1944 店の玄関ホールで

文字数 2,659文字

屋敷では毎朝、伊織は父が家を出るより2時間前に出勤する。次々と召集されて随分と減ってしまった職人たちと一緒に店に入り、番頭に挨拶をしてから作業場を掃除して1日に備え、10時過ぎに店へ出てくる親方を出迎える。

伊織はいつも双葉洋装商会に出勤すると作業部屋にいることが多い。だがそれも毎日のように注文があった頃の話だ。勤労奉仕と称して軍服の縫製ばかりのこの頃は、ミシンの前に座るのも憂鬱で、人気の消えた店の中をゆらゆらと歩きながら、その場所を任されていた使用人たちの顔を思いうかべるのが、今や伊織の日課のようになっていた。
軒先を掃き清める店番の若い者が、布地を裁断をしていた、あるいはミシンを鳴らしていた職人が、帳場を任されていた帳簿係が、今は南洋諸島の、あるいは満洲東北部の軍事境界線に置かれているのだろうと想像する。

落伍者である伊織は兵役たるものを知らないが、学生時代の軍事教練を思い出しただけでもその厳しさが想像できる。匍匐前進や重量物を背負っての持久走、果ては模擬砲弾に見立てたガラス瓶を抱えて走り、校庭に掘った穴に飛び込んでうずくまる。穴とはつまり塹壕を模したものだ。塹壕の向こうからやってくるであろうタンクの、キャタピラが穴を乗り越えてゆくその時を狙って、暗がりでガラス瓶を地面に叩きつける…、つまり抱えた砲弾の信管を起動させるのだ。

望まれた死を意味する教練に、あの頃は疑問も持たず加わっていた。あるいは自分がそうできたなら、父を悩ませることもなく家の名誉も保たれるのだろうと思えば、心安らかに死に服していたかもしれない。だが店の仲間がそうして模擬弾ではない、本物を抱えているのかもしれないと思っただけで息苦しさを感じる。妄想の中で塹壕にうずくまった男たちの首が次々と入れ替わる。店番、職人、帳簿係…そして辰留の首になった途端に、脚元は揺らぎ目の前が真っ暗になる。

伊織は耐えきれずに、よろけるような足取りで玄関ホールに戻ると、置かれた椅子に腰を下ろした。かつては客がここで生地を選び、それに合わせるボタンやステッチの相談をしていた応接セットは今や使う者もないままフロアに置かれている。猫足の椅子はまるで、主人の帰りを退屈そうにうずくまって待つ犬か何かのように見える。傍に据え付けられた振り子時計がポーンとひとつ鳴って、三十分の区切りを伝えた。

…いつもは10時過ぎには店へでてくるはずの親方が、今日は遅れているようだ。刻限には厳しい親方は、納品はもちろんのこと出社の時刻が揺らぐことはなく、何かあれば予め連絡が入るのだが今日に限っては誰から何の報せもない。不審に思っているところへ、店の軒先に人力車が止まった。

車夫が開いた天蓋の中から姿を現したのはハナだ。すぐに玄関から入ってくるとホールの椅子に腰かけた伊織の姿を見つけて駆け寄るが、どういうわけかまるで店まで自分の脚で走ってきたかのように息が上がっている。
伊織は立ち上がって前のめりに差し出されたハナの腕を取って支え、自分の代わりに今まで座っていた椅子に座らせた。はあはあと切れる息に混じるハナの声が急を伝えるが、伊織にはその内容がすぐには理解できない。

「…伊織、父さんが逮捕されたわ」

                      ⚫︎

「どういうことですか」
「私にもよくわからないのよ。神戸の叔父さんたちが来た時にカメラを貸しただろう、って」

いつもの通りハナは二人の朝食を世話して、朝7時には伊織を、9時半過ぎには洋一郎を店へと送り出す。朝8時を少し過ぎた頃、数名の男性が屋敷を訪れた。玄関に出たハナに「ご主人はご在宅ですか」と尋ね、戸惑いながらもハナが「おります」と言った、そのたった一言を言い終わらないうちに部屋の中へと入ってきた。

朝食を終えて居間にいた洋一郎を、入ってきた男たちが取り囲む。
関東局警務部高等警察課のモリヤマですと名乗った男が黒い手帳を示し、洋一郎の名前を確認する。頷きながらそうですと言う声は落ち着いているが、男たちの様子を見る目に怯えの色が浮かぶ。一人はドア口を、一人は隣の部屋との通路を、一人は窓の前を塞ぐようにして、どうやら洋一郎の逃亡を警戒しているらしいことが伺えた。

「署までご同行願います」
「どういった件でしょうか」
「ここでは申し上げられません」
「…任意ですか。それとも」
「令状が出ています」

モリヤマと名乗った男の隣に立った若い憲兵が、カサカサと乾いた音をたててポケットから出した紙を広げる。老境に差し掛かっている洋一郎には、裸眼ではもはや目視も難しいながら、逮捕令状と書かれた紙に自分の名前があることは辛うじて確認できた。

「何の容疑です?」
「…先月、来客がありましたね」
「ええ。私の叔父とその家族が。仕事で旅順へ来たので、ついでに大連を観光していくとのことで」
「こちらにお泊まりだったと」
「はい。都合五日ほど」
「その際に、カメラを持っていらした」
「…あれは私のもので、従兄弟たちに貸したのです。旅行の記念に写真を撮ったらいいと」

男たちは目配せをして、椅子に腰掛けたままの洋一郎を取り囲むように並ぶ。

「ご同行願えませんか。我々もあなたの立場を理解しているから、あまり手荒なことをしたくないのですよ」

男はそう言いながら手帳を、憲兵は令状をたたんでポケットにしまった。
事実、刑事にしては物腰は柔らかい。この街に大店を構える経営者という、社会的な立場のある人間に対する最低限の礼儀は欠いていない、紳士的な対応だ。だが全てを予定通りに進めるつもりであることに変わりないらしい。

洋一郎は肘掛を地に押し返すようにして立ち上がり、調度に掛けられた帽子を手に取った。傍らに立ち不安げな表情でコートの袖に腕を通すのを手伝うハナを、宥めるように洋一郎が言う。

「何の問題もない。すぐに戻るから、店は伊織に任せておきなさい」

                      ⚫︎

神戸から訪れた叔父たちは、都合5日間洋一郎の家に泊まって過ごし、大連の街を観光してとっくに内地へ帰っている。その間、父が旅行に来た叔父たちにカメラを貸した。そのやりとりを伊織も、ハナも目にしているから、そのことは間違いのない事実だ。だが、それがどうして警察に事情を聴かれる理由になる、というのだろう。

「…すぐに戻るから、店は伊織に任せるって」

そう言ったハナの揺らぐような声が、返事もできずにいる伊織の横を通り抜けてゆく。
振り子時計のコツコツという響きだけが、ハナの言葉に相槌を打った。

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