大地の厳しさ

文字数 6,793文字

タイ国とバン国が激しく衝突したのが冬であったが、遠く離れた南辺の地にいるシインがこの出来事を聞いたのは夏の頃であった。

「バン国とはそんなに強い国であったのか。」
興味有りげにキョウがシインに尋ねる。
シインは薄っすらと憮然な態度を見せながら頷いた。


シインがキ族へ来てから二年になる。
中央の国からすると所謂夷狄(いわゆるいてき)と蔑称される遊牧民族の中で、彼は身なりもすっかり遊牧民のそれとなっている。
族長の長子であるキョウにひと目で気に入られたシインは、逃亡生活の中で偶然出会った少年のコクと共に一族同等の扱いを表面上受けることができた。
表面上、というのはやはりキ族の者が皆素直にそれを受け入れないでいる、ということであるが、それは仕方のないことであった。突然にキョウが義弟とする、と言い出したので、他の族人達は口を差し挟む暇も無かったのである。族長のキソウも何も言わなかったことでそれが一族の決定事項となったのだが、だからといってそのまま諾々と受け入れられるものではない。

遊牧民族の者達は中央の人間から蛮族と罵られていることを知っている。そのように蔑視を向けられていながら尚も彼等に好印象を持つはずもない。敵意を露わにする者を多く抱える族などは積極的に邑へ寇掠(こうりゃく)を行い、人や物を奪い去っていく。奪われた側から見れば、それは突然の暴力としか映らないので彼等に対する怨みが蓄積される。そうやって更に両者の溝が深まっている訳だが、シインは正にその渦中に身を落としたのである。
シイン自身、今でも完全に馴染めたとは思っていない。
姿も遊牧民のそれとなり、積極的に生活に溶け込むよう取り組んできたが、それでも消えない(わだかま)りというものは存在した。
しかし、だからといって自暴自棄にならないのがシインの美徳と言えよう。彼はいずれ受け入れられるものと信じて諦めずに尽くしてきた。族の女や子供達の多くはその姿勢に感化され心許し始めている。

そんな中でキョウの大度には救われていた。
彼は族内にあるこうした空気を一切気にかけずシインに接してくれている。こうした細微に(こだわ)らない性格は長としての素質としては申し分ないものであろう。
この性格は見習わなければならないな、とシインは内心尊敬に近い感情を抱いていた。

彼等は暇が出来るとキョウの弟であるトツ、妹のトウ、そしてシインの義弟となったコクの五人で連れ立って馬で駆け回ることを日課としていた。
馬を乗りこなすことは遊牧民としては必須の技である。その上で武器を振るえるようにならなければならない。遊牧民の子供達は成人までにこれらを習得せねばならないのである。
それなりに年を重ねたシインは習得するには遅すぎるくらいであったので、キョウの指導のもと、必死に訓練をしている。コクはトツとトウが付きっきりで教えた。
その合間の休息中にキョウが仕入れてきた中央の話を持ち出したのである。

バン国がタイ国に惨敗した。
あまりタイ国について深くを知らないこともあり、シインは動揺した。
(あの国が負けるとは。)
仇敵とはいえ過小評価などはしないシインであるが、そのバン国が敗れる、という話を聞くとまでは思っていなかった。それよりも天下の動きに全く追従出来ていない今の我が身の居所に戦慄したといってもよい。

早く戻りたい、という気持ちは心の片隅に常にある。しかし彼はそれが不可能であることを承知している。この何もない広大な大地に身一つで逃げ出しても三日ともたないであろう。この大地で出会うのは野生の動物か遊牧民族くらいなものである。遊牧民に見つかれば再び捕まり奴隷として売られるのが目に見えている。
それにコクを一人残していく訳にもいかない。自分が逃げたとなればその怒りはコクに向けられるであろう。
(そうなればここにいる皆もどう行動するか分からない。)
シインは今いるキョウ達三人を見渡した。
今は年相応に仲良くやっているが、族全体の雰囲気が本当に険悪なものになれば、さしものキョウでも態度を変えるであろう、とシインは思っている。
族人と同様にシインにもそういった疑念が根底にあるがゆえに、両者の視えない部分の溝は埋め難いものとなっていたのである。

根掘り葉掘りシインの事を聞いてくるキョウは、既にシインから様々な国のことを学んでいる。
それでも話に聞くばかりでは実像を捉えきれない。
戦えば我が族の方が強い、キョウにはそれくらいの認識でしかない。広い大地を行き来するものの、中央の事などほどんと知る機会のない遊牧民族であるのでキョウがそうなるのも無理のない話ではある。
「馬を乗りこなすようになれば、兵車だのなんだのは相手にならん。我等の疾さについてこれる者などいるものか。」
自信満々でキョウは(うそぶ)く。

確かに騎馬の機動力の高さにはシインも目を丸くした。騎馬の戦闘をしっかりと見る機会が無かったシインでも、
(これでは容易に勝てぬ訳だ。)
と納得せざるを得なかった。

馬で駆ける速さは歩兵では当然対応出来るものではない。遊牧民の馬捌きは手足を使うが如くで、その小回りの良さには今度は兵車が対応出来ない。
その上、騎乗での短弓による射撃も鍛錬を積むことで高い命中率を誇る。
遊牧民族の戦士は一、二度攻撃を行うと馬を返して相手の攻撃範囲外まで逃避するという、所謂一撃離脱の戦法を主体とする。彼等はこの戦法を用いることで中央の兵等に圧倒的優位を得ていた。これがジ国をはじめとした様々な国が遊牧民族に手を焼いている一因であった。

しかし、今のシインは逆にそれを学べる立場にいる。
これも遊牧民族を知る良い機会である、と彼は前向きに捉え、真剣に修練に取り組んだ。
実際のところ、男で乗馬が出来なければ族内ではほとんど存在意義がないものと見なされるので、乗馬習得は不可欠なものである。元々向学心の高いシインはそうした事情もあって着実に技術を積上げていった。

そんな中で、付かず離れずシインと共にいるコクは驚く程上達が早かった。
コクはここに居着いた時から馬に対して強い興味を抱いていた。馬にもその気持ちが通ずるのか、どの馬も不思議とコクには容易く懐く。体格が小さかった頃には乗る馬も限られていたが、二年経った今はぐんと背が伸びて、同じ年頃のトツよりも体つきは大きくなっていた。それにつれて乗ることの出来る馬もシインと変わりのないものとなり、それを見事に乗りこなしていた。
乗馬技術だけならシインよりも上であった。それよりかキョウですら敵わないと思わせることもしばしばである。
これにはシインやキョウも舌を巻いた。
「まるで心が通じ合っているかのようだな。」
キョウがそう褒めると、
「声は聞こえないけど、行きたいと思ってるところは分かります。」
少し照れながらコクはそう言った。
キョウはそれを聞くと、蒼空に向かって呵々(かか)と笑った。
「末にはきっと一番の戦士になるぞ。」
彼はまるで我が事のように言う。彼の屈曲のない性格は横で見ているシインも清々しさを感じる程であった。

天高く鳥が飛んでいく。
その後も日が傾くまで皆で修練に励んだ。
謀略渦巻く中央の泥濘(でいねい)さなどは微塵もないこの尤大な大地で小さく生きるシイン達は、まるで大地の揺り籠に揺られる無垢な赤子のようであった。


日が落ち始めたら食事の時間となる。
シインとコクはキョウの強引な計らいで族長ら家族の中で食事を摂るようになっていた。
「馬の扱いに関してはコクが一番だ。本当に上手い。末は良い乗り手になるぞ。」
ここでの話の主役も大抵はキョウである。この饒舌さは一体誰に似たのか、少なくとも寡黙な族長ではないようである。

「そんなに上手いか。」
馬の扱いということになると、少し興味が湧くものらしい。族長が珍しく反応した。
「そうです。」
父の反応が嬉しかったのか、キョウは更に口数を増してコクを褒めそやした。当のコクは身の置き所がないといったような顔をして俯いている。
「まるで自分の話をしているようだな。」
族長の弟であるキソクがそう冷やかして笑った。
彼はキョウ達からすれば叔父にあたる。族長のキソウよりは人当たりの良い性格をしている。
「気を付けないと、全てキョウの手柄になってしまうわね。」
キソクの妻、キチョウがそう言うと、座がどっと沸き立った。
「本当に調子のいい子だねあなたは。」
キョウの母、キフクも笑いながらキョウを(たしな)めた。
このようにこの一家は常に明るい雰囲気に纏われている。
(この明るさは好きだ。)
シインは純粋にそう思っている。しかし、そう思いながらもこの温かさの輪に入りきっていない自分も認識していた。コクは幼い分そのような感情はないが、シイン隣りに居て彼の心奥にある何かを薄っすらと感じ取っていた。

キフクはキョウからシインの話を聞いたときも、疑問も持たずに迎えてくれた。キソクやキチョウも同様である。
その包容力には裏表がない。にも関わらずそれを素直に受け入れられない自分自身にシインは困惑していた。何故受け入れられないのか明確な理由が見つからなかった。
嫌われている族人には取り入ろうとするのに、始めから歓迎している者達には逡巡(しゅんじゅん)する。
この矛盾が解決出来ないままにシインは日々を過ごした。

過ごしやすい夏が過ぎ、大地は冬へと向かい始めた。
太陽が天にある時間も徐々に短くなっている。
シインのいるキ族は家畜に食べさせる草のある地へと北上した。これから冬に向けてどんどん蓄えなければならない。皆が食べる食糧、家畜の餌、燃料など用意しなければならないものは多い。
冬の間、野にはほとんど何もなくなる。人の食べる獲物は勿論、家畜が食べる草なども雪の下に埋もれる。
本格的に冬が来る前にしっかりと準備をしておかなければならないのである。
キ族の男達は羊や牛などを屠り、女達がその肉を干し肉にするために乾燥させる。
燻製を作るのには牛糞を使う。遊牧民族の往来する地は乾燥地帯であるので、ほとんど糞の臭いなどはしない。その牛糞を燃やし、その煙で暖をとったり、肉を燻製をするのである。毎朝この牛糞を回収するのは通年の仕事であるが、背負籠にこれを沢山詰めると相当な重さとなり、かなりの重労働となる。
家畜に食べさせる干草なども蓄えておく必要がある。
遊牧民にも定住をしている者達がいる。そこは生活の場、というよりも交易の場と思えばよい。足りない干草などはここで手に入れることもできるが、勿論ただではないので金品がなければならない。
つまりは遊牧民の生活は決して悠悠としたものでは無いということである。

その日、シインはキョウと共に家畜の放牧に出た。
ここ最近になってシインも放牧の仕事を任せられるようになっていたのである。
キョウなどはもう慣れたもので、馬を駆りながら適当な牧草地を探しては上手く家畜を誘導していく。
「シュウは羊をみてくれ。」
キョウはシインにそう頼んだ。
そろそろ任せても良いだろうとキョウは踏んだのである。

雨の気配が全くない青天の下で、大地にあるのはシインと羊達だけである。
今までキョウの家畜捌きを注視していたシインであるが、いざ自分が行うとなるとまるで思い通りにいかない。
「羊に下に見られたら言う事など聞きはしないぞ。」
意地悪な笑みを浮かべたキョウからはそう助言を受けたが、早速その通りになっているようである。
気ままにのんびりと草を食む羊達をよそに、シインは一人汗をかきながらまとめるのに必死になっていた。

それでも徐々に扱いに慣れてきたシインは、帰る頃には上手く羊達を誘導出来るようになってきた。
(なんとかなりそうだな。)
一つ達成感を得たシインはその後キョウと合流した。
「その顔を見ると、上手くやれたようだな。」
シインはそう言いながら笑みを浮かべるキョウに笑顔で返した。
「始めのうちは苦労した。キョウの言う事が、やってみて理解できたよ。」

そのまま二人は他愛もない話をしながら皆のいる宿営地へと帰っていった。
丁度、男達も帰ってきたところであった。
父上、とキョウが駆け寄る後をシインも付いて行った。
そこに、族人の女が急いで駆け寄ってきた。
「羊の数が足らないわ。」
それを聞いたシイン以外の者は皆顔色を変えた。

すぐにキソクが馬のもとへ駆けていき飛び乗ると、鞭をいれて探しにいった。その後を他の族人の男達が数人追っていく。
急ぐキソクの顔は無表情でいて険しかった。

「羊を見ていたものは誰か。」
いつも以上に厳格な表情のキソウの態度にシインは思わず声を失った。
「キョウか。」
キソウの鋭さの矛先がキョウに向いた。
「違います。シュウです。」
キョウは即座にそう答えた。彼もまた族長の態度の急変に恐懼していた。
「違いないか。」
今度はシインに視線が向けられた。
「はい。」
そう答える声は震えていた。
その瞬間、シインの視界は白黒に混濁した。
彼はキソウに殴り飛ばされていた。
傍で見ているキョウや、騒ぎを聞きつけて来たコクやトツ、ヨウなどは余りの激しさに息を飲み込んだ。
そのままキソウはその場を去ろうとした。一々訳は話さない。
その足に縋るようにしてキョウが叫んだ。
「待って下さい。弟の過ちは俺の責任でもあります。俺も同じ罰を受けます。」
一瞬動きを止めたキソウは、キョウの方を向くや同じ様に殴打した。キョウの体は大地に転がった。

突然の出来事に思考がついていかなったシインだが、徐々に我に帰ると同時に不可解な思いに駆られた。
居なかった羊は二頭だけである。百を超える数の中の二頭で何故ここまでの仕打ちを受けるのか。
男達はそれぞれ散じたが、それと入れ代わるように来たキフクがシインに歩み寄った。この時の彼女の言葉はシインの疑問に答えるものであった。
「羊一頭は私達の明日一日の命を繋ぐ大事なものなの。たかが一頭などとは誰も考えないわ。族長は皆の命を保証しなければならない。それは分かるわね。」
優しく諭すキフクであるが、その目は厳しいものであった。


遊牧民族の暮らしは自給自足の生活である。欲しい時に買いに行けるというものではない。常に食糧の確保の問題は念頭に置かなければならないのである。
キフクの言う通り、族長はその食糧の確保を常に留意せねばならず、それが出来ない長では皆の信頼も得られず、末は対立の火種となる。そうなってしまっては最早この過酷な大地で生きていくことなどは到底出来ない。
皆が等しく生きていくためには何よりも結束が必要不可欠なのである。
シインはその轍を外れたためキソウに罰せられたのであった。

地に膝を付いていたキョウにシインは歩み寄った。彼はこの件の重大さを理解しているだけに悄然としていた。
「キョウ、何故自分から責めを負いにいったんだ。」
彼はシインの言葉を聞いて吐き捨てる様に言った。
「お前は俺の弟なんだ。当然のことだろう。」


その日の夜、シインは寝床でキョウの言葉を反芻(はんすう)していた。
シインはここに至って自分の立場というものを正しく理解した。
今までは、自分はレツ国のシインでありこの地に不本意ながら住まうことになった、と思っていた。
しかし現実はそのようなジ王朝の肩書を高掲していられる程甘い世界ではなかった。
実際の遊牧民族の暮らしは先にも述べた通り生活に余裕のあるものではなく、明日も皆が生きていくために懸命に働かねばならない過酷なものであった。
今までシインがしていたことはただの手伝いで、ほとんどは族人の手によって行われていたに過ぎない。
(そんなことにも気がつかないとは。)
彼は自分に腹が立った。
命を繋ぐために羊の首を切り、内臓を掻き出して肉を取る。その作業の一つもシインは行っていない。ただ調理されたものが目の前に出されていた。これまでがそうであったように、ここでも当たり前に食事が摂れるものと思い込んでいた。
その認識の甘さが今回の過ちを引き起こしたと言ってよい。
とはいえ、シインはまだ成人していない言わば子供である。思考の至らぬことがあって当然である。
それでもキョウに在って自分に無いものが何であるか、それを(さら)された一件であったと言える。

(しかし…)
その後のキョウの言葉にもシインは動揺した。
キソウに殴打された動揺の後なだけに、より震蕩(しんとう)されたのかもしれない。
「お前は俺の弟だ。」
その誠直な言葉がシインの心に深く届いた瞬間であった。
彼の言う弟が、例えでもなく本当に弟として自分を見ていたのである。
そう思えば、キョウの母や叔父母などの態度もただの優しさではなかったと言える。
(そうか)
シインの心の中で散乱していたものが一つに繋がった。
それは単純であり、根元的であった。
(全ては生き抜く為なのだ。)

この地の夜は満点の星空で埋め尽くされる。冷えの入り込んだ星空は一層輝きを増して見えた。
暖かい寝床で横になっていた身体に疲れが溢れ出た様にシインは感じた。
彼はそっと目を閉じた。その手には亡き父から託された玉が握られていた。
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登場人物紹介

シイン。姓はキ、諱はシュウ。

レツ公リョウの公孫にあたる。

幼くして国を失う。

シキョウ。姓はキ、諱はキュウ。

レツ公の子、シインの父。


ランキ。姓はラン、諱はキ。

シキョウの家宰。ランソクの父。

シンユウ。姓はシン。字はユウ。ジ国の臣、シン氏の女。シキョウの婦であり、シインの実母。

ランソク。姓はラン。諱はソク。ランキの子。

テキ。のちにチョウ姓を名乗る。幼い頃からシインにつき従う。

シン。テキの弟。チョウテキと同じくチョウ姓を名乗る。

シインに従う。

ガン。後ウ姓を名乗る。テキとシンの友人。彼ら同様シインに従う。

ヒセキ。姓はヒ。字はセキ。諱はソウ。

ジ国の人。シインとは不倶戴天の存在。

キキョウ。

南方の遊牧民族キ族の族長の長子。

シインの義兄。

キトツ。

遊牧民族キ族の族長の子。キキョウの弟。

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