第6話:スキー、信州旅行とロッキード事件

文字数 1,748文字

 東京駅に18時半に集合して、夕食を食べて、喫茶店で話をしながら待った。19時40分、バス乗り場へ行くと直ぐにバスが来て、乗車手続きを取って、大きな荷物を荷物室に入れて、定刻に出発した、バスに乗り込むと、暖房が聞いていて、少しすると夢の中へ。

 高速に入って、22時前には、片品高原の宿に到着。バスの中で寝ていたので、元気を取り戻り、片品温泉に入って、地元の地酒の一升瓶を買い、4人で、ぬる燗にして飲んで、夜遅くまで語って床についた。

 翌朝、眠い目をこすりながら、起きてきて、9時過ぎには、朝食を終えて9時半過ぎには、ツアーのスキー練習のために集合して、10時にはスキー講習会が始まりクラス分けをされた。

 その時、雨宮だけが中級で、山里君が、初級、栗山さん木村さんは、初心者コースに入った。初心者コースは、子供が多く、栗山さん木村さんは、スキーの正しい、つけ方、外し方から、教えてもらっていた。

 一方、雨宮は、午前中、初級のゲレンデを滑り、プルーク・ボーゲンの基礎を習った。昼食後、午後から、中級ゲレンデに移り、斜滑降、パラレルターンの練習を開始して、14時過ぎには、パラレルでゲレンデを降りてきた。

 その後、雨宮は、自由滑走となり、17時まで、何回もリフトに乗って、思いっきり滑って楽しんでいた。その後、宿に戻り夕食を食べて、20時出発と言われ、それまで、温泉に入った。

 やがて20時に宿の前にスキーバスが来て、乗り込んで、23時前には、東京駅に到着して、雨宮と栗山さんは、タクシーで、自宅に帰り、山里君と木村さんは、東海道線で横浜に帰っていった。

 2月16日、衆議院予算委員会でロッキード事件の証人喚問を開始。小佐野賢治「国際興業社主」が、喚問の場で発言した「記憶にございません」と言う言葉が、その後、巷で、話題になった。

 アメリカのチャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から、数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として多く日本人の名前が出た。

 そして、小佐野賢治、全日空の若狭社長や渡辺副社長、大庭哲夫前社長、丸紅の檜山廣会長や大久保利春専務、伊藤宏専務、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが証人喚問されテレビ中継された。5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足。

 その後、ロッキードから金を受け取ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされた。

 しかし、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。三木の下で、アメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹が、インタビューに応じた。

 その中で、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底、我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語った。
 
 その後、三木武夫首相がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて、じきじきに、捜査の開始を指示、同時にアメリカのジェラルド・フォード大統領に対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に積極的な関与を行った。

 また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。

 吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた。三木は、外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日にヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。

 アメリカ政府は3月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意。捜査の開始を受け、マスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大した

 しかし、明らかに、ライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判された。また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判。
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