本説②

文字数 3,228文字

                    米

 さても\/、イナーシャは何事もなかったかのように平常の家事を仰せ付かっていた。但し買出しなど、屋敷の外へ出ることは禁じられる。本人とて断乎として結界の外へ出る心算はない。この籠の鳥めいた生活の中で、イナーシャは漠然とした不安、見も知らぬ女性から首飾りを受け取ってしまったことに対する後悔や慙愧の念などを懐いた。体調の異変は些細なことでも見逃さないようにと上司のアフィーネは下知を受けていたが

「最近、ちょっと物を持つのがしんどいです。妙に重く感じて…」

イナーシャが愁訴した折、あきらかに側目からその異常がわかった。否、精確にはよく目を凝らさなければ未だ解らない。クラウスの宣った通り、イナーシャの躰は半ば透き通って、向こうの景色と重なり合っていたのである。恰も彼女の存在が薄らいで、霞のように透明になったようだった。イナーシャにはまだその自覚がなくて、ひたすら恐ろしがるのは初めはアフィーネばかりだったが、やがてイナーシャにも漸うこの状態がわかるようになり、そのときのイナーシャの驚倒といったらここ数日の比ではない。透過の度合いが増すに連れて体重も軽くなってゆき、その為に一層重いものを運ぶことが困難になってゆくものと推定された。
 首飾りは以前みたときよりさらに際限なく細かい鎖にまで分解され、百重に絡んだ輪から全体が構成されてゆくようになっている。一体いつ外形が変貌しているのやら、未だその尻尾すら掴ませることはなく、イナーシャが泣いて祈っても頚筋から外れることはなかった。やがてそこから数日が徒過したとき、館のあらゆる場所を探してもイナーシャの姿は一切見当たらなくなっていた。それは宛ら伝聞の不幸な女たちのように、忽焉と消失てしまったようである。

「あの……、もしもし、視えますか……」

 否、彼女は消滅したわけではない。光学的にもあまりに希薄になりすぎて、アフィーネやクラウスの目からは留まらなくなっていたのだ。それ程まで事態が昴進すれば、もはや物体を持つことなど満身の力を絞っても不可能であるばかりか、あろうことか手のほうからが物体をすり抜けてゆく始末であった。依りて戸扉は開けられないものの、壁抜けも自在なので移動に不自由はない。まるで幽霊の如く移ろって、望んだ部屋まで涼しい顔をして赴くことができた。ところ、どこへ向かっても結局は誰の目にも映らないので、移動する意味もそのうち見出せなくなってしまった。
 イナーシャは絶望した。初対面、あれほど大行な口を利いて精霊が見えないことを指弾したクラウスでさえ、いまや彼女の形姿を認識できないらしく、大声で叫べど、欷泣し助けを乞えど、いずれも空しい結果に終わるのみだった。あるときなどクラウスの目交に数刻ほど立って只管叫んだり音なったりしてみたものの、甲斐なく、さらに殊更な仕打ちでもないらしい。それどころか、クラウスはイナーシャが失踪したというのに慌てふためいた風儀でもなく、剰え捜索する様子もない。ただ幻滅の一言に尽くと、イナーシャは膝から崩れ落ちた。それにしてもこの主君を近傍で観察して解ったことは、彼の異様なまでの独り言の多さである。

「なあ、どこへ行ったと思う?」

イナーシャが愕然と蹲っているあろうことか対蹠の方角へ、しばし目線を遣って真剣な面持ちで窺い、そういう時はきまって一拍の緘黙があり、

「そういう訳には……」

など時たま煮え切らない詞を示す。この仕業が何やらイナーシャには見当もつかないが、彼が変人であるという噂はけっして無根拠や印象論ではないだろう。

 変化はそれから幾分と経たないうちに訪れた。ある頃を堺にして、中空を漂う海月のようなもやが曖昧に、連れて判然と、イナーシャには見えるようになってきたのである。最初は気の所為であると気にも留めなかったが、視界のもやはやはり海月のように猶予って其処彼処に停留している。いまや種類も形も様々であり、朧気ながら古生物の近類といった俤がある。ただ、以前見えなかったこのような不思議なものが露れて目を楽しますことになった外、状況は渝りなく絶望的だった。
 さらに数日が過ぎた。多種多様に漂う海月のような輪郭を伴った摩訶不思議なる存在どもは次第に薄れ去ってゆき、イナーシャの視界にはもっと別のものが見えるようになった。それはたいへん人に近く、イナーシャが正常に近い状態でそれを目撃していたら、幽霊だと腰を抜かしたことだろう。だがもはや肝心の彼女自身そこに属していると思えば、ちとも恐ろしさなど沸いてこなかった。幽霊は、かつての古生物のような幻影よりは遥かに数も少なく、外の通りには列を成せるのに、屋敷の中にはほとんど姿を現さないという特徴があった。
 もはや感情も払底して恐ろしさなど沸いてこない心境だが、流石に近づきがてに、漸く乾坤一擲の勇気を振り絞って屋敷の中を歩く人の形をした白影に声をかけてみたイナーシャだったが、生憎と鹿とを決め込まれてしまった。完全に死人の仲間入りを果せているわけではないらしい。話しこそ通じないものの、着物や顔まで十人十色の残影を眺めるのは褪める心の退屈凌ぎにはなった。二重回しを纏った初老、ててらをつけた女、倡妓めいたなりの艶女など、みなそれぞれに出で立ちが異なり、鬼籍に入りし事情も異なるのだろうが、一様に興もなく青ざめた顔をして彷徨しているのは同類であった。
 日が進むごと、折角見えた幽霊の像すらこれまただんだんと薄くなっていった。このままいけば、あの古生物たちと同じくやがては見えなくなるだろうとイナーシャは予想した。
 果たして幽霊の像も薄ぼんやりとしすぎて、もはや冬の朝靄のように疎けた折、イナーシャは廊下でばったりアデールと出くわした(この邂逅にはどちらが勝るともなく双方共に驚いた)。まずその風姿にイナーシャの度肝(きも)は圧倒された。アデールが単純な実体ではないことは、朝明けからこの館に訪問した客はいないのだから何となく解る。何より息を呑んだのはその妍しさである。アデールは沈魚落雁の美相を有った精霊だった。いつしかアフィーネがこの屋館に棲み着いているとしたのも彼女であったか、以てそんなことはどうでもよく、眼前の相手が此方を正鵠でとらえて立ち竦むことが、いまのイナーシャにとっては何とも言われずに嬉しかった。

「どうして私のことが……!」

(いまし)、何の用?」

アデールは異国装の綸子のそれもかなり精巧な柄が入った高級物を召し、口調や立居振舞から貴人のそれで、年背恰好より公界知らずの箱入り令嬢といった肩書が最もしっくりとくる。が、あなた(you)ではなく汝(thou)という単語を使っていることから見るに、自分の世代からおよそ半世紀も離れた時代の人間なのではないか? などイナーシャは揣摩臆測する。

「あの……あの……」

とかく久方ぶりに孤立無援の悲愴から解き放たれたイナーシャだったから、涙ぐんで喜色の嗚咽を抑え、アデールにこれまでの一伍一什を打ち明けた。
その途中、便宜のため見下した胸元の首飾りは極限まで至微になり、もうほとんど輪郭も判別できないほど軽くなって、鎖の細かさと分岐も夥しいほど変化(へんげ)していた。これは18の輪が各々18の輪に分裂するから然うなるのであるが、イナーシャは以てそんなことには注意を払わない。

「とにかく、これを外してください……」

「クラウスに恃めばいい」

ところが矢張り異種族の懸隔をもってか、折角口を利けたイナーシャにもアデールは少しよそよそしくあたる。或いはクラウスによほど信頼を置くのか、丸投げである。

「だって、クラウス様は抑々見えてくれないんです。私が透明だから」

イナーシャが哀訴して食い下がると、

「そんな筈はない。クラウスは、精霊の位相から視えるものならみな視える」

とアデールは銜めた。

「?」

「クラウスは出掛けたか?」

「い、いえ」

「そら来た、案内してやろ」
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登場人物紹介

クラウス・シャム・ブレイド

ジオイア王シロウの第一子。第八代天子。

王だったが追放されて囹圄邸で暮らしはじめる。

世間ずれしており精霊のことしか気にかけないというきらいがあるものの、王に返り咲き国を守ろうという使命感はある。

妖しげなアイテムをよく引き受ける(本意ではない)。

ルーカス・アミアン・ブレイド

第九代の現国王。幼き頃から優秀かつ実直で、非合理な考えが苦手な性格だった。戴冠後は民のことを第一に考える堅実かつ至誠な統治を行うが、精霊は見えない。クラウスを憎んでいるわけではないが、父シロウとも重ねて複雑な思いを抱いている。

シロウ・ブレイド

ブレイド王家の7代目当主。

人心をつかむ政治に加え精霊との適切な折衝をおこなった理想の王として語り継がれる。その早逝については、精霊の国に去ったとも言われる。在位中は精霊との兼ね合いのため正式な婚礼は行わず、内妻ユニタリアとの間にクラウスとルーカスの2子を儲ける。

イナーシャ

本作主人公?でクラウスの召使い

スピノール家当主と侍婢との間に生まれた隠し子。

祖母のいる山間部の田舎村にひきとられ、上京しクラウスに仕える。

姉のアナベリアンナを逆恨みしている。

アデール additive idèle

クラウスの正室?で精霊。人間の血が混じっているらしい。言葉は通じるが通じないらしい(クラウス談)。クラウスにしか見えないが人前に姿を表すことも可能。

アフィーネ

クラウス邸のメイド長を務める妙齢(詳細不明)の女性。

クラウスに執着している。仕事熱心なのも専らそのため。

ヘック・ザ・ロックディガー

脇役。ヘック。金鉱を掘り当てようとする純度の高い山師。一攫千金の志を持ち囹圄邸に出入りするクラウスときわめて親しい人物だが他からは信用されていない。クラウスから資金提供を受け、スペルナー山系で試掘を行う。

イディール

アデールの兄。気高き精霊であり、世世に渡り王宮に棲む。

たまに妹の様子を見に来る。


イズモ

ルーカスの秘書として雇われている。ルーカスから最も信頼される部下。

アフィーネの妹。

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