望遠

文字数 6,700文字

夜更けまで続いた宴も終わりが近づき、各所で沸き起こっていた笑声も気づけば静まっていた。
宿営地の外は音を無くしたかの如き静夜である。
その中でシインとキキョウは族長であるキソウと対面している。
たった三人での場である。

「今日でお前達は正式にキ族の戦士となった。我と肩を並べたことになる。」
キソウはゆったりと切り出した。しかし、酒を手許に置いているわけでもない。真剣な話であるとシインは察した。
「それ故、これからの我が族について話をしておく。」
二人は居住まいを正した。今までは大人達に保庇(ほひ)された中で自由に振る舞えた。明日からはそれら全てが変わるといってよい。自分達もまたこの族を支えていかねばならない。

「今日の事もあるが、お前達二人は族の中でも特別なものになりつつある。」
快活なキキョウと勇壮なシイン、この二人の存在感が日に日に増してきていたことをキソウは明瞭に感じ取っていた。
「我はゆくゆくはお前達を族の中心に据えていくつもりだ。そして頃合いを見て、」
キソウはキキョウを見据えた。
「キョウ、お前を族長へと推すつもりだ。」

以前述べた通り、遊牧民族である彼らは、長を父子相続のみでは決めず、族人の総意で決める。真に皆を纏めて率いていける器の者に次代を任せるのである。
キソウの言を聞いたキキョウの顔が、より引き締まった。族長という立場の重さを彼はよく心得ている。
そこでキソウはシインを一瞥した。
実のところ、族人の関心はシインの方へと多く向いている。理由は勿論、この日の虎を討った一事にある。
生まれながらに遊牧民族ではない彼であるが、その壁を軽く乗り越える程に族人の熱は昂い。嘗ての肩身の狭い少年期とは違い、彼らの見る目は一変していた。
シインの成し遂げたことはそれ程までに衝撃的であったのである。

しかしキソウと目を合わせたシインは、直ぐに意図を汲み取った。
「私のことはお構いなく。命を救われた恩はあれど、我らの族の長などとは思いもよりません。キキョウが適しています。」
それに、と言いながらシインはキキョウを見た。
「私はキキョウの弟ですから。兄を差し置くわけにはいきません。」
家督相続は常に争いの基になる。シインが巻き込まれたジ国の乱もそうであり、ユウ国のカン公の跡継ぎもまた荒れた。ジ王朝では本来そうした争いの無い様に長子相続が定められているのだが、もはや拘束力は無いのが現状である。しかし、シインはそれを主張した。

「シュウ…お前と言うやつは」
シインの謙慎さにキキョウは素直に感動している。
キソクもここでの争いを懸念していただけに、安心して相好を崩した。
「ふむ、ならばこれからはそのように取り計らう。だがこの事はまだ他言無用だ。わかったな。」
キソウが二人を見ると、二人は無言で頷いた。
「さて、他言無用の事はもう一つある。」
新たな話の展開に二人は少し驚きつつも再び居住まいを正した。
「それはこれから、の話であるが…」
その内容は二人にはまだ抱えきれない大きさのものであった。しかしキソウは敢えてこの話を切り出した。
「二人はこのところのタイの情勢については知っているな。」
二人は黙って頷いた。

今や中原の覇者となったタイ国は、軍備も益々拡張させて強大化する一方である。その武力は、ジ王朝下の他国を圧倒するだけでなく、夷狄と称される遊牧民族にも容赦無く振り下ろされている。タイ国は南方に大きく領土をもつが、その多くは様々な遊牧民族が蟠踞(ばんきょ)する辺境にある。
現タイ侯であるブン公の父、ケン公は、領土拡大も兼ねてその夷狄の娘をも(きさき)としている。そこに産まれたのがブン公であることは以前述べた。
その頃から徐々に遊牧民族の有力者も国家運営に参加出来る風潮が醸成されていた。
その積極的な人材登用が今の権勢の礎の一端になったとも言える。
そして今もタイ国は遊牧民族を併呑している。即ち遊牧民族達はタイ国に降るか否か、その去就を迫られているのである。
その現状をキソウはシインら二人に説明した。

「タイに降るのを嫌い、遠い地へ逃れた族もいる。しかしそれも楽な道ではない。」
キソウは眉に皺を寄せて話す。
タイ国以南の地は広大に広がってはいるが、その全てが人にとって住みよい地とは言えない。冬になれば耐えられないほどに寒冷化する所もあるし、獲物が殆ど得られない土地もある。
そうなると、如何に広大な大地と言えど他の遊牧民族と居住地が重なることになる。これは少ない資源の取り合いにもなり、前述した通り決して裕福な生活とはいえない暮らしをさらに圧迫することになるのである。その行く先は争いでしかない。
そうした情勢の変化による遊牧民族の生活圏の変遷は絶えず起こっており、事実このジ王朝圏よりはるか東方での国家の興亡に伴い、東方の各遊牧民族がそこから押し出されるように西方となるジ王朝圏に徐々に移動してきていた。彼らは他に対し友好的ではなく、侵略的であった。今のキ族には何ら影響のないことであったが、多くの遊牧民族が跋扈(ばっこ)するこの南方から東方にかけての地は決して平穏である訳では無いのである。
しかしタイ国に膝を屈することは、キ族としての矜持(きょうじ)瑕瑾(かきん)をきたす行為である。それをすればキソウに愛想を尽かして出ていく者もいるであろう。
かと言って、新たな大地に居を求めることは暗中を摸索するに等しい。族人に負担を強いることになる。どちらを考えても行く先が(ほそ)る想像しか持てない。
それがキソウが今抱える悩みであった。

そんな(くら)さを宿したまま鬱々と過ごしていたキソウに、今回の成人の儀の慶事は彼の心に光明を(もたら)した。
成人の儀は獣を自ら狩るという「強さ」を示すものである。その中でもシインとキキョウは虎という猛獣を狩るという壮挙を成し遂げた。それはキソウの目には我が族を覆っている脅威を打ち払ったかの様に映ったのである。
キソウはそうした心の内も率直に二人に打ち明けた。
「お前達二人の力は我が族を繁栄させる、我はそう思う。」
平素は少しの感情も面に出さないキソウの心奥の吐露に、二人は心を震わせた。
託された責任の大きさに対してと、自分達に大きな希望と信頼を寄せてくれたことへの喜びにである。

「暫くは我が族を率いる。しかる後にキキョウ、お前に族長を任せる。それまでの間にお前達は力をつけるのだ。」
同じキ族でも疎遠になった者達もいる。だが今回の成人の儀の噂は風にのり彼らの耳にも届くであろう。キソウはそうした者達を族へと取り込み、大きくしようと考えている。まずは力をつけること、それが大国への抵抗力になる。今までは現実的ではなかったが、シイン達の存在が力の象徴となり、彼らを集められる可能性が高まったのである。
二人は力強く頷いた。

これから先キ族は力を溜める時が続く。
キソウが想像した通り、シインとキキョウの噂は他の遊牧民族の間で流布された。二人の存在は近隣で特別な存在へとなっていったのである。


話は中央に戻る。
シイン達が成人した翌年に、一つの出来事が起こる。
タイのブン公が没したのだ。
彼の死は天下に動揺を拡げるかと思われたが、タイ国は揺るがなかった。ブン公股肱の卿士達が速やかに後嗣を定めたのである。これにより、大きく揺れることなく君主の交代を成せたタイ国は、未だ揺がぬ基盤を保持し続けた。
因みにブン公の跡を継いだのは、ジョウ公である。
このジョウ公が即位すると、東方で動きがあった。サン国である。この時の君主は変わらずボク公であった。彼はブン公がタイ国に入国する手助けをしている。しかし、そのブン公が亡くなってから臣下からの進言を受け、タイ国へと侵攻したのである。
本来喪に服すはずのジョウ公は喪礼の白衣に冑をつけて出陣した。結果はタイ軍の勝利であった。この戦果により民心を得たジョウ公は、偉大なブン公の跡継ぎに成功したと言ってよい。この戦いがあったのはブン公が亡くなった翌年である。


両国が衝突した年に、ジ国の安陽でささやかな成人の儀が行われていた。嘗てシインと共に過ごした、チョウ、テキ、ガンの三人の内、チョウとガンが成人したのである。チョウとガンはシインと同じ年であるが、ジ王朝の礼制の中では二十歳が成人となる。よってシインより遅れること二年、二人は成人した。
もう一人、ランソクはシインがキ族へ渡った翌年に既に成人している。
この日はシインの母、シンユウの特別な計らいで、シンカンの邸で宴が開かれることとなっていた。
シインが居なくなってからの邸はどこか寂寥としたものであったが、久しぶりに活気を取り戻した邸内である。勿論、ランソクの成人の際にも同様な明るさであったので、それ以来であった。
ジ王朝では、男子は成人したら冠と字を与えられる。チョウとガンは庶人であるのでサクと言うものを被る。冠と言うよりは被り物と言ったほうがよい、布製のものである。
また字はシンカンが二人に授けた。役職柄、彼はそうした礼法には明るい。
チョウの字はチ、ガンの字はヒョウと其々与えられたが、混乱するので名のままでいく。

宴も(たけなわ)になった頃、ランソクが二人に尋ねた。
「お前達はこれからどうするつもりだ。」
どうする、とはこれからの仕事のことを言っていた。
先にチョウが答えた。
「私はバイランさまの(みせ)で働くことにするよ。」
彼は父親の働いている商館に入ることとなっていた。
長男ということもあり、一家を率いていかなければならない立場である。バイランは安陽では一二を争う豪商でもある。チョウの父親はそこでは一部の商売を任せられる程信用されている。チョウもまた同じ道を辿ることができるであろう。

「俺は、一先ずは今のままだ。」
一方のガンは食事で膨れた腹を撫でながら答えた。
ガンは槍の腕が良く、シイン達と稽古をしてからは、安陽の郊外にある道場へ通っていた。
今は道場内でもかなりの腕前になっている。

二人の行く先を聞きながら、ランソクは内心寂しさを覚えた。
皆それぞれの道を往く。嘗てシインがいた頃は皆シインに付いていくものとばかり思っていたが、その夢想は一日にして握り潰されてしまった。
(こうやって皆で集まるのも、今日で最後となるかもしれないな。)

一方のランソク自身は、シンカンの推挙もありジ国の官吏になっている。
先の安陽での乱では、ジ国の官吏も多く被害にあっていた。命を奪われたものも少なくない。そこから復旧するために、朝廷は新たな人材を広く募っていた。ランソクは元々学舎に入り多くを学んでいたこともあったため、シンカンの推挙も通流したのである。今はシンカンと同じ春官(しゅんがん)として仕えている。

ランソクの心を察したかのように少しの沈黙がこの場を覆った。
しかし、その空気を変えたのはやはりシンユウであった。
「新たな道をゆくのは慶ばしいことです。二人がここに来ることが少なくなるのは寂しいことですが、皆の進む道が何れは一つになることを、私は信じていますよ。」
その言葉は皆の心を温かく包むものであった。

そうだな、とガンは言葉を弾ませると、皆に再び乾杯を誘った。
高々と杯を掲げると、皆は一息に飲み干した。
その後は再び明るい宴に戻っていった。


日が大地へと沈んでいく。
邸の各所には灯が灯されていた。

静かな夜に、シンユウは自室で一人物思いに(ふけ)っていた。
(あの子もどこかで成人している…)
シインが死んだとは微塵も思っていない彼女はある種狂信的にも見えるであろう。
彼女の日常はまるで何事もなかったかのように過ぎていく。皆シインがいた事を忘れたのかしら、と疑うほどに、いつも通りの日々が続いている。

何れは自分の元に姿を現すだろう。
しかし、それはいつなのか。あまりにも漠然とした想像の先は、幽い闇であった。
これまではチョウやガンなどが我が家の如く訪ねて来ては、家の事を手伝ってくれていた。
それも今日で終わると思うと、シンユウにも寂しさが去来する。同じ歳の二人を、まるで息子のように感じていたのかもしれない。
彼女の口から細い溜息が洩れた。

そんな中、不意に扉を叩く音がした。
「キです。」
ランソクの父、ランキであった。
「お飲み物でも、と思いまして。」
彼の持つ盆の上には湯気の立つ器が載せられている。
「ちょうど飲みたいと思っていました。」
彼女は微笑んで彼を歓迎した。


「シインさまのことを考えておられるかと思いましてな。」
「ふふ、あなたにはすっかりお見通しね。」
シンユウはそう言うと、両手に抱いた器の温かさに顔を綻ばせた。
「月日が経つのは本当に早いものね、最近は特にそう感じます。」
「歳を取ると余計に早く感じまするな。」
「まぁ、まるで私が年老いたとでも言いたげね。」
「あ、いや、そういう訳では…」
不意な諧謔(かいぎゃく)にランキは頬を掻いた。
室内に控えめな笑声が満ちた。

「成長されたシインさまを見るのが楽しみですな。」
「ええ、きっとシキョウさまに似て頼もしい姿になっているでしょうね。」
淀みなくそう言うシンユウを、ランキは目を細めて眺めた。

彼はシンユウの事を信じると心に決めている。
シインが行方不明になった時のシンユウの在り方を見てより、それは不動のものとなった。
そのシンユウが生きている、と言っている以上は生きているのだ、ランキはそう割り切っている。
「シインさまがお帰りになるまで、私も枯れてはおられませんな。」
そう言うと、彼は少し背筋を正すと軽く胸を反らせた。
彼はまだ壮年を過ぎた頃である。
「しっかりとお願いしますね。」
シンユウは笑みを湛えながら静かにそう言った。


さて、ランソクがジ国に仕えることになったが、それは実際のところ、ジ王を補佐する三保に仕えたと言ってもよい。その三保の一人、セツ公の下にはヒセキもいる。彼もまた既に成人を果たしていた。
成人するのを待っていたかのように、彼はすぐにセツ国の官人となった。因みに役職は尚書(しょうしょ)である。
尚書とは所謂秘書官の様なもので、国の事務処理の一切を取り仕切る職分である。
各国とのやりとりは勿論のこと、聘問があった際の会話全てをその場で記録したり、君主が郊外へ狩りへ出る際にも近侍してその様子を書き記すのである。
国の歴史が長ければ長いほどその記録量は膨大なものとなる。セツ国の倉庫には埃を被った竹簡が山のようにある。まずはその管理を担うことになったヒセキはこれらに目を通す機会が得られた。過去の事績を頭に入れておくことは中央にいるほどに重要さが増す。各国との頻繁な外交交渉には知識がより多い方が有利なのである。
ヒセキもそれを承知しているので、暇を見つけては貪る様に読んで漁った。
或いはこの配属はセツ公のそうした狙いがあったのかもしれない。
とにかく彼は、セツ国内で着々と力を溜めていくことになった。

ガンとテキが成人を済ませた翌年である。
ある時ヒセキは廷内で声を掛けられた。
見ると、見慣れた顔が軽薄な笑顔で手を挙げている。
ホウバツである。
彼もまたセツ国で仕官にありつけたのである。
「暫くだったな。」
そう言うと彼はヒセキと並んで歩いた。一方のヒセキは並んだからといって歩調は緩めない。
お互い仕官するまではそれなりに顔を合わせていたが、このところは新人特有の忙しさでそれも無くなっていた。
「どうだ最近は。」
「これといって変わりはないな。」
ヒセキは顔も向けずにそう答える。
彼の素っ気なさにはすっかり慣れているホウバツは、気にも止めずに話し続けた。

「昨年ブン公が亡くなったが、タイの勢いは変わらずだな。宰相にはサンセン殿が任ぜられたとも聞いている。」
流石にホウバツの情報は早くて正確である。かれの情報網は士官してからも拡がり続けている。
これを聞いたヒセキの片眉が動いた。
情報として驚動すべき内容ではないが、その話題そのものを知らなかったからである。
「しかし、ブン公の近侍の者達も歳を取り過ぎている。世代交代が続くだろうな。」

実際にこの時にはブン公と共に放浪した臣の何人かは朝廷から去っている。
サンセンと共に家臣筆頭であったタイエンは老齢を理由に子に跡を継がせて引退しているし、先の郭墨の戦いで神算鬼謀の働きをみせたヨウタンはその後の別の戦場で討死している。彼の子もまた入朝参政しているが、君主が代替わりすると共にその顔ぶれも変わっていくのは当然の事であった。

「世代交代といえば、もう一つ話があるが…」
知っているか、と言わんばかりの表情でホウバツはヒセキを見た。
このところ古典ばかりを見ていたヒセキは世情に疎くなっていたらしい。いつもに増して鋭い視線でホウバツを睨んだ。
「ははは、そんな顔をせずともよい。もう一つはバンよ。」
ヒセキの視線を笑いながらいなすと、彼は説明を始めた。
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登場人物紹介

シイン。姓はキ、諱はシュウ。

レツ公リョウの公孫にあたる。

幼くして国を失う。

シキョウ。姓はキ、諱はキュウ。

レツ公の子、シインの父。


ランキ。姓はラン、諱はキ。

シキョウの家宰。ランソクの父。

シンユウ。姓はシン。字はユウ。ジ国の臣、シン氏の女。シキョウの婦であり、シインの実母。

ランソク。姓はラン。諱はソク。ランキの子。

テキ。のちにチョウ姓を名乗る。幼い頃からシインにつき従う。

シン。テキの弟。チョウテキと同じくチョウ姓を名乗る。

シインに従う。

ガン。後ウ姓を名乗る。テキとシンの友人。彼ら同様シインに従う。

ヒセキ。姓はヒ。字はセキ。諱はソウ。

ジ国の人。シインとは不倶戴天の存在。

キキョウ。

南方の遊牧民族キ族の族長の長子。

シインの義兄。

キトツ。

遊牧民族キ族の族長の子。キキョウの弟。

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