1928 中国人街の入り口で 1

文字数 2,522文字

路面電車の軌道が二筋、右と左に別れてゆく。
この追分に挟まれて、細長く奥へと広がってゆくのが中国人たちの住む町だと洋一郎は耳にしたことはあったが、足を踏み入れたことはない。ちょうどその分かれ道の辺りで、洋一郎は小さな息子を膝に抱いて、辻占の置いた客用の折り畳み椅子に腰掛けている。

椅子と同じく折り畳み式であろう小さなテーブルの端に置かれた鳥籠の、白い羽をした小鳥を無言のまま興味ぶかげに眺める息子の姿は、小さな生きものに心を奪われているように見える。だが黙っているのは無心で小鳥に見入っているからではない。

もうじき3歳になろうというのに、長男の伊織は喋ったことがない。あうあうと言葉にならない喃語ですら、洋一郎は耳にしたことがなかった。

『たまに小さな声で何か言うんですよ、私は聞いたことがあります』と、さも珍しい動物の鳴き声を聞いたかのように洋一郎の妻は言う。物音をたてれば振り向くし、妻の歌う子守唄を聞いて寝付くところを見れば耳は聞こえているはずだ。医者に連れて行っても何の異常が見つかるわけでもなく『もうしばらく様子をみなさい』と諭されるばかりで、泣き声以外の息子の声を知らないまま、大連に来て四度目の冬が来ようとしていた。

ひととおりの医師にはもう相談して、それでも結果が出ないなら鍼灸や漢方医にも相談してみようと、腕利きの鍼師の噂を聞いてここまでやってきた。普段なら足を運ぶこともない中国人街までやって来たというのに、鍼師は伊織を見るなり洋一郎に『この子が5歳になったら連れておいで』と言うだけだった。結局何の解決にもならないまま、息子を負ぶって帰る道すがら、中国人街の外れの道端で、この占い師に声をかけられたのだ。

你在找什么(何か探してる)?」

中国語があまり堪能ではない洋一郎は、占い師の声に振り向きはしたものの、とっさに返事ができずにいた。占い師は察したように日本語で話しかけてくる。少しばかり抑揚にクセがあるが、中国語よりはるかにわかりやすい。

「日本人?失せ物だったら俺、見つけるの得意だよ」
「…いや、探しものじゃないんだ」
「そのかわいい坊やのことが心配なんだろ?」

テーブルに置かれた鳥籠から囀りが聞こえて、伊織はそれに気づいたのか、しきりに腕を伸ばして鳥の方へと体を向ける。息子を負ぶって歩き続けて疲れきった洋一郎には、占い師のテーブルに備え付けられた客用の粗末な折り畳み椅子が、柔らかなソファに見えた。

占いに頼るなんて。
知り合いがきっと助けになるからと勧めてくれた占い師のところに、つい先日も行ってきたばかりだった。洋一郎としてはあまり気が進まなかったけれど、自分と息子を心配してくれている友人の進言を無碍にするのも気が引けて、行ってみれば派手な祭壇と炉の前に座った呪い師が、何やら呪符の刷られた色紙を目の前で燃やして、その灰を白湯に混ぜて伊織に飲ませろなどと言うとんだイカサマ師だった。そんな目に遭ったばかりで占いだのまじないだのにはもう十分懲りたはずだというのに。

しかも今日のは道端で小さなテーブルを広げるような辻占だ。途方に暮れるにしたってもう少しやり方があるはずだと洋一郎は自分自身に呆れてため息をもらす。だが一度腰を下ろしてしまった以上は大人しく客になるべきだとも考える。休憩する席の料金に、占いが付いてくるくらいの気分で考えれば丁度いいだろうと思い直した。

背中から下ろして膝に座らせた伊織は間近に見る小鳥を一心に見つめている。その顔を見た占い師の男がこう言ったのだ。

「…ほら、やっぱり失せ物だな。この子はね、生まれたときにマブイを落としてしまったんだ。だがね、ちゃんとそれを拾った人がいるから、その者と出会う時、この子は口をきくだろうよ」

                     ⚫︎

マブイっていうのはね、魂みたいなものだよ。俺の生まれた島では何かの拍子にこいつを落としたりするんだ。そうするといろいろ不都合なことがおきてくる。病気になったり、怪我が続いたり、ね。だから探してきて拾って、元に戻してやるのさ。そうすれば万事元どおりだよ。

傍らの鳥籠の扉を開けると、小鳥はちょこちょことピンクの脚で飛び跳ねながら、占い師が撒いた餌を啄みに出てきた。伊織が手を伸ばして鳥を捕まえようとするのを、洋一郎は慌てて制止する。占い師は鳥の動きを見ているかに思えたが、よく見ればじっと伊織の方を見つめている。ため息をついて再び指先で籠の扉を開けてやると、小鳥は大人しく籠に戻って行った。

「ええとね、ちょっと難しいよ。この子のマブイが落ちたのは、生まれる前のことらしいから。…だけど、それを拾ったのがいる」

馬鹿馬鹿しい。この男が言うマブイとやらが、どうしてこの大陸の街に住む息子にも宿っていると言い切れるのだ。百歩譲ってその落としたマブイが目の前にあったとして、そんなものがどうやって元に戻るというのだろう。納得しかねる話に歪んだ洋一郎の表情を巧みに読んで、占い師が言った。

「半信半疑どころか完全に信じてないって顔だな。…まぁ無理もない。俺の祖先は時之大屋子(トゥチヌウフヤク)って役職を勤めた由緒正しい巫覡の一族でね。残念ながらヤマトゥンチュのあんたにはピンとこないだろうけど、まぁそれは仕方ないことだよ。ただ俺はこの坊やのことが可愛いと思うから、出来る限りの助言はする。どうするかはあんたが決めたらいい」

占い師は小鳥に夢中なままの伊織の髪にそっと触れ、しばらく半眼でいてそれから暮れかけた空を見上げた。

「場所は辰の方角、ここから南東だ。橋がある。その橋の近くで落ち合えるだろう。日は辰の日…時刻は北斗七星が山の稜線に掛かる頃合いだ。深い緋色の男がそこに来るだろう。それがこの子が落としたマブイの拾い主だよ」

それだけ言うと占い師は目の前に手のひらを広げて、代金を要求した。茶の一杯よりは少し高いが、1回の食事代には足りない程度の額を要求されて、洋一郎は少々戸惑いながら支払った。
もう少し高ければ無理にでも信じようという気になったかもしれない。安ければその程度の座興だと割り切れたかもしれない。金額から占いの真贋を見極めることは、商人でもない洋一郎には難しい芸当だった。


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