第3話 衝動的発作

文字数 1,623文字

面接の疲労感と、思いもよらない親友からの裏切りで、私の気分はすっかり滅入ってしまった。
フルーツパーラーを出てから、新宿界隈をあてもなく彷徨って、花園神社で途方に暮れて、ゴールデン街で泣きべそかいて、伊勢丹のトイレで何度も嘔吐した。
長時間にわたる緊張が解けたせいだろう。
そう、思い込むしか正気を取り戻す方法はなかった。
それでも、気道が狭まる恐怖心は拭いきれなくて、酸素を求めて浅い呼吸をしている姿を鏡で見ると、パンダ目になった自分の顔があってますますイヤになった。
人目もはばからずに、思いっきり顔を洗う。
隣で歯を磨いていた女性は、舌打ちをしてそそくさと出て行った。
冷たい水は、疲れた心を癒してくれた。
化粧を直す気力も失っていたから、すっぴんのまま伊勢丹を後にして、足早にJR新宿駅へと向かった。
電車の中は満員で、隣の若いサラリーマンは、アルコール臭を漂わせながら、立ったまま居眠りをしている。
時折膝がガクンと折れる度に、脂っこい頭髪が私の肩に触れた。
音楽を聴いているおじさんのヘッドフォンからは、聞きたくもないソウルミュージックが流れ出ている。
電車が揺れると、一斉に同じ方向へ傾く乗客たち。
私なんて特別な存在ではなくて、群衆の中の一部に過ぎないんだと痛感してしまった。
涙が再び零れ落ちた。
阿佐ヶ谷駅のホームに降り立って、自動販売機で温かいお茶を買う。
ここから自宅のマンションまでは、歩いて5分足らずの距離。
今夜は、早く眠りに就きたかった。
普段よりも、ゆっくりとした足取りで、こぼさないようにお茶をすすりながら歩いた。
私という、存在を確かめているように。
老朽化した歩道橋を過ぎて、幼稚園を通り越す。
ちいさな花屋を右手に曲がると、自宅マンションが見えた。
街灯に照らされた自動販売機。
隣の赤いごみ箱には、空き缶が今にも溢れそうに積み上げられていた。
私は、持っていたお茶の残りを飲み干そうと立ち止まった。
自宅には、余計なごみを持って帰りたくはなかったから。
その時、右わき腹が焼けるように熱くなった。
痛みは激しさを増して、ナイフで肌を引き裂かれているように、ゆっくりと太ももの辺りまで下りていく。
私は、ギャッと叫んでうずくまった。
持っていた空き缶が、路上を転がっていく音が聞こえた。
張り裂けそうな皮膚の内部が、ドクンドクンと脈打っている。
痛みはそれと連動して襲い掛かる。
服を捲り上げてわき腹を見ると、白色灯に紫色の傷がはっきりと映し出されていた。

あの時と同じだ…。

私は、ガチガチと震える唇を力いっぱい噛み締めた。
そして、朦朧とする意識の中で立ち上がり、泥酔者みたいな足取りでマンションへと歩き始めた。
もうすこし、あとすこしで我が家へ辿り着くんだ。
そしたらベッドで横になって、身体を休めて様子を見よう。
痛みが治まらないようなら、この前とは違う病院へ行こう。
こんな所で倒れてたまるか!
この歳で、死んでたまるか!
私は己を奮い立たせた。
痛みの原因はわからない。
でも、医者が言っていた通り、精神面からくるのだとしたら、それは恋愛問題に決まっている。
最初の傷は、彼氏と別れた時のものだし、今の傷の痛みは、信頼していたやっこの裏切りのせい、そうとしか考えられなかった。
私は、ふたりに負けたくない一心で歩き続けた。
エントランスを通って、やっとの思いでエレベーターに乗り込と、先程よりか痛みは治まっていた。
あんなに嫌だった寒々しい自分の家が、今では恋しくてたまらない。
自分の名前と、元彼の名前とが書かれた表札を見て「名前を消しとかなきゃ…」と思う。
そして、部屋の扉を開けて靴を脱ぎ捨てた瞬間、巨大なペンチで右わき腹を締め付けられたような激痛に、とうとう息が出来なくなった。
私は、そのまま大の字に倒れた。
暗がりで、天井が回転し始めている。
口をパクパク動かして、なんとか酸素を取り込もうとしても、視界は霞んでいくばかりだった。
「死」という恐怖に襲われながら、私の意識はなくなった。
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