駆け引き

文字数 6,411文字

ゴ国を事実上壊滅させ、更にユウ国との会盟を終えたタイ軍は速やかにチュウ国の大邑(首都)初陵(しょりょう)へと進軍した。

「バンの援軍が到着する前に初陵を落とさねばなりません。」
軍議の場でタイエンはブン公に念を押した。
チュウ国も抑えることが出来ればキュウ国に近接することにもなり、長征するバン軍を始めとする連合軍に圧力をかけることが出来る。
逆にチュウ国の攻略をバン軍に妨げられてしまってはキュウ国救援の大きな障害になってしまう。
それは即ち今回の征伐の失敗を意味する。
しかし同時にブン公は、
「果たして我が軍のみでバン軍に勝つことが出来るであろうか。」
という不安が拭い去れないでいた。
軍の練度も上げ、三軍を編成するに至っても尚バン軍を打ち破るという想定が出来ない。それ程までにこの時のバン軍は強かったのである。

更にここでタイ軍に思いもよらない凶事が起こった。
中軍の将を務めていたベンキツが陣中で没してしまったのだ。
ブン公は眉間に皺を寄せて唸った。中軍の将とは所謂(いわゆる)総大将にあたるものであり、その責務は重大である。
「一体誰に後を任せたらよいのか。」
ブン公はタイエンとサンセンを手許に招いて意見を請うた。こうした難事はこの二人に頼るに限る。

「中軍の将ですか…」
人物を決めかねるタイエンが口を開かないのを確認してから、サンセンが少し膝を進めた。
「後任はヨウタンが宜しいかと存じます。」
これを聞いたブン公は思わず、
「なんと。」
と声を漏らした。ヨウタンの推薦など予想だにもしていなかったからである。
ブン公と同じ気持ちでいるタイエンが理由を問うた。しかしその顔は決して反対をしている訳でも無いようである。
サンセンは答えた。
「彼の者は君がタイ侯の座についた時より、此度の事態を憂慮し、我が下へ何度もその危険性を説きにきておりました。」
「彼もまたその目でバン子(セイ王)を()ており、その器量の高さに後々必ず君の前に立ちはだかるであろうと事毎に申しておりました。」
「その為に彼はどの様にしてバンを攻略すべきか、常に考え私のもとに来ては意見を求めておりました。彼の言う内容は一々(もっと)もなことであります。同時に今回のキュウの危急の報せを聞いて彼は断固救うべしと即答したことは君もご存知の通りでごさいます。」
「また戦となれば敵を恐れず先頭をきって進み我が方の兵を励ますこと甚だしく、これもまた君がご覧になっておられることと存じます。」
「彼の振る舞いは正に知仁勇そろったものであり、中軍の将を任せるに十分であるものと存じます。」

サンセンのこの話を聞き、ブン公は大いに納得した。
タイエンも驚いたものの、今の話を聞いた上で異存はない。
こうしてサンセンの推挙を得たヨウタンは下軍の佐(副将)から中軍の将へと大抜擢された。
当のヨウタンはまさか自分が選ばれるとは思ってもいなかったので、多いに恐縮したが、
「必ずやバンを討ち果たし、ジ王の許へその首をお送りいたしましょうぞ。」
と鋭気を新たにした。


可能な限り道を急いだタイ軍は、バン軍が来援したという報を受ける前に無事初陵を囲むことに成功した。
しかし、この初陵の守備は思っていたよりも堅牢でタイ軍は思わぬ損耗を被ることになる。

チュウ軍の守兵はタイ兵の死体を回収し、城壁の上に磔にして立てたり、城壁から吊り下げたりして攻め寄せるタイ軍への見せしめとした。
ブン公はこれを見て憂慮した。
これでは玩弄された死体の主の魂は土にも還れず虚空を漂うだけになってしまう。そう怖れて兵の士気が下がっていくのが目に見えている。
「どうしたものか。」
悩むブン公のもとにショウショウが現れた。
「兵の中に、我らは仕返しにチュウの墓場に行き死体を掘り返して同じように晒してやればよいと申しておる者がおります。」
「なるほど。」
相手にも同じ恐怖心を与えてやれば良い。ブン公は即座に行動に移した。
この策略は覿面(てきめん)で、墓場へ移動しただけでもチュウ国の守兵は動揺した。
「今だ。」
その衰えた士気の間隙を突くようにタイ軍は再び猛攻を仕掛けた。

日を跨がずして、初陵は落城した。この戦いでブン公はチュウ伯であるキョウ公を捕らえる事にも成功した。
「賢臣を用いることもせず、無闇に大夫を抱え込むは政の正道にあらず。どうだ伯よ、汝が望んだ我が肋をここで見るか。」
引き連れられたキョウ公を前にブン公は吐き捨てるように言った。キョウ公は項垂れたままである。
放浪時代、ここチュウ国でもブン公は冷遇された。とりわけキョウ公などはブン公が珍しい駢胸(へんきょう)(一枚肋)であることを小耳に挟み、興味本位でブン公の入浴を覗き込もうとし、それを臣下に諫止されたという一件があった。勿論こうした行為は無礼極まりないことであり、ブン公はこれもまた堪え難い屈辱として遺恨を残していたのである。
ブン公の言う賢臣とはこの時諫止した臣のことであり、キョウ公はこの臣を重用せず、自分の気に入った者達ばかりを大量に大夫として召し抱えた。無闇に大夫を増やしても公費が嵩張るばかりで民の負担となる。それをブン公は詰ったのである。

初陵に入城して数日の後、キュウ国からの使者が再び訪れた。それはいよいよ危急を告げるものであった。
「バンら連合軍の攻勢はいよいよ強く、我が君も前へと出て自ら兵を鼓舞しております。願わくは何卒一日でも早く救援へお越しくださりますよう。何卒。」
使者も装いは整えてはいるものの、必死に敵の包囲を潜り抜けてきたことが彼の様子からも分かる。
「うむ、必ずキュウの囲みを解くであろう。キュウ公にも安心なされよと伝えるがよい。」

そう言ってブン公は使者を安堵させて帰したものの、これからの動きをどうしたものかと悩んでいる。
「このまま間に合わずにバンに攻め落とされてしまっては今後キュウとの国交は望めないものとなってしまう。かと言ってここでバンに囲みを解けと言って聞く耳を持つはずもなし。やはり正面から当たるしかないのであろうか。」
もとよりバン国と戦いたくはないブン公は及び腰である。
「今一度サンとユウに使いを出し、合力して当たればよいのではないか。」
タイショウがそう提案したが、軍議に出席している一同の顔は暗い。
「サンもユウも利に敏い。この状況で話を持ち出しても得るものが少ないとみて断るであろう。」
タイエンがそう言うと、ブン公が溜息をついた。
バン軍との兵力差に不安を覚えているのはブン公だけではない。誰もが懸念しているところである。そこに加えてベンキツの死である。ヨウタンが後を継いだことに皆不満は無いのだが、ベンキツの股肱の兵を急に手足の如く使えるものではない。

この静かな座で、サンセンはそっとヨウタンに目配せした。それを察したヨウタンが、
「恐れながら、愚策を献じても宜しいでしょうか。」
と切り出した。
「うむ、聞こう。」
ブン公は促した。

「まず、キュウ公に命じてユウ、サンの両国に(まいない)を送らせましょう。そしてキュウ公から両国にバンとの和睦の話を持ち掛ける様に頼ませます。そしてこちらからはキュウへはゴとチュウの地をそれぞれ分けて与えましょう。」
「ふむ、妙案ではあるが、サンもユウもそれなりのものを与えねばそうやすやすと動きはせぬぞ。」
先のタイエンの発言の様に二国とも冷静に損得を秤にかける。キュウのもつ宝物などでは足らぬ、と暗にブン公は言っている。
「無論承知をしております。彼の二国へ贈るはゴとチュウの田地でございます。」
これを聞いてタイエンは膝を叩いた。
「なるほど。そういう手があったか。」
ショウショウなども間を置いて納得した様である。
しかし、ヨウタンの横にいるベンタンは思索が追いつかず、彼に問うた。
「すまぬが、もう少し詳しく話してくれまいか。」
ヨウタンが答えるより早くブン公が答えた。
「キュウから田地を贈ると言われればサンとユウは労せずしてこれを得ることが出来るゆえ、喜んで受け取るであろう。その上でバンへ交渉を行うわけだが、盟下の地を切り取られたことをそのままにはしておけぬバンはこの交渉にはのらぬ。そうなればサンもユウも引き下がれぬ、そういうことであろう。」
ブン公は口の端を上げた。
「流石は我が君でございます。正に仰せの通りにございます。」
ヨウタンは恐縮して頭を下げた。

この計を用いれば、こちらは何もしなくとも自然にユウとサンを戦いに引き込める。これはブン公の憂慮を晴らす会心の策と言えよう。更には是が非でもバン軍を叩きたいヨウタン自身にも都合の良い策となる。
方針が決まれば電雷の如く動くのはブン公の長所である。直ちにキュウ国へと使者を出した。
ヨウタンの狙い通り、田地を得られると知ったユウ国とサン国は救援の依頼を許諾し双方からバン国へ和睦の使者を出した。


一方、チュウ国がタイ軍に攻められていると知ったバン軍は一部の軍を割いて救援に向かわせたが、目前で城を奪われ止む無く引き返したところであった。
そこへ唐突にユウ国とサン国からの介入があったことで、シゴウは顔を(しか)めた。
「これもタイの仕向けたことであろう。」
苦々しく吐き捨てた彼であったが、そのタイ軍が盟下のゴ国とチュウ国の地を割譲させてキュウ国へ与えたことを知り更に激怒した。
「何処まで勝手な事をすれば気が済むのか。」

しかし、怒れるシゴウの感情を置き去りに、セイ王は突如、
「撤退」
の命を下した。
それを聞いたシゴウは愕然とした。このままタイ国の好きにさせておくなど考えられぬことである。
そんなシゴウをよそに、セイ王は速やかに自らの率いる中軍を引き連れ退いて、甲という地に留まった。この地は元は一諸侯である甲が治めていたが、セイ王によって併呑され今はバンの領地の一つとなっている。
その甲の城へセイ王が入るとほぼ時を同じくしてシゴウからの使者が参上した。使者の到来の早さには、まるでシゴウの怒気が含まれているかの様であった。
セイ王はため息をつきながら応接の堂へ赴いた。口上の内容など聞くまでもなくわかっている。

案の定、なぜ撤退をする必要があるのか、ここでタイ国と決着をつけねば後の禍根を残す、など出征前にも聞いた正論を使者は長々と説いた。
それに対してセイ王も長々と答えた。一字一句聞き漏らすな、と言わんばかりの表情を使者に向けている。
「チュウを落とし、チュウ伯を捕らえたタイ侯はキュウの囲みを我等が解いたと知ればそのまま国へ帰るであろう。しかしそれを追ってはならぬ。そもそも今のタイ侯は国の外に在ること十余年、長く艱難辛苦を嘗め尽くし、民心の機微も知り尽くしている。そこに天が寿命を与え国の内患を排除したことで、タイ侯は今の地位にあるのだ。この様に天が置いたものは排することは敵わぬものだ。」
「軍志(兵法書)に、允当(いんとう)して即ち帰る、とある。また難きを知りては退く、ともある。さらに有徳の者には敵すべらかず、という。これら三志のことは正に今のタイのことをいうものである。」
因みに允当とは道理にかなう、といった意味で、ここでは程ほどに止めよ、というような意味になる。

セイ王はキュウ国がサン国とユウ国の二国を引き込むことに成功した時点で撤退を即断していた。
事前に懸念していた通り、この両国までも敵に回すとなると流石のセイ王でも戦況を御しきれない。それでもすぐに大邑(首都)である平に戻らなかったのはサン国やユウ国の侵攻に睨みを効かせるためである。
この辺りのセイ王の去就は鮮やかで、そうそう出来るものではない。百戦錬磨のセイ王であるからこそ可能な行動であった。
現に撤退を指示されたシゴウは冷静に大局を俯瞰することが出来ず、ひたすらに眼前のタイ軍を攻撃することに拘泥した。
セイ王の言葉を享けた使者は腰を落ち着ける暇もなく再びセイ王の元へと遣わされた。
「王よ、私は何も戦功を求めているのではございません。ただ専横をほしいままにするタイ侯を撃ち凝らして、その讒慝(ざんとく)な口を閉ざしてやりたいだけなのです。」
(周りも何も見えておらぬ痴れ者よ。)
どこまでもタイ軍に固執するシゴウの態度にセイ王は遂に赫怒した。
「そこまで言うのならば勝手にいたせ。但し汝の勝手に我が兵の血を無駄に流す様なことはさせぬ。」
使者にそう言い放つと、セイ王は未だキュウ国に駐屯していた左軍と右軍のうち、右軍を引き上げさせた。
残ったのは左軍とシゴウみずからの領有する邑から連れてきた七百程度の兵のみであった。これは兵力がおよそ三分の一に減ったことになる。
それでもシゴウの意気は少しも衰えてないない。
「タイの兵など、この数でも十分過ぎるほどだ。」
実際には他国の軍もこれに編入されるので多少は増えるが、それでもタイ軍との兵力の差は歴然であった。

シゴウは改めて軍議を開いた。
「なにも正面から当たらずともよいでしょう。」
家臣からそう提言されたシゴウはそれもそうか、と冷静さを取り戻した。もともと才気のある男であるので、我を失わなければ効果的な手段を講じることが出来る。
家臣と共に一計を案じた彼は早速にタイ軍へと使者を派遣した。

「侯よ、初陵より追放されたゴ公をお復し下さいませ。またチュウ公も解放しチュウを元通りになされば、我らバンももはやキュウを囲むことはしないでしょう。」
この使者を受けたブン公はまたしても軍議を開く。
「彼の者は無礼です。こちらの取るところは一つしかないのに、彼は二つ取る。このような話は飲めませぬな。」
タイエンが言下に拒否をした。タイ軍はキュウ国を救うことが出来るのみなのに、バン軍はゴとチュウの両国を救うことが出来る。天下の評判を考えたときにこれは不公平な話であるとタイエンは言っているのである。
確かにシゴウは急所を突いてきている。タイ軍はキュウ国を救うことが第一かつ絶対不可避な課題なのである。ここで拒否をすることはキュウ国を救わないと言う様なものである。
「ここまで来たら戦うしかありませぬ。」
居並ぶ将の顔も多くは同意を含んだ表情をブン公に向けている。

しかしここでもヨウタンが言を挙げた。
「ここはシゴウの言う通りに致しましょう。彼の言うことは三国を救うものです。これを拒否する我らは逆にこの三国を亡ぼすものです。礼を欠いて戦をしたところで一体何が得られるものでしょうか。」
三国とは勿論、キュウ、ゴ、チュウ国のことを指す。先に述べた通り、シゴウの提言をこちらが拒否しバン軍と戦って尚勝ったとしても、シゴウの提案した和平を足蹴にするだけに周りの諸侯は納得しないであろう、とヨウタンは言っている。却って諸侯の不興を買い、結果的に立場そのものを危うくしかねない。今回の挙兵には正当な道理が必要なのである。
それにしても、この度の出征におけるヨウタンの冴えは特筆に値する。
彼は更に言葉を続ける。
「ゴとチュウはここで赦しますが、それはバンからではなく、我等からと致します。」
それを聞いてブン公は笑声を漏らした。
「なるほど、この際二国を我が元へ降らせようということか。」
またしても会心の策であると言えよう。
現在君主のいないゴ国とチュウ国の二国にタイ国からの温情で国情を復帰させたのならば、彼等は喜んでそれを受け入れタイ国の傘下に入ることであろう。これはバン国からしたら逆捩じを食らわされた形となる。それにそこまでの仕打ちをすればシゴウが次にどうでるか、などヨウタンには明瞭にわかる。
結果諸侯にはタイ国の懐の広さを見せることにもなる。ヨウタンの言は真に妙策であった。

この時点でゴ国へと戻って駐留していたタイ軍はバン国の使者を捕縛拘束し、代わってタイ国からの使者をゴとチュウの二国へ送った。内容は勿論宥恕(ゆうじょ)の件である。この使者を迎えた二国はこの話を受けない訳は無く、タイ軍に捕縛されたチュウ公などは大邑へ帰ることが出来た。因みに放逐されたゴ公はそのままで、ゴ国は新たに君主を立てている。そしてそのまま彼等はタイ国の盟下へと入ることとなった。
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登場人物紹介

シイン。姓はキ、諱はシュウ。

レツ公リョウの公孫にあたる。

幼くして国を失う。

シキョウ。姓はキ、諱はキュウ。

レツ公の子、シインの父。


ランキ。姓はラン、諱はキ。

シキョウの家宰。ランソクの父。

シンユウ。姓はシン。字はユウ。ジ国の臣、シン氏の女。シキョウの婦であり、シインの実母。

ランソク。姓はラン。諱はソク。ランキの子。

テキ。のちにチョウ姓を名乗る。幼い頃からシインにつき従う。

シン。テキの弟。チョウテキと同じくチョウ姓を名乗る。

シインに従う。

ガン。後ウ姓を名乗る。テキとシンの友人。彼ら同様シインに従う。

ヒセキ。姓はヒ。字はセキ。諱はソウ。

ジ国の人。シインとは不倶戴天の存在。

キキョウ。

南方の遊牧民族キ族の族長の長子。

シインの義兄。

キトツ。

遊牧民族キ族の族長の子。キキョウの弟。

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