナーシャの長髪を愛おしく撫でた。
今度新人を採用するときは精霊が視える体質を持つ者を握髪吐哺で迎え入れるべきとイナーシャは思うが、どうやらアフィーネはこれまであえて避けてきたらしい。そうして年長の自分が頼りにされる過程で心の平安を得てきたものである。いままで無考えにも「アフィーネはクラウスのためならすべて万全を期すだろう」と思っていたのを、優秀な上司のこのような一端を垣間見て、イナーシャは理想の上司とは何たるかと考究せざるを得なかった。
「もう一月が過ぎますね。といって、全期間に亘ってまともに働けておりませんので、流石にお給料を貰うことは諦めますけど」
力なく呟く。すると機嫌の良いアフィーネは
「あらクラウス様は、もうあなたの故郷に送金なさったわ。貴女をよほど気に入っておられる証左ね」
と報告した。イナーシャはクラウスが気に入っているのは自分ではなくむしろ祖母の方かと思ったが黙した。
「お気持ちは嬉しいですけど……。帰沐しましょうか…ね」
彼女はもうほとんど勤労を続けていく意欲を阻喪していた。だが言葉とは裏腹に、いまから山険を突っ切って里へ帰る気にもまったく成れない。それで送金されたというお給金の分だけは働いて、以後進退を決めようとぼんやり案出していた。こうした呑気な、あるいは愚直な心境だからこそ、いつまで経ってもこの館で働き続けることになったのだ。
「クラウス様のこと、嫌いになった?」
アフィーネが心配そうな眼で問いかける。
「まさか。よく分からないです。でもなんだか……惜しいひとですね」
そう讒奏するとアフィーネはます〼機嫌が良くなって
「やだわ、そこがいいんじゃない」
と”不合理なるが故にわれ信ず”を彷彿とさせる独特の論を展開するのだった。
米
しばらく囹圄邸で働き続けることを選択したイナーシャだが、近頃彼女を悩ませるものがある、端的に言えば夜ごとの物音である。イナーシャが布団に入って、誰に指図されたわけでもなくわが身かき抱きながら必要以上に小さく縮こまって眠っていると、丁夜のあたり、きまってばたばたと喧擾の音が起きて目醒めてしまう。
で、暫く上を俔って実法に待っても何事もないので、夜明けまで一眠しようとすると、その寝入り端に復たがたがたと音が響んで、それが払暁まで続く。イナーシャは一旦は訝しんだが、階上に御寮様の居室があって何か音が漏れているのだろう、こればかりは苦情を云っても詮無いと吹っ切って、その日のうちに寝処を他の部屋(清掃の甲斐あって、直ぐに利用できる部屋は幾らもできていた)に遷して置く。ところがこの夜も物音で目覚めて、音は真上から聞こえてきたのに間違いはない。一体どういう訣でこれが起こっているのか、クラウスに相談したものか、或はこのような煩瑣なことで主君の手を煩わすのも如何なものか、とあれこれ堂々巡りして数日思い悩んだが、もし館で悪いことが起っているなら主人に相談しないのは落ち度と思って、その昼日中に打ち明けた。クラウスはそんな心尽くしも意に介さず、さも当たり前のように
「それはお前のことが気に入らないからだろう」
と淡白に述べた。
「え……アデール様がですか?」
「そうだ、それで嫌がらせをしているらしい。大抵の者は厭になって出ていくものを、お前はもうあれの正体を識ってしまっているから、効果も半減だな」
とても、涼しき顔にて。イナーシャはショックを受けた。自分は何も彼女に非礼を働いた覚はない。なのに、なぜ不興を買ってしまったのか、しんから心当たりが無かったのである。
「どうして嫌われているのでしょうか?」
イナーシャは勇気を出して訊く。
「だから」
クラウスは困ったように
「お前が無視するからだろう。あれは俺に対してもそうだが、呼びかけられてもこっちは忙しいからといって聞こえぬ振りをしたら、ひどく怒る」
「無視って、私にはアデール様が見えないんですから、仕方ないじゃありませんか」
「最初にお前から声をかけたので、視える者だと思ったのだな。で、見舞いか何かに行って、無視されたので立腹したらしい」
「それ私が悪いんですか……?」
一幕の沈黙の帳が降りて、後、クラウスはやりきれない愚痴を溢した。
「これだから精霊の視える家事従事者を寄越せと、口煩く言われているのだ。で、此方はそんな奴は決して居るものではないと抗言する。いつも同じだ」
「あれ? でも、待ってください。精霊が視えるひとってそこまで珍しいんですか? それならうちの祖母が昔、精霊様を見たひとの話をしていたような……」
「ああ、それはだ」
クラウスがそこへ何らか言い加えようとすると、折節
「あれ、アデール様のお姿が……?」
クラウスが言われて振り向くと、やや興奮したような声で快哉を上げた。
「そうか。ついに顕形する術を身に付けたか!」
「――――」
アデールは春の庭先を飛び回る胡蝶のように繊弱やかな身を、じっと据えて、双方先ずどちらに言葉を遣るか決めかねているようだった。クラウスはイナーシャに語ったことに
「つまり、これがそうだ。精霊はその気になれば人前に姿を表すこともできる、世の精霊を見たという逸話は、これによる。アデールもきっかけさえあればできるようになる」
窺うと、精霊にしては年少のアデールはこれまで人界に身を現わす手段を身に付けないまま居たものを、何らかの拍子にこれを修得して、丁度歩くのを覚えた稚子が親前で披露するように、身に付けた術をふたりに披露しているのだった。きっかけかは定かでないが、イナーシャはアデールの
(クラウス様のおっしゃるきっかけって、あのネックレスのことですよね……? まさか私がアデール様をずっと無視し続けたせい、とかじゃないですよね…?)
「”
「!?」
アデールがイナーシャを棘棘しく睥睨して蜿蜒とした調子で詠じた。イナーシャは何も言えず、即座にクラウスの方に助けを求めて仰ぐ。
「気にするな。たって言葉などとり交わさず雰囲気だけで接しろ。"
クラウスが経験則から得た精霊と
アデールは相変わらず美しく、人の姿になっても、人の為りは仮初で、天女のように侍り、次の瞬間にはもう飛び去ってしまいそうな気勢が漲っていた、これが庭に立つと辺りは春を欺くほど華やいだ。
然る程に、精霊と人は言葉によっては理解し合えないという垂訓を体現するかのように、アデールはイナーシャをつねったり、叩いたり、蹴突いたり、着衣を引っ張ったりして、精一杯に喜ばしい
「烏滸。おこ。おこ」
「お許しを……」
禽獣に狙われた菟のごとく突啄かれるイナーシャを観覧してクラウスは希った。これでイナーシャが少しでもアデールを怒らせることの何たるかを學び、彼我に共通認識らしきものを培うことが出来たなら、と。
(おわり)