第18話:諏訪大社下社まいりと雨宮が体調不良

文字数 1,696文字

 1900「明治33年」に東京高等工業学校の建築学講座担当を経て1906「明治39」年に台湾に渡った。1921「大正10」年までの間、台湾総督府営繕課技師として多くの官庁建築を手がけた。この大浴場は、あの有名な映画「テルマエ・ロマエⅡ」のロケ地にもなった。

 片倉財閥の二代目、片倉健太郎氏が、我が国にも、是非、そんな地域住民のための施設を提供したいと一族に計り、上諏訪に住民のための温泉、社交、娯楽、文化向上を目的とした片倉館が誕生した。

 もちろん、多くの女工さんが、女工哀史にも見られるように過酷な労働をして、片倉財閥を支えていたのも事実である。それでも、地元に、こんな豪華な社会福祉施設を作るというのは、他に見られない素晴らしいもの。

 その後、諏訪大社下社春宮へ向かった。入口の御影石の大鳥居は1659年「万治二年」建立と推定され、境外にある万治の石仏と同じ作者と言われている。春宮は杉の木を、秋宮は一位の木を御神木としている。続いて、諏訪大社下社春宮へ向かった。

 鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木は根入の杉と呼ばれ樹令は約八百年の御神木。身長170センチ、青銅製では、日本一と言われる狛犬を両脇に従えた神楽殿は三方切妻造り。

 宝殿の奥が、御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体として拝し、古代祭祀の形式を今に残している。旧暦での神事の流れは、1月1日 春宮へ遷座祭。

 1月3日 元始祭。1月15日 筒粥の神事 、ちなみに筒粥の神事の1月15日は、巷では「小正月」「どんど焼き」「道祖神祭」が行われ正月に行われていたためではないかと思わる。3月17日 祈年祭。その他、酒樽を飾っているのは、銘酒の故郷、諏訪ならでは、と言える。

 諏訪大社をお参りして、参道の老舗のそば屋に入って、休んでいると、急に、雨宮が、頭痛を訴えた。そこで、約1時間、店で休んで、諏訪を出発し、山里が、中央高速を飛ばして東京へ戻った、その間、間宮は、眠ったまま。

 その後、東京の雨宮、栗山さんの家の近所まで、送ってくれ、山里と木村さんが、横浜に帰っていった。雨宮は、びっしょ汗をかいていて、栗山さんが、心配して、雨宮のマンションの部屋までついて行った。
 
 そして、布団を敷いて、冷蔵庫の野菜と卵で、スープを作って、食べさせた。すると、今まで、霊験あらたかな場所に行くと、たまに急に体調を崩すことが、あるのだと打ち明けた。理由を調べると自分の霊感が反応するらしいと告げた。

 以前、体調を崩すと、何人も占い師に見てもらうと、希に、霊感が強くて、合わない神聖な場所に行くと、体調を崩すのかもしれない、その理由と対処方法について聞くと、解らないと言われたと語った。

 すると、栗山さんが、雨宮君が、死んだら嫌だから、今日、ここに泊まっていくと言い出した。大丈夫だよと、雨宮が、言ったが、依然として体調不良は、改善していなかった。

 しばらく話していると、安心したのか、雨宮が、寝息をかいて、寝てしまった。そこで、雨宮さんは、22時近くなっていたので、冷蔵庫にあった、パンを食べシャワーを浴びて着替えた。

 そして、缶ビールを開け、飲み終わると、急に眠くなり、布団を敷き、毛布を掛けて、寝てしまった。翌朝、7時前に、栗山さんが、起き、湯を沸かし珈琲を入れ、冷凍庫に残った御飯を沸騰したお湯に入れた。

 しばらくして、おかゆになったところで、生卵を2つ、割って入れた。8時前に、雨宮が、起きて、すまないなと謝った。仕方ないわよ、体調が悪いのだからと笑顔で語った。

 その後、電話貸してと言い、雨宮さんは実家と会社に電話連絡を入れた。雨宮も会社に体調不良で、今日、休みますと連絡を入れた。しかし、雨宮の顔色が良いのと食欲がありそうなので帰ろうかなと言うと、帰らないでと雨宮が、訴えた。

 そこで、雨宮につき合う事にした。休みと決めると、栗山さんが、洗濯と掃除をしますと宣言して、洗濯機を回して、部屋の掃除を始めた。それを見て、雨宮が、珈琲を入れるよと言い用意をし始めた。
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