第9話 逃亡

文字数 2,395文字

真冬の潮風は味気なくて、それでいて奇妙なまでにやわらかい。
吸い込まれそうな蒼色は私の頭上に、そして、冷酷な青は私の眼下に広がっている。
今年初めてのお日さまは、私には冷たいようだけど、他の乗船客には優しいみたいだ。
家族連れやカップルは、思い思いに海を眺めながら、将来の希望を内に秘めて微笑み合っている。
未来を捨てたばかりの私には、どうでもいい光景だけど、時折聞こえる子供たちの笑い声や、嫌でも目に映る恋人達の幸せそうな顔、船内に流れる場違いなポップミュージック、それら全てが私には地獄絵図だった。
甲板に出て、新鮮な空気にあたれば落ち着くとは思ってたけど、やっぱり出て来るんじゃなかったと後悔している。
私は、フードを深々と被って顔を隠しながら、自分にお似合いの、暗い暗い船室へと戻って行った。
それは、アリジゴクに落ちたちいさな虫のようで、全ての世界から見放された価値のない生命を与えられた人間みたいで ― そんなモノありっこないとは常識では判っているのだけれど、悲しくてやりきれなくて、涙がぽろぽろぽろぽろと瞳から零れ落ちた。
死にたいくらいに辛いのは私だけ。
独房みたいな船室に戻ると、私は声をあげて泣いた。
こんなに泣いたのは生まれて初めてだ。
涙は枯れる、なんて言う人がいるけれど、涙は決して枯れないことを知った。
私にとっての初日の出は、どす黒い煙と、山吹色の炎の中から見えた、ほんのひとかけらの灯火だった。
もやもやとした世界の中で、空気を求めて必死にたどり着いた先には、絶望しか残っていなかった。
コンビニで買い物している時や、テレビを見ていた時には想像もしていなかったけど、私ようやく気が付いた。
自分は見放された人間だってことを…。

独りぼっちの新年のお祝いは、心に平穏と勇気と、そして、わずかだけど希望も与えてくれた。
カモミールの香りが部屋の中を包み込んで、ろうそくの綺麗な灯火は、マシュマロみたいに温かくて心地よかった。
隣には、最愛のパートナー、雪だるま君がいてくれる。
彼は物静かだけど、私の全てを理解しているから、安心して眠ることもできた。
穏やかな初夢なんて、これっぽちも覚えてはいないけど。
内容や景色、色も忘れた。
だけど、そこには喜びが詰まっていたと思う。
だって、火災警報器が鳴り響いていた時、私は幸せだったから。
目が覚めて周囲を見渡すと、真っ白な煙が部屋いっぱいに漂っていた。
ヌメヌメと身体にまとわりつく煙のせいで、私の目には激痛が走っていたし、呼吸もままならなかった。
口元を片手で覆って姿勢を低くする。
頭上の煙は吸ってはいけない、ママからの教訓を実践する。
パチパチと音のする方を見ると、最愛の雪だるま君が頭から燃えていた。
私は、近くにあったクッションで何度も何度も雪だるま君を叩きつけたけど、ろうそくから燃え移った炎の勢いは、クッションまでも呑み込んでしまった。
可愛かった雪だるま君、頼もしかった雪だるま君、愛してやまない雪だるま君、温もりを感じ合えた雪だるま君、そんな彼氏の顔が、ムンクの叫びみたいにドロドロに溶けながら燃えている。

そっか、所詮は布切れとプラスチックの塊だったんだ。

喪失感と、恐怖心に耐えきれなくなって、私は部屋を飛び出した。
スマホとお財布と、着たくもなかったフード付きのパーカーだけを手にして―。
警報機のベルは、けたたましく鳴り響いていた。
私は聞こえないふりをして、非常階段を駆け下りた。
エレベーターを使わなかったのは、誰にも会いたくなかったからだ。
部屋の鍵は掛けてはいない。
炎を誰かに、一刻でも早く消してほしかった。
そのあとは覚えていない。
無性に海が見たくなって、埠頭まで電車を乗り継いで、途中のコンビニでおにぎりを買って駅のトイレで食べた。
桟橋までの道すがら、私は逃亡犯みたいに周囲を気にしていたと思う。
こんなことも考えていた。
火事で人が亡くなってはいないか。 
パパやママに、どれだけ迷惑をかけるのだろう。
私は指名手配になるのだろうか? 
将来は、刑務所は、罪はどれほどのものになるのかしら等々、考えては眩暈と吐き気に襲われ続けた。
東京から離島を結ぶ航路はいくつもある。
私は船に乗るつもりなんかなかったけど、どこか遠くに行きたくて、大島経由のまほろば島行きのフェリーに飛び乗った。
体中に焼けるような痛みが走ったから、まほろば島を選択したのだ。
この島は、幼い頃に家族で訪れたことのある場所で、一昔前までは、真夏の観光地として若者達で賑わったリゾートアイランド、バブルの象徴みたいな処だった。だけど当時の私は知る由もない。
ただ、ぼんやりとした記憶、それしか見つからない場所。
まほろば島。
心の痛みは数分で治まった。
傷跡は確認するのもバカバカしい。
私は、備え付けの液晶テレビをつけた。
どの番組も新年を祝う娯楽番組で、火災のニュースは放送されていなかった。
安堵感が私を包んで、後悔の嗚咽が始まった時に、船は南へと出港した。

独房みたいな船室で、私はまたひとりぼっちにされた。
涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃになっている。
ちょっと前までは、お洒落をして、広尾のカフェに行ってカプチーノを楽しんで、自慢の長い黒髪も、丹念に欠かす事なくお手入れしていたのに、今の私はなんなのだろう。
おばけ、得体の知れないなにか、空気、雑草、おかしな人、社会不適合者?
私だけが、こんなに辛いんだ。
リンパマッサージも、フィットネスクラブも、英会話も、ネイルサロンも、パンケーキも、カプチーノも、女子会も、古着も、自由ヶ丘も、下北沢も、表参道も、過去も未来も友達も、パパやママさえも、今の私には、過去のくだらない優越感といった恥辱でしかない。

「未来」

こんな名前つけないでよ。
私は、昔から、自分の名前が大嫌いなんだ。
こんな名前つけないでよ。
私は叫び続けていた。
そうして、とうとう泣き疲れて眠りに堕ちていった。
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