討虎成人

文字数 7,977文字

郭墨(かくぼく)での戦いから三年が経った。
中央の覇権はこの戦いによって完全にタイ国へと移ることとなった。
この戦いが終わった後も各国で諍いが起ったが、それらの殆どはタイ国が間に入り征伐を行ったり調停を行ったりなど一切を取り仕切っていた。まさに覇者の面目躍如といったところであろう。

因みに郭墨の戦いの数日後に、タイ軍は自国の(たん)という地においてジ王の軍に遭遇していた。戦いの勝利を労う為にわざわざ王が下向したのである。それ故ブン公は王の為にこの地に御殿を建てた。
この御殿でジ王はブン公を(もてな)し、醴酒(れいしゅ)や引き出物を賜った。
更に卿士に命じて侯伯、所謂覇者に任命した。これでブン公は名実ともに覇者と認められたことになる。

この時のジ王はジョウ王と(おくりな)されるが、彼はシインも巻き込まれた、先の安陽での反乱で落命したヘイ王の子にあたる。反乱を起こしたヒン公の娘、ヒン后の子であると言えば思い当たるであろうか。
この時のジョウ王は幼年の為、三公の摂政となっていたのだが、その中の一人、セツ公の元にはヒセキがいることは先にも述べた。
この時の行幸にもヒセキはセツ公の身の回りの世話役という形で参加していた。勿論これはセツ公の特別な図らいによるものであった。
様々な催しがなされる中でヒセキは、ここで初めてブン公の姿を垣間見ることが出来た。
老齢であるが、名実ともに覇者となったブン公はやはり格別の威厳を持っているように感じられた。
だがそれよりもヒセキが注目したのはその股肱の臣達である。
(改めて当人らを見ると、やはり違うな…)
以前にタイ国を訪れているヒセキはその有力家臣の多さに驚いていたが、ここでその本人達が実際に居並ぶ所を間近に見ることが出来たのである。

嘗て覇権を握ったユウ国との違いはここにあった。最初の覇者、ユウ国のカン公は、絶大なる才能を持つトウシュク一人によって覇者の座を得たに等しい。その結末はトウシュクの死によって制止の効かなくなった朝廷内の権力闘争による自壊であった。その泥濘(でいねい)の中でカン公も卒している。祀る者のいない期間が長く続き、果てはその死体に蛆が湧くという、嘗ての栄光とはかけ離れた最期になった。

しかし、タイ国はそのような寡頭政治ではない。ここにいるだけでも卿士は十人はいる。その誰もが苦難を乗り越えた末に手に入れた厳威を持ち合わせていた。
これだけいればタイ国は安泰だ、そう思わせるに十分なものであった。
実際にヒセキも同様な思いでいた。
(これは中々倒れそうにない巨木だな。)
ヒセキのこの皮肉は、いずれ主導権を握るのはジ国であるという野望から発している。
ジ王による王政の復古、そしてその(かたわら)にいるのが自らであるという理想像を彼は日頃から思い描いている。
その為には今ある強国などは障害でしかない。
いずれ燼滅(じんめつ)させてやる、というのがヒセキの腹中であった。

そんなヒセキの心中などとは関係なく、ここでの祝宴は大いに盛り上がった。
中央の者はやはりバン国よりも祖を同じくするタイ国の方が心情的に昵近(じっきん)しやすい。
カン公が亡くなってからはバン国の圧力が常に北からかけられている状態であったが、それを一戦にて撃破せしめたブン公にジ王は感激したのである。ただ正確には感激したのは三公であった。
彼らの目論見はバン国の勢力を排除することにあった。文化も習慣も異にする彼の国はやもすればジ王朝そのものを消滅させかねない、それを三公は危惧していた。しかし、今のジ国の力ではとてもバン国の圧倒的な力には立ち向かうことが出来ないので、代わりの国に頼る他ないのである。
そのような中でのブン公の登場は彼らにとっては僥倖であった。

祝宴の中でセツ公はサンセンと酒を酌み交わした。
「此度の戦、真に激しいものであると聞き及んでおる。その末の勝利、これは父祖のご加護が篤くあったものと言えよう。」
もとより剛毅な質のセツ公であるが、陪臣のサンセンにも決して居丈高な態度はとらない。
対するサンセンは礼を損なわない謙譲さを常に見せてセツ公に接した。
「我が主の祖はブ王の子であります。王室の威光を王に代わり示訓するのは当然の事でございます。」
成程サンセンは国情やジ国の思惑などは悉皆(しっかい)承知であった。
因みにブ王はジ王朝の二代目の王であり、この王が前王朝を打倒している。ジ王朝の中でも特に崇敬される存在であった。
その後も二人歓談を続けたが、セツ公はサンセンの教養の深さには感心するばかりであった。
話によると、放浪時代、行く先々での君主との謁見の際の礼儀作法はサンセンが全て助言をしていたものらしい。
(恐らくは宰相へとなろうものか。)
セツ公の予測は当たっていた。この時より二年後にサンセンは宰相に任命されている。
同時にセツ公はある種の危惧を感じていた。
(臣下は皆優秀であるが、果たしてこれらを御しきれるものであろうか。)
先のジ国での反乱をブン公が鎮めた際に、ジ国からタイ国へ邑が下賜されている。その一つはサンセンに与えられていた。臣下に大功があるとこの様に邑を与えることは典型的な封建制の在り方であった。
勿論こうしたことはこの時代どこでも行われていることではあるが、タイ国の場合、分与する臣下が多いことが問題となる。その国が与える土地にも限度があり、果ては君主直轄の土地の方が小さくなりかねない、つまりは主従の力関係が逆転しかねないのである。
今は主従の紐帯(ちゅうたい)は過去例を見ないほどに固いものであろうことは推察出来るが、このまま代替わりをしていく中でそれが維持されるものであるのか、セツ公はそこに疑問を呈したのであった。
タイ国でこの問題が顕在化するのはまだ先の話である。しかしその予兆を、深い洞察力と長年政治に関わってきた経験を持つセツ公は鋭く感じとったのであった。

ともあれ、タイ国という強力な後ろ盾を得たジ王朝は一応の平安を得た。


郭墨の戦いの三年後、この年はシインにとっての一つの転換期であった。
それは成人を迎えることである。
ジ王朝下では成人は二十歳から、とされているが、シインがいるキ族を始め、多くの遊牧民族は十八歳を成人と認めている。
この年はシインとキキョウの二人が成人する。
キ族の成人の儀式は自分の手で獲物を狩る。狩り場へ行き大人達が獲物を追い立てながら、新成人が見事弓で獲物を仕留めればよいのである。
これまではキキョウを始め未成人の子供達は的を射る練習をしたり、時折野兎などの小動物を狙うことはしたが、大型の動物を相手にすることはしないものであった。この地にいる大型の動物は主に鹿などの角をもったもので、大抵はこれを狙う。牛もいるが獰猛な為、避けられることが多い。
それでも族長のキソウは成人の際牛を獲たという。
勿論その話を知っているキキョウは、
「俺は牛を獲るぞ。」
と以前から息巻いていた。
気鋭縦横なシインも口には出さないが同様に牛を狩る気でいる。
式の日は夏至の日に行われた。あと十日程である。

日が近づくにつれ、二人は高揚感が増してきていた。
いつもの様に皆で連れ立っても本番の話ばかりである。彼らにとっては初めて戦場に立つ様なものであった。

「シュウも大分上達した。鹿くらい射つのは何ともないだろうな。」
「勿論だ。そう言うキョウも鹿では満足しないだろう。」
二人は顔を見合わせて不敵に笑った。
遊牧民族の生活の長いシインの口ぶりはキキョウにつられたのか、幾分砕けたものになっている。
そういう二人を傍で見ているコクは彼らがすっかり大人びて見えていた。自分も早く追いつきたい。早く大人になって二人と共に自由に野を駆け巡りたい。それがコクの望みであった。
そしてその羨望はトツとトウも同様であった。
本来ならば女であるトウは乗馬などする必要はない。しかし二人の兄弟やシイン、コクなどと居るうちに自然と習いたいと思う様になった。
「古くは戦場を駆け巡り、国に平安をもたらした女傑もいる。」
トウはシインからその話を聞き、すっかりその気になっていた。
初めは馬に乗ることに難色を示していたキソウとキフクであったが、子供達の熱気に負ける形で許していた。
遊牧民族の歴史の中でも女戦士が居た、という話があるというのも一押ししていたこともある。
実際にトウの乗馬技術も筋が良く、このまま成人すれば一端の戦士になれそうである。
末弟のトツも皆に遅れまいと必死である。その真剣さは修練の密度をあげている。同じ年の者と比べたらその差は大きいものであろう。

子供達は皆有望な戦士になりそうだ、キ族の大人達は皆心裏にそうした期待をもつ様になっていた。


儀式の日の朝は雲ひとつ無い快晴となった。
乾いた大地は地平の先まではっきりと見通す事ができた。
何時もより早く目が覚めたシインは外に出て空気を吸い込んだ。気持ちの良い朝であった。
「いい空だな。良い獲物が見つかりそうだ。」
シインが起きたことに気が付いたのか、キキョウも外に出てきた。
「お早う。良く眠れなかったのか。」
シインの揶揄(からか)いにキキョウは笑って返した。
「ははは、そんな訳ないだろう。そういうシュウこそ眠れなかったんじゃないのか。」
「実を言うと、そうだ。」
一方のシインは空を見上げながら正直に答えた。

いつもと変わらぬ生活が始まった。
浮ついた気持ちでいるのが自分達だけかと思う程に普段通りの朝である。
昼を過ぎた頃に出る、と前日族長から聞かされていた二人はやはり落ち着かなかった。

「一度外に出てみるか。」
キキョウにそう誘われたシインは腰を上げた。
いつもの五人でいつもの場所へ行き、そこで馬を駆けたりして時を過ごした。
彼らは草原の中に珍しく顔を覗かせている岩の上でいつも休息をとっていた。小高い岩の上からは少しだけ眺めが良い。皆なんとなくこの場所が気に入っていたのである。

この日も同じように皆で岩の頂上に腰掛け話をした。
「明日からはこうやって集まることもできなくなるな。」
キキョウが明るく言うと、年下の三人は顔を曇らせた。シインとキキョウの存在感が大きいだけに、喪失感も大きくなるのは当然の事であった。
「悲しんでいる暇はないぞ、お前達も同じ事が出来るようにならねばならんからな。」
シインはそう言って三人を励ます。
「すぐに追いついてみせるわ。」
トウは真っ直ぐな眼でそう言い返すと、残りの二人も大きく頷いた。
頼もしいな、とキキョウは大笑した。
その後も五人は談笑して時を過ごした。


それを最初に察知したのはコクであった。
一声も発することなくただ顔面が一瞬にして蒼白になった。
そのコクの様子に気付いたキキョウはすぐにコクの視線の先に顔を向けた。

虎である。

キキョウは己の血の気が引く音を聞いた。
呼吸も許さぬ刹那の中で、それでもキキョウの脳裏に浮かんだのは、
(皆を守らねば。)
という一念であった。
しかし、手を広げ弟達を背後へ押しやろうとした瞬間、視界が遮られた。
シインであった。

彼は既に剣を抜き、足を踏ん張り虎を睨みつけていた。
これを見た虎は進む足を止めると、周りを囲むように歩き始めた。

この時のシインの行動は真に適切であった。
シイン達の居た岩場の背後には背の高い草が生い茂る一帯があり、虎はそこに身を伏せながらゆっくりと彼らに近づいていたのである。
あと一歩踏み込んでいれば彼らに飛びかかれる所まで来ていたが、そこにシインが立ちはだかったのである。
その為、接近に気付かれた虎は奇襲から已む無く臨戦態勢に入ったのである。当に間一髪の間合いであった。

初撃は回避したシイン達であるが、死地にいることに変わりはない。
弟達三人は完全に血の気を失い、トウなどは身を震わせている。
キキョウも剣を抜きながらもこの状況を打開する術を知らなかった。大人達にこの危機を知らせたいが、この状況になっては不可能である。
吹き出してくる汗が顔を伝う中、キキョウはシインの顔を伺うと震驚した。
シインは今までに見たことのない烈しさで虎を睨みつけている。まるで鬼神かと思う程であった。その気は少しも虎の威に負けてはいなかった。
虎の足が(にじ)り寄った瞬間、シインが吠えた。
「これ以上近付くとその首をはね落とすぞっ」
聞いたことのない大音声に先ずは虎が身を竦ませた。
同じく震躯したキキョウ達であったが、その声を聞いた反応は虎とは違った。不思議と奮い立たされたのである。
トウは身震いを止め、コクやトツ達と共に真っ直ぐ虎を睨みつけた。
キキョウも得物を弓に替えて虎へと引き絞る。
獲物の纏う雰囲気が全く変わったことに気付いた虎は完全に攻め時を失った。

どれほどの時間が経ったであろうか。
弟達三人は流石に長く緊張感は保てない。それでも必死の形相で虎に相対することが出来たのはシインが身動ぎひとつせず皆の前に立っていたからである。
一方の虎の方は焦れてきたのか、牙を剥き出しにしては威嚇の唸りを上げ始めた。
そこでシインが動いた。ゆっくりと岩を下りて虎へと近付いたのである。
焦ったのはキキョウである。この場合少しでも高い位置にいた方が有利である。それを自ら捨てるのは自殺行為に等しい。
しかしこの行動は虎の標的を自分に絞る為であることはキキョウは察していた。
彼もまた虎の視界にわざと入る位置に移動して弓を構え直した。

虎の意識は完全にシインに向いている。
一騎打ちの様な場になったことで一層の緊迫感が辺りを包んだ。この緊張の高まりが行き着く先は、互いの牙と剣が交わる時である。
果たして虎の牙にシインが勝てるのであろうか。
キキョウや弟達は固唾をのんで見守る他なかった。

シインは全神経を向けてその瞬間に備えた。
迷えば負ける。手に滲んだ汗で剣が滑らぬ様、強く握りしめる。
彼はその手に持った剣を虎の口中深くに突き立てる事だけに集中した。我が身はどうなろうと構わない。
確実に虎の命だけはとる気でいた。
研ぎ澄まされた感覚はその瞬間が近いことを察知していた。

(くる。)

その瞬間、虎の背後から数本の矢が飛んできた。
そのうちの一本は虎の腰辺りに突き立った。
予期せぬ攻撃に虎は飛び上がってその方向を向いた。

力強い雄叫びと共にキ族の戦士たちの駆る馬が猛進してきた。
弟達の目に涙と希望の光が宿った。思わず声を上げて戦士達に手を振った。
やがて現場へと到着するとそのまま虎を囲むようにして駆け回った。
シイン達のもとへはキソクがやってきた。
「皆無事か。」
やや息が上がっているところを見ると一目散にここに急行したことが知れる。

キソク達は子供達の帰りが遅いことに首を傾げていた。
そこに今日の成人式の狩場を探していた族人達が帰着し、虎が出没しているようだと聞かされた。
まさかとは思いながらも族長に事の次第を告げると、自らは数人を率いて先発したのである。
そしてキソクの予感は的中していたのであった。

「危なかった。」
キキョウはキソクにそう言いながらシインに駆け寄った。
シインの放つ強い気はまだ衰えてはいない。
二人は目を合わすと黙して頷いた。幸い馬は逃げずにいる。

「あの虎を狩る。」
キキョウはそう言い放つと、シインと共に馬へと駆け寄っていった。
驚いたキソクは言葉を失ったが、不思議と止める気はしなかった。
二人の、特にシインの放つ気は戦場に立つ将の様であり、その挙措(きょそ)に逆らい難いものまで感じさせるものであったからである。
虎を追い回す一団にシインとキキョウの二人が加わった。
「俺たちが仕留めるっ」
そういって駆け込む二人に大人達は耳を疑ったが、彼らもまた二人の勢いに圧される形で従った。
この場での動揺は虎に付け入る隙を与えることになる、そういう経験的思考もある。
付かず離れず、一撃を放っては囲いの輪の外に逃げ、虎が追おうものなら別の者が攻撃を仕掛けて牽制する。
これを繰り返して体力を消耗させるのである。
シインとキキョウもそれに倣い、弓や剣を振るった。

「そろそろいいだろう。」
そう叫ぶキソクに呼応して、キキョウとシインが同時に飛び出した。

二人して弓を番えて接近した所に、急に虎は身を翻してシインの方を襲った。
この角度から飛び込んでこようとは思っていなかったシインは思わず手綱を引いた。
虎がこちらに向いた驚きも併せて、シインの馬は棹立ちになる。
シインは地面に投げ出された。

「あっ」
大人達が声を漏らす。
凄惨な結果を皆が想像した。

しかしその虎の横面にキキョウが矢を射掛けた。
彼は危険を顧みずシインを助ける為に駆け寄っていたのだ。
キキョウの矢は虎の右目を潰した。
狂乱した虎は尚もシインへ襲いかかろうとした。
その虎の目に映ったのは、これもまた弓を引くシインの姿であった。
シインが矢を放つのと、虎がシインに覆い被さるのは同時であった。
キキョウや大人達は声を失いながらも駆け寄った。


果たしてシインは無事であった。
少し爪に腕を裂かれながらも、ほぼ無傷である。
虎の眉間にはシインの放った矢が深々と突き立てられている。虎は絶命していた。

瞬間、歓声が上がった。
熟達した大人でも虎を仕留めることは容易ではない。
それを年端のいかぬ者でやり遂げたのであるから、その勇気と技は大いに称賛に値する。
この場にいた大人達は手放しで祝福した。

当のシインは緊張から開放されて一気に脱力した。
眼前の虎を見ても、自分がやったとは思えない。それほどまでに必死であった。
地面に仰向けになるシインに、同じく憊喘(はいぜん)したキキョウが歩み寄る。
二人は(しば)し目を合わせると、固く抱擁した。言葉はなかった。
それを見た周りの者は再び歓声を上げて二人を抱き起こした。
「凄いぞ。お前達は本当の戦士だ。本当に凄い。」
周りの皆と同じくキソクも破顔して喜んでいる。誰もが普段見せない顔でいた。
二人は拳を突き合わせた。

暫くして異変を聞きつけたキソウら残りの大人達が急行してきた。誰もが地に伏せた虎に目を見張っている。
シイン達のもとへきたキソウは、
「お前達がやったのか。」
と問うた。
二人は胸を張ってそうだ、と答える。

キソウはその大きな体躯で二人を抱きかかえた。
「よくぞ仕留めた。お前達は間違いなく誇りあるキ族の戦士たちだ。」
それを聞いたキキョウは涙を流した。
それを見たシインもまた、瞳を滲ませた。


この日の晩は大変な盛り上がりとなった。
普段は倹約的な食事も、酒や肉が大いに振舞われた。シインにとっては初めて見る光景であった。

この騒ぎの中心であるキキョウとシインの前にも多くの食事が盛られている。
二人が目を丸くしているところに族人が酒を注ぎに続々現れた。もう成人だから、と飲ませる量に遠慮はなかった。
族人は皆口々に二人を讃えた。それ程に彼らの成し遂げた事は快事であった。
キソクや妻のキチョウも酒を持って訪れた。
「これは末代まで語られる虎狩りだぞ。」
既に酔いの回っているキソクは笑顔で言う。彼もその場にいたのであるから、そこら中で狩りの顛末を言いふらしているのであろう。
「本当に凄い事だよ。シュウも無事で良かった。」
キチョウは感動と安堵の混ざった涙を浮かべてシインの手を握った。
「ありがとう。」
「確かにシュウは死ぬところだったんだ。」
シインが礼を言うや否や、キキョウが口を挟む。彼は終始この調子である。この後は彼が長々と武勇談を語るのである。
しかしこの夜はシインも多いに笑って楽しんだ。酒の力も働いたとはいえ、シインが心から気を許したのはこれが初めてであった。
勿論コクや弟達も二人のもとに来た。彼らの目はすっかり尊敬の眼差しをしている。
キトツはすごい、すごい。と未だ昂奮が冷めないらしく、コクに延々とその理由を拙い言葉で説明をしていた。それを聞くコクも同じ熱量である。
炬火と笑声は夜が更けるまで続いた。


徐々に寝入る者が増えてきたところで、二人は族長に呼ばれた。
二人が族長の家屋に入ると、そこには族長ただ一人であった。その様子を見た二人は、酔いを醒まされる思いで少し背筋を正した。
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登場人物紹介

シイン。姓はキ、諱はシュウ。

レツ公リョウの公孫にあたる。

幼くして国を失う。

シキョウ。姓はキ、諱はキュウ。

レツ公の子、シインの父。


ランキ。姓はラン、諱はキ。

シキョウの家宰。ランソクの父。

シンユウ。姓はシン。字はユウ。ジ国の臣、シン氏の女。シキョウの婦であり、シインの実母。

ランソク。姓はラン。諱はソク。ランキの子。

テキ。のちにチョウ姓を名乗る。幼い頃からシインにつき従う。

シン。テキの弟。チョウテキと同じくチョウ姓を名乗る。

シインに従う。

ガン。後ウ姓を名乗る。テキとシンの友人。彼ら同様シインに従う。

ヒセキ。姓はヒ。字はセキ。諱はソウ。

ジ国の人。シインとは不倶戴天の存在。

キキョウ。

南方の遊牧民族キ族の族長の長子。

シインの義兄。

キトツ。

遊牧民族キ族の族長の子。キキョウの弟。

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