本説①
文字数 6,065文字
これが間断なく一刻と半ばかり続いたあと、明朝から彼の初めての
兄弟の父シロウは変人であった。民とは水の如く交わり、結果として良民から汎く支持される稀代の皇帝であったものの、父親としてみれば落第の極印を押さねばならないだろう。正室であるユニタリアに最後まで正式な入内を
あらゆる点において、
そこでは民衆たちの不満をじかに聞き取った。下民たちの憤懣、鉱山労働者たちの忿恚、貴族が並べ立てる理想論、王威にまつろわぬ革命志士たちが叫ぶ悲憤慷慨にいたるまで、朝廷を降りたルーカスは有りとしある地でさまざまな声を聞き、世にいう荒くれ者や傾奇者とも交流をとり結び、その
「陛下、謁見のお時間でございます」
この退嬰的白昼夢は秘書(世に言う政策担当秘書)のイズモによって中断された。
「何方かな?」
「運河開発局の工事部長からはじめます」
運河開発は即位してからのルーカスが最も注力する鴻謨である。すぐさま彼の
但し、ジーゲル運河落成の青写真は、もとはルーカスの手に成るものではない、万民のための望みとも可移するものではあるが、殊にルーカスを買って潤沢な資金援助を行ってきた北方貴族家のある計画を嚆矢とする。
あまたの栄耀を恣に、北方に権勢を誇っているこの貴族こそスピノール家である(まだ記憶の限りにあれば、イナーシャの生家もこの屋敷であった)。ルーカスは多額なる資金援助を享けたスピノール家の当主に報いるためにも、また王都の水事情を改善するためにも、是非にジーゲル運河を開通させなければならないと強く気負っていた。工事全体の難易度も、予想された工期自体も、それほどおおそれたものではない。渺漫たる
ところに
「申し訳有りませんが、一身上の都合にて、今月限りで官職を返上し、帰郷させていただきたく……」
そう奏上した工事長は、
「この大事業の方方における重要性を鑑みて、尚のことかね」
ルーカスは俯きがちな工事長をしかと正中に見据えて、詰問した。
「はい……ええ、申し訣ございません」
工事長は禿頭を撫で冷や汗を拭った。この国でもっとも高き王座から見下され詰られる仕打も、既に覚悟の上であった。それほど退職したかったのである。
「ポストには新しい人材を据えればいい。心当たりもないわけではない。しかし、不可解なんだ。君のような優秀で適材適所な人材が、なぜこれほどまであっさりと局を去ってしまうのか? もしも労働環境に至らぬ点があるなら、改善するが」
「いえ! まったく個人的な事情でありますとも!」
「それは前任者の重痾と何か関係があるかね?」
「………」
「即時解任は認められないな。あと2ヶ月、いまの現場で指揮を続けなさい。そうしたら退職金も満額だ」
ルーカスの柔和な態度に、工事長は失望さすような二の句も継げず、それ以上の譲歩を引き出す気力もぽっきりと挫かれて力なく項垂れた。ルーカスはそのまま失意なるこの男を退出させた。
「どう思う? イズモ」
禿頭の男が退出してから間をおかず、ルーカスは側にいた無二の側近へ問いかける。指称された彼女は眉根一つ動かさず、間髪容れず冷静に応じてみせた。
「陛下の仰るとおり、後釜に据える新しい人材はいくらでも充当できるかと」
香炉峰の雪に御簾をあげる気遣いも彷彿とさせる三寸不爛の舌先も、しかしルーカスの心内を充分に満足させるものでは無い。
「うん。そうか」
漫然と聞き流してからさる君子は懐から小版の韋編を取り出した。二重の
きっかけは瑣末なことだった。工事に携わる者たちに衍曼流爛するようになったほんの他愛もない噂――「この工事には何か悪いことが重なるようだ」「これは母原様の呪いではないか?」「大変な災いが降り掛かっているのでは?」現場作業者の間で広がる怯え、伝播する動揺を看過しては名折れであると、ある日工事関係者を一堂に鳩合させて訓示し、すべては偶然であると一蹴したこともある。士気は鼓吹されたが、計画に根拠なく蟠踞する懸念や、行く末を阻むように折り重なる不運は清拭しえなかった。そもそもこの種の事業に際しては、着工前に王家直々の地鎮祭をおこなってきたのではなかったか? シロウ王のやり方に則れば、その手筈である。ルーカスはすっかり失念していたが、だからといって、その迷信じみたおこないの欠缺で別段何があるわけでもない、そのことは都の住民ならよくよく諒解している。今更その点を捏ね繰り回しても益がないというのが万人の肯んずるところであろう。ただし、この手落ちは少々責むるべきものではあった。前言の通り実益上はともかく、一部の迷信深い人々(多くは上京してきた地方出身者である)が労働環境に必要以上の不安を憶えるに至った故である。
不図、イズモが書を捲る手許を物見高く覗き込んでいることに気づいたルーカスは、反射的にのけぞって試た。が、遅きに失した。
「!!!!」
「それは……迷信俗説の本ですか? 多少、陛下様には似つかわしくないですね」
イズモはのどかな微笑をたたえつつ隠さずに付言する。王を前にした臣下の態度としてはたいへん不敵なものであったが、有徳の人物は立ち居振る舞いにおいて相手を萎縮させることがない、という好個の実例と言えよう。ルーカスもまた彼女の忌憚ない意見を好ましいものとして咎め立てするつもりなど露聊かもなかった。
「……きみは現世主義者だからなあ。だが、王家の人間としてやっていく上でこれくらいは必要だ、なにせ
「それにしても、その変てこな本、誰の著作ですか?」
ルーカスの周囲に集う人々の殆どは、偶然の一致より寧ろ彼の謹厳実直な性質がそう仕向けたのか、極度の合理主義者で揃っている。だからクラウス王のように迷信めいた言動を繰り返す面妖な人物と対するとすぐさま腰を引いてしまう。そうしたことは重々判っているので、その先何を道おうにもルーカスは躊躇う。
「……クラウス・シャム・ブレイドだよ」
さりげない返答にイズモは驚愕する。
「あの与太者の廃帝が書いたと? まさか。……どんな訳で?」
「金でも欲しかったんじゃなかろうか」
「ということは、そのうち王家の暴露本なども書かれるやも知れませんね」
イズモが鼻摘みの言い種でそう邪推すると、ルーカスはあくまでも理性的に応じた。
「杞憂の域を出ないな。少なくともこの本について言えば、何らかの役に立うという体で書かれた……体を感じなくもないことは確かだよ。いささか、いや大幅に説明不足の感があるけど」
「それにしても、そんな本にあたるとは、ルーカス様は何か思い悩んでおられるのですか?」
「うん。ジーゲル水路の工事は先の通り、難航している。而も実務上は八方手を尽くして万全を期しているにも関わらず、なぜか上手くいかないときた。こんなときクラウスだったら、或は先考シロウだったらと考えずにはおられないのさ。『溺れる者は藁にも縋る』というやつかな?」
するとイズモは少し表情を険しくして、此頃都に膾炙するクラウスにまつわる街談巷語について報告を上げた。
「そういえばそのクラウス――前国王陛下ですが、話によると絶世の美女を館へ迎え入れたそうですよ。なんでも吉原からと云った御方もいるそうです」
「絶世の美女ねえ」
ルーカスが呟くと、イズモは頬に手を当てて顔を顰めた。
「ええ。莫大な金品を費やして身請けして、毎日その美女と宜しく暮しているように、皆が噂しております。官女たちまで……」
「参ったな。兄さんにそんな贅沢をするほど手切金を渡した憶えは無いけど」
「もし後ろ盾となる貴族や豪商から援助を受けているのでしたら、反乱の蜂起にも繋がりかねません。直ちに内部監査をおすすめします」
ルーカスはそうとバイアスをかけて先走ろうとするイズモを宥めつつ、窓外の遥か遠方――東の八条あたりを見遣った。
「うん。でっちあげの可能性もあるし、はじめに手紙の一通でも書くか。ただもし兄さんが所帯を持つなら、こっちにとっても都合がいい」
「?」
それとわかるようにルーカスは明した。
「スピノール家と縁組をする話が最近頓に喧しくて。兄より先んじて結婚するのも世間体が悪いと言っておいたのを、これなら先へ進めておいて良いかもしれない」
イズモはその事情を聞いてぱっと朗らかに転じ
「そうでしたか! では、早速先方へそうお伝えして参りましょう」
と舞い上がったが、皮肉にも当のルーカスこそは矢張何の変哲もない政略結婚である為からか、喜色よりもの憂さのほうが優ったような顔をしていた。国政は何かと物入りのこと、スピノール家との交流は今後とも断ち切り難いとはいえ、現下にあってそれどころでなく、余り気の乗った話ではない。さりとても例の噂であるから、兄と張り合う訣ではないが、重い腰をあげる発心に到った訣である。
にしても、倹しき暮しに甘んじていたはずの兄が、なぜ俄分限のような僭上な振る舞いに及んだのか、ルーカスには判らなかった。元来、
米
クラウス邸に来訪者は尠い。まず正門から入ってくる者はいないし、どうやら門の表通りすら避けてゆく通行人があるとかや。来客予定表も何週間にもわたって空白である。いつ本能寺のごとく燃え落ち、あるいは衣川館のように武装兵に囲まれて刃傷沙汰になりはしないかと人々は恒に冷冷やしている。王位継承権を持つクラウスと現国王のルーカスは兄弟であるが仲が悪く(古人は『蕭牆の患え』とかいう)、重祚を虎視するクラウスをいつルーカスが燮理の
庖厨に入る
それに付けても一際新たしくまた興味深い噂が咲いた。それはクラウスが
肝心要の御本尊であるアデール自身は、人身を藉りて垂迹するも精霊体として隠覆せるも自在であり、且つよそ者の視線を感じるときはきまって姿を露わさないという野生動物のような習性があった。それゆえに神出鬼没であり、そこがまた数奇者たちの貪を燃え立たせ、意馬心猿となって雲集する黒山の人垣を生すのであるが、それも日が高い束の間だけのこと、夕からはまた妖怪沙汰があるとかいって勝手に散り失せてしまう。以上のことは、関係者はすべて裏木戸から出入りする慣わしとなっているので以て問題ではなかったのだが、ただ館の主であるクラウスだけが何とも不愉快そうにしていた。
そんなある日、クラウス邸の正面前に一台の辻馬俥が風馳した。ステップを降りた者は出歯亀する素振もなく堂々門戸を叩く。物珍しき来客であった。
「御主人様、お客様です。お名前はヘックさんといって、定例のご相談? があるそうです」
館にあまりにも人が来ないことを心置きにしていたイナーシャは、これを抃儛して喜んだ。その燥ぎようときたら、主人であるクラウスの眼に不審の極みとして映ったが、重重訝しみつつも敢て胸中は問わないで、唯一言、
「案内してやりなさい」
などて飄々と命じて試ると、鉄砲玉もかくやとイナーシャは一散に、文字通りすっ飛んでいったのである。