最終章 はじまり

文字数 2,516文字

あたしの身にふりかかった災いの始まりは、結局は自分で作り上げてしまったものだった。
辛いことがあれば笑って、楽しいことであっても心の隅っこでは何故だか冷めていた。
というよりも、冷静に振る舞う演技をしていた。
本音を隠しながら生きていくうちに、相談相手を見つけることすら出来なくて、逆に相談される側へと回っていた。
それはあたしが望んでいたのだろう。
だけど、日常の中で演技をし続ける自分にも限界を感じていたし、我慢していた心の小さな傷は次第にふくれあがっていて、あたしを自傷行為へと走らせていたのだ。

まほろば島での最後の日は、みんなが港へと見送りに来てくれていた。
紳士はあこちゃんの遺影を手にしていた。
額の縁取りは桜色。血色のいいあこちゃんの写真は、今にも「おねえちゃん、バイバイ」と語り出しそうだった。
おしゃべり男は森の中にテントを張って一週間過ごしていたみたいで、限界になった頃にひょっこりと「ABARAYA」に戻ってきた。

「俺痩せたかな?」

と、言っていたけど、夜な夜なキッチンの食材がなくなっていた事件のことは、みんな知らないふりをしていた。
花屋さんも山や海辺を走り回るようになっていた。

「ほんとうですか?」

って言葉は「ほんとうですよね?」に変わった。
何故そうなったのかは誰にもわからないけれど、時折笑うようになった。
ジュディーさんはお酒をやめた。

「なんだか、恥ずかしくって…」

と笑いながら、ペットボトルの緑茶を飲み干す姿は新鮮だった。
作家さんは引きこもりがちだったけれど、食堂へは必ず顔を出すようになった。
近いうちに小説を文学賞に応募するのだと張り切っている。
ダンサーさんはあたしの後で島を出ることを決めたらしく、ロシアにバレエ留学に行くと…喋りはしなかったけれど紙に国旗を書いて笑っていた。
絵描きさんは、カウンセラーの助手としてここに残るのだという。
絵本も書き始めた彼女の瞳はキラキラと輝いていた。

あたしがここから離れる決断をしたのは、あたしのほんとうの心がそうさせたのだ。
優しい温もりに包まれたあの日、あたしは部屋の隅っこに無造作にしまい込んだ携帯の画面を眺めていた。
傍らには、ずっと絵描きさんがついていてくれたから、現実を見る勇気も出たのだと思う。
着信も、メールも、ほとんどがママからだった。

「未来ちゃん。そっちはどお? 何か困ったことはない?」

とか。

「先生と今日ね、東京で会ったわよ。未来ちゃんは元気でとっても素直なお嬢さんだって言ってたよ。あ、そうそう、パパの体調ね、すっかりよくなったからね、安心してね」

という内容ばかりだったけど、あたしはママにもパパにも、それから先生と呼ばれている紳士にも感謝した。
紳士はあこちゃんの看病の合間にママと会っていたのだ。
あたしがこの島に来たのだって偶然なんかじゃない。幼い頃にここへは来たことがあるのだ。
それをあたしは都合よく解釈して、自分だけの物語を作りあげていた。

大晦日のあの日もそうだ。
あたしのマンションの部屋は一部が焦げただけで、蠢く炎はあたしの心だけに見えた幻だったのかもしれない。

ママからのメールに張られていた画像のピントはズレ過ぎていたけど、作り笑いのママとパパの顔がそこにはあった。
頑張った笑顔が嬉しくてあたしはまた泣いちゃったけど、その涙の味はしょっぱくはなかった。
絵描きさんは「ひとりじゃないね」って言ってくれた。
港で船を待っている間、紳士がみんなに手渡しで小箱をくれた。
綺麗にラッピングされた包みには、ちゃんと名前が書かれてあった。

「藤倉未来 様」

おしゃべり男が包みを振りながら。

「クッキーかな? せんべい? いや待てよ、もしかしたら指輪とかだったりして!」

と言うと、花屋さんが

「ほほほほ、ほんとうですよね?」

と同じように包みを振った。
カタカタと音がしている。
作家さんはとても小さい声で何やら呟いていたけど、誰も気にとめなかった。
絵描きさんが

「あんまり乱暴にしちゃ駄目よ、大切にしないと」

と言うと、おしゃべり男も花屋さんもしょんぼりとしてしまった。
それを見ていたジュディーさんが笑って、ダンサーさんも笑顔を見せた。
あたしは思った。

みんな必死で何かと闘っているのだと。それは淋しさかもしれないし、もしかしたら心の声かもしれない。
だけど今こうして、この場所に立って息をしている。笑っている。踏ん張っている。
そのことを教えてくれたのはあこちゃんだ。

紳士があたしの隣に立って、まっすぐあたしを見つめて語りかけた。

「ありがとう」

あたしが予期せぬ言葉に驚いていると。

「あこはすごく喜んでいたんですよ。あの素敵なショータイムを…おねえちゃん達が頑張ってくれてるからあたしも頑張るってね。だから、ありがとう」

あたしの目頭がまた熱くなった。あたしは深々とお辞儀した。
紳士の大きな手があたしの肩に触れた。パパみたいな大きな手だ。
優しい声は続いている。

「みんな面白い人達でしょう? けれどね、ちょっとした心の病気と闘っているんですよ。みんなの振る舞いには時々びっくりすることもあるけれど…それはですね。本人が病と闘っているごく普通の反応なんです」

あたしは顔を上げて紳士を見た。
紳士は頷いて力こぶを見せてくれた。お世辞にも逞しいとは言えない力こぶを見てあたしは笑った。
このままこの場所に居たい気持ちと、ママやパパを安心させたい気持ちが重なっていた。
絵描きさんがあたしに近づいてきて、手の平に収まるくらいのちいさな熊のぬいぐるみを差し出した。

「もやもやしたらさ、これを右手で握りしめてね」

あたしはそのミニベアちゃんを眺めながら「はい」とだけ答えた。
春の風が「ABARAYA」の建っている丘の上から吹き抜けてくる。
桜の花びらが空にハラハラと舞い散って、やがて海に宝石みたいに浮かんでは気持ちよさそうに漂いはじめた。歌を歌っているみたいに揺れる花びらはなんだか楽しそう。

「わあ…」

かすかに声が聞こえたように感じた。
あこちゃんの声だ。
でもあたしはその声を、大切に心の中に宝物として取っておこうと決めた。
だって、あたしのライフイベントは傷だらけだからなんて言いたくはないから。



おしまい。
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