第7話:ロッキードの東京地検捜査

文字数 1,716文字

 さらに5月7日には、田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同した。その結果、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。

 国民やマスコミは、この様な動きに対して「ロッキード事件隠し」と批判した。しかし、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めた。

 この頃になると、新聞の取材班が早朝の検察庁舎に侵入して書き損じの調書を窃取するなど、マスコミの取材合戦は、さらに加熱。一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部は、異例のスピードで田中を7月27日に逮捕、起訴に持ち込んだ。

 しかし、三木と共に田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。

 この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言えない」として「三木おろし」が再燃。田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。

 三木は9月に内閣改造を行なったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にした。三木は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できなかった、

そのため、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が、8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。

 大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就いた。在日アメリカ大使館から本国へ、ある報告が、なされたと言われている。

「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな」という主旨の報告が、秘密解除された後、見つかっている。

 2月24日、東京地検が、ロッキード事件の強制捜査を開始した。その後、3月23日、児玉誉士夫の私邸に、俳優の前野光保が、撮影用に借りていた小型飛行機パイパー PA28で、世田谷区等々力の児玉誉士夫邸に突入して死亡。

 このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が1976年2月14日、上記、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日。

 さらに田中元首相の運転手である笠原正則が1976年8月2日と立て続けに急死するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

 しかし捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われた、

 ところが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に『警察は』何もしていない」という返答しかなかった。その上、この答弁が行われた翌月に上記の様に福田が死亡。

 これらの事件で、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにも関わらず、警察はその後も政治家以外の民間人に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。

 衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、1976年5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ。

 さらに、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。

 田中は、1976年7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。
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