本説①

文字数 6,065文字

 故、(混迷を極めた政変の果てに)ジオイアの栄えある第九代天子に即位したルーカス・ブレイドは、王宮殿の執務室で厖大な歴史書に繞まれていた。優秀なる秘書のイズモ女史に統率されたルーカス付のゆえゆえしき侍女たちが一糸の乱調もなく列五(れつ)をなし、駒鳥のように書類・目録・草案を運んで寄越しては、ルーカスが裁可するとすみやかに燕返(まか)る。
 これが間断なく一刻と半ばかり続いたあと、明朝から彼の初めての業間(やすみ)がはじまる。ルーカスはいかな書類業務も好きではない。兄を追い遣ってまでジオイア君王として戴冠したのは、もっと別異の志あってのことである。が、抛つこともまた不可能だった。ルーカスが即位したての頃、前代の兄クラウスがこの日課をすっかりさぼっていた為に、うず高く積まれた未裁決の殺青に文字通り圧殺されそうになったことを思い出す。そうしてまた兄を恨めしいと観じた。
 兄弟の父シロウは変人であった。民とは水の如く交わり、結果として良民から汎く支持される稀代の皇帝であったものの、父親としてみれば落第の極印を押さねばならないだろう。正室であるユニタリアに最後まで正式な入内を(ゆる)さなかったことも一因であるが、間近に見れば、シロウ王には異常ともとれる逸脱した行跡(おこない)が目についた。時を経るにつれ、その奇矯は小憎らしいほどクラウスと酷似していることが明らかとなった。失踪の直前、シロウ王がクラウスを後継者として指名した折は、所詮長幼の別があるのだから詮方ないと引き下がったが、内に熱腸の思いがあった。
 あらゆる点において、事程(それほど)クラウスは偏愛されてきた。しかるを、この不出来な長兄(あに)を輔弼する傀儡人形として宮廷に押し屈められそうになった折、いよいよ耐え難く、然り而して草莽に下った。
 そこでは民衆たちの不満をじかに聞き取った。下民たちの憤懣、鉱山労働者たちの忿恚、貴族が並べ立てる理想論、王威にまつろわぬ革命志士たちが叫ぶ悲憤慷慨にいたるまで、朝廷を降りたルーカスは有りとしある地でさまざまな声を聞き、世にいう荒くれ者や傾奇者とも交流をとり結び、その何処(いずこ)でも美事なまでに人心を収攬してみせた。民衆から推挙され一時は気が大きくもなったこともある。この快進撃は親の七光にあらずして、みずからの才能に起因するのだと雀躍し、堕落した王宮を改革しなければならないと気炎を揚げた。その機運は破竹の勢いを伴って亢竜の畝りと化し、ついにはルーカスを夢見た王の御座(みくら)まで到らしめた――実兄の追放をもって。

「陛下、謁見のお時間でございます」

この退嬰的白昼夢は秘書(世に言う政策担当秘書)のイズモによって中断された。

「何方かな?」

「運河開発局の工事部長からはじめます」

運河開発は即位してからのルーカスが最も注力する鴻謨である。すぐさま彼の体躯(からだ)は精気で盈ちた。この並ならぬ英傑にとっても果然(やはり)精神と肉体は連動しており、詰まらない書類の山に沈めば体も疲れてしまうが、逆に大望に取り掛かるや全身溌剌として堅強を誇るというものである。
 但し、ジーゲル運河落成の青写真は、もとはルーカスの手に成るものではない、万民のための望みとも可移するものではあるが、殊にルーカスを買って潤沢な資金援助を行ってきた北方貴族家のある計画を嚆矢とする。
 あまたの栄耀を恣に、北方に権勢を誇っているこの貴族こそスピノール家である(まだ記憶の限りにあれば、イナーシャの生家もこの屋敷であった)。ルーカスは多額なる資金援助を享けたスピノール家の当主に報いるためにも、また王都の水事情を改善するためにも、是非にジーゲル運河を開通させなければならないと強く気負っていた。工事全体の難易度も、予想された工期自体も、それほどおおそれたものではない。渺漫たる原隰(あれち)を貫く一本の疏水(すいろ)を通すだけであり、特に障碍となる地形等も存在しないため、今日に至るまで(それこそシロウによって)着工されなかったのが不思議なくらいである。さりとて当然のおこないを当然にやり遂げることこそ王の威信を永久足らしめる橋頭堡(あしがかり)であると、ルーカスは少しも慢心などしていない。
ところに

「申し訳有りませんが、一身上の都合にて、今月限りで官職を返上し、帰郷させていただきたく……」

そう奏上した工事長は、岡目(はため)にも挙措を失っている。

「この大事業の方方における重要性を鑑みて、尚のことかね」

ルーカスは俯きがちな工事長をしかと正中に見据えて、詰問した。

「はい……ええ、申し訣ございません」

工事長は禿頭を撫で冷や汗を拭った。この国でもっとも高き王座から見下され詰られる仕打も、既に覚悟の上であった。それほど退職したかったのである。

「ポストには新しい人材を据えればいい。心当たりもないわけではない。しかし、不可解なんだ。君のような優秀で適材適所な人材が、なぜこれほどまであっさりと局を去ってしまうのか? もしも労働環境に至らぬ点があるなら、改善するが」

「いえ! まったく個人的な事情でありますとも!」

「それは前任者の重痾と何か関係があるかね?」

「………」

「即時解任は認められないな。あと2ヶ月、いまの現場で指揮を続けなさい。そうしたら退職金も満額だ」

ルーカスの柔和な態度に、工事長は失望さすような二の句も継げず、それ以上の譲歩を引き出す気力もぽっきりと挫かれて力なく項垂れた。ルーカスはそのまま失意なるこの男を退出させた。


「どう思う? イズモ」

禿頭の男が退出してから間をおかず、ルーカスは側にいた無二の側近へ問いかける。指称された彼女は眉根一つ動かさず、間髪容れず冷静に応じてみせた。

「陛下の仰るとおり、後釜に据える新しい人材はいくらでも充当できるかと」

香炉峰の雪に御簾をあげる気遣いも彷彿とさせる三寸不爛の舌先も、しかしルーカスの心内を充分に満足させるものでは無い。

「うん。そうか」

漫然と聞き流してからさる君子は懐から小版の韋編を取り出した。二重の帙簀(ブックカバー)に被覆されたそれは、実はその表紙に『はじめての祭儀 精霊学入門』と銘打ってある。実に実用性のない実用書である。イズモからは見えないように、次の謁見までの隙間時間に、ルーカスはその入門書を盗むように読みはじめた。

きっかけは瑣末なことだった。工事に携わる者たちに衍曼流爛するようになったほんの他愛もない噂――「この工事には何か悪いことが重なるようだ」「これは母原様の呪いではないか?」「大変な災いが降り掛かっているのでは?」現場作業者の間で広がる怯え、伝播する動揺を看過しては名折れであると、ある日工事関係者を一堂に鳩合させて訓示し、すべては偶然であると一蹴したこともある。士気は鼓吹されたが、計画に根拠なく蟠踞する懸念や、行く末を阻むように折り重なる不運は清拭しえなかった。そもそもこの種の事業に際しては、着工前に王家直々の地鎮祭をおこなってきたのではなかったか? シロウ王のやり方に則れば、その手筈である。ルーカスはすっかり失念していたが、だからといって、その迷信じみたおこないの欠缺で別段何があるわけでもない、そのことは都の住民ならよくよく諒解している。今更その点を捏ね繰り回しても益がないというのが万人の肯んずるところであろう。ただし、この手落ちは少々責むるべきものではあった。前言の通り実益上はともかく、一部の迷信深い人々(多くは上京してきた地方出身者である)が労働環境に必要以上の不安を憶えるに至った故である。

 不図、イズモが書を捲る手許を物見高く覗き込んでいることに気づいたルーカスは、反射的にのけぞって試た。が、遅きに失した。

「!!!!」

「それは……迷信俗説の本ですか? 多少、陛下様には似つかわしくないですね」

イズモはのどかな微笑をたたえつつ隠さずに付言する。王を前にした臣下の態度としてはたいへん不敵なものであったが、有徳の人物は立ち居振る舞いにおいて相手を萎縮させることがない、という好個の実例と言えよう。ルーカスもまた彼女の忌憚ない意見を好ましいものとして咎め立てするつもりなど露聊かもなかった。

「……きみは現世主義者だからなあ。だが、王家の人間としてやっていく上でこれくらいは必要だ、なにせ蜚説(たわごと)の跳梁跋扈するブレイド家だから……」

「それにしても、その変てこな本、誰の著作ですか?」

ルーカスの周囲に集う人々の殆どは、偶然の一致より寧ろ彼の謹厳実直な性質がそう仕向けたのか、極度の合理主義者で揃っている。だからクラウス王のように迷信めいた言動を繰り返す面妖な人物と対するとすぐさま腰を引いてしまう。そうしたことは重々判っているので、その先何を道おうにもルーカスは躊躇う。

「……クラウス・シャム・ブレイドだよ」

さりげない返答にイズモは驚愕する。

「あの与太者の廃帝が書いたと? まさか。……どんな訳で?」

「金でも欲しかったんじゃなかろうか」

「ということは、そのうち王家の暴露本なども書かれるやも知れませんね」

イズモが鼻摘みの言い種でそう邪推すると、ルーカスはあくまでも理性的に応じた。

「杞憂の域を出ないな。少なくともこの本について言えば、何らかの役に立うという体で書かれた……体を感じなくもないことは確かだよ。いささか、いや大幅に説明不足の感があるけど」

「それにしても、そんな本にあたるとは、ルーカス様は何か思い悩んでおられるのですか?」

「うん。ジーゲル水路の工事は先の通り、難航している。而も実務上は八方手を尽くして万全を期しているにも関わらず、なぜか上手くいかないときた。こんなときクラウスだったら、或は先考シロウだったらと考えずにはおられないのさ。『溺れる者は藁にも縋る』というやつかな?」

するとイズモは少し表情を険しくして、此頃都に膾炙するクラウスにまつわる街談巷語について報告を上げた。

「そういえばそのクラウス――前国王陛下ですが、話によると絶世の美女を館へ迎え入れたそうですよ。なんでも吉原からと云った御方もいるそうです」

「絶世の美女ねえ」

ルーカスが呟くと、イズモは頬に手を当てて顔を顰めた。

「ええ。莫大な金品を費やして身請けして、毎日その美女と宜しく暮しているように、皆が噂しております。官女たちまで……」

「参ったな。兄さんにそんな贅沢をするほど手切金を渡した憶えは無いけど」

「もし後ろ盾となる貴族や豪商から援助を受けているのでしたら、反乱の蜂起にも繋がりかねません。直ちに内部監査をおすすめします」

ルーカスはそうとバイアスをかけて先走ろうとするイズモを宥めつつ、窓外の遥か遠方――東の八条あたりを見遣った。

「うん。でっちあげの可能性もあるし、はじめに手紙の一通でも書くか。ただもし兄さんが所帯を持つなら、こっちにとっても都合がいい」

「?」

それとわかるようにルーカスは明した。

「スピノール家と縁組をする話が最近頓に喧しくて。兄より先んじて結婚するのも世間体が悪いと言っておいたのを、これなら先へ進めておいて良いかもしれない」

イズモはその事情を聞いてぱっと朗らかに転じ

「そうでしたか! では、早速先方へそうお伝えして参りましょう」

と舞い上がったが、皮肉にも当のルーカスこそは矢張何の変哲もない政略結婚である為からか、喜色よりもの憂さのほうが優ったような顔をしていた。国政は何かと物入りのこと、スピノール家との交流は今後とも断ち切り難いとはいえ、現下にあってそれどころでなく、余り気の乗った話ではない。さりとても例の噂であるから、兄と張り合う訣ではないが、重い腰をあげる発心に到った訣である。
にしても、倹しき暮しに甘んじていたはずの兄が、なぜ俄分限のような僭上な振る舞いに及んだのか、ルーカスには判らなかった。元来、嬖妾(おんな)に現を抜かすような人柄でもなかったはずだが……噂はいくつか不可解な点を遺しており、彼らの嫌う「謎めいた」ものを含んでいた。

                    米

 クラウス邸に来訪者は尠い。まず正門から入ってくる者はいないし、どうやら門の表通りすら避けてゆく通行人があるとかや。来客予定表も何週間にもわたって空白である。いつ本能寺のごとく燃え落ち、あるいは衣川館のように武装兵に囲まれて刃傷沙汰になりはしないかと人々は恒に冷冷やしている。王位継承権を持つクラウスと現国王のルーカスは兄弟であるが仲が悪く(古人は『蕭牆の患え』とかいう)、重祚を虎視するクラウスをいつルーカスが燮理の障礙(さわり)として獄門台に晒すか、それは誰にもわからない。ルーカスから睨まれたくない貴族たちは下わたりにあるクラウス邸の半径十丁以内にはゆめゆめ寄り付かないとも云う。
 庖厨に入る料理人(おさんどん)のひとりがなかなか噂好きで、イナーシャはすぐに洛都の事情に通じ、つくづく自分は特殊なところへ就職してしまったと痛感した。このままでは来客対応もできないメイドになり果てんとおのがスキルバランスの偏頗を歎いた。
 それに付けても一際新たしくまた興味深い噂が咲いた。それはクラウスが花柳街(いろまち)で大見世の花魁を身請けして、いま館には傾城の美女がおわしますとのことで、きっとアデールのみ姿を人々はそう云っているのだろうとイナーシャは察した。まあこれはあくまでジオイア領内のことであって、花柳界とか、花魁とか、登楼とか、(こま)いところに相違もあろうが、土台イナーシャには正確な知識が不足していて、どのみちかの噂の全容を完解せるわけではない。しかし輓近、鉄柵の向こうから屋敷の様相を(せし)めようとする輩が俄に多いのは、御寮様の帯佩を拝したいがためそうしているのだろうとは能く理解した。何よりイナーシャが人目に姿を顕わすときのアデールを、まこと嬋娟たる有様とこそ思えばである。
 肝心要の御本尊であるアデール自身は、人身を藉りて垂迹するも精霊体として隠覆せるも自在であり、且つよそ者の視線を感じるときはきまって姿を露わさないという野生動物のような習性があった。それゆえに神出鬼没であり、そこがまた数奇者たちの貪を燃え立たせ、意馬心猿となって雲集する黒山の人垣を生すのであるが、それも日が高い束の間だけのこと、夕からはまた妖怪沙汰があるとかいって勝手に散り失せてしまう。以上のことは、関係者はすべて裏木戸から出入りする慣わしとなっているので以て問題ではなかったのだが、ただ館の主であるクラウスだけが何とも不愉快そうにしていた。

 そんなある日、クラウス邸の正面前に一台の辻馬俥が風馳した。ステップを降りた者は出歯亀する素振もなく堂々門戸を叩く。物珍しき来客であった。

「御主人様、お客様です。お名前はヘックさんといって、定例のご相談? があるそうです」

館にあまりにも人が来ないことを心置きにしていたイナーシャは、これを抃儛して喜んだ。その燥ぎようときたら、主人であるクラウスの眼に不審の極みとして映ったが、重重訝しみつつも敢て胸中は問わないで、唯一言、

「案内してやりなさい」

などて飄々と命じて試ると、鉄砲玉もかくやとイナーシャは一散に、文字通りすっ飛んでいったのである。
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登場人物紹介

クラウス・シャム・ブレイド

ジオイア王シロウの第一子。第八代天子。

王だったが追放されて囹圄邸で暮らしはじめる。

世間ずれしており精霊のことしか気にかけないというきらいがあるものの、王に返り咲き国を守ろうという使命感はある。

妖しげなアイテムをよく引き受ける(本意ではない)。

ルーカス・アミアン・ブレイド

第九代の現国王。幼き頃から優秀かつ実直で、非合理な考えが苦手な性格だった。戴冠後は民のことを第一に考える堅実かつ至誠な統治を行うが、精霊は見えない。クラウスを憎んでいるわけではないが、父シロウとも重ねて複雑な思いを抱いている。

シロウ・ブレイド

ブレイド王家の7代目当主。

人心をつかむ政治に加え精霊との適切な折衝をおこなった理想の王として語り継がれる。その早逝については、精霊の国に去ったとも言われる。在位中は精霊との兼ね合いのため正式な婚礼は行わず、内妻ユニタリアとの間にクラウスとルーカスの2子を儲ける。

イナーシャ

本作主人公?でクラウスの召使い

スピノール家当主と侍婢との間に生まれた隠し子。

祖母のいる山間部の田舎村にひきとられ、上京しクラウスに仕える。

姉のアナベリアンナを逆恨みしている。

アデール additive idèle

クラウスの正室?で精霊。人間の血が混じっているらしい。言葉は通じるが通じないらしい(クラウス談)。クラウスにしか見えないが人前に姿を表すことも可能。

アフィーネ

クラウス邸のメイド長を務める妙齢(詳細不明)の女性。

クラウスに執着している。仕事熱心なのも専らそのため。

ヘック・ザ・ロックディガー

脇役。ヘック。金鉱を掘り当てようとする純度の高い山師。一攫千金の志を持ち囹圄邸に出入りするクラウスときわめて親しい人物だが他からは信用されていない。クラウスから資金提供を受け、スペルナー山系で試掘を行う。

イディール

アデールの兄。気高き精霊であり、世世に渡り王宮に棲む。

たまに妹の様子を見に来る。


イズモ

ルーカスの秘書として雇われている。ルーカスから最も信頼される部下。

アフィーネの妹。

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