序説①
文字数 3,069文字
山案内に導かれてスペルナー層巒の稜線を躙み越えるあいだ、うら若き娘イナーシャの果敢無き幻想は無責任にどこまでも拡大してゆき、軛もなく荒誕に膨脹してゆくのであった。それはこれからメイド奉公しにゆく屋舘の主人が、ほんの1年前まで若き国王であった人物であり、水際立った御稜威を八紘に光被した賢王シロウの跡継ぎとして王位継承した
ところがクラウスはいまジオイアにおいて、重要な地位を占めているわけではまるでない。慥かにクラウスは先王が崩御してからこちら2年ほど袞竜の御衣を纏って
ところがいわずと癡れた人物だからといって、これからそのクラウスの屋舘へ住込みのメイド奉公をしにゆくおのが不如意なるさだめを生女のイナーシャは覆せるわけではない。
だからイナーシャはまだ会ったこともなきいクラウスの為人をなるべく都合の良きように想像しようとした。たとい風狂と咏われてあっても、先入観を排し、物事の良い面までも観照するように心がける。万々一、案に相違してクラウスが才徳溢れる素晴らしき人物であって、容色も端麗な優男であり、その気性は如来様のように篤実温厚であったなら、その寵愛を受く立場で働けるのはなんと僥倖なことだろうと、想像に嬉しくて胸が高鳴った。そんな一髪千鈞をひく推量も実はまったくの無根拠という訣ではない。
2
イナーシャには大切な祖母があった。彼女を鞠育した唯一の
きこえの芳しくないクラウスの屋館へわざわざ滅私奉公に赴くのも、ひとつは給金を稼ぎこれまで受けた祖母の御恩に報いるための仁義徳行という側面も当然あったが――イナーシャの祖母はもとより昔気質の人で、一時代にジオイア國を栄耀の頂点へと導き上げた稀代の名君と頌述されるシロウ王を甚だ崇敬しており、その後継に指名されて波風立たず跡目を継いだ若きクラウスのことも我が孫のように慕っていたという事情に依る。
在位時代、村で寄合う人々がクラウス王の失政ともとられかねない行動に心をざわつかせさがな口をのぼらせるたび、祖母だけはまるで深い事情を心得ているかのように「クラウス様はねえ、とても素晴らしい御方なんだよ」と寛恕して、敢然と彼を庇い立てするのであった。すると若者衆の鼻白んでは
「だが、あの王はロス湖の運河開発を中止させたんだぞ。あの辺りの治水をしないと都が危険にさらされるのは周知のことなのに」
「あの王は白昼でもいつも唐人の寝言のようなことばかり言っているらしいぞ」
と奈辺より風来したやら噂どもを並べるが、
「それはね、王様は特別な力をもっておられるからさ」
祖母は頑としてクラウス王を腐すようなことを曰わない。それどころか彼が大層望ましい資質を具有する王であることは常に自明であるかのような言い草だった。やがて祖母だけではなく、伝統を恪守する老いた者ほどクラウスのことを誉めそやし、逆に帝都へ頻繁に行来するような若者ほど彼が愚王であるという見解を隠そうともしない傾向にイナーシャは勘付いた。両陣の間には踰えがたい懸隔があり、相まみえる勢力同士は決して和議に到ることはないようだった。
「ねえ、クラウスは悪い王様じゃないの?」
ある日、イナーシャは直截祖母に尋ねた。祖母は吾が愛する孫娘に對して一点の蟠りもなく平素の優しい笑貌で応じた。
「あの方はねえ、精霊様が視えるお方なんだよ。万事、精霊様とお話してこの国のことを決めておられるのさ。あんたは信じないかも知れないさねえ、まぁ、このクニではいままでずうっとそうやってきたんだからね」
そうして村に伝わるおとぎ話をそよみなく語って祖母は饒舌になり、あらゆる幻想的心像に黒められてイナーシャは何を訊こうとしたのかすっかり忘れてしまう。長老といわれるほど村で年重ねた古株は誰しも語り部として伝承を繰り返し他者に聞かせる義務のようなものを負っている。イナーシャもまた大好きな祖母から御伽噺のたぐいを百万陀羅に聴かされて育ってきた――そこでは精霊たちがまるで生きている人間たちと同じように振る舞い、ときにはもっと素晴らしく大胆なおこないで応答するのだった。人々がゆえも知らないことも精霊は識っていた。雨を降らせる方法も、穀物を豊かに実らせる方法すら精霊たちは熟知していた。彼らは楽しく、生き生きと、そこでは生命の息吹をもって実在しているかのように扱われた。もちろんイナーシャは声など聞いたことがないし、精霊を見たことがあるという人物もそれと会話できるような人物とも直接会ったことがない、だが世世界のいずこかにはそんな素晴らしい法があり、精霊と人倫の心躍る和合があることを彼女は心のどこかで信じたかった。祖母はもちろん信じており、いまの世にその役割を与えられた者こそ伝統あるブレイド王家の継承者クラウスだと疑わなかったのである。
イナーシャが祖母の言葉を撚って輯めた処によると、ブレイド王家は永永人間と精霊との仲を取り次ぎ、普段は交差することなくかつまた交差してはならない両世界の境界を画定する守護者として君臨する一族である。そのような領分をすべて戴くブレイド家の当主という地位に有りながら、精霊よりは人間の不興を買って3年にも満たない王座を追い落とされたクラウスの、志半ばで逼塞することになった屋敷へと、身の回りの世話から何まで引き受けるための奉公に出される話が持ちあがったとき、村の衆目は当然としてイナーシャを可哀想にと愍れんだ。いまやクラウスが暗愚な君となったことは孰の目にも自明だったからである。だがイナーシャの祖母だけはそんな憐憫もどこ吹く風と、どこかしら誇らしげな様子でもって、餞を持たせてイナーシャを送り出した。クラウスはまだも偉大なる英雄で、この国を治めるに足る大人物という信頼は微塵も揺らいでおらず、だからこそこの誇るべき任務で錦を飾れるように、唯一の身寄りを喜んで差し向けたのだ。祖母のすることが今日までイナーシャにとって間違いであったことは無い。イナーシャは茲を信じ込み、たずきを得たら必ず仕送りをして愛しい祖母に満足な暮しをさせると誓った。こうして涙を呑んで郷愁溢れる寒村を発ち、彼女の新しい生活は始まったのだった。