第12話 ふつかめ

文字数 2,379文字

この風変わりな世界の中を、私は野良猫みたいに探検していた。
おびえた目と、不自然な期待感に高鳴る鼓動を騙して、平然と歩くのはこんなにも苦痛なのだと思い知らされた。
私の部屋―というか、ろくにチェックインの手続きもしていないのだけど、私とペンギンさんの部屋は2階の角部屋で、そのフロアは全部で7室ある。
号数表記なくて、利用客は扉の色で自室かどうかを判断するのだ。
朱色、山吹色、紫紺色、紺瑠璃色、麻緑色、小麦色、そして私の暗黒色。
私は絵画に興味はないけれど、美術部だったやっこのお陰で、色の名前にはちょっと詳しくなっていた。
そんな昔話なんてどうでも良いか。
暗黒色は、今の私にはお似合いだから。

一階へ通じる広くて長いらせん階段。
虹色のじゅうたんを眺めながら下ると、頭がくらくらして、この場所が現実だということを見失いそうになる。
フロアには、ソファとテーブルセットが幾つもあるけど…こんなに必要なのかしらと、私は首を傾げたくなった。
現に、部屋からここまで誰にも会ってないし、カウンターはもぬけのからだし…。
ふと、天井から吊り下げられた案内板が目に入る。
「あっち こっち」と、だけ書かれてあって、あっちは別館へ通じる通路。
こっちは正面玄関。
時折、風に揺れる案内板を見ながら私は考えた。

強風でも吹いたらどうなっちゃうのだろう、案内板はくるくる回って、あっちとこっちが逆になっちゃうんじゃないかしらん?
それでも私は、あっちへ向かうことに決めた。
てくてくてくてく。
ずんずんずんずん。
スタコラサッサ。
歩きながらだけど、ひとつだけ気が付いたことがあった。
床も壁も、手すりも窓もピカピカなのだ。
ホテルだから当たり前かも知れないけど、いったい、いつ誰がお掃除しているのかしら?
誰かと会った時の話題が、ひとつ増えた気がした。

渡り廊下の壁一面には、大小様々なシャボン玉が描かれてあって、床のフローリングは澄み切った空色。
所々にちいさく描かれた飛行機の上を、私は繰り返し歩いている。
壁のひときわ大きなシャボン玉の中に、笑っているテルテル坊主がいて、私は思わず吹き出してしまった。
そんな軽くなった私の足は、中庭に差し掛かるとピタリと止まった。
人と遭遇してしまったからだ。
私だけの世界だと思い込んでいた景色に、他人がいたのだ。
身体が条件反射していた。
過剰なまでに。
中庭の敷石は新緑色、深緑、ウグイス色で、申しわけ程度の池には、真っ白な水車が回っている。
その前で、キャンパスに向かってゆったりと筆を動かしている女性と目が合ってしまった。
私は、恐る恐る会釈をしたのだけれど、その女性はにこりともせずに、再びキャンパスへ視線を向けた。

男性下着みたいなぶかぶかのタンクトップにデニムの短パン。
赤栗色に染まったショートヘア。
目は大きくて色白な肌。
年齢は、私と同じくらいか少し上にも見える。
ハーフみたいに整った顔立ちは、女性の私が見ても美しかった。
キャンパスには、食卓を囲む骸骨たちが描かれてあって、私の気持ちは一気に沈み込んだ。
現実を思い起こされたからだ。
無理矢理に、引きずり出された気持ちになった。
足がなかなか動かせないでいる。
また、目頭が熱くなってくる。
短時間で、走馬灯みたいな記憶の傷を防いでくれたのは誰でもない…その女性の声だった。

「絵ってすごいでしょう?」

私は「はい」とだけ答えた。
それしか言葉が見つからなかった。

「絵ってすごいんだから…」

女性は呟くように言った。
私はバレないように、鼻をすすった後で女性に声をかけた。

「あ、あの」

「なに?」

振り返った女性の瞳の色を見て、私はぎょっとした。
左右の色が違うのだ。
その黒色の瞳と、薄緑の瞳が真っ直ぐに私を捕えている。
私は慌てて。

「初めまして…未来です…昨日来ました…」

と、だけ言うと、彼女も応えてくれた。

「絵描きさん、とでも呼んで」

見てはいけないものを見た様な気がして、でも、それは思い過ごしかもしれないし、考えすぎかもだけど、絵描きさんが超能力者に思えて怖くなった。
だから私は走っていた。
追われてもないのに。
きっとこのホテルの絵も、絵描きさんが描いているのだろう。
気持ちが高揚する愉快な表情の反面、おどろおどろしくて醜く恐ろしい一面。
そして、人を虜にしてしまう魔力を持った瞳。
でも、コンタクトレンズだったら? 
瞳を大きく見せるおしゃれアイテム…だけど、どこで買うの? 
それを誰に見せるの? 
そもそも、このホテルの絵には何の意味があるのかしら? 
私はこれからどうなるの? 
もしかして、何かの儀式の生贄にされるとか―。
パンク寸前の私の目の前には、純白の扉が立ち塞がっていた。
行く手を遮る世界の壁を、私は思い切り押しやった。
まるで映画館みたいな重たい扉の先には、ライトに照らされて軽やかに踊るダンサーの姿が見えた。
バレエシューズが舞台を擦る音と、ダンサーの息遣いが響くホールに、私の足は吸い込まれていった。
ペイズリー柄のピンクのトップドレス、ふわりと宙に舞うスカートから見える細い脚。
そして引き締まったウエスト。
きれいな背中と長く伸びた白い腕。
束ねられた黒髪が可愛く跳ねるその姿は、夢の中の天使みたいだった。
薄紅色の艶のある唇から時折覗く真っ白な歯と、少し赤らんだ張りのある頬に流れる汗は美しかった。
呆然と見とれる私の頭上で声がした。
甲高い男の声。
それは早口で耳障りなものだった。

「やあやあ。珍しいもんでこんな時期にお客さんだよ。ねえねえ君君、そこのお嬢さん、ねえってば、聞こえてる? あ、入場料は気にしなくて良いからね、出世払いでとか言っちゃったりして―」

私は雑音を無視しつつ、あることに気が付いた。
美しく踊るダンサーには胸の膨らみがなくて、細くて長い首に巻かれたパープルのストールは、その姿には不釣り合いに思える。
あたしは確信した。
この人は男性なんだ。


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