凱旋

文字数 9,234文字

激闘を行う連合軍の中軍、下軍の陰で上軍もかなりの奮戦を続けていた。
この上軍は最も多くの他国軍で構成されており、それは正に「連合軍」と呼んで差し支えない陣容であった。
この連合軍の中には、ユウ国と同等の公爵である国も参加している。本来であれば、ユウ国主導で事を進めることに反発を受けることもあるのだが、時の情勢はもはや爵位ではなく実力で格がつけられているところにきている。諸侯もそれを自認しているので、容易に異論も上げられない。ともあれ、今の彼らの団結力は何よりも対バン国という揺るぎない対抗心で結束されている。
集団戦では圧倒される連合軍であるが、兵車による一騎打ちでは()の軍に一日の長がある。
連合軍将士が陣頭を疾駆しバン軍の兵車を駆逐し軍の士気を高めることで、一進一退の攻防を展開していた。
各国軍が勇猛に戦う中で、ユウ国上軍は的確に進退の呼吸を読み、散開しがちな軍全体の統制を陰助していた。この上軍の将はチョウカイという者だ。彼はカン公に登用された臣で、トウシュクのもとで従軍を繰り返し、今では戦巧者(いくさこうしゃ)として一軍を任せられる程になっている。
「チュ国軍の攻撃に合わせて兵車二乗にも突撃させよ。」
忙しく目を動かし戦況を見極めながら、チョウカイはすかさず命令を下していく。
(それにしてもトウシュクさまは本当に恐ろしい方だ。)
先に述べた通り、通常は上軍が主力である。そこに最も強いとされるユウ軍を配するのが誰もが考えることであるが、トウシュクはそこにほとんどの他国軍を編入させ、ユウ国からは自分を()けた。表向きは上軍の一部隊に過ぎないが、トウシュクからは他国の後援に徹底するように言い含められている。ユウ国が前に出過ぎないことで、公国などの矜持(きょうじ)を損わせず、かつ後衛を厚くすることで崩れにくい陣を維持し各国が攻めにのみ集中できるという士気高揚も視野にいれているのだ。
これは戦術などの領域を超越し、戦後の外交戦略までをも包括(ほうかつ)している。大国からの支援でもって反撃の機会を得、さらに勝利したならば、今後はそう簡単にバン国も手出しは出来なくなる。同時にユウ国には借りのある盟約、形勢からすれば従属となろう関係となり、これは実質ユウ国からすれば支配領域が一気に広がることになる。
(一体トウシュクさま以外に誰がここまで考えを巡らせることが出来ようか。)
戦略の一端を伝命されたのみであるのに、ここまで見通せるチョウカイも凡庸(ぼんよう)な器では決してない。
ともあれこの上軍の奮戦により、連合軍は上軍を軸に反時計回りに押し込まれるような形となっている。
結果的にバン軍は滋水を背にする形で戦うこととなっていた。

一方、カン公らのいる中軍はバン軍のセイ王自らに陣深く攻め込まれていた。
(ひる)むな。一気にカン公のもとまで攻め寄せるのだ。」
車上から怒号を飛ばすセイ王に呼応してバン軍の主力が眼前の敵に襲近する。自らの力を過信しがちであるが、相手を決して甘く見ない彼は、トウシュクがまだ何か隠し手を持っていることを予見している。
(それを見せる前に潰してしまう。仮に仕掛けられたとしても先手を打っておけば活路はある。)
バン軍の猛進ぶりはさながら猪突する獣の様でもあるが、その頭脳はセイ王が司り、冷静に状況を瞻視(せんし)している。これが今のバン軍の強さの実態であった。
連合軍中軍もカン公指揮下の精兵が揃えられているが、一枚また一枚と剥がれる様に戦線が削損されていく。カン公の顔には苦苦しさが浮かんだ。
「バン国がこれまでとはな。トウシュク。」
激しい戦闘がカン公の間近に見えるほどに迫っている。流石のカン公も焦りからトウシュクを求めた。当のトウシュクは鋭い目で何かを見据えている。
「…そろそろでしょう。合図の()を。」
短く命令を出すと、自らも鼓を激しく打ち鳴らした。この音を聞いた中軍の前線部隊は素早く後退を開始した。余勢に駆られて追撃を仕掛けたバン軍であったが、(にわか)に現れた壁によって阻まれた。突然のことに何が起きたのか理解出来ない前列のバン兵は、これもまた状況を理解出来ず突入してきた後列の兵によって押し潰されてしまった。
「何事かっ。」
車上でいち早く異変に気付いたシホウは前方に鈍く光る黄金色の壁を見た。
いつの間にか向かう先一面に金の(たて)聳立(しょうりつ)している。
「あれは…」
その刹那、ユウ軍の鼓が再び打ち鳴らされた。すると目の前の壁から僅かな隙間が生まれ、至近距離から矢が放たれた。外れようのないこの恐るべき射撃は一つ残らず前線のバン兵へと突き立った。不敵不羈(ふき)のバン兵もこの思わぬ反撃に戦意を殺がれた。彼らが恇駭(きょうがい)しているところに三度鼓が鳴り響く。反射的に攻撃が来ることを予感したバン兵らは既に相手に背を向けている。そこに(げき)をつがえたユウ兵が殺到する。
バン軍からすれば一瞬で形勢が逆転した様に見えたであろう。
(まずい―――)
これ以上崩れてしまっては取り返しがつかなくなる。シホウは兵を叱咤しようと戟を振り上げた。
「皆怯むなっ。(たて)に割って入り弓兵を黙らせろっ。」
シホウが叫ぶよりも先にセイ王が号令した。セイ王もシホウ同様軍の戦意が崩壊する前に踏み止まらせようとした。そのあたりの感覚の鋭敏さはやはり抜きんでている。
前線を崩され気圧(けお)されそうになっていたバン兵らだが、この一声で
持ち直した。(たて)の後ろにいる者達を黙らせたらいいのだ。標的が定まることで再び攻勢に転じることができた。迎えるユウ兵もそうはさせまいと寸分の隙間なく(たて)を密集させた。
この黄金に輝く(たて)は、トウシュクが今回の戦の為にかねてより作らせていたものだ。通常の木製の干に青銅の薄板を張り付けたもので、強度は木製のそれとは比べ物にならない。その分重さも相当なものになるが、一度地に突き立て構えればそうそう打ち破れるものではない。
それらに加えて後列には弓兵、戟兵と完全な統制の下で攻守を行うように訓練されている。トウシュクはこれもまたバン軍の対抗するために一隊を五人から編成する「伍」を制定した。
カン公とトウシュクの下の兵は農民ではなく完全なる戦闘兵である。これをより戦闘に生かせるよう訓練を施し、自らの手足の様に扱えるまでに仕上げている。今回の戦いのために(たて)を用いた戦闘方法を教え、実戦に投入したのだ。
先頭において彼我(ひが)の兵数が同じ場合、練度の高い方が勝つ。おおよその場面においてそれは個人の戦闘能力で負けていても覆されることはない。それを今カン公とセイ王はそれぞれの立場で目の当たりにしていた。
烈火の如く襲い掛かるバン兵に、ユウ兵は一歩も引かない。
いままでと手ごたえの違う相手に、セイ王は赫怒した。
(ただ(たて)を持っているだけだというのに、なぜ抜けぬ。まるで城壁に突撃でもしているかの様ではないか。)
セイ王はさらに攻めろと吠えたてたが、状況は徐々に押されている。
それでもセイ王は攻撃の手を緩めなかった。怒号をかけ続け何度でも前面の壁へとぶつかっていく。間断なくまき起こる激突の衝撃。血飛沫の音まで聞こえてくるかの様であった。

時を忘れて攻めかかっていたセイ王であったが、ふとした刹那、背後に違和感を覚えた。
同時に冷や汗のようなものが背筋を伝うのを感じ取った。後軍の様子がおかしい。
後ろを振り向いた時に、彼は自らが失敗をしていたことを知った。
バン軍の背後、即ち滋水沿岸に旗が林立している。どう見てもバン軍のものではない。
ユウ軍を押し込むことで両軍の向きは滋水を横に見る南北の並びではなく、いつの間にか東西に向き合う形に変わっていた。これは偶然ではなく、トウシュクの策謀の一つであった。サイ国の軍は二つに分けられ、その一つは別動隊として密かに久から滋水を下り、戦場へと向かうようにしていたのだ。結果バン軍は背後から挟み撃ちにされてしまっていた。
セイ王の顔色が変わったのを見たシホウも、ひと呼吸遅れて窮地に陥ったことを悟った。
軍の中核ともいえる二人の空気の変化はすぐに全体に伝わった。
背後から出没した連合軍が鼓を打ち鳴らし突撃の姿勢を取った。後部のバン兵達は狼狽(うろた)え、思わず逃げる構えを取った。こうなってしまうと止めようがない。
バン軍は瓦解した。たとえ戦う意思の残っている者がいたとしても、周りの兵全てがなだれをうつ様に退却をしてしまってはそこに踏み留まることすら出来ず、大きな流れの中に飲み込まれてしまう。
それでもシホウの軍やセイ王の親衛隊は必死にセイ王を守った。
(最早これまで)
完全に機を失ったと判断したセイ王は、
(ろう)へ退くぞ。」
と左右へ告げ反転、北を目指した。胸中は穏やかではない。
(琅へ戻り、態勢を整えて再度攻め上ってやろう。)
このまま戦果もなく戻ることなど少しも考えていない彼は、早くも次の攻め口を考え始めていた。


走りに走ったバン軍の視界に琅の邑が入ってきた。(ようや)く腰を落ち着けられると、呼吸を落ち着けていたところに、先行していた部隊から報告が届いた。
「赤い旗が見えるだと。」
シホウは反問した。
バン軍の旗は濃い緑である。それを横で聞いていた側近の一人が思い出したように、
「赤旗と言えば…レツ国ではありますまいか。」
そう言えばレツ国は赤旗を掲げている。と言うことは援軍に来ていたということか。
レツ国はセイ王が攻め落とし、シコウという者を後嗣(こうし)にしてやって以来の謂わば属国である。
そうならばここで反撃に出れる。心身共に疲労しきっていたバン軍は安心して邑へと向かっていった。
琅は大きくない邑であるが、それでも木組みをした重厚な門を構えている。その門前まできたバン軍は誰何(すいか)した。
「琅は我がバン国の治める邑である。そこに旗を上げるは一体何れの国であるか。」
「我々はレツ国である。」
「なれば、我らと盟する国、即刻開門されたし。」
「それは出来ぬ。」
「なにっ。」
突然邑内から新たに旗が掲げられた。その色は藍、ユウ国の旗色である。
門前で待機していたバン兵は血の気が引いた。同時に天から矢が降り注いだ。
前線のバン兵はまたしても阿鼻叫喚の中逃げ惑うことになった。
「おのれレツ公め、裏切りおったな。」
セイ王は歯噛みをしながら退却を命じた。こうなれば自国領まで引くしかあるまい。
琅の城門が開け放たれ、連合軍が駆け出した。その中には今はレツ公のシコウも見える。
戦意の()せているバン軍は敵に背を向け、逃げることしか出来なかった。
猛烈に追いすがる連合軍であるが、実際は後尾(こうび)を脅かすのみであった。敵軍の非戦闘兵や退却する兵には追い打ちを仕掛けないというのが戦いでの礼である。それでも、散々辛い目に遭わされてきた国の多い連合軍の兵の中には、これまでの恨みを晴らさんと追撃を仕掛ける部隊もいた。まだまだ彼らにとってバン国は礼の通じぬ異邦の国なのであろう。ある程度攻撃を黙認していた連合軍の将たちは頃合いを見計らって追跡を取りやめた。

バン軍はもう戦意の欠片もなく、ひたすら自国への道をひた走った。ここまでになってしまってはセイ王も為す術は無く、とにかく安全な()邑まで退くしかなかった。
いつの間にか兵数も半分ほどになっている。みな命を惜しんで逃散(ちょうさん)してしまった。
(まさかレツ公が裏切るとは…)
レツ国が心服していないことはわかっていたが、国力を比較してユウ国の方が上であると見られたのだ。
これは他の寝返った国にも同じことが言える。
実際には、それは国力のみという単純なものではなく、巧みな外交によるところが大きいのだが、まだセイ王はそこまで考えが及ばなかった。その点、トウシュクの方が上手であった。
(しかし憎らしいものよ。すぐにでも奴らの首を撥ね飛ばしてやりたいわ。)
思い返せば再び怒りが湧いてくる。正面から戦えば勝てる見込みはあったと今でもセイ王は思っている。
あまりの形相に左右の者も声を掛けあぐねていたところ、またしても前方でどよめきが上がった。
「何事かっ。」
苛立ち紛れに怒鳴ったセイ王であったが、兵達が指差す方向を見て、今度こそは戦慄した。


行く先の道、右手の緩陵(かんりょう)の上に幾つもの旗がたなびいている。
その旗の色は他でもない、先ほどまで干戈を交えていたユウ軍のものだ。
その先頭には兵車が二乗、一つはカン公が、もう一つにはトウシュクが立っている。
トウシュクは静かに右手を挙げると、一斉に鼓が打ちならされた。
丘陵の向こう側から雲霞の如く兵が現れ駆け降りてくる。
その様子を唖然と見ていたセイ王は、血の気が引いていくのをはっきり感じた。
(討たれる。)

ここから先、セイ王はどう逃げ帰ったのか記憶していない。それほどまでに惑乱していた。
付き従っていたシホウも王に追い(すが)るのがやっとで、軍を再び(まと)めることなど到底不可能であった。
カン公は翼でも持っているのか。そうバン軍の者が思いたくなる程のユウ軍の行動は迅速であった。
莫野から撤退したバン軍は琅邑へ行くために西行し、そこから宜邑へ戻るために東進した。大きく回り道を取るような形をとっていたバン軍に対してユウ軍は莫野からセイ王が通るであろう宜邑への道へ最短距離で向かっていたのである。結局のところ、セイ王は徹頭徹尾トウシュクの掌上で右往左往していたことになる。神算鬼謀というに相応しいトウシュクの軍略に、カン公を始めとした諸侯達は流れるような勝利への戦いに乗せられて不思議な感覚を覚えたであろう。
連合軍はバン軍を領外に追いやるまで攻め立てた。何とか宜までたどり着いたセイ王らは長く留まることなく船に乗り込み、首都の平まで遁走した。

完全なる連合軍の勝利である。
連合に参加した諸侯は大いに沸き立った。これ以上ないほどの戦果である。ユウ軍が琅に帰還した事を聞きつけ、続々と諸国軍が集まった。

諸侯が揃ったところで祝宴が始まった。この宴は盛り上がった。
どの国にもバン国に圧迫され鬱屈(うっくつ)した気分にあったのであろう。暗い洞穴から漸く抜け出せた、皆がその様な清々しい表情をしている。
どんどん酒肴(しゅこう)が運ばれては瞬く間に消えていく。
こうして顔ぶれを眺めてみると、結局バン国に従属していたほとんど全ての国が寝返っていたことが分かる。これは周到なトウシュクの外交策が功を奏したわけだが、もう一つはバン国の支配体制の悪さという側面もあろう。武力でもって他を圧倒しても、それは表向き従わせていただけに過ぎない。セイ王が行ったやり方は部族間の様な小規模の中では通用したのかもしれないが、国家間では面従腹背(めんじゅうふくはい)の徒を増やすだけであった。
トウシュクは自ら各国へ赴いてこう説いて回っていた。
「バン国の精強さは君も良くご存じの通りです。しかし、その力はジ王朝を顧みず、むしろそれをジ王へ向けようとしております。これは不義なる行いであり、その様な振舞いは禽獣が人に牙を剥いているのと変わりはありません。我がユウ公はその暴虐をジ王に代わり征伐いたします。どうかその折にはカン公を(たす)け、共に退けていただけますよう。」
如何にジ王朝の実力が衰えたと言っても、それに弓引くことは自国以外を全て敵にまわすことと同義であり、その中においては自らが異端、ひいては蛮族となる。
バン国に従属していた諸侯は皆旭日(きょくじつ)の勢いであるユウ国を選んだ。セイ王は戦う前から既に敗北していたのだ。


宴の中で諸公に拝謁してまわっていたトウシュクがレツ公の前にも来た。
「此度の勇猛なる戦ぶり、お見事にございました。流石は武をもって成るレツ国よと、我が君も手放しでお誉めしておりました。」
「過褒である。逃げる兵を追ったに過ぎず、戦の礼から外れた振舞いであったことを恥じ入るばかりだ。」
レツ公であるシコウはトウシュクの賛辞を謙虚に()けた。
彼は仕方のない事とはいえ、離反を繰り返さなければならない我が国のあり方に忸怩(じくじ)たる思いでいる。
いつの間にか小国となっていたレツ国は、今や大国の顔色を(うかが)わなければ生き残れないようになってしまった。戦いとは(せい)すべき大義を掲げ行い、過剰な搾取は行わない。そんな気高さを誇示するものであったが、それがいつの間にか単純な略奪行為の手段になってしまっている。それを率先して行っているのがバン国であり、それを打倒すべく万全の備えをしていたのがユウ国であった。レツ国を始めとするその他の諸侯はこうした情勢の転換についていけず、大国に付随する他なくなっている。

父や弟が羨ましいと思わない訳ではない。誇りを持ったままで生を遂げたとも言える。しかし、シコウはそうしなかった。
(国を失うわけにはいかない。)
その為の選択を、苦渋の末に選択したのだ。その事は今でも後悔はない。ただそれでも、
(苦しい…)
これからも面従腹背を続けることになるであろう。
出口の見えない苦しみの道を独りで歩んでいくのだ。君主は常に孤独と共にある。親兄弟を失ったシコウは尚更である。

「我が君は近く、戦勝の報告に安陽に参ります。その際は貴国へも立ち寄ることになるでしょう。その際は何卒宜しくお願いいたします。」
この後二、三言葉を交わした後、トウシュクは辞して他の諸侯の下へと移っていった。

(安陽と言えば、シキョウの(つま)のシンユウが逃れたと言っておったな。…彼女にとっては私は裏切り者なのであろうな。)
大いに盛り上がっている宴から離れたシコウは宮殿の外へ出て一人空を眺めた。いつの間にか
夜を迎えていた空には炬火(きょか)にも負けないほどの星々の輝きが一面にひろがっている。


その日、安陽の街はいつもに増して(にぎ)やかであった。
「カン公(きた)る。」
先の莫野の戦いで大勝した報告にユウ軍が来るというのだ。皆その姿を一目見たいと沸き立っているのだ。
この報は、シンユウの父シンカンの耳にもいち早く届いていた。
「野で神獣でも見たかのようじゃな。」
シンユウを相手に彼は半ば呆れているかのようである。
「久しぶりの明るい話ですもの、無理もないですわ。」
シンユウの方は素直に喜んでいる。
バン国に対する恨みが彼女たち主従にはある。それを代わりに討ち果たしてくれたのだから悪い気はしない。
「ふむ…。」
一方のシンカンは少し立場が異なる。
確かにバン国の行為は目に余るものがあった。爵位をねだっておきながら、同盟国を次々お構い無しに襲っていたのだから、これにはジ王も苦い顔をしていた。王の感情は国全体にも浸透していき、ジ国内の雰囲気はバン国に対して嫌悪感を漂わせるものとなっていた。
そこにユウ国の決戦、勝利である。国民の溜飲(りゅういん)が下がったのも当然であると言える。
しかし話はそう単純ではない。
勝利を納めたカン公はその後諸侯を伴って祭祀を行った。この祭祀が問題で、これは本来ジ王が行うべきものである。それをジ王抜きで行ったことは明らかな僭越である。それをカン公、トウシュクが知らぬはずはない。彼らは天下にユウ国の威がジ国よりも勝っていることを主張したのだ。
しかし同時にこれは天下の諸侯に釘を刺すことにもなる。ジ王朝を蔑ろにするものはカン公が誅罰を与える。現に向かうところ敵なしであったバン国を叩きのめしたのだから、その影響力は強大である。
つまりは今までジ王が遂行していたことをカン公がそっくり代行しているのだ。
そうした機微を悉知しているシンカンであるので、素直に喜べないのであった。
さらに困ったことに、当のジ王がこの顛末(てんまつ)を素直に喜んでいることである。これではジ王朝の権威はどうなるのか。

「実はシインもすっかり夢中になってますの。今日も朝からいつもの皆と出掛けておりますわ。」
「シインもか。全く仕方のないことじゃの…。」
この時のシンカンの顔はもう可愛い孫を想うそれであった。

既に大通りに集まりつつある群衆の中をシインは掻き分けながら進んでいた。後ろにはランソクも付いてきている。
「おおい、シイン様、こちらです。」
通りの向かい側をみると、少年三人が手を振っている。テキとシンとガンだ。彼らは以前強請(ゆすり)を受けていたところを助けた者たちだ。ちなみにテキとシンは兄弟である。彼らは助けられた後、シイン達と仲良くなり、共に行動することが多くなった。立場上シインが上ということもあり、さながら家臣のようであった。
その彼らがしっかり最前列を確保してくれていた。
「ありがとう、みんな。」
そう答えるシインはどこか堂々としてみえる。自分を慕ってくれる者が増えたことで、自然と上に立つ者としての矜持が芽生えてきたのだろう。

「カン公はどんな人なんでしょうね。」
ガンは楽しそうにしている。
「きっとこわい人なんだよ。」
一番年下のシンは不安そうである。
「トウシュクという大臣もすごい人だとみんなは言ってます。」
テキは耳聡いのかよく噂を集めてきてくれる。
「楽しみですね。」
ランソクも心なしか興奮しているようにみえる。
中でも一番目を輝かせているのはシインであった。
入城したらしいぞ、と周りから聞こえてきた。
一層揉み合いが強くなってきたので、子供達は全員で踏ん張りながらカン公の到来を待った。

どれだけ待っただろうか、鼓の音と共にざわめきと緊張が辺りに満ちた。
先頭には重厚な(よろい)を着けた者が乗った兵車が来た。おそらく親兵であろう。威風堂々としたこの先頭に既に見ている者達は醒然とした。
しばらくこの列が続いた後に流旗が見えた。その下には一層豪奢な兵車がくる。
(カン公だ。)
朱漆が眩しい兵車には磨かれた青銅の飾り金具が随所に施されている。それを()く馬も毛並みの素晴らしい良馬で、こちらにも様々な青銅具が用いられている。
それに乗るカン公もそれに負けない程(きら)びやかな黒漆の甲を身に着けている。当時は革を幾重にも重ねた(よろい)が主流であった。格の高い者の甲は更に漆などを施し、装飾性と防御性を高めている。
この姿を見たものは皆思わず息を呑んでいる。シイン達も同様である。
シインは自らの理想の姿を見た気がした。あまり記憶には残っていない父の姿をそこに重ねて見ていた。
(きっと父上もこんな立派な姿だったろうな。)
この日のカン公の姿はまた、シインの胸裏に強く残ることとなった。
(いつかは自分もこの様にジ王をお助けできるようになりたい。)

カン公の後にはトウシュクが続いた。彼もまたカン公に劣らぬ豪華さであった。
静かな表情で群衆の間を抜けていくトウシュクであったが、ふと最前列に並ぶ小さな集団を見つけた。
(おや。)
彼らを顧眄(こべん)したトウシュクは思わず笑みをこぼした。
(こんなところにも小さな当主と臣たちがいたものだ。)
それは輝く強い眼差しで自分を見るシインと、その背後にぴったり寄り添う四人の子供達の姿であった。トウシュクは数多くいる人の中からシイン達には何かを感じ取ったらしい。
後の彼らの事を思えば、トウシュクの慧眼はやはり非凡なものであったと言わざるを得ない。

十分に都の民に存在を見せつけたカン公は、ジ王へ謁見し戦勝報告をした。
ここでジ王より諸侯の長として正式に認められた。いわゆる「覇者」となったのである。
これよりしばらくはこの覇者カン公による時代が続くことになる。
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登場人物紹介

シイン。姓はキ、諱はシュウ。

レツ公リョウの公孫にあたる。

幼くして国を失う。

シキョウ。姓はキ、諱はキュウ。

レツ公の子、シインの父。


ランキ。姓はラン、諱はキ。

シキョウの家宰。ランソクの父。

シンユウ。姓はシン。字はユウ。ジ国の臣、シン氏の女。シキョウの婦であり、シインの実母。

ランソク。姓はラン。諱はソク。ランキの子。

テキ。のちにチョウ姓を名乗る。幼い頃からシインにつき従う。

シン。テキの弟。チョウテキと同じくチョウ姓を名乗る。

シインに従う。

ガン。後ウ姓を名乗る。テキとシンの友人。彼ら同様シインに従う。

ヒセキ。姓はヒ。字はセキ。諱はソウ。

ジ国の人。シインとは不倶戴天の存在。

キキョウ。

南方の遊牧民族キ族の族長の長子。

シインの義兄。

キトツ。

遊牧民族キ族の族長の子。キキョウの弟。

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