1944 屋敷の厨房で

文字数 2,662文字

「母さん、また幾らかお願いしたいんですが」

久しぶりに顔を合わせたというのに、母親を気遣う素振りも見せない。
どこで何をしているのか、中学を卒業してから辰留はほとんど家に寄り付かなくなった。たまに戻ってくる時はみんなが寝静まった真夜中で、朝になれば洋一郎と伊織が店へ出てからこっそりと厨房に顔を出し、ハナが用意してやった朝食を黙々と食べる。それから決まったようにハナに金を無心した。

「いくら欲しいの」
「母さんが今出せる分だけでいい」

ハナはハナで、最初のうちこそ何に使うのか、一体どこで何をしているのかと辰留に訊ねたが、母さんは知らなくていいよと大人びた口調で言われ、それとも父さんから金を渡すなって言われてるの?と逆に質問されて返事に窮し、結局は幾枚かの札を入れた封筒を手渡すことになる。
受け取った辰留は中身を確認することもなく、にこりと笑ってまたどこかへと出かけようとする。勝手口から出ていこうとする辰留を呼び止めて、ハナはできるだけ苛立った気分が声色に出ないように気を遣いながらいう。

「辰留、来月のはじめに神戸の叔父さんたちが来るからね。その時は家にいて頂戴よ?」
「大丈夫ですよ、この家は兄さんさえいれば何も問題ないですから」
「伊織のことじゃなくて、あなたにお願いしてるのよ」
「ですから、母さんがあれこれ心配しなくても、万事兄さんに任せておけば、オレはいなくても大丈夫ってことです」

17歳にしては含んだものが多い笑顔を見せながら、ハナの次男はまた家を出て行った。

                    ⚫︎

洋一郎からは「辰留のことは好きなようにさせておけ。小遣い銭でも与えておけば、他所で悪さを働くようなこともあるまい」と言われて、その通りにしていた。だがいつまでこんなことを続けるつもりなのか、辰留本人にはもちろん、洋一郎にも問い正したいというのがハナの本音だった。

そもそも12歳になったら辰留も伊織と同じように、店で働かせるのがいいとハナは思っていた。伊織のように手先の器用な子なら、小さいうちから仕立職人として修行させればいい。そうでなかったとしても、今や大店となった双葉洋装商会には営業も経理も資材管理も、やるべきことはたくさんある。その中のどれかをいずれ辰留に任せられるようにするべきだとハナは洋一郎に意見した。だが洋一郎から返ってきた返事は意外どころか、全くもって承服しかねるような内容だ。

「あれは近々のうちに志願させる。店での仕事は、復員後に考えればよかろう」

この大連には空襲もなく、身の危険を感じるようなことはないが、さすがに近頃は物資の往来も滞りがちになり、思ったような服地が手に入らないことも増えた。客も服を新調しようなどという気分にもならないらしく、店の売り上げは減り続けている。ハナの実家も職人たちが皆徴兵に取られて、銀座の店舗は建物疎開でとうに閉店になったと聞いた。

ラジオや新聞が華々しく伝えてくる戦果の一方で、徴兵されていった職人たちの訃報が次々と舞い込んでくる。弔問に行けば白い石がひとつ入ったきりの骨壺を祭壇に供えて、残された家族が項垂れているのを見舞うようなことが増えた。そんな状況を解っていて志願だなんて、辰留を黙って死なせるのと同じことだ。

「あの子が自分から志願したいと言ったのですか」
「…伊織が不適合だったんだ。せめて辰留は国に尽さんとな」

訊ねた内容とは違う返答に、ハナは洋一郎が辰留に命じたのだと察する。
そもそも志願とは、自由意志のことを意味するはずだ。だが洋一郎は志願「させる」と言った。親の命に従うことでも、志願と言えるのだろうか。

「あなたは…やはり辰留のことを認めてらっしゃらないのですね」

非難がましく、というよりは無念の滲む声が出る。つまりはそういうことなのだ。
あれほど繰り返した話が何ひとつ通じていなかったことに己の無力を感じて、膝から力が抜けていくような気分になる。

洋一郎は辰留のことを、自分の息子とは今もって認めていないのだ。

                    ⚫︎

弟の辰留につられるように、言葉の遅かった伊織が自分から声を上げ、どんどん話をするようになったことは、幾つになっても息子の言葉が遅い、そのことばかりを気にしていた洋一郎にとって、辰留は問題をひとつ解決してくれた存在のはずだ。

伊織は辰留を可愛がり、辰留も何をするにも兄と一緒であることを望む、誰から見ても仲のいい兄弟だったはずで、それは洋一郎も理解しているはずだった。だが辰留が12歳になった時、伊織と同じように仕事場へ連れてゆくことを拒む洋一郎を見て、ハナは幾度となく辰留を仕事場に連れてゆくようにと願い出た。だが夫は頑なに首を縦に振ろうとしない。

夫婦仲は決して悪くない。結婚して東京を離れ、大連へ来てこのかた喧嘩らしいものをしたことはなかった。だがハナはいつも、洋一郎の辰留を疎んじる態度だけは腹に据えかねて、つい感情的になる。あれほど何度も辰留のことを認めてやってほしいと懇願しても、まるで厄介払いでもするみたいに志願兵にさせようとしている。このいつ終わるとも知れない戦時にあって、五体満足で戻れるかわからないようなところへ、だ。
正気の沙汰とも思えず、ハナはこの期に及んで洋一郎が辰留を息子と認めない、それどころか自身の身辺から追い出そうとしていることが悔しく、悲しい。

事あるごとに自分の仕事部屋に夫を呼び出しては、辰留にも伊織と同じように接してほしいと願い出て、洋一郎の不機嫌な表情と反論を浴びる。その繰り返しでさすがのハナも疲れ果てた。近頃は洋一郎の方も「またその話か」と言わんばかりの態度で、ハナの懇願を聞き流すだけだ。

「…それより、来月神戸の叔父たちが満洲を訪れるというから、その時にでも辰留の志願を皆に伝えて、壮行会でもやってやろうじゃないか。あるものでかまわんから、宴席の準備をしておいてくれ」

洋一郎はそう言ったきり、ハナに背を向けて作業部屋を出て行く。

虹順が去り、辰留が去ったこの家はハナにとって広すぎるがらんどうだ。それでも洋一郎と伊織と、自分自身の寝起きのために、ここを整えていくことだけが、仕立仕事のなくなったハナにとっての使命であり、生き甲斐だ。玄関を、居間を、食堂を、厨房を、寝室を、浴室を、…それから中庭を、片付けて掃き清めてゆく。

その中庭の壁にいつ誰がつけたのか、刷毛で小さく「〃」を描くような白いペンキのついたレンガが嵌っていることに、ハナはまだ気づいていなかった。



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