それぞれの道

文字数 8,404文字

安陽(あんよう)では王不在の時が数日間続いた。
セツ公とジン公ロウ公らの三公は、荒れた宮殿を最低限修復すると直ぐさま後継者を選定した。
かのヘイ王の溺愛したレイ后は、子と共にレイ国へと逃げ帰っていた。一方の亡きヒン后の男子は新たな君主となったヒン公の元にいる。
どちらに跡を継がせるか。しかしその答えを出すのにはそう時間はかからなかった。
「ヒン后の御子が適当であろう。」
三者の意見はそれで一致していた。
そしてこの件に関してはタイ国のブン公も参画していた。
安陽に進軍し、狼戎らを駆逐して周囲の安全を確保したのは他でもないブン公である。正に覇者としての面目躍如であった。そのブン公も後嗣はヒン后の子が良いと後押ししたのである。
かくしてヒン后の子が即位した。この王は後にキョウ王と(おくりな)される。
もちろんまだ幼年で政を摂ることは出来ないので、太保(たいほ)であるジン公を中心として摂政が行われることとなった。
ジ王が弑殺されるという事態にジ国の民は少なからず動揺したであろう。しかし安陽にいる民はそれ以上に邑内を破壊されたことの方が衝撃であった。
目ぼしいものは略奪され、女子供などを中心に多くが誘拐された。これらは奴隷とされたり、女であれば無理やり娶らされたりした。

街の中は様々な状況に置かれた者で溢れていた。
子を亡くした者、親を失った者、家を破壊された者。
戦いに敗れるということは、全て財産も尊厳も蹂躪され残された者に深い傷を負わせる。
この様な戦いの連鎖を断ち切ったのが初代ジ王であり、その威光を継いできた各代のジ王により少なくとも王都の民は戦火を免れることが出来た。
だが、今回の乱でジ王の力が弱まっていることを安陽の民は知ることとなった。これは以前より他国の主だった者たちには知れたことではあったが、中央にいては見えぬ、ということはままある。
ここにいても身の安全を保証されるわけではないと分かった国民達だが、だからといって他に逃げる当てもないのが大多数である。この時代(つて)もなく他国に渡るのは危険を伴う。財貨があれば話は別だが、少なくとも王都の生活以下になることは目に見えている。今より劣る質の生活に進んで下る者は少ない。結局どこにも逃げずに留まるばかりである。
それでも王都なだけあって、各地から商人が集まり早くも復旧の音があちこちで聞こえてくる。

そんな中、平民街の者たちの間で度々上る話題があった。
「貴族の女がこの界隈を徘徊している」
というものであった。
この日もその女を見たという者が会話をしていた。
「あの服装は間違いなく貴族のものだ。裾が汚れるのも厭わず歩き回っているのを見た。」
「貴族の方が求めるものなどありゃしないってのに、一体何をしてるんだろうね。」
「どこか上の空のようで、ある人はあの女はもう死んでいると言っていたぞ。」
「恐ろしい。ひどく荒らされた貴族の邸もあるそうだし、もしかしたらそこの死んだ人であるやも知れぬ。」
そう噂する巷間(こうかん)を歩いているのはガンである。
彼は騒動の後シインの行方を求めて街の中を調べて回っていた。勿論ガンだけではない。テキやシン、ランソクも同様である。
彼らはシインがここに来ていたと確信していた。
「自分たちの身を案じて駆けつけていたのだ。」
その義侠心がシインは人一倍強いことは十二分に分かっている。その結果がシイン失踪ということであることに彼らは激しく悔恥(かいち)した。
彼ら三人は血眼になってシインの消息を探聞して回った。

その日の夕刻になってシンカンの(やしき)に各人が蹌踉(そうろう)と帰ってきた。成果は皆の表情を見れば瞭然(りょうぜん)である。
その暗い邸の中にはランソクの姿もあった。
彼は彼で自らを激しく責罵していた。
(なぜ無理にでも共に出掛けなかったのか。)
そればかりが彼の頭を巡り続けた。
彼の父であるランキも彼を折檻(せっかん)した。
「一体何の為に己をシイン様に附けたのかわかっておるのかっ。」
毎夜成果の無い報告を受ける度にランキは涙を流しながら棒で打ち据えた。ランソクはそれをひたすら低頭して受け続けていた。
シインは彼らにとっての唯一の希望である。
亡きシキョウの遺志を継ぎ、家を再興させることが彼らの望みなのである。その中心にいるシインが居なくなってしまっては最早生きる目的が潰えたことに等しい。最もしてはならない状況になったのである。
それが分かっているランソクであったので、ランキのこの仕打ちにも彼は黙って受ける他なかった。

シンカンの邸は嘗て無いほどに暗く沈んだ。
何より痛ましいのは母シンユウである。
彼女もまたシインが消えたと分かった時から毎日探しに出ていた。
早朝から一人で覚束ない足取りで出ていき、日の暮れるまで帰ってくることはなかった。
街の人間が見ているのはこのシンユウの姿である。
家の者は皆彼女の心痛を察するに余りあった。それゆえに何も言えず、黙って彼女の行動を見守っていた。
シンユウの父のシンカンも同様であった。夫だけでなく、息子まで亡くしたとなると娘の不憫さに頭を抱え込んだ。娘の幸せを願って家を出したのに、これではあまりにも救われない。彼は祖廟で祈る他なかった。

そんな空虚な時が何日か続いた。
ある夜、遅くに帰ってきた彼らは大部屋に一同に会した。
「街も片付けられてきて、いよいよ探すのが困難になってきたな。」
テキが重く口を開いた。
どんどんと復旧が進み、戦いの跡もほとんど見られなくなってきていた。同時にシインのいた痕跡も無くなっている。
「もう駄目か…。」
ガンがつい口を滑らせた。
「なにっ」
普段は温厚なランソクが血相を変えて立ち上がった。
「おのれは諦めるのかっ」
蒼白な顔でランソクはガンの胸ぐらを掴んだ。
初めて見るランソクの怒気に他の者は動揺して見動きがとれなかった。
そこにランキが騒ぎを聞きつけ、一喝して入った。
「何をしておるかっ。」
ランソクの手が力無く離された。
しかし、割って入ったランキもこの状況に言う言葉が見つからず、一層沈鬱な場になるだけであった。

そんな時、シンユウが現れた。
「年長であるランソクは、皆を教導せねばならぬ身。そのように取り乱してはなりません。」
丁度帰宅したところであったのだろう、衣服はまだ砂塵に塗れたままである。
その姿を見て一同は思わず身を正した。彼女から威の様なものを感じ取ったからだ。

簡単に衣服を整えると、シンユウもまた皆と同じ様に座した。
「シインは、どこにも居りませんでした。」
彼女は淡々と告げた。しかしそれはここにいる全ての者が理解していることである。
「私は全ての場所をまわり、全ての屍を確認しましたが、それでもシインは居りませんでした。」
それを聞いて一同は慄然(りつぜん)とした。彼らは皆街を回るだけで、その様なことまではしていない。
彼女は続けた。
「屍が無いということは、死んでいないと言うことです。死んでいないということは、どこかで生きていると言うことです。ならば、私たちはシインが帰ってくるまでこの家を残しておかねばなりません。シインは必ずこの家へ帰って来ることでしょう。そしてそれまでに貴方たちもしっかり身を修めねばなりません。いずれ帰ってくるシインに仕える為に。だからこの様に顔を合わせて溜息をついている暇は無いということです。わかりますか。」
彼女の厳然たる態度と言葉には、ランソクたち若者だけでなく、ランキなど大人までもが身を硬くした。
この方は少しも絶望に身を沈めてはいない。この姿にランキは嘗てのシキョウを見た。
(シキョウ様はいつも私達を()ておられる。)
我が身を包まれる様な熱さにランキの身体は震えた。
(己はシキョウ様のお側にいて一体何を学んでいたのか。)
皆を督するどころか、子を打ち据えることしかしていなかったとは愚かにもほどがある。
しかし、ランキが口を開く前にランソクが先に言をあげた。
「私達が浅はかでした。」
手をつき、項垂(うなだ)れるようしてランソクは叫んだ。
「私達はシイン様を探す実、己の不手際を無かったことにする事ばかりが頭に浮かんでおりました。シンユウ様の様に少しも先を見ておりませんでした。…愚かでした。」
他の者も皆下を向いた。同じ思いであったのだろう。色々な所から嗚咽が出始めた。
「理解したのなら、次にすべきことは解るはずです。」
その言葉に一同は顔をあげた。シンユウは不敵に、しかし優しく笑っている。
(嗚呼、これは今シキョウ様が話しておられるのだ。)
ランキは涙を流した。
そう思わせるほどにシンユウの姿には目を瞠るものがあった。
側にいたシンカンもまた同じ思いに駆られ、目頭を熱くした。
嫁ぐ前のシンユウとはまるで別人のような気丈さを見せる彼女だが、心中は決して穏やかなものではない筈だ。それでも(くじ)かずにいられるのは、その複雑な心境の奥深くにシキョウがしっかりと存在しているからであろう。シキョウという傑人は死してもなお人を動かし続けている。

この日からシンカンの邸の空気は一転した。体の隅々まで気に満ち溢れているかの様である。
またランソクを始めとする若年達はこの頃から我が身の振り方を模索し始めるようになっていった。
風は青々としている。蒼天はどこまでも青い。この空の下のどこかにいるシインに、シンユウは思いを馳せた。

この出来事と前後して一家で安陽を脱出したヒセキの動向はどのようなものであったか。
彼ら一家は無事に舟で安陽を出ると、小さな船着場から徒歩でセツ公のいるセツ国へと向かった。
従者は一人、皆ほとんど身一つで出てきたため、道中は心もとないものがあった。
不安げな母とそれを励ます父を横目にヒセキの心は熱くなっていた。これから過ごすであろうセツ国の事を思うと思わず笑みがこぼれてくる。
(セツ国では我が才覚でもって必ずのし上がってやる。)
今は見すぼらしい装いだが、いずれは華美な冠をつけ、多くの臣下を従える。
民を潤す政を治め、当代随一の名宰相と呼ばれることがヒセキの願望である。
かれの中での理想像はかのユウ国の宰相トウシュクである。彼もシインと同様、上洛したトウシュクをその目で見ていた。
君主であったカン公にも劣らぬ豪奢な装いで安陽を闊歩したトウシュクは、まさにヒセキの追い求める姿そのままであった。礼を重んじる風潮の中には奢侈を忌避する向きがあったが、トウシュクは意にも介さず華美な振舞いをしていた。それでも民の反感を買わなかったのは、(ひとえ)に彼の政策が隅々まで行き渡ったものであったからに他ならない。
しかしそうした内情があることまでは、若いヒセキにはまだ考えが及ばなかった。

道中危険な目に遭うことなく、一行は無事にセツ国の首都(きん)に入ることが出来た。
ヒソウが城門で名を告げると、
「おお、そなたがヒソウか。」
とすんなりと通ることが出来た。セツ公は忘れずにいたようである。
しかし行くあてのないヒソウ達はひとまず宿を探した。
程なくして手頃な宿を見つけると、ヒセキは腰を落ち着けることもなくすぐにセツ公の謁見に向かった。
セツ公のいる宮殿はそう大きくもないが、装飾などは都を思わせるほどに絢爛でその威厳は十分に備わっている。
すぐにセツ公に謁見をすることは叶わなかったが、それでも日の暮れようかという頃に召し出された。
少し忙しさを見せながらセツ公は平身低頭するヒソウの前に現れた。
「そなたも無事に出られたようであるな。何よりであった。」
気安さを見せるセツ公に彼は身を硬くした。安陽での騒動の時には感じなかった公としての威厳を今更ながら真に受けた。
「はは、そう硬くならずともよい。汝は儂に貸しがある身であるのだからな。」
「は、ははっ。」
益々縮こまるヒソウを見てセツ公は苦笑しながら話を先へ進めた。
「さて、早速であるが汝に借りを返すことにしたい。大夫として我が元で務めてもらいたいのだが、どうか。」
「大夫、として…」
彼はしばし呆然とした。
ここで改めて爵位の話となるが、王を頂点としてその下に卿、大夫、士と順に位置付けされる。
王より封ぜられた諸侯はこの中で卿の地位になるわけであるが、その諸侯が封国内で官位を授ける場合にはその際の最上位は同じく卿となる。複雑であるが、格位には上下が存在し、この場合、諸侯は上卿、諸侯によって任ぜられる卿は下卿となる。王から見るとこういった分類が必要となるわけである。更に諸侯国内では卿は所謂宰相の地位に当たる者にのみ称されるので、格付けとしては上大夫が最も高い地位となる。上大夫の中から宰相になるものが卿と呼ばれる、ということである。
となるとヒソウが与えられた地位が如何に例外的なことで、故に彼が呆然したわけが分かるであろう。流石に上大夫ではなく、下大夫である。
因みに大夫となると所領も得られる。同時にその地を運営するために人を登用しなければならない。
ここまで厚遇されると思っていなかったヒソウは思いつく限りの謝辞を尽くした。
こうして一通りの会話を済ませたヒソウであったが、ひと呼吸おくと意を決してセツ公に申し出た。
「公の御恩行に縋りまして、恐れながら一つお願いしたき儀がございます。」
「ほう、何であろうか。」
「実を申しますとこの度のお目通りに我が愚息を連れて参っております。まだ成人を迎えておらぬ若卒でありますが、私に似ず才のある者と、親の贔屓目ながら思っております次第にて…」
「なるほど、良いではないか。ではそなたの子も見ておこうではないか。」
いずれはヒソウの跡を継ぎセツ国に従事するものであるなら、とセツ公は軽い興味を覚えた。
暫くして、ヒセキが堂の入り口に現れた。
まだ未成年ながら、その挙措は礼を外さぬものであり、セツ公は感心した。
更に父親とは違い、セツ公の前でも堂々とした振舞いを見せた。
「ソウの子、セキと申します。この度はお目通り叶いましたこと、誠に恐縮の極み、公のご厚情に深く謝辞を申し上げます。」
うむ、とこの長子の様子を見ながら、セツ公は幾つかの質問をヒセキに向けた。
中には国事に関することもあったが、その問い全てに対しヒセキは流れる様に自説を述べた。
それを聞いたセツ公は舌を巻いた。
(既にこれほどの知識を有しているか。)
そう感心する一方、若さ故の苛烈さ、無謀さもセツ公は見抜いていた。ヒセキの様な若くして才ある者はえてしてその万能感に溺れやすい。その結果周りを見下す傾向にあることをセツ公は知っている。
(それも年を経れば薄れていくものである、か。)
総じて評すれば、ヒセキは自らの良臣となりうる、とみた。
(これは思わぬ人材を拾ったのかも知れぬ。)


この日の謁見はこうして終わった。
宮殿を出たヒセキは気が付けば背中いっぱいに汗を浮かべていた。
彼もまた、この謁見に感動と手応えを覚えていた。
(公は己のような弱卒の言葉にも真剣に耳を傾けてくれる。)
世間を知らぬ子供の言うことなど戯言に過ぎないと一蹴するのが貴族であろう、と彼は実感と共に断定していたところである。
しかしセツ公は彼の言葉一つ一つに頷き、時に問を投げかけ相槌を打って話を聞いていた。
そこにはセツ公の真摯さと、ジ王朝の為の人材を探そうとする姿勢が見て取れた。
以前にも触れたことだが、この時代はまだ貴族が政治を取り仕切るという風潮がまだまだ強い。特にそれはジ国などの中央ともなれば顕著である。
その中にいてセツ公の姿勢は異端であり、また柔軟であると言える。このセツ公の考えの変化はやはりユウのカン公やタイのブン公の存在が大きい。
彼らの様に身分を問わず才ある者を取り上げていかねばこれから先国力を伸ばすことは出来ない、とセツ公は敏感に捉えていた。
これはヒセキにとっては追い風となった。世の流れが己に向いてきたと言える。
そして若いヒセキにはこの感動がそのまま忠誠心となった。
(公を盛り立てて、セツを第一等の国へとのし上げてやる。)


この日から彼は近の学舎へと通い始めた。
この学舎ではヒセキが一番の若年であった。他は加冠を済ませた者達ばかりであったので、四、五歳以上も離れたヒセキは驚きをもって迎えられた。同時にセツ公のお墨付きとあって彼は学舎内でも特別な存在となった。
怜悧な質である彼は群れることを好まず、それ故周りに近づき難い印象を与えた。
そんな中でも声を掛けてくる者はいる。
「やあ、汝は安陽から来たらしいな。」
気軽な声色の主をヒセキは鋭い目で覗った。
男は友好的な笑顔であった。しかし、目の奥に強さがある、とヒセキは見た。
「安陽は大変な騒ぎだったろう。」
「…そうですね、隅から隅まで西戎にやられたことでしょう。命があっただけ僥倖というべきでした。」
そのままその男は対座した。彼は年下のヒセキにも不遜な態度をとらないでいる。
「おう、すまぬ。名を伝えてなかったな。私はホウバツという。」
そう言うとホウバツは揖をした。それに対してヒセキも返礼する。
「私はヒセキと申します。」
「ふむ、時にタイ侯の話は既に聞いているか。」
「タイ侯ですか。いえ、まだ何も。」
流石に王畿の国であるので、騒動後の安陽の状況も逐一入ってきているようだ。
「そうだな、知らぬのも無理はない。此度の騒擾は既にタイ侯によって鎮圧されたとの事だ。最早タイの勢いはユウをも越えてきていると言って良いであろうよ。」
嘗て権勢を誇ったユウ国はカン公の死後後継者争いに荒れ、見る間に力を失った。
その間に侯位についた今のタイ侯であるブン公が力をつけ、今や各国の争いの裁定を行う様になっていた。
このブン公の強さの基は臣の層の厚さにある。カン公の場合はその全てが宰相トウシュクに集約されていたが、ブン公の場合は何人もの臣に支えられ国を取り仕切っている。
ブン公は長く苦難の旅を続け今の地位へと登りつめたことは既に語ったところである。その際共に辛酸を舐めた臣が重用されている。
ゴウイ、ベンキツ、サンセン、ヨウタン、ショウショウ、グチョウ
この六人が特に秀でていた。彼らの一族がこの後のタイ国に大きく関わってくるのだが、今はまだ名を留める程でよい。
彼らを中心とした軍は精強であった。今回のジ国の乱でタイ軍の強さを改めて周囲に見せつける結果となった。
しかしこのことは王畿内の国にとってはあまり喜ばしいことではない。
ヒセキもこの話を聞いて顔を険しくした。
(これではいつまででも中央に威が帰ってこない。)
ヒセキのこの感情は中央の者の総思と思ってよい。乱を治めてくれることは結構なことだが、それを主導するのはジ王であって然るべきなのである。
今回の乱もせめて近臣のコ国であったりすればとの思いもあるが、結局動いたのはタイ国のみである。
「近くタイ侯が安陽を訪れるであろうな。伯(覇者)を授けられるのはなかろうかな。」
そう言いながらホウバツは顎髭をさすった。
「嬉しいのですか。」
感情を見せずにヒセキ詰問した。
「まさか。戎狄の腹から産まれた者をどうして持ち上げようか。」
ブン公の生母は遊牧民族の(むすめ)である。中央の者からすれば論外の格である。
となるとその子であるブン公にも自然と蔑視が向けられる。
「やはりジ国の頼りなさがこうしたこと全ての元凶であるのは間違いあるまい。是非ともセツ公には尽力して頂きたいものだ。」
「その下支えをするのが我らの勤めではないでしょうか。」
小言を漏らすホウバツをヒセキは直視した。その視線にはっとしたホウバツはここで少し声を落とした。
「…まことに、汝もそう思っているか。」 
「当然です。公にはそれをするだけの徳が備わっている。」
「そうか、汝は直接公にお会いしたのだったな。なるほど。」
ホウバツは膝を詰めた。
「実は私も公には一方(ひとかた)ならぬものを感じている。その公を通して今のジ国を盛り立てるべきと思っている。支配するくらいにしてでも、な。」
ヒセキはなるほど、と得心した。
この男の思想の根幹は我と同じあるか、ということである。
「その資格は公には十分にあります。そしてそれをなす為には能臣が多くいる方がよい。」
否定をしないヒセキにホウバツはニヤリと笑った。彼もまた相通ずることを確認したのであろう。
「それが我等、ということであろう。」
「…私達はまだ士官すら出来ていません。私に至っては加冠すらしていない。遠くを見るあまり足下の陥穽に気付かぬこともあります。」
「そうだな、先ずは地歩を固める。汝の言うとおりだ。」
ホウバツは満足げに頷いた。

これより後ヒセキはこのホウバツと共にいる時が増えた。
ホウバツの気安さは人を集めやすい。ヒセキの考えをホウバツが翻訳するようにして話していき、徐々に学舎内での仲間を増やしていった。そうする中で更に学問を重ねていくこととなった。
それはヒセキにとっては最上の環境とも言えた。
セツ公の覚えもよい。ここでの士官は容易いであろう。そこからは己の才覚次第である。自信はある。
行く先の光を見出した思いのヒセキであった。

それに対してシインはどうであろうか。彼の目はまだ光を見出してはいない。
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登場人物紹介

シイン。姓はキ、諱はシュウ。

レツ公リョウの公孫にあたる。

幼くして国を失う。

シキョウ。姓はキ、諱はキュウ。

レツ公の子、シインの父。


ランキ。姓はラン、諱はキ。

シキョウの家宰。ランソクの父。

シンユウ。姓はシン。字はユウ。ジ国の臣、シン氏の女。シキョウの婦であり、シインの実母。

ランソク。姓はラン。諱はソク。ランキの子。

テキ。のちにチョウ姓を名乗る。幼い頃からシインにつき従う。

シン。テキの弟。チョウテキと同じくチョウ姓を名乗る。

シインに従う。

ガン。後ウ姓を名乗る。テキとシンの友人。彼ら同様シインに従う。

ヒセキ。姓はヒ。字はセキ。諱はソウ。

ジ国の人。シインとは不倶戴天の存在。

キキョウ。

南方の遊牧民族キ族の族長の長子。

シインの義兄。

キトツ。

遊牧民族キ族の族長の子。キキョウの弟。

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